トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
激闘のダービーが終わった。
宝塚記念も終わり、そして夏が来た。
蝉は人間に一切の遠慮をすることなく婚活に勤しみ、その必死の呼び声は窓ガラスを貫通しては室内を暴れ回る。鬱陶しいと思うのは仕方ないことだが、全くやる気を出さないのは問題外だ。
仕事に一段落をつけた海人は白いワイシャツに包まれた腕を組み、部屋に据え付けられた診察机の前に座っている。その視線はやはりサングラスに覆われているが、レンズには地面に落ちたアイスクリームの様に崩れたセイウンスカイがいた。唇を巻き込んで引き結ぶ彼の感情を、想像するのは難しくない。
腕を組み、威嚇する鳥のように胸を張って、一段低い声が喉をふるわせる。
「さあ。今日から夏合宿なわけだけども」
「はい」
「君、やる気あるのかい?」
「失敬なー」
ぐでんと溶けた声。確かに室内がそれなりに暑いのには海人も同意するが、初っ端からこれはどうなのか。様々な疑問が脳裏に浮かんでは消えていく。その全てを口に出さずに封殺することに何とか成功し、彼は顔を覆いたくなる手を肘置きを握りしめてこらえる。
「去年よりは冷房効いてるだろ」
「でも暑い事に変わりはないですよ」
冷房が動いているとはいえ外と比べれば快適、でしかないのは理解している。しかし、夏合宿というものは一年のうちで最も集中して実力を伸ばせる時期。すこしくらいはやる気を見せてほしいというのが、海人の偽らざる気持ちであった。
「だから去年も朝早くやるって言ったろう?」
「昨日移動日だったから許して?」
「……私の甘さがつくづく嫌になるよ」
しかし結局のところ、そう言われれば許してしまうのだ。少しばかり……いや、砂糖と比べてもまだお釣りが来るほど甘い。
「明日朝からフルメニューでやるぞ」
「それはもう」
言ってしまった以上仕方ないので本日は涼しくなった夕方からある程度メニューをこなすことにして、予定を全てを前倒す。とはいえ、まだ合宿が始まって一日目。医者としての仕事はまだまだ少なく、今日はのんびりと構えていても問題なさそうだった。
しかし、思うところがない訳では無い。
「ダービー後の決意はどこに行ったのやら」
彼には鼻歌が聞こえていた。つまり、セイウンスカイは聞こえないふりをしている。ダービーの敗戦と、決意を後にしても彼女がそれほど変わっていないことを喜ぶべきなのか悲しむべきなのか。海人には分からなかった。
「セイちゃんとしてはですね。気負いすぎるのも良くないかなーと思ったのです」
「言い訳かい?」
「ひど……大丈夫ですよ。決意は無くなったわけじゃありません。ずっと、積み重なってますから」
「そうじゃなかったら私は泣くぞ」
サングラスをずらし、大袈裟に目尻を抑えてみせる。しかし内心、暗闇の中で家の灯りを見つけたような気分でもあった。人というのは、出来事の積み重ねで作られるものだからだ。ある日全然違うものに変わることはなく、急に別人になったように見えても、きっかけとなった何かは必ずある。
セイウンスカイはトレーニングや皐月賞、ダービーの配線を積み重ねて今の彼女を作っている。一年以上もあれば決意を何個も織り込んで、見た目はほとんど変わっていないが中身は大きく変わっている……はずだ。
彼にとっては外見も内面も見えないのでよく分からないというオチがつくが、海人としてはセイウンスカイのことを信じたい。
心の中で手を合わせているその胸中を知ってか知らずか、彼女は身を起こして海人を正面から真っ直ぐに見ていた。椅子に深く腰かける彼がずっと身動きしないことを確かめてから、胸に手を当てて息を吸った。
吐くと共に、その鴨頭草のいつもは眠そうに目尻の下がっている瞳に力が込められる。
「あ、そうだ。お願いしたいことがあるんですけど」
「ん? どうした」
少し低くなった声に、彼は姿勢を正す。椅子に預けていた背中を離すと、濡れたシャツが体の芯まで空調の冷気を増幅して伝えてくる。
「会長さんとの併走をセッティングして貰えないかなー、と思いまして」
思いがけない願いに、彼の時間は背中から凍結した。髪の毛の先の1本まで微動だにしない。まるで、永久凍土の中から発掘されたマンモスのようだ。
「おーい? ちょっとー?」
