トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
「さあようやくやる気になってくれたか」
昼が過ぎ強く照りつける太陽の下で、海人は白いシャツの腕を組みながら言った。相対するのは上下体操服を着たセイウンスカイで、目の前の男の格好にくらくら来るものを感じていた。
「去年もそうでしたが、何で長袖なんです?」
見えるのは、両腕とも長く白い布に包まれた姿。真夏だというのにもかかわらず長袖長ズボンで上下を決めた海人の姿。視界に入れるだけでもう熱中症になりそうで、彼女はげんなりとしながら彼の話を聞いていた。
「仕方ない事情というものはあるものさ」
「なるほど? でも教え子の精神にも気を遣ってほしいなー」
「そんなに見た目悪い? 白いし、下も真っ黒じゃないからいいかなと」
「いやいや。ジャージだったらまだわかりますよ。見た目にも通気性いいですから」
現に、夏でも日焼けを嫌ってジャージを着ているウマ娘もいる。セイウンスカイだって、日向で待つ時はジャージを肩にかけている。しかし、年中無休で通気性の悪そうなスーツ上下というのはいかがなものか。
今、ここが木陰でよかったと彼女は心から思う。
「まあ許してくれ」
「いいですよ。トレーナーさん見なきゃいいだけの話ですから」
「引っかかる言い方だな」
しかし、トレーニングに支障はないので小言はこれまでにしておく。気を取り直し、今日のメニューを告げた。
「今日はロードワークがメインだ。坂での走りを意識すること」
「はーい」
やる気なさげな返事だが、つま先をコツコツと叩く音、首を回す音。しかし声とは裏腹に彼女の中ではふつふつと熱気がたぎっているようで、陽炎が彼女の全身から立ち上るような、そんなイメージが海人にはあった。
「ダービーの振り返りを覚えてるね?」
「もちろん」
「それなりに長い距離になるが、決めたペースを落とさず走ること。スタミナつけるのは至上命題」
ダービーから比べて一気に伸びる距離は、クラシック三冠における大きな障害のひとつだ。距離の適性というものは簡単にひっくり返るものではない。
前半の二冠には出場するが、菊花賞については見送る、というウマ娘も決して少数派では無いのだ。
「まず走りきれなきゃ意味ないですもんね」
「そういうことだ」
息を吐き、腕に巻いた時計をセットしてコースを思い描く。合宿所から出てゆるやかな山道を下り、海岸に出る。海岸沿いをずっとしばらく走ってから、一本折れてまた山を駆け上がる。合宿所を頂点に、大きな円か三角形を描くような形だ。
「じゃあ行ってきまーす」
「2周したら休憩ね」
「はーい」
セイウンスカイはそう言い残すと、軽やかな足取りでコースに出て行った。練習用の蹄鉄が地面に反響する音がだんだんと遠ざかり、海人は一人合宿所に残される。一人ウマ娘が去ったことによって彼の視界は酷くまだら模様な木陰で埋め尽くされる。
「さて。何しようかね。午前中に大体は終わってしまった」
「なら、私の練習を見てくれない?」
「君は……」
「お久しぶり先生!」
確かに、今年に入ってからは初めて会うだろうか。記憶をたぐり寄せ、老化現象を如実に感じる薄ぼんやりさに辟易とする。後ろに立っていたのは、栃栗毛の髪色と、溌剌とした空気。
「確かに、久しぶりかもしれませんねサクラローレルさん」
「もー。そんなにかしこまらなくていいのに」
ウマ娘、サクラローレルであった。体の弱かった彼女は、何度か医務室に通っていた時期があり、そのおかげで海人とはそれなりに親しかった。医者の世話になり、医務室通いをする生徒は珍しくないが、治療が終わった後も海人とそれなりに話をする生徒となると珍しかった。
「先生のおかげで勝てたレースもあるんだからさ!」
「それはチームにいってあげてください……しかし、なぜ急に?」
海人が胸中に抱くのはごく当然の疑問。今はチームのトレーニングの真っ最中ではないかということで、現にグラウンドからはいくつものかけ声がしている。耳をすませば聞き知った声がありそうな中、このサクラローレルは一人海人の所に来ていたのだ。
「中々タイミング合わなかったから。スカイちゃんも頑張ってるなーって!」
「そうですね。ダービー終わってから、また燃えているようです……むらはありますけどね」
「スカイちゃんはそうじゃないと!」
