トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
晩夏の京都は、盆地ということもあってまだ暑さが支配しているように見えた。しかし、日が陰れば秋を思わせる空気がそよそよと吹き抜ける。良い風が吹けば、必然的に心も体も軽くなる。
とは言え地下に作られた小さな控え室では、季節の空気感を感じるのは難しかった。
「さあ、いよいよ京都大賞典だ」
「はぁ。来ちゃったわけですね」
「来ちゃったわけだよ」
部屋の中にいるのは、海人とセイウンスカイ。そして盲導犬のセリカ。いつもと変わらぬ人数で、彼女の格好はゼッケンが縫い付けられた体操服にハーフパンツ。海人の格好はスーツにサングラス。いつもと全く変わらない。
「さあ、今回初めて京都をレースで走る訳だが」
「そうですねぇ。私としては、淀の坂を避けられるならどんな事でもしたいですけど」
「残念だけと避けては通れないな」
「うえ〜」
椅子に座り、いつものように手帳を広げる海人の向かいで、突っ伏してしまったセイウンスカイ。パタパタと振られた足がたてる金属音が机の下から聞こえてくる。蹄鉄が着けられているので、硬質なタイルを叩くとかなり音が響く。
「駄々をこねても変わらんよ」
「ですよね〜」
いつにも増してブルーというのか、やる気がないというのか。彼女は動きを止めてゾンビのように、白い手を伸ばす。何かを求めるその指先が、手帳に触れた。
「何をする」
「……なにも」
一回身を引き、手帳を遠ざける海人。それでもセイウンスカイは猫が寝転がりながらおもちゃを狙うように、手で空中をパンチする。ぼやけた視界でもその動きは意外と分かるもので、海人は溜息をつきながら姿勢を戻した。
「ていっ、とりゃ」
「何してるんだ君は」
手帳についている、栞として使うための細い紐。それに、セイウンスカイはじゃれついている。垂れ下がった紐の端にパンチ。また揺れたそれを目で追いかけ、帰ってきたところで今度は反対側からパンチ。
まさしく猫だ。ウマ娘ではなく、ネコだ。
しかし、見事なのはこうやってじゃれついていても手帳本体にはなんの衝撃も来ないこと。彼が指先で文字を読んでいることをよく理解しており、少なくとも迷惑をかけるつもりは無いようだった。
「いつもその手帳で何か見てますけど。何見てるんです?」
「私の精神安定剤ってところだ」
「へぇ」
一発大振りなネコパンチならぬセイパンチを入れてから、彼女はまたうずくまる。何が琴線に触れたのか、いつもよりナーバスに見える。いつも意味ありげに立っている耳もへにゃりと折りたたまれ、
「珍しいな。緊張気味か」
「んー、先輩達と走るのは初めてですからねぇ……色々考えることはあるんですよ〜だ」
「沢山考えればいい。君は勝てるんだから」
「またよく言いますね?」
「そりゃ私がトレーニングしてるんだ。勝ってもらわないと困る」
と言いつつも、セイウンスカイの不安は海人にもよく分かった。どんなものにせよ新たな挑戦は不安を抱かせるものだ。特に、今日の対戦相手は彼女より長く走っているウマ娘ばかり。
一年の差が、どうしようもない差として現れることもよくある。たった一年。されど、越えられない壁となる一年。
実質GIと呼ばれるほど豪華なメンバーの中、セイウンスカイの経験はどうしても少ない。トレーニングの量、メニューは負けないつもりだが、精神的余裕まで考えるとなると、海人にも分からなかった。
しかし、もう無いものを数えても仕方ない。なら次は、あるものを数えること。彼は質問を頭でまとめて、午後になって青み始めた顎をなでながら話しかけた。
「昨日はよく寝た?」
「ええ。8時間バッチリです」
「朝ごはんは?」
「ホテルの朝食……ってトレーナーさんも食べましたよね?」
「昼は?」
「走る前なんでゼリー食べました」
「作戦は?」
「これかなーってのはもうあります」
「なら問題ないよ」
「いやしかし……」
あまりにも簡単に問題ないと言ってのけた海人に抗議のひとつでもしてやろうかと体を起こし、サングラスをかけた顔面を真正面から見据えた。彼女は、「トレーナーさんにはこのセイちゃんのナーバスな心がわかるんですか?」くらい言おうとしていた。
しかし、その後に続いた言葉に、すっかり毒気を抜かれてしまう。
「私のあれだけのメニューをこなしたんだ。君が勝つと確信してる」
「……はぁ。もう。そこまで言い切ります?」
「いけないか?」
