トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
「思った以上に来ないものだな」
「昼間は暑いですからねぇ」
「寝坊してるわけじゃないよな」
「……誰のこと言ってます?」
「うん。君とは言ってない」
言ってるじゃないか! という突っ込みを飲み込み、セイウンスカイはフィッシングウェアのジッパーを少し下ろして胸元に風を送り込んだ。辺りに小さく響くのはファンの駆動音。空調服というものは、中々どうして快適だ。
「文明の利器。ありがたやありがたや」
「いい発明だと思うよ。私もね」
結局、二人の釣果は二時間ほどたってもゼロのままだった。場所が悪いということは無いので、そもそも釣果となる魚の数の問題。これから真昼に向かおうとする時間帯だから、仕方ないと言えた。
「……ねぇ。思ったんだけどさ」
「ん?」
「釣れなかったり食い逃げされてもそんなに悔しくないのに、レースで負けるとすっごい悔しいのはなんでなんだろうね」
口に出してから後悔する。同列に扱えるものでは無いだろうと今更に思うが、どれだけ息を吸い込んでも口を塞いでも言ったことが無くなる訳では無い。三十秒かそこら前の自分を殴るという叶わないイメージを浮かべながら、隣に座る海人の表情を盗み見た。
意外にも、真剣に考える海人の姿がある。そこまで深刻な事じゃないですよー、だとか比較対象間違ってましたと言い出せるはずもなく、手を意味もなく胸の前で動かすだけに終わった。
「可能性、の違いかな?」
「可能性?」
「だって釣りはどんなにレアな魚でも、絶滅しない限りはまた釣れるかもしれない。ただ、同じ条件のレースは一回しかない……とか」
なるほど、と膝を打つ。リベンジのチャンスがあるかどうかというのは大きな違いである。また挑める可能性のある釣りと、もう二度と同じレースには挑めないスーパートゥインクルズ。
「トレーナーさんには『同じにするな』って怒られるかと思ったけど」
「んな事しないさ。人の取り組み方に苦言を呈することはあれど君は真剣にやってるからな」
「そりゃどーも……まあでも、アホな質問したな、とは」
「別に私は気にしないよ」
それに、私に何か言う権利はないよとも付け足す。君に文句をつけることが出来るとすれば、それは一緒に走って死闘を繰り広げた相手だけだ。
「レースも釣りも同じくらい真剣にやってるってことじゃないかね?」
「……まあ、こんなことはトレーナーさんにしか言わないよ」
「それがいい。駆け引きってのは普段の会話から始まってるものだからな」
「あーんまり、意識してないですけど」
「それはそれでいいさ。君の人付き合いまで口を出そうとは思わん」
暑さにやられているからか、頓珍漢な話題しか出せないセイウンスカイ。どうしてかなぁ? と考えてみる。堤防に寄せる波の音は規則的で、自分の世界に没頭するにはとても良かった。昔からを思い出してみる。
「そういや、釣りはなんで始めたとか言いましたっけ」
「いや。聞いたことない気がする」
「これ、元々じいちゃんの趣味なんですよね。釣りって」
彼はこの前会った老人の雰囲気を思い浮かべていた。孫可愛さからは随分と賑やかだったようなイメージがあり、あまり釣りをするというビジョンは見えない。素直な感想を告げると、セイウンスカイは呆れ返っていた。
「えー、普段は縁側で新聞読んでるか、ルアー作ってるような人だよ?」
「ならこの前のはテンション上がってたのか?」
「そうそう。いつもあんな感じじゃないんだから……ってまあとにかく、釣りのイロハはじいちゃんから教えてもらったんだ」
指折り、彼女は教わったことを口に出していく。釣れている先人に学べ、試行錯誤を止めるな、相手の気持ちを想像しろ、知識をつけろ、状況を見間違えるな。そのどれも、大なり小なりセイウンスカイというウマ娘の中に根付いていること。
「あと、慌てずじっくり構えろ、ってさ」
「じっくり、ね」
「何でもそうだって言ってた。自分のペースでやればって」
「君はよく有言実行してるわけだ」
海人も薫一がセイウンスカイに与えた影響を、改めて実感していた。彼女の根底を作りあげたのが祖父の言葉の数々。全てとは考えていなかったが、彼女の性格や身の振り方には確かにさっきの教えが透けて見える。
「あとさ、じいちゃんと釣り行く時ってこんなに話してなかったなって、今思った」
