トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
「はい。今日のトレーニングはここまでだな」
「あー、終わった終わった……」
太陽がいちばん高くに来てから少し経つ。今度は気温がいちばん上がる時間だ。セイウンスカイはよろよろと海人のそばの芝生に腰を下ろすと、無造作に顔を仰いだ。昼下がりといういちばん強い日差しの中、右堂海人という男で出来た影で涼もうとしている。
「まだ追いつけなさそうだな」
手元に収まるサイズの手帳の白いページをなぞりながら、海人の声は楽しげだ。一切の防護策無く日差しの下へ立っているのに平常運転なのを、彼女は羨ましく思った。そして羨ましく思う対象と言えば、もう一人いたりする。少し離れた場所で、走りきった爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んでいるウマ娘。萱草色の真っ直ぐ伸びた鹿毛を持つ彼女は、サイレンススズカと言った。
「いやー、スズカ先輩やっぱり早すぎだよ……二千で敵わないってさ、皐月賞勝者の称号を返上した方がいいかもね。いやホントに」
「そんなことしてみろ。君はただの根無し草だぞ」
「うーん。それも困るな」
「まあしかし、サイレンススズカさんには中々敵わないと思うよ。素質もあるけど、リョウ先輩のトレーニングのお陰でもあるはずだ。体に負担をかけないように、でも実力は伸ばす」
とは言え、ある程度の負荷がないと意味の無いトレーニングもある。普段遅くしか走っていないと本番でも遅くしか走れないものであり、勝つためには早く走れなければいけない。
「練習からあの速さ。どこまで伸びるんだろうね」
サイレンススズカとセイウンスカイは、海人の監督のもと何本か併走を行っていた。一本事に双方疲労を測定し、危険な状態になったらやめる。幸いにも、今日は目標本数をクリアすることが出来たが、用心の体勢は緩めない。
「色んな人が注目するのもむべなるかな」
「……というか、あの人何してるの?」
「まあ多分ルーティンのようなものだ。しばらくしたらこっち来る、と思う」
その言葉は正解で、五分ほどの期間をおいてサイレンススズカはこちらにやってきた。走った後の動悸や高揚をまとめて鎮めてきたのか、息ひとつ切らしていない。地面にへたり混んで疲労困憊なセイウンスカイと比べると何が違いとしてあるか彼としては気になる。
「お疲れ様でした。タイムは期待しないでというのは前に申し上げた通りですが、凄いですね。何本も走ってもタイムにブレがない」
「ありがとうございます」
感心する海人の言葉に、サイレンススズカは小さく首を縦に振った。足首をくるりと回し、自分で自分の足を確かめる素振りを見せる。
「調子はいかがです?」
「はい。問題ないです」
「それは良かった」
リョウへの報告のメールの文面を手帳に書き起こす。勿論点字で、サイレンススズカはその光景が不思議なようでじっと視線を注いでいた。セイウンスカイとしては全く珍しくない光景であるし、むしろよく見ている。
点筆器という定規のようなものを当てながら、ザクザクと遠慮なく針を指しているように見える。
「あ、スズカ先輩気になります?」
「ええ……すごいな、と思って」
「ですよねぇ。しかも点字って読むのは反対側ですからね」
「……確かにそうよね」
紙の裏を突いて紙を盛り上げ点を作る関係上、海人は左から右に書く横書きの文章を、右から左に。しかも文字は左右を反転して書かなければいけないのだ。二人とも脳裏に浮かぶのは「そんなことをすれば頭がこんがらがってしまう」ということばかり。密やかに尊敬を獲得した彼は、何となくいつもと違う空気に困惑するしか無かった。
「何かあった?」
「いいえ。すごいものを見たなーってだけです」
「どうだか。さて、サイレンススズカさん。本日もお疲れ様でした」
疑念を大盛りにした調子で始まった言葉だったが、サイレンススズカに向けられた途端に色が反転する。電話をする母親のような、そもそも声のトーンの根元からして違うのだ。こんな声色向けられたことないなぁ、と彼女は思いながら、サイレンススズカと海人がする話を聞いていた。
「セイウンスカイとの併走はいかがでしたか?」
「ええと……どんどん速くなってて、私も負けられないな、と」
「なるほど。それは光栄です……さて。改めて、お身体の調子は? 些細なことでも結構です」
そう問われたサイレンススズカは、自分の脚にすっと視線を落としてから口元に手を当てては考えた。それから言葉を選ぶ雰囲気を醸し出しながらポツリポツリと所感を述べた。