「いけなくはないですけど……そんなに言われたらちゃんと走らないとなぁ〜」
手を組んで上にぐいっと背筋を伸ばす。丸まっていた背筋がほぐれると、喉の奥からなんとも年寄りくさい呻きが漏れていた。
手帳に指をはわせながら、顔を上げて海人は肩を細かく震わせた。片眉がピクピクと痙攣し、口元は湧き上がるなにかに耐えるようにもごもごと動いている。
「全く。年寄りか」
「そうで〜す。セイちゃんもうおばあちゃんなので」
「マッサージする?」
「終わったら頼もっかな?」
「おうよ」
私より遥かに年下なのにおばあちゃんを自称するとは怒られるぞ……と言いたかったが彼は口に出さなかった。彼女はまだ20歳にも満たない。逆に海人は四十まであと一歩だ。今のところ倍以上開きがあるのだから、彼女がおばあちゃんなら、海人はミイラか何かになってしまう。
「勘弁してくれ」
「ん? なにが?」
「あー、いや。こっちの話だ」
ぽつりと呟いただけでも、彼女の耳はよく言葉を捉えてしまう。なにか疲れてるのかな? とセイウンスカイはじーっと海人の顔を見つめていた。
最近無理をしているようには見られない。あまり遅くまで残業することもないし、仕事がトレーニングに食い込むことも少なくなった。相も変わらず休みの日は何もしていないようだが、彼女も参加するセリカの散歩が毎週に増えたことは大きな違いだろうか。
《……本日のレースですがなんと、東西で実質GIと呼ばれるほどの対決が行われるという……》
控え室に吊り下げられたテレビからは、レース番組のMCとゲストが話している声が流れている。『実質GI』の文字が、そこらじゅうに踊っていた。
何を隠そう宝塚記念などの勝ち星を上げたサイレンススズカが、本日東京で開催される毎日王冠に出走しているのだ。同じレースにはグラスワンダーやエルコンドルパサーといった同期の名前も並んでいる。
《異次元の逃げ、サイレンススズカに新星エルコンドルパサーとグラスワンダーは土をつけることできるのでしょうか。しかしその三人以外にも、集まっているのは実力派ばかりです》
公式練習の映像も交えながら、番組は進行していく。サイレンススズカがその画面に映されては、解説の人が彼女の走りについてコメントする。何回か併走して、よく見なれた走りと言えるだろう。
「やっぱり綺麗だよねぇスズカ先輩」
「走りはね。すごいと思うよ私は」
「ちょっとでも真似出来ないかなー」
「君の走りも十分綺麗だ」
「そりゃあ、どーも」
臆面もなく綺麗だなどと言われるのは落ち着かない。しかし、褒められるのは悪くなかった。そんな彼女の胸中など分かるはずもなく、さらに彼は続ける。
「東はサイレンススズカさんだな」
「もう圧倒的ですねぇ。私としては、エルとかグラスちゃんを応援したいですけど……トレーナーさんは?」
「私? 私は君以外応援しないよ」
「そう言って……医者としての建前ですか?」
「いや。右堂海人の本心だ。君以外に、応援するべきウマ娘なんていない」
そう言い切られるとなんとも複雑な気分になる。もちろん、ずっとセイウンスカイというウマ娘を意識しているのは分かる。見てくれているのも、彼女は分かっていた。
きっと、恥ずかしさとかそういう類の感情。彼女は若干血流の良くなった頬を机につけ、冷やそうと試みた。
「君以外に見るべきウマ娘なんていないさ……よく見えないけど」
本人としてはウケを狙ったつもりなのだろうが、何度聴いてもそのジョークは笑えない。一気に温度を下げた空気と呼吸音ひとつ聞こえない部屋の中。海人の考えや行動はよく理解できるようになったものの、未だにこのジョークには慣れない。
「ちょっとノーコメントで」
「ん? それは済まなかったね……しかし、西は君だな」
「……はい?」
一瞬、何を言っているのか理解できない。東西の実質GIで、期待されているのが東のサイレンススズカということまでは分かる。しかし、西のそのポジションに自分が入るとは到底思えなかった。教え子のウマ娘を信じるという姿勢は嬉しいが、いくらなんでも無茶というもの。
勝つつもりはある。しかし前評判は仕方ない。外野からならいくらでも言えると冷たいことも言えるが、評判というものはそういうものだ。
「それを言うなら西のメジロブライトさんじゃないですか?」
海人はそれを聞き、手帳をなぞる手を止めてサングラスの視線をセイウンスカイに向けた。向かいに座る男の動きが止まったことに彼女はしばらくしてからようやく気づき、黒色のレンズの向こうにあるであろう目をじっと見る。
