トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
「……申し訳ないですね。フラワーさん」
「いえ! 気にしないでください!」
ダービーの振り返りが終わってから、海人はできる限り親しみやすい空気を作ってニシノフラワーを振り返った。見た目がどうにも取っ付きにくいのは理解しているので、口元の表情筋を最大限に柔らかく。
しかしその口元が「あとは頼む」と口パクしていたのを、セイウンスカイは見逃さなかった。彼に対してものを言えないと首を振りながらも言葉を引き継ぎ、振り返りの間ずっと立っていた後輩に笑いかける。
「ずっと後ろから見てたけどさ。楽しかった?」
「えー、と。何を言ってるかは分からなかったんですけど……真剣だなってのはよく分かりました!」
「ならよかった……別に私もいつもサボってるわけじゃないんだよ?」
言ってからやぶ蛇だったと思いつく。後片付けをしていた海人の動きがいきなり止まり、黒黒としたレンズが彼女の顔を大きく映した。
「君そんなに授業サボってるの?」
「あー、いやいや。言葉のあやです、あや」
目を逸らしながら、顔の前で手を振りまくる。違う違うと1歩後ずさりながら言い訳を探し、頭の中で出すべき言葉を検索していた。しかし、援護射撃は思いもよらぬ方向からやってきた。
「そうです! たまにしかないですよ!」
「あー、フラワー……」
この後輩は正直なところは美点だが、あまりに正直過ぎるのは逆に難点足り得るのだと彼女は思った。善意で「たまに」と言ってくれたのだろうがその発言を聞いて海人はこめかみに指を突き刺し、長く長くため息をつく。
「この教え子は」と言いたげな動きの首。しかし、出てきたのはそんなに棘の無い言葉だった。
「まあ、何も言わないが程々にしときなさい。文句は私に来るんだから……いくらでも誤魔化せるけどね」
「はーい。そこで怒らないのがトレーナーさんらしいよね」
この、真面目なようでいて不真面目な男にいくら助けられたことかを考えると頭が上がらない。とはいえその気持ちを直で出すのは何となく癪であり、にへらという笑いでそれを誤魔化した。
彼はその動作には気づいていない。当然だが、その事実仄かにセイウンスカイはガッツポーズをした。隠した本心を分かられることほど恥ずかしいことは無いからである。
そうしてひとり勝手に安心して話を終わらせたつもりになっている彼女の動きを知らず。彼は深々と小柄な黒鹿毛のウマ娘へ向かって頭を下げていた。
「ニシノフラワーさん。いつも気にかけて頂いてるのはありがたいですが、面倒くさかったらいつでも医務室に相談来てくださいね」
「いえいえ!」
心の底から湧き出る声色で、申し訳ないと吐き出した海人。
「そんなことありません!」と続けたニシノフラワー。しかしその返事を受けた海人の顔が晴れることは無く、顔を覆っていた。
今すぐこの場から離れたい。この後輩に気を遣われるというのは、彼女としてはあまり愉快なことではなかった。むしろ、拳を作って自分を殴りたい気分。海人に迷惑をかけることに対して抵抗が無いのは、彼が《アルゴル》のトレーナーだからということもある。がしかし、このニシノフラワーに対する感情は何なのか。
本能のようなものが訴えかけてくるから仕方ないと自分に言い聞かせて、彼女は何回も椅子に座り直した。しかし、ひとつだけ伝えておくことがある、と口を開く。
「別にフラワーもさ。私を気にかけすぎること無いんだよ?」
「その、ご迷惑でしたか?」
ニシノフラワーはその言葉を受け、両腕を胸の前で重ねていた。セイウンスカイからは宝石のように見えているその両目は水の輝きを増している。これはやっちゃったかなと頬をかき、何かこの状況にあった答えは……と言葉を選んでから喉を震わせる。
「あー、いや。そうじゃなくてね。フラワーの負担になってないかなーってさ……トレーナーさんは仕事だから私としてはいいんだけど」
ちらりとサングラスの男がする反応を伺う。僅かに眉が動いたが、概ね仕事だから仕方ないと思ってくれているようだった。その事実に身体中の力をだらりと抜き、彼に大いに甘えている自分を自覚しながらまた続ける。
「フラワーはさ。これからだもん……キミはこれからデビューするのに、私のせいで失敗したなんて言ったら私は」
落ち着かない手を何とか鎮めようとするが上手くいかない。取り留めない思考を何とか言葉にして絞り出した彼女の口はカラカラに乾き、喉は水分を求めて叫んでいた。
