トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
セイウンスカイを見送り仕事をするために空調の効いた医務室に引っ込んでから十数分としないうちに、海人は駐車場に呼び出されていた。スマホが告げた通知の送り主はなんと影貴で、彼にしては珍しくここに来いとのお達し。
それを見た海人は大きく大きく息を吐きながら勢いよく椅子から立ち上がる。白衣の裾が翻るほどの急激な動きに、寝ていたセリカが首輪の鈴を鳴らして起きてしまった。耳さとくその音を聞きつけた海人はごめんな、と唯一無二の相棒であるシェパードに手を合わせた。
「しかしこの時間になんだ?」
確かに、影貴は複数ある合宿所を回って蹄鉄やシューズのメンテナンスをしている。だから、来るのは想定内だ。しかし、こんな真昼間から呼び出しとはどういう事だろう。セイウンスカイに何かあって来てくれなら分かるが、何もなしに駐車場に来いというのは珍しいし考えられない。
「起こしてごめんね。ちょっと外行ってくる」
古ぼけた引き戸に手をかけて廊下に出る。湿度が一気に上がり、高原の重い空気がワイシャツの腕にべたりと纏わり付いた。それなりにうっとうしさを感じながら、懐から取り出した白杖を伸ばし、タイルが敷き詰められた床に突く。
二、三度床を叩いて異常がないかを確かめる。よく反響する音を聞いて問題ないと頷いてから、彼は正面からでて駐車場を目指した。グラウンド以外は石畳というこの合宿所。土や芝生とは違いざらざらとした路面がずっと続く。
頭上からは真夏の日差しだ。様々な気力をじりじりと奪い、こんな日に運動をするなどばかばかしいと思えるほどの気温。それでも、トレーニングの真っ最中の証拠である声はあちらこちらから聞こえてくる。熱中症対策は、トレーナー陣に口うるさく行っているが、不幸にも自分の出番がないように、海人は祈った。
「暑い日だ。窓を開けて走るのが気持ちいいんだよな」
夏の日、相棒の声を聞きながら山道や峠を走ったことを思い出す。ずいぶんと懐かしい手触りに、彼の胸は詰まった。過去に口を塞がれた浅い呼吸のせいで息切れを起こしながら、数段の階段を上って駐車場へとたどり着く。
「まだ早かったかな」
数台の車両が止まっているが、動いている気配は全くない。基本的に、この合宿所へは学園のバスで来るものであるから、駐車場のスペースはガラガラだった。
いつまで待たされることになるのか、彼としては少々不安だった。木陰などほとんどないこのスペース。直射日光というものは人間に対して優しくない。どこが比較的暑くないか。アスファルトの照り返しよりこういう場合は芝生の方がよい。
合宿所へ続く石畳から一歩外れ、猫の額ほどの芝生に立つ。迂闊に動けば、斜面になっているので下に真っ逆さま。けがに気をつけろと言っている医者が怪我をするのは頂けない。
駐車場入り口近くの柵の前で立ち尽くす四十手前の男。文字に起こすと不審しか感じない表現になることに居心地の悪さを感じる。早く来てくれと願いながら燃えたように熱い髪の毛をかき回した。
そんな彼の願いは、割合早くに叶った。敷地内に、新しい音が入ってくる。ウマ娘の歓声やかけ声、人が歩く音などではない。もっと機械的で、規則的な振動。熱く高速の排気が外に吐き出される音と、ゴムが砂利を踏みつけてよじれる音。
「やっときたか」
彼の正面に現れた影が短くクラクションを鳴らす。手を海人が上げて答えると、その車は近くまで来てから止まった。ブレーキがディスクを掴むと、キィッと細い悲鳴が上がる。駐車枠にすっかりその体を納めた車両のエンジン音が止まり、ドアが開いて男が身をかがめながら降りてきた。
「よう」
「いきなり呼び出してどういうつもり? 先輩としては」
「悪かったよ。まあいろいろあって、な。待てばわかるさ」
「どういうことだ?」
いきなりの連絡を咎められた影貴は悪かったと思っているのか、駐車場入り口からはいってきた海人にむかって頭を下げた。その後頭を上げてから、サングラスの下で不審と不安を同時に浮かべた医者に向け、再度「だから待てって」とたしなめる。しかし、海人の胸中はその程度で払拭されるものではなく。