「世間一般的にはそうだろうね。だが、私にとっては西のセイウンスカイだ」
「そりゃどうも。負けるつもりはないですけど、まあ人気くらいはいいかなーと」
「いや。私は我慢ならないね。君が低く見られるのは」
机の上で握られた手はかたくなで、口元は緩やかなへの字を描いている。セイウンスカイは、この男はこんなに負けず嫌いだっただろうかと心の中で首を大いに傾げていた。
一番だと言い切ってくれるのは良い気分だがしかしあくまで、セイウンスカイにはセイウンスカイの考えがある。
「あまり高く見られちゃうと作戦ハマらないから遠慮したいんですけどね?」
「それもそうか……ううむ」
納得出来ていない唸り。気持ちだけは受け取っておいて、何とか男を宥める。そもそも、人気を下げるのだって撒き餌のひとつ。彼女としてはできることなら後ろの方の人気でいたいくらいである。
実力が認められるのは嬉しいが、善し悪しだ。
「まあでも、私の言葉はきっと現実になってくれる」
「はぁ〜。期待が重すぎるんですけどね」
「たった一人分くらいどうって事ないだろ?」
「かよわいセイちゃんにはつらいなー」
「じゃあ出来ない?」
ムッと頬を膨らます。安い挑発に乗るのは彼女にとって癪であるが、期待を寄せられるのは悪い感情ではなかった。痛し痒しとはまさにこの事というジレンマを味わいながら、セイウンスカイはくるくると首を回した。白群の芦毛、短く肩の上で整えられた髪の毛が重力に引かれている。
「酷い人だよねー。やれるに決まってんじゃん」
「その意気だ。楽しみにしてるよ」
また手帳を開き、なぞり始める海人。しかし、セイウンスカイは疑問に思った。レースの度にそれを開いて読んでいるが、一体何を読んでいるのか。
「ねぇ〜」
「なんだ」
「それさ、何読ん……」
しかしその声は、鳴ったチャイムにかき消された。虚をつかれたように動きを止めてから渋々と言った体で、彼女は立ち上がる。その口元は尖っており、もうちょっとで海人の秘密を暴けたのに! という口惜しさが見て取れる。
「いいタイミングで……」
「残念だったね」
ニヤリと口元をさも愉快そうに歪めた海人。手帳はあっという間にスーツの懐にしまわれて、セイウンスカイに手出しができないようになる。多いな不満を残している彼女だが、こればかりは仕方ない。
また次があるさと言い聞かせ、扉の前で海人を待つ。何秒もしないうちに、セリカのハーネスを握った大男がそこにいた。
「さあ。お披露目だよ。行こうか」
「はーい。転ばないでよ。初めての場所なんだからさー」
「気をつけよう」
セイウンスカイが扉を開けると、スーツの体躯が廊下に出る。狭めの通路は盲導犬が通れるようにはつくられておらず、横幅のほとんどを彼は占拠していた。シリンダー錠を閉め、所々錆びた鍵を海人に渡せば、またまたポケットの内側へ消えていく。
「はーい。先導しまーす」
「ありがとう。いつも」
「んー。お易い御用で」
組み付けた蹄鉄が床とぶつかり、コツコツ硬質な音を立てる。リズム良く繰り返されるその音楽未満の何かを聴きながら、二人は無言だった。ここまで来て、話すものはもうほとんどない。
パドックまでの道はとても分かりやすかった。マップを見ていたのもあるが、案内は大きく出ている。しかし、海人1人だけならば辿り着くのは難しい位の塩梅。
「もうちょっとですよ」
「はいはい」
彼のぼやけた視界の真ん中に、セイウンスカイがいる。もうかれこれ一年半、彼女のことを見続けている。すっかり見慣れ、身を結ばないぼやけた像でも彼女だけは視覚で識別できるくらいにはなっていた。
「しかし君の後ろ姿も見慣れてしまったな」
「何その言い方。いや?」
「違うよ。人を見慣れるほど……ってのはあまりなかったから。リョウ先輩とか影先輩とか極小数」
確かに、海人の交友関係は広いとは言えない。セイウンスカイが知ってる限り、親しい人は片手で数えられるくらい。聞いた限りでもこぢんまりとまとまった私生活にこれ以上何かをする余地があるとも思えず、もしかしたら……と彼女は後ろを振り返りたくなった。
何とか抑え、ムズムズする尻尾を何とかなだめながらできる限りのんびり返事をする。
「あー、なるほど。しかしなんで今?」
「昔はずっとチームで色々やってたからさ。よく知った人と色んなところ行ったもんだけど」
