トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
6月間近のトレセンの空気というものは、やはりというべきかかなり湿度が高くなる。手ぐしの通りが悪くなった髪の毛をいじりながら、セイウンスカイは学園の廊下を歩いていた。
ダービーから少し経ち。余韻はまだ身体に残っていたが、彼女はある程度区切りをつけることが出来ていた。しかし一方で、スリーワイドの接戦に持ち込みながらも届かなかったもう1人のウマ娘はどうか。
「で、キングはどうなの?」
「いきなりどうしたのよ」
隣を歩くのはキングヘイローで、彼女も授業を終えてトレーニング向かう最中だった。その証拠に、ジャージや体操服の入った袋とともに教科書等が入ったカバンも提げている。
「ダービーの後さ。なんかあった?」
「どうしてあなたに言わなくちゃいけないのよ。あまり首を突っ込むのは感心しないわよ」
「またまたー」
ダービー当日にはかなり沈んでいたキングヘイロー。しかし、今日は前を向いているように見える。チーム《コルネフォロス》はどのようにしたのか。純粋に、友人として心配する気持ちがあった。
「まあ。満足できない結果だったのは事実。でも、私の弱点は見えた……なら、次までに克服するだけの話よ」
「ふーん。スタミナとか?」
「言うわけないでしょう!」
「お、図星〜?」
ニヤニヤと顔を覗き込んでみるが、さっと逸らされてしまう。ただ、この様子からすると《コルネフォロス》は良いチームだと言えそうだった。
「でもスカイさん。あなたのおかげで、私は3着になれたのよ」
「ほう?」
意外な言葉。恨み節を聞かされるのは理解できるが、感謝されるとは何事か。訝しむように首を傾げるセイウンスカイの反応を見てから、キングヘイローはクスリと笑った。
「あなたが引っ張ってくれたのもあるし、ええ。スタミナを温存する走りが出来たのもあなたのおかげなのよ」
先頭を走るセイウンスカイを目標にし、追いかける気持ちが起こったことで普段以上の力を出せた。そして、彼女のトレーニングや走りを観察したことで、「むやみに前に出る、自分の位置を死守する」のでは無く、「タイムを見る」という走りに切り替えることができた。
「ふーん。セイちゃんとしてはがむしゃらに走っただけなんですけど。タイムキープとかよくわかりませーん」
「よく言うわ。後で見たけど、あなたセクタータイム14秒ピッタリのときがあったのよ……意識しないと絶対に出ないわ」
まだ、レース映像やデータを見返していないセイウンスカイはそれを聞かされて顔をおおった。いつも、トレーニングの時は「1に正確、2に正確、34が無くて、5に正確」と叩き込まれているのでそれが思わずでてしまったのである。トレーニングの賜物ではあるが、意識しすぎても良くないかも。そう心に決めて、わざとズラす技も身につけておくべきだと胸中へメモをとった。
「あちゃー。セイちゃんもまだまだだなぁ……」
やれやれと手を広げる。キングヘイローはそれを見て自信満々に笑顔を作り、前髪を払って言ってのけた。
「菊花賞では覚悟する事ね。スペシャルウィークさんもスカイさんも。まとめて撫で切ってあげるわ」
「できるかなー? 私はともかくとして、トレーナーさんの耳は手強いよ?」
医者にごまかしは効かない。言外にそう匂わせ、反応を伺う。だが、王たる同級生は真正面からセイウンスカイを貫き、そして高々と言い放った。
「なら、私はそれを超えるだけよ」
「へぇ。じゃ、セイちゃんは使えるものはなーんでも使ってキングを追いつめちゃおっかな?」
「出来るものならやってみなさい。受けて立つわ」
「言ったね?」
火花が散る音が辺りに響く……気がしている。周りに人がいないのも、この2人の迫力に気圧されているからのようにも思えてくる。そのまま、しばらく。
「はぁー。なんか安心したよ」
「そう?」
「うん。僅差で負けるってさ、残酷じゃない?」
セイウンスカイが言ったのは、弥生賞とダービーの着差の話だった。コンマ1以下、千分の何秒というレベルの僅差の決着。
