トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
注文を取った女将が厨房に消えてから、
「右堂トレーナー。ダービーは……残念でした」
神妙に口を開いた老人の横で、セイウンスカイが身を固くする。彼女の中で消化はしきったはずだが、外から言われるのにはまだ慣れていなかった。
結果は、既にこの場にいる全員が知っている。今更口に出しても変わらないし、何かが好転する訳でもない。セイウンスカイというウマ娘の経歴に刻まれた、何個目かの「一番」以外の数字。
「確かに、惜しくも及ばなかったのは事実です。しかしです右堂トレーナー。おひとつお聞かせ願いたい」
「なんでしょう?」
「私の孫は。全力でしたか?」
沈黙が場を支配する。机に伏せていたセイウンスカイの動きが止まる。そして、折りたたまれていたはずの耳が、敵を警戒するかのようにピンと立てられた。
「ええ。彼女は全力でした。誰がなんと言おうと。持てる全てでした」
話し出してしまえば迷わず吐き出してから、しかしそれでも彼の表情は全く柔らかくならない。未だに棘付きの重りを抱え、血を流している。
「なら、良かった……ええ」
「そうですね……私の力が足りず」
海人の声色は、自らをヤスリで削るような。そんな痛みに満ちていた。何とか無理やり声を絞り出しては体の中を傷つける。
セイウンスカイは弾かれたように顔を上げ、斜向かいの男の顔色をまじまじと伺った。サングラスに押し込められた奥の表情はやはり分からず、固唾を飲んで続きの言葉を待つしかない。
「いえいえ。そんなことは無いですよ……他ならぬ私の孫の事です。出し切ったのは、よく分かりましたから」
薫一としても、孫娘が負けたのは悔しかったし悲しかった。しかしそれで、海人を責める薫一ではない。勝ち続けられないことは、彼もよく知っていた。少なくとも、海人の倍程度は生きているのだから酸いも甘いもかみ分け切っている。だから、責めてないと意志を示した。
「ありがとうございます」
それでも、海人の表情は固くなったままだ。家族に対して申し訳ないという感情が未だに胸の中に重りとして残っていた。
「しかし、彼女のせいでは無いのなら。それこそ、私の……」
「もう!」
もうやめてくれ、といきなり机を叩いたのはセイウンスカイだ。避けては通れない話題なのはよく理解しているが、もっと明るい話をして欲しいと言う思い。
「トレーナーさん。もっと明るい話しよう? じいちゃんも悔しがってくれるのは嬉しいけどさ」
何を思って祖父がいきなりここまで来たのかはイマイチよく分かっていなかったが、少なくとも、文句を言うためでは無いはずだった。お店の人に申し訳ないと思いながらも、男二人を睥睨するウマ娘。
「そう、だったな。すまない」
その視線が伝わったのかは定かでは無いが、少なくとも声の調子だけで自分のの気持ちは伝わったと信じたかった。そのままじっと。自らのトレーナーの様子を見守る。彼は、怒られた子供のようにも見える。バツが悪そうに言い訳や逃げ場を探している。
「ごめんなさい。言いすぎちゃった」
しばらく経ってから我に返って、セイウンスカイはお茶を口に含んだ。自分だけは、もっと理性的になるべきだったという後悔。運ばれてから随分と放置された緑茶は、猫舌の彼女がすんなり飲めるくらいになってしまっていた。風味も飛んでしまい、ただ舌に苦みを伝えてくる液体。
また、誰も話さない沈黙。何度も何度も、彼は黙り込む。
「お待たせしました」
と、女将が注文した寿司を持ってきた。薫一は特上にぎり、海人とセイウンスカイは上海鮮丼。
「食べましょうか。右堂トレーナー」
互い違いに口に出したいただきますという言葉は、今の三人を端的に表している。同じところを向きに来たはずなのに、てんでバラバラ。特に、海人が遅れている。
どうしてこうなったのか、セイウンスカイは激しく自問自答していた。自分が負けたのが悪いのか、彼をここに連れてきたのが悪いのか。それとも、彼女の祖父が来たのが悪いのか。そのどれも悪くないと、彼女は思いたい。
「ねえじいちゃん……」
なんとか話題を逸らせないか。孫の縋るような視線の意味を十まで理解し、確かに頷いてみせる。出さなくていい話題を改めて切り出したという、反省と贖罪も込みの動き。