「買っているんですね」
なぜ、サクラローレルがセイウンスカイのことを気にかけているか。それは、寮で彼女たちが同室であるからに他ならない。彼がそれを知ったのは今シーズンが入ってからで、聞くところによると今年の四月から同室なのだという。
「はい! 一度しかないクラシック、後悔のないように走ってほしいから」
「なるほど……サクラローレルさんは、どうです?」
「ん?」
海人の問い掛けに、サクラローレルは動きを止めた。彼女の息づかいを聞きながら、彼は返事を待つ。彼女のクラシックの顛末は、彼も当事者としてよく知っている。しかし、あえて彼は聞いた。
サクラローレルのもつ溌剌とはじけるような空気が霧散し、重い沈黙が降りる。蝉の声すら逃げ去るような中、彼は汗一つかかず答えを待っていた。
「私は……後悔なんてない、うん! 後悔なんてないよ、先生!」
「そうでしたか。よかったです」
彼は、セイウンスカイが去った後の道の先にレンズをずっと向けながらその答えを聞いていた。サクラローレルがどんな表情をしていたのか、海人にはわからない。過去を懐かしむとも、思いを絞り出されるともとれるような、どちらともつかない声。
「もう! そんなに悲しそうにしないで先生! 私ね、クラシックは走れなかったけど、シニアでいっぱい走れたからいいの!」
「気を遣っていただいて」
「そんな事ないのに。先生が居なかったら、走るの諦めてた。ブライアンちゃんとも出会えなかったもん」
クラシックを走れなかったぶん、シニアでたくさん思い出が作れたと語る彼女は、それはそれは軽やかにステップを踏み、海人の目の前へ回り込んだ。背伸びをして、彼のサングラスのレンズを覗き込んでくる。
「先生はもっと自信もっていいと思うな」
「最近、少しは前向きになったとは思うんですけどね」
「たしかに。スカイちゃんのおかげだね?」
「かもしれません」
じっと、視界に大きくこちらを覗き込んでくるサクラローレルの気配に気圧され、海人は一歩下がった。しかし、グイグイとくる彼女の様子は、大きく印象に残るサクラローレルとは違っている。
医務室に通っていた頃は、もっと沈んでいた。今にも散ってしまいそうな、触れれば傷んでしまいそうな。
「しかし、それはあなたにも言えることですよ?」
「アハハ。言い返されちゃった……でも、そうだね。クラシックの私は、ずっと諦めてたから」
今度は背中をみせ、過去を懐かしむ。
「あそこで折れなかったからこそ、今があるのですからね」
ともすれば、折れて諦めた未来もあったわけである。それは海人も同じ。
「似たもの同士な私と先生がスカイちゃんに関わってる。運命かな?」
「さあ。それはどうでしょう」
「ふふ。冗談……でもね先生」
「はい?」
言葉を切ってから、またつま先を中心にくるりと回る。尻尾が風になびき、桜の浮かぶ瞳が海人をじっと見すえた。
木立でまだらになった頭上からの日差しもセミの鳴き声も遠ざかり、彼は続きを待つ。
「スカイちゃんと仲良くなれたのも、先生のおかげなんだよ?」
「ふむ?」
聞けば、今年同室になってからというもの、セイウンスカイとはあまり話す機会が無かったらしい。彼女もあまり人付き合いが上手い方では無いから、サクラローレルは遠慮していたのだと言う。
「でもびっくりしちゃった。皐月賞で、先生がテレビに映ってるんだもん!」
「そうですね。わざわざ話すこともありませんでしたから」
「多分、医務室でも会ってないと思うし……だからすっごい驚いて」
皐月賞のその日セイウンスカイが部屋に帰ってくるなり、サクラローレルは堰を切ったようにまくし立ててしまったと言う。右堂海人という人間には、自分も随分世話になったのだと。
「スカイちゃん、驚かせちゃいました。いきなり肩掴んで話しちゃったので」
「それは驚きますよ」
「でもそのおかげで、話せるようになったんですよ?」
気恥しいやら嬉しいやらで、彼は風に吹かれる中顎をしきりに触っていた。昼もすぎ、やや青みを増した顎を指が滑る。石畳の上を革靴が落ち着かない。
「まあ、役に立ったのなら良かったです」
「うん。私も、思いがけない共通点があって嬉しかったな」
サクラローレルは改めて言うと、彼の横に並んでセイウンスカイが走っていった先を見る。彼女からすれば、クラシック最後の一冠挑むためにトレーニングをするというのは叶わなかった夢だ。