たとえば何メートルも離したのだったら、諦めることが出来る。10メートルも離れれば、自分の実力と合ってなかったのだと判断できる。しかし、ほんの10センチ。拳を縦に1つ分くらいという、永遠に届かない絶望的な差だ。
目の前で見え、そしてほんの僅かなタイム差であるからこそ、実力を強く実感させられる。
「そうかもしれないわね。でも、私はこう考えてるのよ。『スペシャルウィークさんとの差は、スカイさんとの差はだったあれっぽっちなんだ』って」
「おーおー。流石だねキングはさ」
こういう所にも、キングヘイローが一流である証をみて、セイウンスカイは大きく感心していた。彼女が永遠に届かない10センチだと思っていたのに対し、キングヘイローは、いくらでもひっくり返せる10センチだと思っている。
「でもスカイさん。感謝するわ」
「ほう?」
「負けた私を心配したのでしょう?」
「いやいや。敵情偵察だよ?」
その言葉に間違いはなかった。その心の奥にどんな感情があろうと、あくまで敵を知り己を知ればを実践したに過ぎない。私の行動にどんな意味を見出すのも思い込むのも勝手だけどね? セイウンスカイはニヤっと笑っていた。
「あらそう。ならそういうことにしておくわ」
「そうそう。あ、私医務室だからこっちなんだよね」
「ええ。なら、ここまでね」
いつの間にか1階に着いていた。《アルゴル》の本拠地である医務室と、《コルネフォロス》のチーム部屋のあるグラウンドの一角は全く違う方向だ。セイウンスカイが指さす先に医務室があることを認めたキングヘイローは、立ち止まって頷いていた。
しかし最後に。ビシッとセイウンスカイを指差すと言い放つ。
「見てなさい。キングは絶対に腐らないし諦めないのよ」
「薄目くらいで見てるよ。じゃねー」
残念ながら、相手にはさらりとかわされてしまった。当のキングヘイローは憤慨しながらグラウンドへ向かい、サラリとかわした本人はその後ろ姿をずっと見送っている。
「あーあ、やっぱりすごいなぁ」
セイウンスカイがトレーナーの力を借りて徐々に達成していることを、1人でこの短期間で達成しているという羨望。親友の障害にぶつかっても立ち直る力を、彼女は眩しく思っていた。
「まあでも? 大事なのは最後にどうなるか、だよね」
時間がかかってもいい。冷静に立ち直れ……海人がいいそうなことを想像しながら医務室の古ぼけた扉に手をかけた。
「やっほー、来ましたよー」
ツンと鼻を刺激するオゾン臭を全身に浴びながら、中に足を踏み入れる。1年を通して快適な温度と湿度な医務室には、いつもより多くの人がいた。入ってきた彼女の足音に反応したのは2人。たいてい1人な医務室に置いてはとても驚くべき事だった。
「ああ、待ってたよ」
いつもの診察机の前でひらひらと手を挙げた男。これはもういつものことであり、驚くに値することではない。上から下まで格好は同じ。セリカが奥のベッドに伏せているのも同じ。
セイウンスカイが目を見開いたのは、その手前。来客用ソファに座っている人影を見てだった。とても小さな背中と、やや紫色がかかった肩の上で揃えられた黒鹿毛。そして頭頂部を彩るのは桃色のカチューシャ。
「おや。珍しいねフラワー」
振り返ったその大きめの瞳が開かれ、笑顔がつくられる。その手にはいつもセイウンスカイが医務室でつまんでいるお菓子が握られていた。
「お待ちしてました! スカイさん!」
「なになに。そんなにトレーナーさん怖かったの?」
身長170を超えたサングラスに白衣の怪しい大男と書いて右堂海人と読めてしまうから仕方ないよね? と考えたセイウンスカイの視線の先にいた彼は、抗議するように両手を掲げた。
「怖がられるようなことは何もしてないぞ」
「存在だけでちょっと怖いですからね?」
「……傷つくな」
小さな声は無視しておいて、ニシノフラワー正面のカゴからお菓子を取ってその足で診察机の前に座った。正直に言えば、このソファに座っている小動物系後輩と話したいという気持ちはある。