向かいに座る男は静かに米と刺身を口に運んでいた。薫一にとって、サングラスの向こうに押し込められた海人の感情を目で確かめることは難しい。しかし、まとう空気はよくわかる。
「そうでした。右堂トレーナー。私は、スカイのいつもの様子を聞きたかったのです」
せめて和らいでほしいと新たな話題を口にする。この重苦しい空気が変わってほしいと。
「いつもの様子、ですか」
ハッと箸を置き、顔を持ち上げた海人の雰囲気が少しばかり変わる。ひとまず安心をして、薫一はセイウンスカイへ「どうだ?」とばかりに視線を向けた。彼女は祖父を盗み見るような動きでわずかなアイコンタクトをとり、「じいちゃんありがと」と小声で感謝を述べる。その声は、また明るくなっていた。
「気にするんじゃない」
これまた小声で答えながら、鷹揚に頷く。その耳は海人の答えを待つ。何も持たず、机の上で握りしめられていた男の拳が開かれ、くしゃくしゃの紙のように丸まっていた背中が伸びる。立ち上る酢の香りを大きく吸い込み、彼はゆっくりと息を吐き出した。
「普段、ですか」
「ええ。学園でどのように過ごしているのか。右堂トレーナーが聞いたままを教えてほしいのです」
「そうですね。彼女は……自由に学園生活を楽しんでいるようです」
いきなり放たれた一言にセイウンスカイはむせた。もっと良い言い方があるのではないかと烈火……とまでは行かないが抗議したくなる。机を叩いて、座布団を後ろにはねのけて立ち上がらなかったことを褒めてほしいと思いながら、なんとか続きを聞く。
「毎日、とても楽しそうです。友人の方もたくさんいますし、彼女を慕う後輩もいます」
海人は、決して多く知っているとは言えない交友関係を引っ張り出して答えた。そもそも学園で会っても誰と一緒にいるかはイマイチ分からないのである。
「私は、授業でどうとかは分からないですが。たまにお昼に誘われることがありますが、その時も、周りには沢山のご友人がいますよ」
「ほう。一緒に昼を」
「じいちゃんそこ突っ込むところじゃないよ」
海人の発言にセイウンスカイは急に体温が下がる感覚を味わっていた。エスコートした方が安全だとか、いつも医務室から出てこないから連れ出しているのだとか言い訳を口の中で用意する。昔気質な祖父なら、「嫁入り前のスカイが……」などと言いかねないと思ったのである。
なぜかカラカラに乾き始めた口に、冷めた緑茶を流し込む。頼むから早く何か言ってと心の中で命乞いをする羽虫のごとく手をすりあわせていた。
「……迷惑をかけたりしてないですよね」
「もちろんです。むしろ、助かっていることの方が多いですから」
祖父に疑われたことはややショックだったものの、穏当な話題となったことに全身の力を抜いた。そして置いていた箸をまたとり、私は話題を聞いておりませんという雰囲気を出しながら艶のある刺身を酢飯と一緒に口の中へ放る。
咀嚼音がするものを食べているわけでもないのに、彼女はゆっくりゆっくりと口を動かしていた。
「レース場に出かけた時、人混みを避けるようにルートを考えたりしてくれますし、どうしようもないときは前に立ってエスコートすらしてくれるのです。面倒くさいに違いないことを。いやな顔一つせずというのは、自意識過剰かもしれませんが」
「そうでしたか。おお、偉いな、スカイ」
「そうかな? 困ってたら助けるのは当然だし、レースのことでたっくさん助けてもらってるのに……勝つ以外でも恩返したいなって」
海の幸を飲み下してから、セイウンスカイはじっとどんぶりの中身を見つめながらの声。トレーナーとして、医者として。彼女のレースのために粉骨砕身するこの男の力になりたいというのは、いつからかセイウンスカイが抱く願いだった。トレーニングのプラン、体調の管理、スポンサーとの折衝。ハンディキャップを背負いながらも働いているのだから、日常生活においては、少しでも負担を減らしたいと。
「だから、そんなに偉くないと思うよ?」
「いいやスカイ。困ってる人に手を差し伸べられるのは中々できることじゃない」