何故か、ニシノフラワーの未来を邪魔したくないと感じる。根拠は無いが、彼女の未来は輝かしいと思ったからだった。もちろん、セイウンスカイのこれまでの皐月賞勝者という成績も十分輝かしい。
しかし、このままならニシノフラワーの方が、遥かに注目されるような。そんな気がしていたのだ。
「スカイさん……」
言葉に詰まる。なんと言ったらいいのか分からない。
「あ、なんかごめんね。そんなつもりじゃなかったのに」
「いえ。でもスカイさん。気にしないでください。これは、私の好きでやってる事ですから」
「あー、あ、そう? なら……うん。良かったのかな」
たははという締りのない笑い声が医務室の薬臭い空気にまじる。やはり、なぜこんなことを思うのか分からないまま、彼女は後頭部の髪の毛を逆立てたり直したりしていた。
「……程々にな」
「にゃはは〜。そうします」
「さて。早速次の話をしよう」
「早いですねぇ」
「仕方ないだろ。悪いところは見つかった。なら、次のレースに向けてだ」
膝を叩き、彼は綺麗にした机の上にタブレットだけを置く。呼び出したのは、さっきとは違う緑色の画像。上空から見た、京都のレーシングコースの写真だった。上下を潰した楕円のような東京と違い、いくつか伸びた引き込み線を除けば雫のような形をしているのが、京都の特徴だ。
ここでセイウンスカイは、これからの日程について質問することにした。夏合宿を挟んで秋のレースにどのようなルートを通るか知りたかったからである。海人がどこまで考えているのかと言う事も見たかった。
「次は菊花賞に直行するんですか?」
「いや。同じ京都のレースを前走にしようと思ってる」
「ふーん。なら京都大賞典とか京都新聞杯とか?」
「そうなると思うが……決めてはいない。まだ余裕もあるし」
菊花賞の前哨戦と目されるのは、トライアルとして指定されている京都新聞杯、セントライト記念、神戸新聞杯に、京都大賞典を加えた4つ。海人としては菊花賞の前に京都を走らせたいという考えから、セントライト記念と神戸新聞杯は除外。すると1週間の違いで行われる京都新聞杯と京都大賞典となる訳だが、はてさてどちらを選んだものか。
「夏の仕上がりを見て決めようと思っている。まあ、菊花賞の前に1回走るって覚えておいて」
「はーい」
彼の答えを聞き、彼女の胸中は密かにヘリウムを吸い込んだように軽くなった。実際にヘリウムを胸の中に入れたら声が高くなるだけではないかという野暮なツッコミは無しとして、少なくともセイウンスカイが抱いていた危惧のような感情は氷解したのである。
「さて改めてだが」
そう切り出したのはやはり海人だ。次のレースに向けて、トレーニングの方針を建てたいと述べる。
「京都の特徴は?」
「淀の坂ですかね?」
「ああ、正解だ……厳密に言えば淀の坂とその先の逆バンクになる訳だけど」
淀の坂という何とも仰々しいネーミングに、セイウンスカイの後ろから生唾を飲み込む音がする。それは、京都レース場のバックストレートエンドから外回り3コーナーの途中までに存在する高低差4.3mの坂の事だった。
むしろ、坂と言うよりも丘と言ってしまったほうが人によってはしっくり来るような威容である。
「知っていると思うが、3000mはその坂を2回も登らなければいけない。スタート直後は体力が有り余っているからいいとして、2回目をどう乗り切るかが重要だ」
「体力勝負ですね」
「どれだけ冷静に走れるか、でもある」
3000m。時間にして3分と少しという長丁場。勝つのに必要なものの一つにレースの間中常に冷静さを保ち、戦況を見極めて適切に仕掛ける頭脳がある……彼はそう告げていた。もちろん、スピードもスタミナも必要だ。
「なので強くなければ勝てない」
『最も強いウマ娘が勝つ』との言葉は手本となったコモンウェルスのセントレジャーを評しての言葉だが、それは菊花賞にも言えるものだ。
「スタミナもスピードも鍛える。どんな状況でも焦らない精神力も鍛える。忙しいぞ」
「うへぇ……たいへんそ〜」
「大変なんだ。長い距離だしな」
「で、まず方針は?」
まあこれを見なさい。そう言って机から引っ張り出してきたのはいつもの紙の束だ。試しに表紙をペラリとめくってみると、流石のセイウンスカイでもくらくらするほどの量の情報が詰め込まれている。
しかし、一度に摂取しようとすると胃が拒否反応をおこすレベルの文字の塊は彼がいつも出してくるものに違いなかった。