「で、待ってたんでしょ?」
「前に連絡した通り。ようやくまとめ終わったからな」
しかし、レースについて振り返るのは自分しか出来ないことなのだ。今楽しみたい気持ちをグッと抑え、彼女はトレーナーを動きを見ていた。
「いつも悪いですねー」
「レースは君が頑張る時間。レース以外は私が働く時間だ」
そう言って彼は医者としての仕事を片隅に追いやり、カバンからタブレット、そして点字が打たれたノートを取り出して机に広げる。その他に必要な資料は机の一番下から持ってきて、セイウンスカイに無遠慮に渡していた。
「こんなに?」
「こんなに」
とてとてと後ろに近づいてきた足音はニシノフラワーのものだろうが、相手をするのは後で、だ。セイウンスカイはそうやって自分を律し、彼の言葉に耳を傾け始める。
「さぁ。振り返りをしようか。前提からだが、体調は?」
海人の言う振り返りは、何もレースだけでは無い。朝起きてから、何かパフォーマンスを下げる要因はなかったか。それを掘るのが目的だ。
「問題なし! ちゃーんと8時間寝てましたから」
「ほう。朝食は?」
「アマさんのおにぎり3個と漬物とお茶ですかねー」
「つまりはいつも通りか……昼食はゼリーだった。これも問題なし」
東京レース場はウマ娘から言えば学園の目と鼻の先。なのでほとんどの場合、彼女たちは当日レース場入りする。それは、今回の《アルゴル》の場合も同じだった。
「そのほか体調で変わったこと」
「ううむ……なし、という事で」
「考えが変わったら言いなさい」
ノートの裏にすさまじい速さで、ピンのようなものを刺す海人。点筆、つまりは点字を打つための筆が踊る事に、彼にしか分からない情報が刻みつけられていく。セイウンスカイも、ひらがな程度ならある程度読めるようになったのは秘密だ。
「さて。では次に蹄鉄、そして勝負服含めてのコンディション」
「蹄鉄はバ場によくマッチしてたと思います。あのスピードでも曲がれたので」
「ふむ。なら影先輩に感謝しないとな」
当日のコンディションを思い出しながら、セイウンスカイは一つ一つの質問に答える。蹄鉄、シューズ、ソックスや勝負服、インナーなど。少なくとも、彼女が当日身につけていた物に大きく調子を落とす要因は無さそうだった。
「何回も言ってるけど。何か一つ合わなくなったら言いなね」
「はーい」
「なら次は」という言葉と共に、タブレットに動画ファイルが呼び出された。サムネイルとしては、スタート前のゲートに入った状態の中継映像が使われている。
背後から注がれる視線にくすぐったさを覚えながら、セイウンスカイは「いつでもいいですよ」と応じた。
「ゲートインだが、今回はどうだった?」
「何回聞かれても『入りたくなかったです』としか言いませんよ」
「心境的には変わらないか」
「早く終わってくれーって思ってました 」
いつも通りだな、と苦笑する海人。突然思い出したかのように「君は偉いよ」と付け足し、またノートにメモをとっていた。彼女としてはもっとさっきの言葉を味わいたかったが、後輩の前であまりみっともない姿を見せたくないとグッと我慢する。
「じゃ、スタートするからね」
《2400m先の栄光に向かって今スタート!》というアナウンサーの声とともに、18人のウマ娘が走り出す。外から数えた方が早い場所から彼女は飛び出し、そしてぐんぐんと加速していった。
「スタートは特に問題は無さそうに見えるけど、どうだった?」
その時の感触を思い浮かべ、そして周りの様子を思い出して考える。地面を蹴り、加速してハナをとってコーナーに飛び込む。それまでの、約20秒の攻防。
「そうですね。意地の張り合いは想定内でしたし、それも意外と早く終わっちゃいまして」
「もう少し競り合ってても良かった?」
「その場合でもコーナーで勝ってたと思いますけどね」
自信満々な答えをやはりノートに刻み、繰り返し頷く海人。少なくとも、スタートの段階で、彼女の動きに何か問題を見出すことはできないと言うのがまずの結論だった。