「そうですね……脚、に特に違和感はないです。気になる事……」
腰を捻ったり、腕を回したり、肩を上げ下げしたり。体の各部を順番に動かしてから、またまたうーんと考える。どこかに違和感でもあるのか深く深く、長く長く目を閉じていた。
「えーと、ちょっと腰に……コリがあると言うか」
「ほう。姿勢の影響でしょうかね。いつからでしょう」
「ここ三日くらい……です」
三日くらいということなら、だいたいセイウンスカイとの併走を始めたくらいの期間から。それだけ本気で走っているということだろう。少なくとも少し前は、こんな不調を訴えることもなかったからそれだけ彼女が進化しているということでもあるか。
「なら、リョウ先輩と相談して来るか決めてください。私はいつでもいいですよ」
「はい。そうします」
その他にも三、四点の注意点や明日からの予定を話し、サイレンススズカは自分のチームに戻って行った。ゆったりと歩くその後ろ姿を見送ったセイウンスカイは首元に掛けたタオルで頭を覆うと、傍らに置いていたボトルからドリンクを流し込む。
「あぁ〜暑いですね」
「そりゃ外だしな」
それからもしばらく彼女は海人が作った人型の影の下で座り込んでいた。白群の芦毛が風に吹かれ揺れる。運動によって上気した頬は赤く、
「そういえば、と」
「ん? どうした」
「じいちゃんからまたメール来ててさ。この前はありがとうございました、だって」
「それはこちらこそ、だな」
この前のセイウンスカイの祖父との食事は、彼にとってとても替えがたいものだった。彼女の肉親と話せたこと自体初めてであったし、彼に「孫をよろしく」と言われたのはチーム《アルゴル》の責任者として密かに喜んでいた。
「そんなに喜んでた?」
「一人の時に踊り出すくらい、かな」
「……いや、それは無いでしょ」
海人が小躍りする様子など想像できるものではなく、セイウンスカイは首を捻る。普段の様子を見ていても朴訥で感情があまり外に出てこないのが右堂海人という人間だ。
「そうかね。私としてはそれなりに感情を出してるつもりなんだけど」
「伝わらなきゃわかんないですよ」
「そらそうだが」
とは言え、今更あり方を大きく変えることなど出来やしない。右堂海人はずっとこれでやってきたのだから、これから先も余り変わらない。
「あー、努力はするが期待はするなよ」
「人はそんな急激に変わりませんよ。私もですが」
「そうかね」
君は変わったよ、と彼は地べたのセイウンスカイにサングラスを向ける。
「まあでも自分じゃあまり分からないかぁ」
「それはあるかもね」
自分じゃあ分からない自分の変化というものはある。海人から見たらセイウンスカイは変わっているように見えるが、自分からはよく分からない。
「こればかりはトレーナーさんの心眼を信用するしかないか」
「目に期待されても困るがな。心眼ならいいか」
こういう冗談を言うのに抵抗があまり無くなったのは良いことなのか悪いことなのか。ともかく、これもひとつの変わったことだろうと。
「……違う! じいちゃんからのメール」
「どうした」
「『右堂』って苗字結構珍しいよね」
「まあそうだ」
確かに、『うどう』という読みの苗字の中で『右堂』と書くのは珍しい。日本でも数件しかおらず、だいたい自分の親戚だ。前に、そんな話をしてたような僅かな記憶がある。
彼女はそんな薄い映像を引っ張り出し、祖父からのメールと照らし合わせる。
「で?」
「ああ、じいちゃんがね。昔ニュースかなんかで名前を聞いたことあるんだってー。WR……Tとか? なんてったかな。Cだっけ」
彼女としては、祖父からのメールの内容を伝えただけだった。この先も会話は続くと思っていたから、キャッチボールが途切れるとは思っていなかった。風に吹かれた枝葉が擦れる音がよく耳に届く。人と話していると中々聞こえない音で、セイウンスカイは海人が黙り込んでいることに気づいた。
「……トレーナーさん?」
回り込んでみればじっとあらぬ方向を見て、彼は白杖を突いている。片方のレンズだけが太陽に透け、彼女から見える限りでは目は見開かれていた。 真っ白に強く地面を焼く日差しの中、一ミリ程の身じろぎもなく立っている影。
口元に浮かぶ表情はいかなるものであろうか。彼女にはやはり分からなかった。
「あー、トレーナーさん。疲れてません? なら帰りましょ」
彼女は臨時医務室への帰還を進言する。少なくとも、強引に話題を変えなければダメだと直感していた。このままここにいるのは彼のためにならない。熱中症対策としても、彼の精神衛生上の健康を保つためにも。
何がスイッチに触れたのかは分からなかった。ただ、この話題から引き離さねばならないという義務感があった。