「私にも仕事というものがだな」
「わかってるよ」
「だいたい、何で業務車じゃないんだ?」
「それはもう持ってきてあるんだ」
指さす先には、確かに白いバンが止まっていた。しかし、ならなぜわざわざ自分の車を持ってきたのか。白く光を反射している影貴の愛車のまわりをぐるりと回りながら、海人は大きくため息をついては首を振っていた。
「しかし、TGRセリエスか」
「懐かしいだろ。パワーは海人が操ってたやつには敵わないけどな」
後ろに貼られた“TGR CELIUES”のロゴを年の割に手入れされた指がなぞる。離れてから、切り立った金属の手触りを彼は指先で反駁していた。
「そりゃ。アレはトップカテゴリのマシンだ。街で使うならこんくらいで十分だろ」
「二百七十二バリキは大体持て余すけどな」
好きで買ったんだろ? と返してから、ぼやける視界の中海人はしゃがみこんでマフラーに迷わず手ををかざした。ゆらりと陽炎が揺らめくほど、高い熱を持っている。その流れでタイヤにも触れ、そして最後にフロントへ回り込んで、白い車体の中でそこだけ黒光りするボンネットにその手を置いた。
厚い手のひらの皮膚を貫き、攻撃的な熱さが骨身に浸透を開始した。
「こういう山道だとちょうどいいって?」
「言わなくてもわかるだろうに」
日差しの下に晒されていたとは別種の熱を発する影貴のセリエスから離れ、海人は手をポケットに突っ込む。影貴の方には目をやらず、そのサングラスは大人しく止まっているセリエスに向けられていた。
「先輩はどう。好き? この車」
「ああ、もちろんだ」
なら良かったと言いたげな、ほんの僅かな笑顔。その瞬間、海人が若返っているような幻想に囚われた影貴は、目を擦ると愛車のボディに寄りかかった。
「あ、そういえばなんでここに呼んだかだけどな……」
「ん? 足音?」
種明かしをしようとした影貴の言葉を遮り、海人が駐車場の入口を振り返る。激しく切れた息と足をやっとの事で引きずる様な、お世辞にもしっかりしていると言えない足音。
しかしそのベースにあるのは、彼にとっては何回も何十回も、何百回と聞いた聞き馴染みのある足音だった。
「……セイウンスカイ。君は何をしてるんだ?」
「はぁ、はぁ……あっつ……ってぇ、トレーナーさん?」
暑さで惚けた瞳が一気に覚醒する。セイウンスカイの背中には一転、真冬のような寒気が駆け回っていた。
「まさか、影先輩と張り合ったとか?」
「うげっ」
「まあ、怒らないでやってくれ」
たしなめるように近づいたのは作業着姿の影貴。真正面から貫くようなサングラス越しの視線にも怯まず、肩に手を置いておちつけと繰り返していた。
セイウンスカイはもう既に疲労困憊で彼らの声を聞く余裕などなく、体操着のシャツの裾から風を送り込んで何とか体を冷やそうとする。きっとキングヘイローがいたらはしたないと言われるだろうが、一にも二にも彼女は暑かった。
「ウマ娘に無茶をさせたことについて申開きは?」
「なんも無いよ」
「転んだらどうするつもりだったんだ」
「もちろん危なそうだったらやめるつもりだったよ」
「そうは言ってもな」
未だ復活しないウマ娘に、海人が歩みよる。「ほら、おちつけ」と背中をさすりながら、息の調子を耳を澄ませて聞いていた。
「あー、はぁ。あっつ……ってかトレーナーさん。あまり近づかない方が」
「言ってる場合か」
「ほらあせくさいし」などと言ってジリジリ離れようとするセイウンスカイの手を掴み、息を整える作業を続けさせる。彼女は「いじわる……」などと嘯いていたが、こんな状態でリリースすることなど彼にはできやしなかった。
「落ち着いたか?」
「ま、まあ。それなりには」
だいぶ落ち着いてから解放され、そろりそろりと離れるセイウンスカイ。しかし、汗をぬぐえた訳ではなく彼女の首筋は汗で濡れ、白い光を反射していた。運動と太陽光で上気した頬。シルエットしか見えていない彼には、大まかな動きしか見えないが、盛んに首や頬を拭う動きを見て、ポケットに入っていたハンカチを差し出した。
「使う?」