彼の言葉は、とても昔を懐かしむ響きに満ちていた。いくら手を伸ばしても届かない何かを求める声。彼女の知らない海人が、きっと彼のサングラスの向こうにいる。その姿は今は見えない。輪郭は見えそうな気もするが、セイウンスカイには知識が足りなかった。
「へぇ。なんか面白そう」
「まあ、そうだね。面白い話だった……と、そろそろパドックだな」
もうちょっと続けたかった話だが、パドックが来てしまっては仕方ない。観客の熱気がほぼダイレクトに来る場所だ。広くはあまりない待機スペースには、出走する全員が既に集まっている。むしろ、チーム《アルゴル》が遅いくらいである。
セイウンスカイはこっそりとライバルの様子を伺った。トレーナーと話していたりひとりで瞑想していたり、深呼吸していたり。思い思いに出走前の時間を過ごしている。その中で彼女は、レースの先達が纏う雰囲気の重さをひしひしと感じとっていた。
今回の第三十三回京都大賞典に出走するのは七人。そのうち、クラシック級なのはセイウンスカイの他に一人だけ。他は、シニアの猛者たちばかり。
「いやー、こわいこわい」
その中で、一番人気はメジロブライトだ。天皇賞・春を勝ち取ったステイヤーであり、きっての実力者。前走の宝塚記念ではサイレンススズカに敗れて十一着と落としたものの、それ以外のレースでは掲示板を全く外していないのが実力の証明になるだろう。
ちらりとそのメジロブライトを盗み見る。腰を超えるほどに長く伸ばされたふわふわとした栗毛は非常にボリュームたっぷりで、そのシルエットを一回りもふた回りも大きく見せている。
それはそのまま、秘めたる力の具現にも思えた。
目を閉じ、精神を集中させるその姿。静かにしているはずなのに、背景にメラメラと燃える炎が見えるかのよう。一年の場数の差はこれほどになるのか、とセイウンスカイはある種す感心ら抱いていた。
「みんな凄いね」
その雰囲気は海人にも伝わったらしい。しかし彼は、いつもと何ら変わった様子なくのんびりとした口調。緊張を欠片も感じられはしない。セリカも、盲導犬としての職務を忠実に遂行しており、この音量でも動じたところは全くなかった。
「白々しい。トレーナーさんは徹底リサーチしてるから知ってるでしょ」
「リサーチは基本だろう」
とぼけているが、海人は毎戦毎戦ありえない量の資料を仕上げてくる。それにかける時間はいかほどかと想像してもしきれない作業量だ。
「まあ、そのおかげで私は走れてるからさ。いつもありがと」
「気にするな。いちばん苦労してるのは君だしな……走ってくれれば嬉しい。勝ってくれれたらもっと嬉しい。そんなものだ」
よく言うよと思ったが、これまた彼女は声に出さなかった。海人も、相応に苦労はしてるはずなのだ。そもそも年寄りなのでセイウンスカイのような若者について行くのは大変だ。そして、目のこともある。
それを全く棚に上げてしまう彼の言葉に、ありがたいと思えば良いのか怒れば良いのか不満に思えば良いのか。分からないが、勝ってくれたら〜との言葉通りに、勝利で答えるのが筋というもの。セイウンスカイはそう考えた。
「まあ、期待してて」
「もちろん。私はいつだって期待してるさ」
「そう言われちゃねぇ」
スピーカーにガサガサとしたノイズが入り、アナウンサーの声が流れ出す。
《さあ皆さんお待たせいたしました! 第三十三回京都大賞典、ランナーズアピアランスを開始します!》
外から吹き込んでくる歓声が一気にボルテージが上がり、鼓膜と言わず全身を毛先まで震わせる。やはり、この瞬間というのはセイウンスカイにとって格別な瞬間のひとつだった。何度聴いても、全身の血が滾る音はハッキリと全身を駆け巡るのだ。
「さあ、まずは君を見せつけてこい」
「はーい」
彼女のゼッケンは一番。逃げるには最もよい位置であり、このランナーズアピアランスでも一番最初に出ることになる。係員に促されるがまま、彼女は立ち位置まで進んだ。
《さあ、今回走るウマ娘の登場です! ゼッケン一番! TGR team SODEN <ALGOL>! セイウンスカイ!》
前に踏み出せば海人の視線が消え、セリカの息遣いも聞こえなくなり、パドックに詰めかけた人だかりの視線が全身に突き刺さる。皐月賞やダービーに勝るとも劣らない人。さすがに観客の総数では負けるが、局所的な熱気は勝っているのではないかと思われるほどだ。
陽炎ができるほどの熱。そして大きく膨らむ興奮の中、 セイウンスカイは深く深くをしながら、ステージの中心へ歩みを進めた。