何度か呼びかけて、海人はようやく解凍された。数万年のタイムトラベルからいきなり放り出された原始人のように、挙動は著しく不審だった。
「あの。さすがに傷つくんですが」
「ああ、すまない。ちょっと予想外でね」
「まあ、キャラじゃないのは理解してますけどね……それでも失礼しちゃいますよ」
セイウンスカイというよりも、セイウンフウセンとなった彼女。むー、という声に失言を悟った彼は後頭部の刈り上げた髪の毛をかきながら、サングラスのレンズで床を映していた。
「わかった。謝罪する」
「はい。いいですよ。で、お願いはどうです?」
「シンボリルドルフなら頼めば応じてくれるだろうね。東条先輩も……多分大丈夫だ」
「ああ、良かった〜」
背中を小さく丸め、何回も拳を作るセイウンスカイ。よほど嬉しいのか、よほど緊張していたのか。それとも、言いにくい事だと思っていたのか。海人には分からない。しかし、彼にはひとつ確かめておくべきことがあった。
「しかし、なぜ急に? 理由を聞かせてくれないか」
「あー、はい。そうなりますよね。分かりました、話します」
話しにくいことを切り出す時のような、隠し事を暴かれた子供のような。意を決してみたり、やっぱり無理とばかりにしかめっ面を作ってみたり。忙しく変わるセイウンスカイの雰囲気を感じた彼は何も言わず、黙って言葉を待っていた。
「あー、その気分を悪くしないで欲しいんですけど」
「ふむ」
「私、分かったんです」
声に混じる重み。喉でつかえる空気をお腹の力で無理やり押し出すような息遣いで、セイウンスカイは続ける。
「皐月賞は勝ちました。ダービーは負けました」
「そうだな」
「でもですね。その前にスズカ先輩と走って分かったんです……私には足りてないところが多すぎるって」
「ほう」
確かに、まだまだセイウンスカイは発展途上だ。アスリートの体に完成はない。その時点での最良はあれど、完璧にはなり得ないと海人は思っている。だから、まだまだ足りなくて当然である……というのが口をついて出そうになったが、彼女がしようとしているのは思考の整理だ。
「スタミナと時間感覚はそれなりに自信があります。でも、スペちゃんには届かなかったですしスズカ先輩には全く敵いませんでした」
「そうだな」
「それは併走してみてもそうですし、見た宝塚記念でも変わらなかったです」
1ヶ月ほど前に行われた宝塚記念で、サイレンススズカは見事な勝利を収めていた。今年に入ってからのレースと同じく、他のウマ娘に影すら踏ませぬ大逃げ。
サイレンススズカの強さの秘密は、極めて効率的に走れることにあった。だから、『逃げて差す』という走りができる。彼女は同じ逃げの先輩と自分を比べて、『効率においては劣る』という評価を下したのだ。
「確かに、君の走りにはまだまだ無駄が多い」
「ですよね。もっと効率よく走れてたら、もうちょっとスパートでスピードに乗せられたかもしれません」
「だから、シンボリルドルフと?」
「もちろん、スズカ先輩とはもっと走りたいです。もっと吸収したいです。でも、それだけでは足りない。会長さんと走れば、違うものが見えてくるはずなんです。身につくはずなんです」
訥々と続けるセイウンスカイの分析を、彼はグランドキャニオンより深くシワを寄せながら聞いていた。彼女が喋り終えて口を閉じても代わりに彼が口を開くことはなく、耳をすましてようやく聞こえる空調機の作動音しか部屋にはなかった。
セイウンスカイとしては、こちらが話し終わったのだから早く答えて欲しいという気持ちがある。沈黙の中返事を待つのは、判決を言い渡される被告人のような気持ちにさせる。体温が上がり始める。
「わかった。そこまで考えてるならセッティングしよう」
もう二度と返事を寄越さないのではないかと思い始めた矢先に、海人は顔を上げて「わかった」と頷いた。口元に浮かぶ任せろと言わんばかりの笑みに、彼女は全身の力を抜いてくずおれた。気づけば手から首筋から吹き出した汗でびっしょり。
「ああ、緊張した」
心臓も何故かバクバクと秒針の二倍程度の速さで動き、胸を突き破って外に出てきそう。ほのかに薬臭い空気を吸い込んでようやく、セイウンスカイは落ち着きを取り戻しつつあった。
「なんでそんなに」
「だってトレーナーさんが返事してくれないから」
「一応私にもね、考えるべき予定というものがあるんだよ」