取り立てて長い時間加速していた訳でもない。走ったコースが大きく荒れていた訳でもない。そこで起こったロスは限りなく小さいはず。口頭で改めて確認して、彼は動画をまた再生した。
「なら、1コーナーから2コーナーにかけてずっと見ていこうか」
ここから、画面がふたつ増える。メインで大きく出ているのは中継映像だが、ひとつはコース脇のポストからの映像、もうひとつは内側を追走するカメラからの映像だ。
レース関係者だからこそ入手できた映像に目を走らせつつ、その当時考えていたことを思い出す。
「ここでウィービングしてから後ろを振り返ったよね?」
「ちょっと横に振ってみて、グリップがどこまで余裕があるのか見てました。あと、後ろとの速度差を見ればグリップの余裕が分かるかと」
「うむ。蹄鉄のグリップの表記の仕方は覚えてる?」
「円のやつですよね。大丈夫です」
「ならいいさ」
セイウンスカイは蹄鉄の摩擦円を思い出して答える準備をしたものの、「分かっているならいい」と流されたことに肩透かしを食った気分だった。
「で、その感想は?」
「そうですね。改めて言いますけど、円としては大きな真円に近い、って感じですかね」
摩擦円というのは、蹄鉄がもっているグリップを図式的に表したものである。進行方向への縦方向のグリップ、そして直交する横方向へのグリップ。その合計は一定の値を越えないので、円として表せるというわけだ。
「なら随分とマッチしてたんだな」
直線で早くても、横方向のグリップが不足すればコーナリングスピードは落ちる。彼女の証言から考えると、やはり蹄鉄はコースにあった加工がされ、路面にあったものを選択出来ていたようだった。
「メーカーのエンジニアに感謝だ……さて。君は余力があったと言ったが、2コーナー出口で君は大きくスピードを落としたな。なぜ?」
「ほとんどのウマ娘は私ほど横のグリップがないと判断したので。オーバースピードに持ち込めばコーナーで膨らんでくれるかな、と」
他は、東京レーシングコースの長い直線に合わせたセッティングにしていたのではないか、と彼女は推論を述べた。事実、このコースはセッティング難度が非常に高い。
「ならスピードあげても良かったんじゃない?」
「いえ。そうすれば多分、逃げた暴走ウマ娘になるので、誰も乗ってこなかったと思います」
彼女の自己分析を聞き、海人は大きく頷いた。まだ前半と言える距離から進出を開始しても、相手にされない可能性は高い。こちらのペースに引き込むためにも、セイウンスカイがあの地点で抑えたことは最善だと言えた。
「しかし、そうすれば足を削れないだろ?」
「ロングスパートで負けるつもりはありませんでしたし、壁が作れたらと思ったんですけど。もっと仕掛けられたらな、とは今思ってます」
セイウンスカイが狙ったのはチキンレースによるコース取りの混乱と、前後の距離を詰めたことによる厚い壁の作成だったわけだ。
「上手くいったかどうかは後で見るかな。さて、バックストレートに入ったな。ここはまだ低調。しかし、外から2人が上がってきている」
「はい。それは分かってました」
大きく引いた映像のまま、バックストレート中ほどまでレースは進む。ここで問題になったのは、外側に陣取ったキングヘイローとスペシャルウィークの2人。内側に包まれてくれればよかったものの、今回は外側。
「今回は上手く引っ掛からなかったので、コーナーでの混乱に巻き込まれてくれればと」
「ふむ。まあ確かに、わざわざ仕掛けに行くのも浪費だな」
そして、レースはバックストレート半ばの坂に差しかかる。最初の重要ポイントで、走り方の差がもろに出る場所である。1.5メートルの高低差を約6秒で駆け抜ける。
蹄鉄のセッティングの差によって先頭のセイウンスカイと2番手以降のギャップが僅かに拡がった。海人の「少し離れたな」の言葉の通り。
「ここで特に仕掛けは?」
「してないです」
「ま、だろうね」
余計に体力を消耗する必要はない。いかに効率よく要点をクリアするか。それが、レースでの勝利を引き寄せるのだ。