「ほう? 言わずともわかる、ってやつか?」
「まあそれもあるけど、一緒に釣りってだけで嬉しくていっぱいになってたのかも」
セイウンスカイが思い返せば、「明日釣りに行くぞ!」と言われた瞬間から幼い彼女は夜眠れなくなるほど楽しみにしていた。どこに連れていってくれるか、何が釣れるか、じいちゃんから何を教えられるか。子供の小さな体と心では溢れるほどの幸福だったのだ。
そして、祖父の技一つ一つに目を輝かせていた。話すのも惜しく、ずっと薫一が釣りをする様子からなにか盗もうとしていたのだ。
「で、今日は?」
「楽しみにしてたのは変わらないけど……うーん。なんか、せっかくトレーナーさんと来てるんだから話したいなーって思う。余裕が出来たのかな?」
セイウンスカイは自分の心の中をできる限り客観視して口に出してみた。繰り返される水の音のリズムにのせ、体を左右にゆらゆら揺らす。その度にキシ、キシと折りたためる椅子が軽く悲鳴をあげるのだ。
そして、どこか気負っていた自分を発見する。楽しんでもらうためにいろいろしなくてはという緊張のようなもの。それが、段々とほぐれる音を、セイウンスカイは聞いていた。
「そうかもね。色んなことを考える余裕がさ」
いつしか、海人の右足も同じリズムを刻む。なんとなくだが、セイウンスカイは海人も同じ気持ちだと感じる。同じメロディに乗せて歌えば友達……という言葉があるかは分からないが、同じ波のざわめきを聴きながら釣りをすれば友達。
「まだまだ時間はたっぷりあるし。じいちゃんの言葉通り、我々はマイペースに行きましょー」
「それが良さそうだな」
同じ青色の音を聞きながら海人とセイウンスカイは取り留めもない、しかし心地の良い話を交わしていた。
「……はあ、座りっぱなしは腰に悪い……なっと」
立ち上がり、高らかに悲鳴をあげる腰をぐるりと回す。それだけではなく、ギブアップを告げている体の部位は膝だの肩だのとほとんど全身に及んでいた。歳をとると節々の動きが悪くなり、疲労が抜けにくくなる上すぐ疲れ、そして筋肉痛が遅れてやってくるようになる。
「日焼けも跡が残るようになるし」
白く強い陽射しへ手をかざしながら太陽を見上げる。日焼け止めは強力なものを持ってきたが、果たしてどこまで効果があるのか。
大きな保冷ボトルに入れてきたスポーツドリンクを口に含む。冷たさが心地よいが、喉元を過ぎれば忘れるのは熱さだけでは無い。冷感のシャツなどを着てくるべきだったと後悔しながら、首元の汗を拭った。
「……やはり、分かってるんだろうなぁ」
海人の調子や様子がおかしいことは、セイウンスカイは絶対にわかっている。だから、「来てくれないと拗ねますよ」とかまで言って釣りに誘ったのだろう。
「トレーナー失格かもな」
負担をかけあまつさえ心配させるとは。彼女にもやりたかったことがあるだろうに休みを潰させた可能性を考えれば、到底受け入れられるものでは無い。
こんな様子を見せれば、また心配してくれるに決まっている。だが、競技者として。余計なことにリソースを割くのは好ましくない。
「ごめんな。セイウンスカイ」
一人でいるので、この声は誰にも届かない。セイウンスカイは、少し前に昼食を買ってくると席を立った。買いに行くよと海人は申し出たのだが「さすがにちょっと危ないよ……」と言われてしまったのである。
様々考えることはあるが道理で、彼は昼食の調達を彼女に任せることにした。押し付けられたの五千円札を握り締めながら、彼女の足音は深い青色に紛れて聞こえなくなった。
それが、十五分ほど前。ここは釣り人にも人気の漁港で、そういう人間相手の店が多く並ぶ。「任せてよねー」と言ったセイウンスカイの姿は、とても頼もしい。
「しかし。釣りもいいものかもな」
海原の密やかなざわめき、海鳥の鳴く声、自動車運搬船の野太い汽笛。それを背景に、セイウンスカイと言葉を交わすという体験はなかなか得がたい。医務室だと仕事をしているしトレーニングは中身についての話が中心。トレセンにいると、このような何もしないのんびりとした時間は貴重だった。
そして、あくびがわき出る。一定のリズムで打ち寄せる波の音を聞いていると、心がだんだんと穏やかになって眠くなってくる。眠気に耐えるべきか。それとも意識を手放すべきか。いやいや荷物番ができなくなるのは避けたい。しかし、これから長いから寝ておくのも手だ……。脳内で色々な思考をこねくり回す。