薫一からの言葉なら、と素直に受け取っておく。しかしやはり、彼女の中では褒められるほどのことではないのだ。その流麗な眉を密かに寄せて考えるが、やはり結論は変わらなかった。
「いつも助けられてます。それに、自己管理がきちんとできています。私がトレーニングを任せても、ちゃんとそれをこなして帰ってきてくれますから」
「手のかからない、と言うのも良くないのかもしれませんが……そこは変わってないようです。昔から」
その言葉に、セイウンスカイの記憶が刺激される。かつて、母親と共に引っ越してきた祖父母の家。暖かく迎えてくれたは良いが、母は仕事。祖父母も農地へ出ていて、一人残された家。暗く、静か。そして狭い。帰ってきた大人たちは、全員疲れていた。全員忙しいから、できる限り手のかからないように。困らせないように……。干支が半分回る位前の痛みによって熱くなる頭から、熱を放射するべく耳を忙しなく動かした。
海人と薫一はその動きに気づいていない。大丈夫。別に、自分で決めて実行に移したことでは無いかと言い聞かせては、呼吸を繰り返して気持ちを鎮める。
「トレーニングだとよく物事をわかってくれるのですが、それ以外だと何というか……」
「なんというか?」
「年相応なところが見えるのは、安心する、と言った感じでしょうか」
薄い唇の片一方で彼は小さく笑った。彼の印象では、セイウンスカイというウマ娘は常に大人びていた。トレーニングでも目標のメニューをこなし、何かあれば迷わず伝えてくる。レースでも同じように冷静で策を講じ、そして見事に勝利を掴み取ってみせたのだ。
少しばかり聞いた、彼女の友人とのやり取りも会話に耳をそばだてる行儀の悪さを恥ながらもそう。出かけた時の、出かけた時のエスコートもそう。常に落ち着いているし、色々なことを考えて動いてくれる。
「無茶なわがままはありませんし。いつも世話になってることに比べたら……ええ」
イマイチ食べ進める気にならず、机の稜線の向こうに見え隠れするセリカの耳を彼女はじっと見つめていた。会話に耳をそばだてる行儀の悪さを恥ながらも、酢飯が乾燥するのにも構わなかった。
「本当に、私が情けない限りですよ。教えて支えるべきセイウンスカイさんに支えられているのですから」
薫一の視線から逃げるように顔を背けて、表情のひとつすら彼は見せなかった。感情が様々入り交じり、まともに顔を向けれないという訳だ。
指導者として、大人として、男として頼りなさすぎる人間が訳知り顔で彼女に指導を飛ばしているという現実を直視し、自分を殴りつけたくなる。余計な負担というのはアスリートの大敵だ。その原因が自分とは。チームにウマ娘が来る前には想像もしなかったことを見せつけられ、浅慮の極みを突きつけられる。
「はは。迷惑かけてないかと心配しておりましたが、感謝されるとは思いませんでしたよ」
「本当に。いつもありがとう……セイウンスカイ」
いきなり言葉に襲いかかられた彼女はおののきつつ手を眼前で激しく振る。だからそんな大したことはしてないんだと改めて説明したが、今度は薫一に撫でられてしまった。わしわしとかなり乱暴に髪の毛と耳をもみくちゃにされる。頭がぐらぐらと揺れてせっかくトレーニングの後、シャワーを浴びてセットした髪の毛がくしゃくしゃになってしまった。いつもそんなに気を使ってないでしょうというのは禁句だ。
「ちょっ! じいちゃん!」
人前でやらないでくれとか食べ物の前でやらないでくれなど抗議の文面を何個か考える。それが結実する前に、残念ながら薫一のごつごつとした手は離れていった。離れたら離れで残念に思う難儀な自分を外に出さないようにしながら、セイウンスカイは白群の芦毛に指をくぐらせる。
「もう。いきなりはやめてよ」
「悪かった悪かった」
「あと、何度も言うけど別に大したことじゃないから。トレーナーさんは私を助ける。なら、私が逆をやるのは当たり前じゃない?」
貸し借り無しとまでは言わないが、返せるものは返したい。
「それで助かってるんだから、感謝のひとつくらいさせてほしいよ」
「仕方ないなぁ」
首をふるふる振りながら、こっそりと表情を伺う。手入れこそされているが年相応という評価から抜け出せない口元は、先ほどよりも上向いているように見えた。サングラスの奥に控える瞳については残念ながらよくわからない。しかし、やはり先ほどよりもしっかりした土台に立っているのではないか。