事前に組んだトレーニングの予定というものがある。もちろん予定は未定という言葉があるようにそれは柔軟に組み替えられるものではあった。だが、普通に走るより体力を消耗する併走をやるにあたって、他に本当に影響がないのかを考える時間が必要だった。
「はーい。でも、問題ないんですよね?」
「ああ。そんなには無いだろう。彼女がどのくらい付き合ってくれるかは未知数なんだけど」
彼はそして、タブレットで早速メールを作り始めた。《リギル》のトレーニングは秒単位でスケジュールが決まっている厳しいものだ。それに割り込むのだから、さっさと調整するに限る。
「東条先輩は休憩も非常に気にするからね。なんて返ってくるのやら」
「月月火水みたいな感じでトレーニングするのかと」
「いやいや。東条先輩はどこまでも合理的な人だよ。どれだけトレーニングをしたからこれだけ休憩を取らせるってのはしっかりしてる……まあ、君なんかは合わないタイプだ」
「確かに始まる時間が決まってるのは辛いですね」
いつも学校が終わってから医務室にのんびり向かい、着いてからも海人と話したりセリカと戯れてからトレーニングをする。その僅かな幸せが味わえないのは彼女にとっては困る。それにチームに人が多いと部屋でゆっくり出来ないのは確実。
常に横になりたいセイウンスカイのようなタイプは睨まれて疎まれてしまうだろう。
「言っておくけど私も始まる時間はこれくらいがいいな、とは考えてるんだぞ」
「あ、やぶ蛇でした」
「君ひとりならいくらでも融通効くからいいけどね」
チームにウマ娘ひとりの恩恵を存分に味わえと言われていると解釈した彼女は、自らの幸運に感謝した。今どき、ウマ娘一人のチームの方が珍しいくらいである。
これは彼のハンディキャップのせいだ。しかしそれが無ければ専属的に契約が結べていなかったはずだ。
「トレーナーさんに苦労かけたぶんはちゃんと返すよ」
「皐月賞で十分返して貰ったからな。そんなに気負わんでも」
「もうー。私が返したいの」
そもそもジュニア期の四月において、セイウンスカイはほとんど話題に上がらなかったウマ娘である。一斉練習に真面目に参加していないとか、飛び抜けた実力を持っていると目される同期が一度に四人もいては埋もれてしまう。
それが、皐月賞を勝ってしまった。世代にただひとりのウィナーとなった。
「確かに皐月賞勝てたのは良かったけどさ……私、もうちょっとやりたいんだよね」
「もうちょっと? どのくらい?」
「んー……現役終わるまで、かな」
「随分大きく出たな」
しかし、海人は感心していた。セイウンスカイがこんなことを言うようになったとは……。ゆるっと頑張る、という最初に彼女が言った言葉とは随分と乖離があるように思える。
「君も変わったな」
「そう? あんまり変わらないよ。それを言うならトレーナーさんだって」
「確かに、私の望みは叶ったから、そう見えるかもね」
君には感謝してもしきれんさ、と小さく付け加える。セイウンスカイにしか聞こえない声量で、本当に小さく。
「もう。この人は……」
耳に飛び込んだ言葉は、彼女の血を熱くし柔らかな頬を赤くするのに十分すぎた。
究極のところ、彼女たちが走るのは自分のためだ。少なくとも、セイウンスカイはそうだった。しかしそれで、右堂海人という人間が救われた。右堂海人という人間が変わった。右堂海人という人間の夢が叶った。
競技生活においていちばん身近な人間がそうなったというのは、セイウンスカイにとって一番のご褒美だったのだ。
「だから、君が行きたいならどこまでも行こう。私に出来るのは、それくらいさ」
「なら私も、トレーナーさんをどこまでも連れてっちゃいますよ。この学園で一番先導が上手い自信がありますし」
「それは間違いない。君なら安心して歩きを預けられる」
海人としては、教え導くはずのセイウンスカイに負担をかけているという意識は拭えずに、彼の頭は重みを増して下がる。その表情の温度がどんどんと冷え切り、喉に使えるものを無理やり吐き出そうとするような顔の歪みを見た瞬間、セイウンスカイは強く口を開いていた。
「謝らなくていいですよ。好きでやってることなんで。負担だと思ったこともありません! ね?」
中々見せないと彼女が自負している本心を早口で思いっきり念押ししながらぶつける。弾かれたというか、はねられたようにいきなり体を起こした彼の表情は、豆鉄砲を食らった鳩のような雰囲気があった。
「そんなに驚かなくても」