「なるほど。こうやって悩みを忘れるのか?」
彼女が聞いたら怒りそうなことを言い放つ海人。椅子に座り直してまた亀のような歩みでものを考えようとまた椅子に体を沈めたところで、ポケットに入れたスマホがブルブル身震いを始める。
長年の使用勘と経験をもとに指をスライドさせれば、スピーカーからはセイウンスカイの声。随分焦っているようだった。
「ねぇ助けてトレーナーさん!!」
「どうした?」
犯罪に巻き込まれたとか? スリにでもあったか。スリなら追いかければ良くない? という連想ゲームは、その向こうから聞こえてきた声にかき消された。
「Voinko puhua tästä?」
「あー、なるほど」
遠くに置いてきた記憶を引っ張り出す。その間にも、彼女は悲鳴を上げ続けていた。通話を開始してすぐなのに、もう泣きそうになっている。
「話しかけられたんだけど何言ってるか全然わからなくって! どうしよう……!?」
いきなり話しかけられて聞き覚えのない言葉で質問をぶつけられて、逃げることもせず海人に電話をかけてきた。心から賞賛したくなったがここはまず、セイウンスカイの窮地を脱させることがさきだろう。
「Osaan puhua vähän. Mikä se on?」
「Missä kalastusalus INAMARU sijaitsee?」
相手はすぐに質問を帰してきた。道を聞きたかったらしい。しかし、「INAMARU」に聞き覚えはない。セイウンスカイなら知っているかと思い、「Ole hyvä ja odota」と告げてから日本語に戻した。
「なあ聞きたいんだが、『イナマル』に聞き覚えは?」
「いな……あるよ。稲丸って釣り船が」
「じゃあそれだ。どこにある?」
「えーと、市場の向こうにあるかな」
さすがセイウンスカイだ、と心の中で最大級の拍手を送ってから、単語を思い出して声を吹き込んだ。
「あー……指させるなら指さしてくれ」
「はーい。さしたよ」
「えーと、Se näyttää olevan juuri ja juuri markkinoiden ulkopuolella、かな」
しばらくの沈黙。不安な何十秒かが過ぎたあと、携帯電話のスピーカーの向こうからとびきりテンションの高い声が返ってきた。
「Kiitos! Hyvää päivänjatkoa!!」
「Sinä myös」
届いたかどうかわからなかったが、また沈黙が降りる。今度聞こえてきたのは、随分と気の抜けたセイウンスカイのふやけたしゃべりだった。安心したのだから無理もないと思った途端、ふやけすぎて水浸しになってしまう。
「ありがと……助かったよ~」
「泣くな泣くな。何事かと思われるだろ」
「うう……かえる」
気をつけてな、と言う前に電話は切れた。いきなり話しかけれ、聞き覚えのない言葉でしばらくまくし立てられたあとなんとか電話をかけてたのだと推察できた。誰しも不安だろう。
「ならまあ、仕方ないか」
心配を押し殺し、むずかる背中を必死に椅子に縫い付ける。何回も深呼吸を繰り返しながら、耳を澄ませて風と波音の隙間に聞こえる足音を探した。しばらくして、途切れ途切れのリズムが聞こえてくる。
「た、ただいま……」
「おかえり。大変だったね」
「うぅ~……ほめて」
足を引きずるかの様な調子のセイウンスカイ。怪我をしているのかと心配になったが、極度の心労が原因だろうと彼は動かない。
「どうしろってんだ」
椅子の外に垂らしていた手を彼女は取り、頭の上にのせてはぐりぐりと自分で動かした。髪の毛は多少汗ばんだ感触を返してきたが、セイウンスカイは全く気にしていないようだった。いろいろな疑問が浮かんできたが、とりあえず押し込んでおく。
「それでいいのか」
「心細かったんだよ?」
「気持ちはわかる……よく電話できたな。パニックになって逃げだしてもおかしくない状況なのに君は偉いよ」
彼女は満足したのか動きを止め、手を解放して椅子に体を投げ出した。
「いきなりびっくりしたよ……英語じゃないし」
「そうだね。まあ、電話してくれて正解だったよ」
「私も。藁にもすがる思いだったんだけど」
藁どころか大船。まさか意外な特技を発見するとは。医者としての仕事中、外国語の文献を読んでいるから英語くらいはできるのかな? と当たりをセイウンスカイはつけていた。
しかしまさか英語どころじゃないとは。