「あー、うん……どうしようかな」
予想外の激しい走りで彼女の体は汗まみれ。特に代謝の激しいウマ娘であるので、白い体操服はあちこち体に張り付くほど。そんな中で差し出されたハンカチはセイウンスカイにとって救いだった。
少なくとも、この鬱陶しい顔と首周りの汗は拭えると喜ぼうとしたが、よく良く考えればこのハンカチは彼の私物。気心の知れた同性……キングヘイローやスペシャルウィークだったら喜び勇んでありがたく使わせてもらうが、あまり意識することは無いとはいえ海人は異性で年上だ。
「タオル無いんです?」
「取りに行けばあるぞ」
「なら……使わせてください」
しかし、全身を包む不快感に打ち勝つことは出来なかった。恐縮しながら、白く畳まれた布を受け取って首筋にはわせる。こんな小物までオゾンの匂いがすることに変な尊敬の念を抱きながら、顔まで一気に拭き上げてしまう。
「はー、ちょっとはスッキリした……」
「ならよかった」
顔周りの汗をぬぐうだけでもだいぶ不快感は軽減され、セイウンスカイは一息ついた。ズボンや靴の中、張り付くシャツはあまり変わっていないものの、彼女にとっては安心出来るようだった。
「じゃあ、また走ってきます」
「そうする? あとハンカチ返して」
「えー、洗って返しますよー。というか、汗のついたものは乙女的にNGです」
海人は手を差し出したままキョトンと動きを止めている。しばらくしてからようやく納得したようで、「そうか。ならそうしてくれ」と言うと手を引っこめる。しかし、彼の中に別にタオルは普通に渡してくるよなと言う疑問があったのは事実だった。
「じゃあまた行ってきます」
「ああ、わかった」
無茶はするなよと付け足された言葉に、彼女は駐車場の入口を見ながら答えた。長袖長ズボンという格好のトレーナーを目に入れたくなかったのもあれば、また決意をしたかったのもある。上からも下からも熱に攻撃されているなかで、もう明らかに暑い姿の彼は見るに堪えなかった。
「道を覚えてから速度をあげること。そして無理はしないこと 」
「はーい」
「そして。先輩はウマ娘を煽ろうと思わないこと」
「分かった。もうしない」
顎をクイッと上げた彼から放たれる声は、ほのかに硬質な響きを帯びていた。叩かれたら痛そうで、彼女は尻尾を畳んでその場から離れたくなる。じわりじわりと距離をとり、精神的には彼の姿が陽炎に霞み始めたところで、靴紐を彼女は結び直した。
「あとセイウンスカイ」
「な、なんでしょー?」
探知範囲から外れたと安堵していたところに、彼の呼びかけはとても心臓に悪かった。跳ねる心臓をなんとか落ち着かせ、立ち上がっては海人のサングラスをじっと見つめる。
「熱中症になるなよ。何かあったらすぐ連絡すること」
「は、はーい」
「誰かに煽られたら通報な」
「そうします」
サングラスの視線が巡って車の持ち主の男に突き刺さると、その男は気まずそうに目をそらす。海人はそれに対して何も言わず、白杖を突いて仁王立ちしていた。呆れなのか怒りなのか、それとも危惧なのか。彼女に、彼の胸中は全く分からない。
「あー、また行ってきます?」
「ああ、行ってらっしゃい」
彼女の言葉を受け、海人の顔が緩む。薄く確かな笑顔を背中に、セイウンスカイはまたロードワークに向かっていった。遠ざかる青色の足音を見送ってから、改めて影貴を振り返った。
「で、セイウンスカイはどう見えた?」
「素人の意見だがいいのか?」
「何言ってんだ。プロだろ?」
装蹄師に求められるスキルだろ? というぐうの音も出ない正論を叩きつけられて影貴は黙り込んだ。顎に手を当て、先程までずっとルームミラーに写っていたウマ娘の走る姿を思い出す。セイウンスカイというランナーが、どんなクセがあるか。どんな特長があるか。
「ふむ。彼女だが、荷重……重心移動が抜群にうまい印象だ」
「具体的には?」
「コーナーは言うまでもないが、ダービーの前から続けてた坂路が効いたんじゃないか? アップダウンに関しても重心を上手く移して、負担を少なくしてる」