「あーなんと言いますかね」
「いや、いいんだ。帰ろうか」
「わーい……シャワー浴びてから行きます」
「ああ、分かった」
「じゃあ、お先に帰ります」
早足で合宿所へ戻る足音を見送り、海人はのろのろとした足取りで医務室へ戻りはじめた。ジリジリとした日差し。太陽があるであろう方向……白くハレーションを起こした視界でひときわ強く輝く方へ目を向ける。
手をかざすことも無く、顔を真正面から焼く光を受けながら、ポツリと立ち尽くしただ一人太陽を見上げる。
「やめなきゃねぇ……」
自分を傷つける行為。だが、彼はやめなかった。こんなに熱を降り注いでくるのは晴れしか有り得ない。いつまで経っても青色などというものは無い。こういう強い日差しの時は、嫌でもその事実を確認させられるのだ。
彼から少し離れたグラウンドからはわいわいと歓声が聞こえている。その陽気とは裏腹に、夏は、去年も嫌な夢を見ていた気がする。秋に向け、嫌でも記憶を刺激されるのが原因だろうか。
じっとりと額に汗が湧き出してきたところで、ようやく彼は太陽から目を外す。光の刺激で痛む眉間をおさえ、海人はその体を医務室の椅子に投げ出した。
「影先輩の時は……何も無かったんだけど」
彼があの車を持っているというのは知っていたから、心構えができていたのか。急な方向から過去に殴られたから、ずいぶんな醜態をさらしてしまったのか。いろいろな可能性を考えてみるが、一向に答えは出ない。腕に張り付く長袖ワイシャツが酷く不健康な冷たさを発して来るほどの時間、海人は汗を拭くこともせず、水を飲むこともしなかった。
「……寒いな」
さすがに、そのままでいることはできない。冷気に纏わり付かれた肌が粟立ち、全身をざわざわと冷気が駆け抜けた。どのくらい時間が過ぎたのか確かめることもせず、彼はのろのろと椅子から腰を引き剥がして自分の荷物をあさる。スーツケースから出したのは同じワイシャツ。汗でぬれたものを脱いでから体を拭き、また着てしまえば海人は見た目には元通りだ。
しかし心中は、元通りとはいかない。やはり、失ったものが唐突に前に現れるとだめなのだ。胃の中身をひっくり返されるような衝撃こそないが、それでも揺さぶられた精神は簡単に収まらない。顔の半分を左手で覆いながら、また彼は固めの椅子のクッションへその腰を力なく落とした。
「直さないと。彼女が戻ってくる前に」
言い聞かせる。力が入った左手が収縮し、爪が額にめり込む。そのまま呼吸を数回。別に過去が追いかけてきたからと言って、また全部を奪われるわけではないのだからと必死に耳に届かせる。あれは防ぎようのなかったこと。仕方のなかったこと。もう終わったこと。
「ああ、だから直さないとな」
彼女にこれ以上心配をかけさせるわけにはいかない。これからセイウンスカイは菊花賞へ挑むのだ。その大事な時期に、勝負と関係のないことで彼女のリソースを失わせるわけにはいかないのだ。サングラスを投げ出し、色の付かなくなった視界を堅く堅く閉じた。
まぶたの裏には、先ほどまでの強い日差しが焼き付いたままだった。
海人と別れ、白く輝く熱線から逃げて合宿所の中へ戻る。建物の中は外より数度は低く、汗が全身に纏わり付く今の状態ではさすがに寒かった。半袖の体操服から伸びる細腕には鳥肌が浮かんでいて、彼女は手首をさすりながら自分の部屋へ着替えを取りに行った。
二階の一室。何人かで使う部屋には誰もいない。ほかのチームはトレーニングまっただ中であるから当然だ。静かな、ただただ静かな建物の中に唯一、セイウンスカイが荷物をあさる音が反響する。今空調は切られているので、開けた窓から少しでも涼しい空気を、と思ったが冷えた体操服は激しい冷気を体に伝えてくるだけだった。
「ううさむい~……はやくシャワーいかないと」
風邪をひいたら本末転倒。医務室の薬臭さは好きになってきたが、病院に充満する消毒液の匂いは未だに苦手だった。その違いは何だろうかと考えながら、着替えを袋に詰め込む。ハンガーに引っかけてあったタオルを掴み、彼女はシャワールームに出発することにした。
「はあ~……いきなりどうしたんだろ」
サンダルに履き替え、ペタペタという気の抜けた足音を地面に残しながら思う。脳裏に浮かぶのは海人の硬直した表情だ。薫一からのメールがよほど衝撃だったと見えたが、いくら考えても原因はよくわからない。携帯に残る文面で気になるところである『WRC』の三文字が、それが何かを察することはできなかった。
「まあ原因も大事だけど、まずは元気になってもらわないとだよね」