「あれって何語?」
「あれはフィンランド語」
「フィンランド……サンタクロースの?」
「そいつはスウェーデン」
北欧、スカンジナビア半島にある三カ国のうちひとつは間違っていないが、サンタクロースで盛りあがっているのはスウェーデンの方だった。
「というか。地理の勉強はしてるんだね」
「これでも現役学生ですよーだ……はい。お昼ご飯」
「おお、ありがとう……何買ってきたの?」
「アジフライ丼のテイクアウトー」
ガサガサとビニール袋を鳴らしてから、彼女が持っていたのはスチロールの茶碗。海人が差し出した手にその器と割り箸を乗せ、中を開けてみるように促した。
ソースの香りが湯気に伴われて立ち上る。
「いいものを見つけたな」
「迷ったよー。食べて?」
「頂こう」
二人して、フライとソースの絡んだキャベツ、白米を口に放り込む。間違いのない美味しさに大きく頷いてみれば、箸はもう止まらない。
「そういやさ」
「何か?」
「よくフィンランド語なんて話せるね」
「ん。まあ、昔ね」
気になる空白。セイウンスカイとしては色々聞きたいことがあるが、あまり踏み込めない。どこまで聞いていいものか分からない。古傷を抉るのは、本意ではない。
「難しかった?」
「どうだったかな。でも現地の人と話してれば意外と早く喋れる」
「へー。話す機会が多かったんだ」
「まあ、それなりかな」
ひと口ずつ丼を噛み締める海人。彼は一体何を思い出しているのか。サングラスの隙間からも表情を伺うことは出来ず、上下する箸をじっと見つめることしか出来なかった。
あっという間に、彼は食べ終わってしまう。
「ごちそうさまでした。ゴミ袋はどこ?」
「あー、ここにあるよ」
「ありがとう」
セイウンスカイが広げた袋の中に収まるゴミ。彼は椅子に体を預け、空へじっと視線を向けていた。嫌なことを思い出させてしまったのかとやきもきしながら横顔を見つめる。暑さを増す気候とは反対に太ももに乗せた丼は冷めてしまい、気づいた時には白米は硬くなっていた。
「……食べないのかい?」
「あ、いやいや。食べますよ。ええ」
ソースの匂いでもかがれてしまったか。残りをかきこんでから、器はビニール袋の中へ。満腹になったセイウンスカイは、彼の真似をして椅子に深く腰掛けて空を見上げた。
「はぁー、まだかな夕方」
「焦るのは禁物なんじゃない?」
「これは楽しみにしてるの。焦りとは別物ですー」
本当かねぇ? という疑いの視線を感じ、げしげしとシューズの側面を彼の足にぶつける。
「やめなさい」
足を上げて逃げられてしまったが、戻ってきた時にもう一撃加える。嫌がって逃げ、戻ってきた時にまた一撃。何回か繰り返していると、手がにょきにょき伸びてきた。
「こら」
「きゃー」
大袈裟に体勢を崩すふりをした。椅子を浮かせ、腕をバタバタ振り回して突き飛ばされたかよわいウマ娘を演出する。しかし、何事にも限度というものはあった。あまりに大きい傾きはバランスを崩し、ガシャンと硬質な音とともにセイウンスカイは地面に投げ出されていた。
「あたた……」
手に食い込む小さな砂利を払って、椅子をまた広げる。金属製の足にちょっとした引っかき傷ができてしまっていたが、仕方ないことだった。
「おい。大丈夫か?」
身を乗り出し、セイウンスカイに手を伸ばす海人。 その五指が中空で静止する。不思議に思った彼女は手のひらを指でつついてみたが、その瞬間に捕まってしまった。
「あー、なにするのー!」
「怪我がないかくらい見せなさい」
「仕方ないなぁ」
顔をかたむけ、手のひらを確認する海人。彼の歳からすればよく手入れされた指先が、むにむにとセイウンスカイの手をあらためる。まだ掌に残っていた砂利を優しく払って、「問題なさそうだね」と口元がほんの小さく笑った。
「さわりすぎ」
「そりゃすまんね」
年相応の小さな手のひらに残る太陽の熱とは違う温かさ。両手をすり合わせて熱を広げる。セイウンスカイより手のひらは大きく、指は長い。右半身がまだ痛む中でぼんやりと、父親の手はこんな感じなのだろうとか想像したところで、チリンと竿の先の鈴が自らを主張した。
「あっ! かかった!」
「お、獲物か」
「そうそう!」
さっきまでの痛みを全て忘れ、竿を両手で握っては目を輝かせるセイウンスカイ。随分と愉快に豹変した空気を右側に感じながら、海人は穏やかに彼女の雰囲気を楽しんでいた。