「で、ここの登りはとても良かった。で、この後だね」
レースが一気に動く。2番手以降の集団が急加速。それに合わせて、セイウンスカイも速度を上げて先頭を堅持していた。
「外から見るとこんな感じなんだ……」
レースを客観視したセイウンスカイは思ったよりも激しいレースの変貌ぶりに目を丸くしながら感想を述べた。彼女自身レース中に「雪崩」と評した覚えはあったが、こうして外から見ると以外にも間違っていなかったことに驚いていた。
「いやなんというか。恐ろしいね」
抑えたことにより生まれた焦りが解放され、ウマ娘たちの足を早くする。そして海人が漏らした評価は、このレースを見守っていたレース関係者全員の心理を代弁したものだった。
「君が私のチームで良かったよ」
「お褒めに預かり光栄です」
おどけたような様子の教え子に苦笑し、彼はサングラスの片方でセイウンスカイを映した。周りから見たら、彼女の走りはどう映っているのか。少なくとも、心臓が何個あっても足りないと思うのは確実だった。
「さあ、みんな加速したね。キングヘイローさんとかはあんまり変わってなさそうだけど」
「キングもすごい冷静でした。もうちょっと焦ってくれてよかったのに」
「大舞台だからこそ、というのはあるものさ……で、ここから君はレースペースを上げ続けた」
雪崩を打ったように加速する集団の前に立ち、先頭を絶対に渡さないとの気迫でペースをつりあげ続けたセイウンスカイ。しかし、これだけは確かめておかねばならないということで、彼は彼女にひとつ聞いた。
「ここで体力を消耗しすぎた可能性は?」
「……ううむ。なかったかと言われれば断言は出来ませんが。でも、ここでは余裕がありました」
「スパート前までは?」
「ありました」
「なら、いいかね」
外野としては本人の言葉を信じるしかない。見づらい中で走り方を最後まで見ても、崩れていないから良し……としか、彼には今の所いえなかった。
「じゃあ次の3コーナー。大欅の向こうだね」
ここでメインが切り替わり、コース脇オブザーベーションポストからの映像となる。そこにはハッキリと、オーバースピードでコーナーに突入し外に膨らむウマ娘が映っていた。
「ここは君の目論見通りになった?」
「はい。グリップは私の方がいいのは1コーナーでわかってたので」
「うむ。冷静に状況を見てたな……しかし、君のライバル2人は引っかかってくれなかったな」
「そうなんですよねー」
よく見なれた勝負服の2人は、さほど膨らむ様子もなくコーナーをクリアしていた。今回から蹄鉄を変更したキングヘイロー。残念だが、マイナス要素とはならなかったようだ。
「かなりスムーズに内側に潜られたか。ここで引っかかって欲しかったところだ」
「ここは反省点ですね」
「そう考えられるのはいいことだ」
前向きな発言が出たことに、海人は密かに安心していた。改めて日がたち、もう考えるのも嫌だとなっていたらどうしたものかと心配していたが、この発言なら大丈夫。強さを見せる教え子の姿が誇らしかった。
「で、停めるけど。最後の4コーナーだ。ここは一つだけRがキツイのは知ってる?」
「はい。勿論です」
「うむ。ちょっと気づいたんだけどね」
映像が再開し、レースはホームストレートまで進んだ。ここで、海人が注目して、と言ったのは3人のコース取り。セイウンスカイとキングヘイローはインベタ。
「あ、ほんとだ」
「違うだろう?」
走っている時は気づかなかったが、スペシャルウィークは1人だけアウトから一気に切り込んでホームストレートに突入していた。そして映像で見る限りでも、コーナーエンドでのスピード差はそれなりにあった。
「これが、肉薄劇の真相だ。しかもやはり、スペシャルウィークさんの脚力は図抜けてるな」
「やっぱり?」
「そこばかりはな。体質的にはどうしようもない」
距離のロスをものともせず、肉薄してきたスペシャルウィーク。恐ろしいと思うと同時に、これは勝つなぁ、という思いもある。
「で、最後のホームストレート。君もいいスピードだったんだけどね」