「楽しんでくれるといいな。スカイちゃん」
呟きに、海人は反応しなかった。独り言のようにも聞こえる響きは木々の間をすり抜け、青すぎる空に消えていった。彼はその言葉を追い掛け、空を見上げる。
「楽しんでると思いますよ」
「うん。楽しいのが一番!」
しかし、その時間は終わりを迎えた。サクラローレルはまだ話したそうな様子だったが、耳をピンと立てると合宿所のグラウンドを振り返る。
「あ、呼ばれちゃった」
「チームにですか?」
名残惜しそうに合宿所の入口を眺めるサクラローレル。どうやら、ウマ娘にのみ聞こえる程の音量の声が届いたらしかった。胸の中で膨らむ気持ちを、破裂しないように尖らせた唇から細く吐き出す。
「サボってるのバレちゃった。先生、スカイちゃんによろしくね!」
「はい。おまかせを」
「じゃあね先生! 暑さに負けないで!」
石畳の上を舞うように走り去る軽やかな足音がどんどんと遠ざかり、そして一人取り残される。この午後イチを過ぎた中途半端な時間に合宿所の入り口にいる人間はいない。
こうしてみると、あまりの静寂に世界に海人しか居ないのではないかとも思えてくる。それは、話す相手がいないこともそうだが、また久しぶりに空を見たから。
「……白いな」
強い光が降り注いでいると、頭上にあるのは白飛びした何かでしかない。
「みんな気持ちよさそうに走ってたけど」
昼の食堂で聞いた声を思い出す。いい天気だった、とか。晴れてよかったね、だとか。
何年も見ていない青空。どんな色だっただろうかと考えたところで思い出されるのは、世界でいちばん高いところで見た空。ずっと心の底にしまっていた景色がふと蘇ってきて、彼は困惑した。
「あれは……どの国だったかな」
空の色を思い出そうとする彼の耳には、セイウンスカイが走りに行った方向からの、微かな車のエキゾーストノートが届いていた。
合宿所を出て、ひたすら下る山道を走る。幸いだったのは、頭上が木の葉におおわれていて暑さはそれほどでもないことか。しかし、走るコースはセイウンスカイが思うよりも遥かに難しかった。
勾配率は分からないが、延々と続くダウンヒル。補修で継ぎ接ぎだらけのアスファルトは摩擦力が不定期に変化し、しかも凹凸がかなりある。
その段差に足を取られないように、彼女はひたすらに道を下っていた。もちろん、勢いをつけすぎないのは大前提だ。怪我をしないのは競技者として当然のこと。
しかし、海沿いの道に出るまでのおよそ四キロという区間、ずっと下りというのは、考えるだけでつま先が痛くなりそうだった。
「次……見えない!」
文句を吐きながら、大きく体かたむけて右コーナーをクリアする。アスファルト用蹄鉄をつけてるとはいえ芝のレーシングコースより遥かに滑りやすいので、いつものようなスピードは出ない。何回か走ることになるのだろうから、まずはコースを覚えることを優先して、セイウンスカイは山肌を大きく回り込んで消えていく先の道へ意識を向けた。
そう。彼女が抱えるいくつもある問題のうちひとつが、先の道が見えない事だった。精神と体の準備をする前にコーナーが来てしまう。
できる限り予測はするものの、あてが外れることも多い。初回で仕方ないとはいえ思ったようにスピードが上がらず、彼女の胸の中には重い空気が溜まり始めていた。
「もどかしい……っ!」
ウマ娘と生まれたからには誰もが気持ちよく駆けたいもの。それは本能的なもので、抑えるのは中々難しい。
ひとつ幸いだったのは、車がほとんど来ないこと……だと彼女は思っていたが、その幸いも消え去りそうだった。
後ろから、小さくエンジン音が聞こえてくる。なんの車が来ているということまでは分からなかったが、この山道を走って、こっちに近づいていることは確かだった。
「もう! なんでかなぁ」
逃げ切れるだろうか? と自問し、不可能と首を振る。今こうしてコーナーをクリアする間にも、耳をすませば聞こえる程度だった音が、ハッキリと鼓膜を震わせる程の音に変わっていくのだ。
「速くない?」
思ったより速い。想像よりかなり速い。背中にじっとりと嫌な汗が浮かぶ。頭上の木立がだんだん薄くなって日差しが強くなってきたのもある。路面の荒れ具合が大きくなってきて、足を置く場所を考えないといけないというのもある。