「しかし、これはいつもの、といえるのでしょうか?」
「本人から聞けないことを聞けるだけで、十分ですよ」
「ならよかった」
酷く顔が崩れて、彼はそれがこぼれないように下を向いてサングラスを抑えた。続いて、口元から漏れたのはだらしのない笑い声。いつもの様子とは違う調子に肝が冷える思いがしたセイウンスカイだが、彼はしばらくしてから顔をまた上げだ。そこにあったのはいつもの表情。
「何でしょうね。どうやら私は変な緊張をしていたようです」
「うん。わかってた」
「仕方ないことですよ。右堂トレーナー」
仕方ないと言ってくれたことは、彼にとってありがたかった。保護者とこうして話すのは初めてで、うまくできているかというのは常に不安だった。会う前からナイーブだったのは否定できない。心に落ちたその不安が、ずっと感情に影響を与えていたようだった。
「まあトレーナーさんも立ち直ったし。早く食べよう。お魚に失礼だよ?」
「おお、そうだったな。早く食べましょう。右堂トレーナー」
「ええ。そうしますか」
口の中に張り付く水分の飛んだ刺身を楽しみながら、海人は意外なほど早く箸を置いた。ごちそうさまと食事を終えた手が何かを探す。「あれ? どこだ?」と惑う彼を発見した彼女は、身を乗り出しておしぼりを差し出した。
「ほら。ここにあるから」
「お、ありがとう。助かったよ」
やっと出てきたいつもの笑顔に大きく胸の中の空気を吐き出し、セイウンスカイは丼の中身と向き合った。薫一の方はというともうとっくに食べ終わっており、爪楊枝で歯の掃除にかかっていた。
「おいしかったです。ごちそうさまでした」
三人とも中身が空になったところで女将がやってきてお茶を置いていくと同時に、食器を片付けた。さっきまでのぬるいを通り過ぎたお茶と違う熱さが喉を潤すだろうな、という想像はしてみるが、セイウンスカイは全くそれを飲めない。唇の先に触れることもない。つまり立ち向かうことすらできなかった。
「熱いかスカイ」
「いやいや! こんなのをすぐ飲めるじいちゃんがおかしいんだよ」
必死に冷ます孫の横で、祖父が喉を鳴らしながら熱いお茶を飲み干す。心の底から信じられないものを見たという目をしたセイウンスカイの手元にはまだ湯気を立てる湯飲みがある。いくら息を吹きかけても中の液体の温度が下がることはなく、彼女は恨めしそうに手元の液体に鴨跖草の視線を突き刺していた。その向かいでは海人がちびりちびりと湯飲みを傾けつつ、セリカの毛並みを優しくなでる。
「トレーナーさんもよく飲めるよね」
「熱いけどまあ、飲めないほどじゃない」
「やせ我慢じゃないの?」
一向に冷めない温度に彼女は諦めてお冷やをもらうと決心する。女将はすぐに湯飲みを出してくれ、セイウンスカイの喉は恵みの水分に大いに喜び、一気に飲み干してしまった。あっという間に空になった陶器がテーブルに置かれる。
「おいしかったか」
「うん。ありがとじいちゃん」
孫の満面に喜ぶ顔を見て、くしゃくしゃっと刻まれたしわがより深くなり薫一は心の底から破顔していた。海人は向かいの祖父孫のやりとりを聞き、子供の頃を思い出す。一年と少しセイウンスカイと過ごしてきたが、私もこんな風に心から安らかな声をしていたのかと過去に思いをはせつつ、今まで聞いたことのない彼女の声を好ましいと思った。
「ああ、そうだ右堂トレーナー。皐月賞はありがとうございました。感動してしまいましたよ」
「それは彼女に言ってください。私は準備しかしていませんよ」
「それはもう言われたもん。でもさ、一人じゃとれなかったでしょ?」
セイウンスカイの言葉ももっともだと頷く。海人一人では当たり前だが、セイウンスカイ一人でも皐月賞はとれなかったという言葉。チーム《アルゴル》だから一冠目を取れたのだと言ってくれるのは、非常に代えがたいものだ。トレーナーをやってて、一番報われたと感じる瞬間。
「本当に、右堂トレーナーのチームで良かったと考えておりますよ」
「はは。ありがとうございます」
「そうそう。トレーナーさんはすごいんだからね」