「なんか恒例になっちゃったね」
「こんなにパソコンと向き合うことある? って位にずっと編集してた」
「寝てます?」
「うむ。活動に支障ないくらいにはね」
「それって寝てないって言いません?」
彼の顔をつきぬけ、そのまま反対側の壁まで刺さりそうなほど鋭い視線。そして髪の毛が逆立ち始める音の幻聴を聞き、海人は彼女の地雷に触れたことを悟る。
「無理しないって言いました」
「そうね。今日は早く帰るから」
「トレーニング終わったらさっと帰りますよ?」
曖昧な言葉だけを返して、資料を読むように促す。何度も何度も訝しげに視線を向け、そして大いに唇をとがらせ眉間に皺を寄せ、ようやく白い紙に印刷された黒い文字に目を落とした。
「1、2コーナーがかなりタイトですねぇ。それにバックストレート……長くない?」
「中々曲者なコースだよ京都は。ストレートはもちろん大事だけど、重視すべきはコーナーと坂。コーナーはどれも頭を抱えたくなるけどね。特に逆バンク」
セイウンスカイは本日2回目の聞き慣れない言葉に、さっき聴き逃した疑問をぶつけることにした。
「あーその。聞きたいんですけど、逆バンク、ってなんです?」
3回目を口に出す。何回言っても、口に馴染まない言葉だった。
「逆バンクというのは、だな……」
コーナーには、ウマ娘が走りやすいように僅かな傾斜がついている。サーキットは別として、ウマ娘のレーシングコースならば内側を低く、外側を高くするようなつくり。
これにより遠心力で外側に膨らむことなく、スピードの低下を抑えて走れるわけであるが、京都レーシングコースの問題点は、どのコーナーも、ほとんどバンク角が変わらないということだった。それの何が問題になるのか。
さて。特に逆バンクと言われるのは、外回りの3、4コーナー……特に4コーナーである。なら、3コーナーの手前には何があるか。
セイウンスカイはすぐに分かった。ニシノフラワーも、遅れて答えにたどり着く。
「坂の後だからスピードが?」
「そうだ。スピードがついた状態で坂のない内回りとほとんど同じバンクに突っ込んだらどうなるか」
遠心力でふくれ、外ラチに一直線である。つまり、逆バンクと言っても内側が高く外側が低い本来の意味のではなく、バンク角がスピード域に対して浅いため外側に傾斜しているように錯覚してしまうのだ。
「なるほど……坂だからといってスピードにのせると」
「大幅なロスだろうな」
セイウンスカイは天を仰いだ。これまでの坂は、ストレートの途中にあったのでいかに上手く登るかを考えればよかった。しかし、今回は下りが絶妙な位置に存在する。よく考えて走らなければ、レース距離を損して負けることになるのだ。
「じゃあトレーニングは、坂対策とコーナリング練習ですか?」
「効率よく走るのも追加な」
「うへぇ」
ダービーも随分苦労させられたが、菊花賞も苦労は絶えなさそうである。とはいえ、それは他のウマ娘もだいたい同じだと考えると少しは気が紛れる思いだった。
彼女の予想は、坂路の繰り返しとペースを上げた走り込み。コーナー練習はどうするのか分からないが、彼ならなにか考えているだろう。
「今日はどうします?」
「基本メニューやっておしまいだな。あとは後日だ」
「いいんですか?」
「本格的な調整は夏合宿でやることを予定している。今は体つくりがメインだ……焦ってもいけないが、余裕がある訳でも、な」
皐月賞からダービーまでは1ヶ月と少しだったが、菊花賞までは4ヶ月ほどある。と言いながらも、距離や競走の強度を考えれば足りない。そんな彼の思いが、紙の束の隅に充満しているように見えた。
「で、こんな所か?」
「なんかあったらまた聞きます」
「そうしてくれ」
一通りの振り返りと次への展望が見えたところで、海人はタブレットを閉じて話を切り上げた。セイウンスカイは紙束を丁寧に机に置き、携帯を取りだして時間を見る。
まだまだ、トレーニングに使える時間はたっぷりとある。しかしさあ行こうか、と腰を上げかけたところで画面に映ったのは、ニュースサイトの通知だった。
「あ、スペちゃん」
「ん、連絡?」
「いえ、ニュースですニュース」
「ああ、なるほどな……無理に見る必要はないんだぞ」
どういう内容なのか、書かれ方をしているのか。彼には想像がついたようで、セイウンスカイを案じていた。