汗と土にまみれた体操服を脱ぎ捨てる。よく見れば、芝の破片もいくつかこびりついていた。ずっと後ろについて走っていたので仕方ないといえるが、悔しさという感情を生起させる緑色。その色を目に焼き付け、ゴミ箱に向けて払ってから洗濯物用に持ってきた袋へ入れる。
段々とあらわになるのは、アスリートとしての彼女の身体だ。なだらかに続く肩から骨盤にかけての曲線と、引き締まった小ぶりな臀部。手足は華奢にすぎると言われるかもしれないが中には走るための筋肉が詰まっている。しかし、骨ばっていたり筋肉ばかりと言うわけではなく、少女らしい曲線は確かにあった。
人間と違うところは尾てい骨の当たりを覆う白群の毛色と、真っ直ぐに膝下まで伸びた尻尾。そして頭にぴょこんと立つ、それなりによく動く耳だ。
身につけていたものを全て手提げのビニール袋に詰め込むと、ため息をつきたくなるくらいの重量となる。努力の残滓といえるそれを手放してから、彼女はシャワールームの折り戸を閉めた。樹脂の床は彼女の足裏にひときわ痛いほどの冷たさを与える。足踏みしながら壁に生えるノブをひねれば、頭上に開いた穴から命のお湯が降り注ぐ。
「あ~、あ。暖かい」
耳の先からつま先まで、整った体を伝って流れ落ちるぬくもり。べたつきとざらつきがどんどん洗い流され、彼女は生まれ変わる心地だ。このままずっと恵みの雨に体をさらしていたかったが、そうもいかない。お湯を止め、持ってきた両用シャンプーで白群に輝く髪の毛を泡立てる。耳に泡が入らないように注意しながら、思わず漏れ出る鼻歌。
「トレーナーさんの昔話、かぁ」
辛い何かがあったのは推察するところであるものの、詳しいことは何一つわからない。経緯を聞いてないのは彼女の決意だが、解決するには知らないといけないことばかり。
続いて尻尾を前に回して、また両手で泡立てたシャンプーで根元から毛先まで丁寧に洗う。夏の陽射しに焼かれた毛先を、汗が溜まる付け根を、砂が入り込む毛の間に指を通して汚れをかき出していく。
「そういえば、昔話はなんにも知らないなー」
気を使っているのか話す気がないのか、それともタイミングがあると思っているのか。それは分からなかった。ただ事実として、お互いの昔話を知らないことだけがある。しかし、問題のひとつは調べるにしても取っ掛りをどこにすればいいのか分からないことだ。闇雲に探しても情報の海で溺れるだけなのは目に見えている。
「あの装蹄師さんに聞く?」
親しそうだし、頼み込めば教えて貰えそうだ。それか、トオダ自動車の大山あたりも良さそうである。
人から話を聞く。目処というか目標が出来たところで、彼女は手探りでシャワーのノブを探り当てた。頭にあまりに長い時間泡を載せていたので、弾けて垂れたシャンプーが目に侵攻をはじめていたのだ。
「ちょっと時間かけすぎ?」
勢いよく打ちつける温もりの雫たち。シャンプーの野望はあえなく潰え、顔の上を流れ落ちるのはあっという間にお湯だけになる。シャワーを止めて首を振って水気を飛ばし、次は体……と行きたいがトリートメントを忘れてはならない。
未だに覚えられないボトル裏の使い方とにらめっこし、決して流暢とは言えない手つきながら手に取ったクリームを髪の毛になじませる。これももちろん両用トリートメントだ。
尻尾も同じようにするが、毛が長い分時間をかけて。とはいえセイウンスカイが、「自分にしてはよくやった」と満足するまでなので、気を使う人に比べたら格段に短い。
お湯を当ててきれいさっぱりとクリームを流し落とし、尻尾をぶんぶん振って水を落とす。結局拭かなければいけないじゃないかと言う言葉は禁句だ。勢いよく尻尾を振ることでしか得られない満足感というものもあるのだ。
「でも結局風呂入るよね」
持ってきたボディタオルを軽く泡立ててさあいよいよ体を……と思ったところで、彼女は重大な事実に気づく。そう。今シャワーを浴びても結局あとで汗はかくので、また風呂には入るのだ。
軽くだけ洗っとこうと決めて、汗疹になりやすいところだけにボディタオルを滑らせた。首、脇の下、肘の関節、臍の下あたり。その他にも足の指の間なども洗って、また温水の雨を浴びる。
「息抜き……トレーナーさんの緊張をほぐすようなもの……」
トレーニングの事で迷惑をかけ通し。そして自分でも難儀だと思う性格のウマ娘を、海人は良く根気強く指導してくれる。なら、勝つ以外で恩返しをしても良いのでは無いか。
「ふむ。私が返せるもの、か」
目の前を流れ落ちる水。その上から下の動きにひとつのことが思い起こされる。いいものがあるじゃないか。
彼女はにんまりと笑顔を浮かべてから、ふるふると顔にかかる水を払う。セイウンスカイは天井のひとつしかない明かりを見上げて、名案だと蒸気の中小躍りしていた。