対向車線に車の影はひとつもない。このまま何も来てくれなければ上手くやり過ごせるだろうとできる限り体をガードレールに寄せた。
塗装がところどころ禿げた白いレールが速度感を増して行き過ぎる。まだらの色がまざりくすんだ灰色になるほどのスピード。
「もう結構近い……!」
すぐ後ろに壁ができているような感覚。動くエンジンの部品一つ一つの音すら聞こえる距離に、もう既に車がいた。色はキラキラと光る白。声にならない「速っ!」という声を何とか押し殺し、スピードを少しばかり殺した。
早く先に行ってくれないかとチラリと後ろを伺う。後ろにいた車は、意外と攻撃的な見た目をしていた。つり上がった目と大きく開いた口。そして、広い横幅。中で運転している人の顔は空と木立が反射し見えなかったが、何となく男だろうとは思われた。
しかし、どこかで似た雰囲気の車を見た事がある。セイウンスカイは全く詳しくないながらも、記憶を掘りおこそうとした。
5秒しないで、それに失敗したことを悟る。全く何も思い浮かばない。そんな中で道の端に寄ると、あっさり過ぎるくらいにその車は前に出てくれた。しかし、すぐに走り去ると思われた車は彼女の前に出てスピードを合わせてくる。
「なんなんだろう?」
訝しげに見ていると、窓が開いて手が外に伸びる。立てられた手がヒラヒラと踊ると、左右に車も踊った。セイウンスカイにとっては「着いてこれるかな?」と言われているような。もしかしたら幻覚や自意識過剰の類だったのかもしれないが、彼女の心に火をつけるのには十分すぎた。
「……やってやろうじゃない?」
姿勢を低くし、ひとりで走っていた時より1段以上スピードを上げる。感覚としては、本番のレースのスタートダッシュを続けるような。ロードワーク、特に長距離を走るにしては早いと思われるかもしれないが、彼からの指示は「ペースは自分で決めろ」だ。
「つまり、貫けばいいってこと!」
もしかしたら、後で彼に怒られるかもしれない。しかし、スピードで挑発されて文字通りしっぽをまいて逃げるのはウマ娘としての誇りに関わる。
じわりじわりと距離を詰め、触れられそうな間隔となった所で、先行する車がまた加速した。白いボディへ綺麗に写っていた自分が歪み、そして小さくなる。
そのボディに、アルファベットが張り付けられていることを、彼女は見逃さなかった。
「TGR? ……C,el……iues?」
この文字列、半年以内にどこかで見た。再度の問いにも、彼女の脳みそは全く結論を出せない。そもそも、走りながら記憶を引っ張り出すことなどなかった。走っている時にするべきことは、タイムと道の把握、そして立てた作戦の確実な遂行。
「もどかしいなぁ……っと!」
思考にエネルギーを割いた彼女の体が、危うくガードレールと接触しそうになる。慌ててブレーキをかけ、前につんのめりそうになりながらも予定より大きく遅れて右コーナーをクリアした。
先行していた車はと言うと、あからさまにペースを落として彼女を待っている。ここでもおちょくられているような気分になって、セイウンスカイにしては珍しく、床を踏み抜く勢いで足を踏み出した。
その瞬間は加速力の差で間が詰まるが、直ぐに離される。そして一定の間隔になると、ピタリと同じスピードに合わせてくるのだ。
セイウンスカイは、このドライバーの腕に何回も舌を巻く。後ろのスピードを伺いながら、尚且つ前の道の様子も外していない。この蛇のように左右にうねり、そして決して綺麗とは言えない道を全く苦にせず走り抜ける。
最優先目標。置いていかれない。食らいついていく。
しばらく走ってわかったのは、道は前の車が教えてくれると言うことだ。右に行くのか左に行くのか。コーナーを終えてから次のコーナーへ向かうために準備をするのは、ウマ娘も車も同じだと彼女の頭は結論をはじき出していた。
「車だって、いきなり曲がれるわけじゃない……っと!」
ドライバーの腕や滑らかなライン取りに惑わされたが、物理法則は彼女にも前を走っている車にも適応されるのは同じなのだ。忘れかけていたその事実をぐっと胸に抱き、セイウンスカイは指先まで気力を再びみなぎらせた。
────ついてこれるか。
コーナー手前の軽いブレーキングで揺れるテールライトが彼女をあざ笑う。大きく息を吸い込み、胸の中の炎を大きく燃やして熱をつま先の隅々まで送り込む。彼女はその熱で軽くなった体を、コーナーへ強引にねじこんだ。