その心にありがたいと思いながらも、彼女は文章を読み進める。中身としては、スペシャルウィークに対するインタビューと、彼女のパーソナリティーについてという2本立て。
「ううむ。やっぱりダービーって特別?」
「今更だな。そう、特別なのは間違いない」
インタビューはともかくとして、こういうレース特集は大抵だと掲示板に入ったウマ娘についてまでは書いてあるもの。しかし、ダービーについては勝者ひとりだけ。
セイウンスカイはあくまで、「最速の敗者」でしかないのであった。
「世界でもままにある事だ。インディ500とかな」
「いんでぃごひゃく?」
疑問符を大量に浮かべるセイウンスカイ。彼は簡単に、「アメリカ最大のカーレースだよ」とだけ答えた。1周4キロのコースを200周し、800kmという距離で争うんだよ……と言ったところで、理解できるかはかなり怪しい。
「インディ500の優勝はシリーズと同等かそれ以上の価値があると言われている。ダービーも同じ」
「そっか。同じクラシックの3冠でも、意識が違うんだね」
「重さも違うな。不公平だが」
ダービーを勝つのは一国の宰相になるよりも難しいという言説は、残念ながら創作である。さすがにそんなことを言えば、「見識が無い」として非難されるだろう。
しかし、そんな逸話がまことしやかに語られるほどに、ダービーの栄光というものは重く、そして大きい。それは日本でも変わらず、きっとスペシャルウィークは語り継がれるだろうという確信があった。
「皐月賞だけじゃ、薄れてしまう」
「なら、菊花賞も勝たないとさ」
「そうだな。《アルゴル》らしい戦いをしよう」
それを最後に、医務室にはしばらくの沈黙が降りた。セイウンスカイも海人も、思うところがある。それぞれにダービーの感慨を噛み締め、次のレースに向けての熱を高めていた。
その様子を後ろから見学していたニシノフラワーには、セイウンスカイの頭上に陽炎が揺らめいているように見えていた。熱意と決意。そのふたつが激しく化学反応を起こし、光を放っている。
「スカイさん! 応援してます!」
「お、ありがとうフラワー」
大舞台での負けというものがどんなものなのか、ニシノフラワーには分からない。ダービーの日ほぼ横並びでゴールした後。セイウンスカイが『最速の敗者』となってから、彼女には白群の先輩から色が抜けてしまったように感じられていた。
たまらずに部屋を出てしまった訳だが、今日のセイウンスカイはどうだろう。少なくとも、色は戻っていた。目に力も……普段よりある気もする。
「さーて。トレーニングやろうよ?」
「珍しいしな。やる気になっちまうなんて」
「なめないでくださいよ? セイちゃんだってやる気になる時はあります!」
ぷんぷんという擬音が聞こえそうな表情をするセイウンスカイ。丁々発止の海人とのやり取りに、ニシノフラワーは少しばかり間に割って入りたくなった。
「じゃあ、着替えてきますね」
「おう。メニューは時計に送ったからそれをやってて。後で行く」
「はいはーい……また後でねフラワー」
言い残して荷物を取り、ベッドに着替えを置いてはカーテンを閉めたセイウンスカイ。そんな彼女の極めて自然で全く引っ掛かりのない動きに違和感を覚えることが、ニシノフラワーには出来なかった。
しかし、しかしである。この部屋にいるのが自身だけなら良かった。この部屋にいるもう一人の人間。海人のことを忘れていた。
カーテンの向こうから聞こえてくる、制服が肌にこすれる衣擦れの音。ニシノフラワーは声にならない悲鳴をあげてから、海人の袖を掴んだ。
「ダメです! 右堂先生!」
「はい?」
怪訝に傾けられたサングラスのレンズ。間近で見るとあるまた違った迫力に怯みながらも、「とにかくダメなんです!」と続けて彼を立たせた。
そのまま引っ張り、近くの扉に連れていく。状況を理解していない、ただひたすらに助けを求める声が、薬臭い空気を震わせていた。
「ちょっと待って下さい? 私が何を、だから話を!」
「ダメなものはダメです!」
「いや、だから。離してください。話せば分かりますから!」
カーテンの向こうから聞こえてくる悲鳴と激しく扉を開閉する音に、セイウンスカイは内心深々と謝罪の言葉を述べた。気にしないでいいよと言っておくべきだったな、というのは既に後の祭り。
「言っても聞いてくれなさそうだけど」
二度とこのような不幸が起きないようにするべきだ……扉の向こうへ散ったトレーナーに手を合わせ、彼女は決意を固めるように靴の紐を結んだ。