「ああいや……先導をそんなに肯定的に捉えてくれるなんてな。初めてだよ 」
「そうなんですか?」
「そりゃあね」
生きていて、視覚障害者に触れる機会というものはどうしても少ない。中学高校になっていきなりそういう人間に出会ったとして、うまく付き合える人間がいかほどいるだろうか。だから仕方ないんだよと大きく息を吐きながら、彼の表情は全く変わらず笑っていた。
「まあでも、そういうもんなんでしょうね。私もたぶん、《アルゴル》に入らなかったらこんなに勉強しなかったでしょうし、知ろうともしなかったと思います」
セイウンスカイは自分を戒めるように、かつての彼女のままならしたであろうことを吐き出す。知ろうともせず、見て見ぬふりをし、そして永遠に他人のままで過ごしていた。それがどんなに酷いことであるのか、チーム《アルゴル》ではないセイウンスカイはわからなかっただろうと。
「かもしれないが。でも君はちゃんと私のことを知ってくれただろう?」
「点字も読めちゃいますよ」
「偉いことだ」
一段柔らかくなった表情で、海人は答えた。もしかしたら、《アルゴル》に入る前のセイウンスカイは、自身で述べたようなウマ娘だったかもしれない。しかし今は彼を気にかけ、知ろうとし、そして手伝いたいと強く望んでいる。
しばらくじっと、石像になって床を見つめる海人。胸中には冷房で冷やせないくらいの青色の熱がやどっている。
「すまないな。湿っぽい話になってしまった」
「いえいえ……なんかもっと頑張っちゃおうという気になりました」
「なら、よかったのかね」
「はい。よかったんですよ」
そうやって笑い、彼女は立ち上がった。凝った体を猫のように解してから、海人の近くに歩み寄る。コツコツと古びたリノリウム張りの床を跳ねるシューズが、ぼやけた視界しか持たない彼に対してセイウンスカイというウマ娘の存在を主張する。
「そろそろお昼の時間ですね」
「おや。もうそんな時間か」
時計を見上げることもなく、海人は勢いよく立ち上がった。若干見下ろす位置から遙かに見上げる位置に動いた彼の黒々としたサングラスを追いかけ、彼女はニッと白い歯を見せてキラキラと笑った。
「あーあ、今日は適当にサボろうと思ってたのにな。やる気になっちゃったよトレーナーさん?」
責任とってよね、と体を曲げ、首をかしげるセイウンスカイ。
「そうか。やる気になったのなら全力でやってもらわないとな」
しかし彼は表情筋の一つすら変えることなく、セイウンスカイの姿をサングラスに大きく映す。
「お昼の後さ。詳しく聞かせてよ」
「ん。メニューな」
彼女は鏡映しになった自分を見ながら、彼に注文を述べる。聞き届けた海人は頷いてから机の上に放置されたタブレットへ視線らしきものを投げてから、また頷いた。
「よし。じゃあお昼行きましょうお昼」
「今日のメニューは何かな」
「なんでしたっけね。でも夏らしいものが食べたいですねー」
冷たいそうめんとか最高じゃないですかと想像を膨らませる。
「あまり冷たいものは体によくないぞ」
そうやって茶々を入れた海人の向こうずねを蹴る。続いて彼女は「ならトレーナーさんはアイスクリームも黄色いコーヒーもなしですよ」と夏の生命線を蜘蛛の糸のように断ち切った。
「あ、それは困るな」
幸いにも地面に立っていた海人は地獄に落ちることはなかったが、その表情は親に嘘がばれた子供のように慌てふためいていた。
「人のお昼の楽しみに茶々を入れるからです」
「悪かった。だからコーヒーなしはつらいな」
「アイスじゃないんですね」
「君にはわからないだろうがコーヒーの方が大事だ」
あの成分表示が加糖練乳・砂糖ときてようやくコーヒーとなるような飲料のことを珈琲を読んでいいものか彼女にはわからなかった。しかし、思わぬ弱みを見つけた彼女は軽すぎる足取りで部屋の引き戸に手をかけ、海人を招いた。
「いきましょ。腹が減っては戦がなんとやら~ですし」
「ああ、なら先導を頼もうかな」
「はいはーい」
前に立って腕を差し出す。二の腕が大きな手で包まれ、「いいぞ」とだけ背後から聞こえた。
「じゃ、行きます-」
ゆっくりと前に進む。海人がついてきていることを確かめて、また一歩踏み出す。常人より遙かにのんびりとした速度だが、セイウンスカイにはそれでよかった。チーム《アルゴル》の姿そのままのままの早さは、二人に合っているものだと思えたからだった。