時間にして30秒ないくらいの時間。その間の全力疾走の結果を見届けて、映像は終わった。何度観ても変わらない3人並んでのゴール。セイウンスカイはスペシャルウィークに僅かに届かず、キングヘイローはセイウンスカイに届かなかった。
「で、最後私が気になったところなんだけど」
「はい?」
「ここの坂だね」
そう言って指したのは、ゴール手前の坂とそしてもう一画面……バックストレートの様子。どちらも、レースの様子であることに変わらなかったが、映っている人数は段違いだった。
「なんかありました?」
「ちょっとだけね」
首を傾げる彼女の眼前で同時に再生されたのは、追走カメラからの映像だ。セイウンスカイが走る様子がよく映っていて、こんな近くでまじまじと自分の走る様子はなかなか見ない。やや恥ずかしさもありながらも、彼女はふたつの違いを探そうとした。
しかし、いくら見れど暮らせど彼女の目に分かる違いは無い。唸る声。それがふたつ重なって、時計の針が半分程度回ったところで海人は正解を述べることにした。
「ラストスパートの方なんだけど、僅かに姿勢が乱れてるんだ」
「ほほう?」
試しに、同じ姿勢で止めてみる。右足を踏み込み、左足はいっぱいに上がっている。腕は指先まで伸び、大きく振られていた。体幹は前傾。表情までは伺えない。
「ほら。こっちの方が……スローで見てみるとわかりやすいんだけど体があっちこっち行ってる」
確かにゴール前のセイウンスカイを見てみると体軸がぶれてバタついていた。これでは足の接地角を一定にすることが出来ず、走りには大きなロスが生まれる。
「ここもスペシャルウィークさんの方が優勢かな」
「繰り返し練習してたもんね」
「ああ。私の集めた情報によれば、彼女の練習の大部分はこれに宛ててた」
先輩らしくない随分な賭けだ、と声が漏れる。私は少々、先輩のことを誤解していたようだ……と言うのが、海人の正直な気持ちだった。
彼は、優秀なトレーナーである。そして、あまり奇抜なことをやらない人間のはずだった。
「それがまさか、だよ」
「トレーナーさんも転ぶことあるんですねぇ」
悔しさを滲ませる姿を見てしみじみとセイウンスカイは口に出す。ゴールの瞬間で止まったままの画面を見つめながら、彼は「いつも転んでばかりさ」と呟いた。
それから、背後でやり取りを見ていたニシノフラワーが困惑し落ち着きを無くすくらいの時間が過ぎる。もちろんその間2人は無言で、彼の唇の端がたまにつり上がったり、彼女の耳が何かを払うように震えるだけ。
しかし、唐突に口を開いたのは海人だった。お世辞にも潤っているとは言えない唇が動き、そして静かに声が響く。
「さて。明日からトレーニングだぞ」
先程とは違い、感情を抑えた低い声。言い終わってからも体を動かさず、獲物を定めるようにじっと一点に視線を注いでいる……ように彼女には見えた。
「そうですねー。最後のひとつ、キングが持ってくってのも面白いかもですが……」
「そんなことはさせん。獲るのは君だ」
いつになく強い言い方に思わず背筋が伸びる。
「はーい。そこまで言われちゃ頑張っちゃうしかないですね。《アルゴル》らしく」
あくまでのんびりと、セイウンスカイは立ち上がる。気楽にだが確実にトレーニングを重ねて、そして勝ちに行くという《アルゴル》のやり方で行こうという言葉。まるで自分に言い聞かせるような言葉だ。焦る必要は無いと。
しかし、彼女は見逃していなかった。椅子に腰掛けた海人の腹の上で組まれた手に、大きな爪の形のアザが残っていたことを。
「トレーナーさんも協力してよね」
「ああ」
彼女はレースの後、海人に対して抱いた感想を修正する。そして同時に、もっと見せてくれてもいいのに、と思っていた。恥ずかしがることでは無いし、何回も言うがウマ娘としては、トレーナーが同じ方向を向いているかというのは気になるものなのだ。
《アルゴル》は問題ないと確信したセイウンスカイはひとり次のレースへの決意を抱き、薬臭い医務室の空気を吸い込んでいた。