ぐいっとセイウンスカイは胸を反らし、はす向かいにいる男を誇った。偶然といって良い出会いからお互いを知り、契約を結んでやってきた。デビュー前にもデビュー後にもたくさんのことがあり、もうすべてを覚えているかと言われたら彼も彼女も自信がないほどだ。
代わりに、彼はこの言葉を贈ることにした。ただ一つの、はっきりとしたこと。
「私も、彼女を誇りに思います」
「そうですか……これからも、孫をよろしくお願いします」
「はい。全力でやらせてもらいます」
頭を下げた薫一のシルエットへ、海人も同じ動作で答える。そのままどちらも頭を上げることはなく。セイウンスカイがあきれてしまうほどの空間がここにできあがっていた。「もう! いつまで頭下げてるの?」彼女の一声がなければ、二人は永遠に頭を下げ続けていただろう。そして、今度はゆっくりと姿勢が戻る。示し合わせたわけではないのに全く同じ動きのトレーナーと祖父のシンクロぶりに、ほとほと呆れかえるしかない。
「さて。帰りましょうか」
その余韻の中、薫一が伝票を持って立ち上がる。海人も伝票に手を伸ばしたが、見えない中では圧倒的に不利だ。
「右堂トレーナー。ここは私に払わせていただけませんか?」
「いや、しかし……」
「私としては、スカイの様子を聞けただけで十分ですから。そのお礼、ということで」
社会人としてどうするべきかと悩む。さすがに、初対面の薫一に払わせるわけにはいかないと思うが、そこまで言われるとおおっぴらに断りづらい。
「……わかりました。ではお言葉に甘えても?」
「ありがと。じいちゃん」
「右堂トレーナーは帰る準備をなさってください。スカイ、ちゃんと手伝うんだぞ」
「言われなくてもやるよ」
二、三言女将と話して支払いをする薫一を横目に、セイウンスカイが近づいてきて靴を出してくれる。いつもの革靴に足を通してセリカを呼べば、あっという間に海人は帰る準備万端だ。ハーネスのセリカとそれを握る彼。セイウンスカイは上から下まで異常がないことを見、忘れ物がないかもよく確かめる。
おつりを持ってくる女将を待つさなか、そんな風に海人の手伝いを手慣れた様子でこなす孫の姿は、ともすれば皐月賞を勝ったことよりも薫一には誇らしく見えた。比べてはいけないことかもしれないが、自らの孫が競技者だけでなく人間としても素晴らしく成長してくれたことを現実に確かめられ、これは婆さんと娘にも話してやらねばと楽しみに思う。
ごちそうさまでした。三人の声がそれぞれに厨房に投げかけられ、海人は暖簾をくぐって外に出た。その外では前に立っていたセイウンスカイが祖父をつついている。
「ちょっとじいちゃん。トレーナーさん出てきたよ……何見てんの?」
「いや何。珍しい車種があってな」
店に入る前はまだ夕方といえる時間だったが、現在日はすっかり沈んでいる。港町の商店街は夜の足音が大きくなるにつれ営業時間が過ぎた店も多く、わずかな街灯がちらほらと古ぼけた石畳を照らしているに過ぎなかった。
「西川さん。本日はありがとうございました」
「いやいや。私もとても楽しかったです」
その中で薫一の姿を捉えるのには苦労したが、海人はしっかりと頭を下げる。大人として、食事を奢ってもらったことに感謝しない、今日の感謝を述べないという不届き者にはなりたくなかったのだ。
そんな彼の肩を叩き、頭を上げさせた薫一の次は、セイウンスカイに向かっていた。
「スカイ。これからも右堂トレーナーの言うことをよく聞くんだぞ」
「言われなくても。でも、がんばるよ」
「ああ。またスカイが走る姿が楽しみだ」
満面の笑みで、孫の頭をまた撫でくる薫一。歳の通りにシワが刻まれた、歴史が刻まれたごつごつとした右手が、ぐりぐりと彼女の芦毛を掻き回していた。「もう!」とか「やめてよー」と身をくねらせるが、彼女は本気で逃げている訳では無い。ひとしきりの戯れが終わると、いよいよもって薫一とはお別れの時間だった。
「あ、そろそろバスだよ」
「そうか。なら早く行かないとね」
本日二度目の乱れた髪の毛を直しながら、彼女は海人に促した。乗る予定だった最終バスがそろそろ出るくらいの時間。さすがに、これ以上引き伸ばすことは出来なかった。
「では西川さん。またお会いしましょう」
「ええ。医者の不養生にならんように、気をつけてください。右堂トレーナー」
