トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
なんとはなしに静かな雰囲気で京都レース場を後にした二人だったが、学園に帰ってくる頃にはある程度元の調子を取り戻していた。
お互いに「菊花賞に備えるべき」と思った結果だ。 海人としては、セイウンスカイに心配をかけ続けさせる訳には行かないと気持ちを何とか入れ換えた。
「気になるけどさー。勝ったら聞けるんだし」
というのはセイウンスカイの言葉だ。なのでそれなりに気合いは入っていて、京都大賞典の勝利に酔うことなくトレーニングに挑むために彼女は医務室に向かっていた。ほぼ毎日通った結果、教室よりも落ち着く場所だ。
「どもども〜今日も……って、おや」
いつも通りに扉をあけて薬臭い空気の中へ足を踏み入れる。しかし、中にいたのは海人だけではなかった。他に二人。その視線が集中し、セイウンスカイは恐縮した。相手が誰であっても、注目されるのは慣れない。
「ん? ……ああ、邪魔してる」
「お邪魔してます」
「すいません。お客さんがいるとは知らず」
来客の正体はリョウとサイレンススズカだった。だが和やかな雰囲気などではなく、この部屋の主である海人含めてトゲのある空気感。極めて場違いということを理解した彼女は、回れ右して席を外すことにした。逃げるに如かずという訳では無いが、あまり好きな空気ではない。
「あー、席外しますね」
「ああいや、もう終わった」
しかしリョウはそう言って引き止めてくる。どうしようかと悩んでいると、サイレンススズカは立ち上がった。それなら、いてもいいか。セイウンスカイは様子を伺いながら、そんなことを考えてソファに荷物を置く。
「じゃあ、戻って着替えてきます」
「ああ、俺はちょっとだけ話してから帰る」
セイウンスカイに微笑みかけてから扉を開けて、サイレンススズカは外に出ていく。トレーニングのために準備をするのだろうと思われた。しかしリョウは未だに椅子に座ったままで、二人の空気は全く変わらない。
やっぱり出ていくんだったと後悔しながら、カバンの中身を漁る振りをする。
「で、お前は……検査の結果が出たら、どうするんだ」
「それはもちろん、その結果に基づいて判断するだけです」
やや俯き気味で、口元に手の甲を当てているのがリョウ。その向かいで、椅子に深く腰かけて目の前の男にサングラスを真っ直ぐに向けているのが海人である。
どこかピリピリと糸が張り詰めるようや音すら聞こえる空気。
机の上には多種多様の封筒、紙、そして医学書まで広げられていた。そのうちの一つをリョウは指さす。
「検査の結果次第で、走るのをやめろっていう可能性もあるってことだろ?」
検査。聞いているセイウンスカイからすればぞっとしない言葉だった。彼女だけではなく走りを生業とするウマ娘全員、誰が聞いても一瞬顔をしかめる単語である。もちろん海人も誰かを貶めたり、不快な気分にさせたくて検査を持ち出しているわけではないが、どうしても競技者としては身構えてしまう言葉だ。
「もちろん、その可能性もあります。結果次第ですよ」
「走るのをやめろってのは、どんだけ辛いことかわかるだろ?」
そう問われた海人は、とてもゆっくりと頷いてまたリョウを見据える。サングラスの奥の目は、セイウンスカイに見えない。あからさまに肩を落としているとか、声が震い得ているわけではなかったが彼女は、彼のレンズの奥に押し込められた悲しみの色をなんとなく感じていた。
「ええ。わかりますよ。好きなことができなくなる辛さってのは」
ただ少し、一瞬だけうつむいた。何かをかみしめ、あふれ出そうになる感情を抑え込んで、海人は泣く直前の笑顔だった。やりたいことを奪われる辛さは、よくわかっている。全身をずたずたに引き裂かれた方がマシに思える苦しみは、よく味わってきたからだ。
「それでも。言わなきゃいけないんです。医者は」
それが仕事だから。無言で続けられた残りを、この部屋にいる誰もが聞いていた。
「それが、スズカを不幸せにすることであっても?」
リョウはなおも食い下がる。海人の覚悟を確かめるように。どこまで、彼が背負えるのか確かめるように。
「ええ。私は、私が信じるもののために、結果を告げるだけです」
それでも、海人はあくまで冷静に、冷徹に続けた。今までに聞いたことのないような声色。「トレーナーさん」としての優しい雰囲気などはなく、医者としての面しか見えない。
「そうか。わかった……精密検査を受けるよ」
「ありがとうございます」
「じゃ、俺も戻るよ。邪魔したな」
リョウもしばらく考え込んでいたが、顔を上げると全身の力を抜いてから立ち上がった。髪の毛をがしがしとかき回して、覚悟を決めたのか海人の提案を受け入れることにしたようだ。サイレンススズカをどう説得するか頭を悩ませているのか後頭部に乗せられた手はそのままだったが、少なくとも憤懣やるかたない、といった表情ではない。