コーナーで重心を移動させて、旋回中のスピードダウンを極力少なくするのは基本であり、大なり小なりみな意識せずともやっていること。それを、どこまで意識してやれるか。倒し過ぎればスリップしてクラッシュする。倒さなければスピードダウン。
「そこんところの見極めが上手いな……慣れてくれば、だけど」
「ほう?」
「最初の方はだいぶセーブして走ってたよ。俺が前について、カーブがどっちか教えてやってから一気にスピードアップした」
影貴の指摘を受け、海人は頭上から頭皮を焼く光も忘れて顔を伏せる。それが弱点になり得るかどうか。実戦において、それが彼女にとって不利益になるか。
「まあ分かった。頭の片隅には入れておいた方がいいな」
「おうよ。とはいえ、初めて走る道でアレなら大したもんさ」
彼の暫定の結論は『あまり不利益にならない』だった。少なくとも、《アルゴル》にいるうちには、リサーチとミーティング無しに走らせることはしなければ良い。ごく単純ながらも効果的な解決法……あくまで暫定だが、を思い浮かべ、影貴の言葉に応じる。
「そらな。どんなに優れたドライバーでも、初見の道は全開では走れん」
「そうだったそうだった。レッキね……釈迦に説法だったか」
サーキットではなくて道という所に、結局こいつの前職が透けて見えるよなと思いながらも、「失敬失敬」の意味で片手を立てる影貴。そのジェスチャーを、海人はちらりと視線を寄越してから無視した。
「他には?」
「あー、他ねぇ……コーナーの切り返し付近で挙動が乱れるとか」
「Gの変化には弱い?」
「多分ね」
その他にも何個か影貴は気づいた点を上げたが、それは十分にトレーニングや蹄鉄で吸収しきれるものであると分かった。それだけでも十分な収穫で、海人は友人に深く深く感謝した。
「恩に着るよ」
「気にすんな。仕事だ……あと、彼女なんだが、再加速はちょっと鈍めだ」
「ん。まあ何とかなるかねぇ……?」
再加速という言葉を、ある程度速度を乗せた状態からスピードをさらにあげる、と読み替えるのなら、スパートについて言っていることになるだろうか。
しかし、彼女にスペシャルウィークやキングヘイローのような『著しい瞬発力』が不足しているのは元からわかりきっていたこと。それをカバーするための逃げであり、作戦だ。
「これくらいかね。俺が気付いたのは」
「本当に感謝する」
「気にすんな。今度礼にパーツでも見繕ってもらおうかね?」
止まったセリエスのボンネットをコツコツ叩いて装蹄師が笑う。海人は表情を変えず、「昔の知識でよかったらな」と答えてから視線を逸らしてしまった。
それに、「もうあちこちいじってるもんだと思ってたよ」と付け足す。
「いやいや。折角なら開発ドライバーに見繕ってもらいたくてな」
「なら尚更純正でいいって言うね」
ボンネットから大きく張り出したフェンダー、黒いミラーに、三ドアなので前後に長いドア。後ろに行くに従い、人が乗るには適さないほどに下がるルーフ。その後端に、覆い被さるように付くウイング。
どれもこれも、久方ぶりの懐かしい手触りだった。
「こいつも随分と苦労したんだぞ」
ドライカーボンで作られたウイング拳で叩けば、文字通り乾いた高い音が返ってくる。目を閉じれば、苦労のひとつまでありありと思い出すことができるのだ。
「おい。お前、表情が……」
「あ? なんかなってるか?」
海人の眉間に浮かぶシワ。深く深く刻まれたそこに流れ落ちるねばついた汗。ピクピクと痙攣する頬。
「何。熱中症かもな……」
どこか浮ついたような反応をしてから、彼は白いセリエスから離れた。おぼつかないような足取りに影貴は歩み寄ろうとしたが、右手1本で制止される。
「悪いね。戻るよ」
「ああ、分かった」
「夜には店開きするんだろ? ならまた」
「おうよ」
足を引きずるような動作で建物の中へ向かっていく海人。その丸まった背中が建物の中に消えるまで、影貴はずっと白い色彩を見つめ続けている。
「やっぱり、まだ立ち直れんよな」
たった一言残し、彼はセリエスに乗り込んでエンジンをかける。腹に響くエキゾーストを残しながら、彼の車は駐車場から走り去った。
アスファルトには未だに、強い日差しが降り注いでいる。