「だいじょーぶだって。私がちゃーんと見ておくしね」
「スカイも。土産話を楽しみにしてるからな」
「はーい。お母さんにもよろしく言っといて。元気だって」
薫一はしっかりと孫の言葉を受け取り頷いた。ちゃんと言葉が届いたことを確認したセイウンスカイは、今度こそ海人を促した。夕方に来た道を二人と一匹は引き返す。 段々と小さくなり、夜の暗さに紛れていく祖父に対して、セイウンスカイは何度も振り返って手を振った。見えなくなるまで何回も手を振り、その度に薫一が振り返す。
その様子は海人にも分かっていた。体をくるりと回し、足を器用に踏み変えては前後を入れ替えて歩き続ける。その度に尻尾が空を切って音を立てる。 尻尾の音というのは、セリカのものはよく聞いていた。家でおやつをあげるとか、ブラッシングをするとか。だが、彼女の音はあまり聞いたことがなかった。それだけ、溢れる気持ちが大きいという証拠。
「途中情けないところを見せたな」
彼女がくるくる回らなくなってから、海人は重々しく口を開いた。隣を歩き、そして鼻歌を空中に逃がしていたセイウンスカイは、陽気なメロディを止めると横顔をみあげる。
「なんです藪から棒に」
「言葉通りだ。ちょっと考えが足りなかったかね」
「後悔してるんですか?」
「まあそんなところだ」
まばらな街灯によって浮かび上がるシルエットは、笑ってなどいなかった。その顔に、表情はあまり見えなかった。じっと前を見つめて、口はぎゅっと真一文字。
敢えて言葉を付けるなら、『決意』。
「なら、勝ってチャラにしましょ。それくらいやっちゃえば、じいちゃんも忘れちゃいますよ」
「そういうものかね」
「じいちゃんの孫である私が肯定するんですよ?」
ここでようやく、両方の口角が下がる。への字に曲げられた口は不満や懸念をよく表している。サングラスの奥の目も、彼女から見えないがきっと眉間に深く谷間を作っては閉じられているはず、と考えていた。むー、とひととおり呻いてから、ポツリと呟く。
「君を信じるかな」
「保証しますよ……ああ、菊花賞で負けられない理由が増えちゃったな」
「誠に面目ないね」
「まあ、トレーナーさんとかじいちゃんの期待はとっくに背負ってるからさ。いくら増えてもあんまり変わらないかなー、なんて」
ちゃんと私を見てくれている人がいる。そう再び実感できたことは、セイウンスカイに新たな力をもたらしていた。今すぐ走りたいかと言われると……あまりそうではないが、明日からのトレーニング頑張ろうという位の気持ち。
「そうか。なら私も気合いを入れないとな」
ようやく、口の端だけに感情が戻る。とは言っても、海人がうかべたのは痙攣とも見間違えるような程度のもので、それが笑顔かどうかは、セイウンスカイにもよく分からなかった。しかし、笑顔ということにしておく。
「またちゃんと見ててね」
「見るのは難しいなぁ」
「そうでした」
イマイチ締まらない会話は、道路からかすかに聞こえるエンジン音にかき消された。幸いにも、バス停はもう目の前。
「あ。バス来ましたよ」
「みたいだな」
「言い直しますけど、またちゃんと聞いててくれると……嬉しいな。うん」
バスが滑り込んできて、扉を開ける。セイウンスカイは自分の思いを胸で膨らませてからステップを上がって、手を差し出す。海人の視界に見えていたのは後光が差す彼女の姿で、レベルは全く違うが皐月賞で勝った時の影を思い出していた。
「もちろんだとも。よく聞いているさ」
答えてから海人よりふた周りは小さなそれに手を重ね、彼もステップを上がって冷房のよくきいた車内に降り立つ。そのまま席まで共に立ち、腰を下ろした。
「発車します」
たった二人と一匹だけを乗せたバスは、扉を騒がしく閉めると車体を発進させる。ガタガタと揺れる車内で、セイウンスカイは海人の答えをじっと思い返していた。
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また、評価をくださいました英泉氏、skylight氏ありがとうございました!
少しでも面白いと思われたら、この機会に是非、感想、評価やお気に入りをして頂けるととても嬉しいです。
では、次回お会いしましょう。