セイウンスカイは一触即発じみた空気が無事にいなくなってくれたことに安堵こそしたが、やはり聞いた言葉を思い出すと穏やかではいられなかった。
「トレーナーさん、その」
「サイレンススズカさんの検査の話か」
「うん。どこか悪いの?」
「いや。どこも悪くはない、がな」
セイウンスカイの問いに答える彼の表情からは先程の精悍さが抜けていた。深刻にリョウと向き合っていた時の緊張はなくいたずらがバレた少年のような、どこかきまりの悪い表情で座っている。
「だいじょうぶ。誰にも言ったりしないよ」
「それはそうだろう……だが」
「だが?」
「人の怪我とかそういう話は、伝播すると言ったらいいのかな。聞くだけで不安になってしまうものだからね」
海人はそれを心配していた。人が怪我をした。病気になった。生活環境が全く違うのならあまり気にならないが、トレセン学園のような似た生活環境で過ごしていると自分も……? という思考になる可能性がある。
不安は伝播するのだ。そして、大きくなりやすい。医者という当事者から話を聞くよりも、友人などから聞いた方が信じやすいという心理効果も相まって、過去にはパニックが起こったこともあった。
「なるほど。心配してくれたんです?」
「そりゃね。君には健康でいてもらいたいから」
「ふふ。ありがとーございます。でも大丈夫ですよ。トレーナーさんが言うこと、信じてますから」
「ああ、わかった」
どうやって話そうか、海人は考える。できる限り、セイウンスカイに不安を与えないようにというのは大前提だが、今起こっている事実を過不足なく理解してもらわなければならない。
彼女は賢いウマ娘だが、同時に年頃でもある。彼の言葉で、不必要な不安が顕現する可能性もあるのだ。
「また最近、トレーニングのデータを見返してて気づいたんだよ。サイレンススズカさんが毎日タイムを更新していることに」
「タイム?」
「そう。トレーニングの時のタイム。色んなところで図る時計が全部更新されてるんだ」
「全部ですか。それは……すごいですね」
でも、それは良いことでは? セイウンスカイの脳内にはそんな疑問があった。ウマ娘としては、タイムを縮めるというのは良い事であるし目指すものである。一か月前の自分より、一週間前の自分より、昨日の自分より速く。それが成長というものだからだ。
海人は盛んに頷いていた。心の底から、サイレンススズカというウマ娘の存在を喜ばしいと思っているのは、セイウンスカイにも理解できた。少しはムッと頬を膨らませたくなる思いもあるが、サイレンススズカがスゴイのは彼女も理解しているので痛し痒しである。
「そうだろう? 凄いんだ……彼女の体は日々進化してる。だから、心配なんだよ」
「だから心配?」
「そう。ウマ娘と言えど、際限なく速く走れるわけじゃない」
「それは、そうですね」
どんなものにも、限界というものはある。 シューズにも、ウェアにも、路面にもある。それはウマ娘の体にもそうで、筋肉、骨、神経。その全てに、限界は必ずあるのだ。
「で、サイレンススズカさんはどんどん早くなっている。どんどんとね。だから……」
「その先に限界があるんじゃないかって、心配なの?」
「まあ、そういうことだ」
医者としては、ごく当然の心配だと言えた。ウマ娘がどんどんと前に進むにならば、それにブレーキをかけるのはトレーナーや医者の役目。たまにウマ娘と一緒に走り出すトレーナーもいるので、医者は最後の砦だ。
「分かってるよ。私の提案が歓迎されないのは」
椅子の背もたれが軋むような悲鳴をあげ、海人は天井を見上げていた。重力に従っていびつに垂れるネクタイと、上を向いてなお感情を覆い隠す彼のサングラス。椅子の手すりには強く強く握られた拳が置かれ、細かく震えているのが分かった。
「トレーナーさんはさ。優しいよね」
「そんなわけあるか。仕事なだけだ」
「照れ隠し」
「言ってろ」
海人は恥ずかしかったのか、椅子を回して机に向かってしまった。セイウンスカイはさっきまでリョウが座っていた椅子に移ると、近寄ってじーっと横顔を見つめる。
その口元はニマニマとだらしなく緩んでいた。
「なんだ」
「べっつにー」
やりにくいからやめろと言わんばかりに、視線を遮ろうと海人は手を動かした。しかし、そんなもので彼女の視線は邪魔できない。
「恥ずかしがらなくてもいいのに」
「ふん。なんのことかね」
いよいよもってシャットアウト体勢に入った海人を見てやりすぎたことを僅かに後悔する。しかし確かに、彼の表情にはむず痒さが出ていた。横顔でも、それはよく分かる。
とはいえ、大体の人間には分からないはずだ。海人のイメージは、背の高い怪しい医者というものが圧倒的に多い。感情はサングラスに押し込められ、常に表情は変わらない。
「そんなんだから怖がられるんですよ」
「なんだと?」
「きゃーこわーい」
ギュッと彼女に向けられた視線から外れるように椅子から逃げる。もちろん、海人としては怒るとかそういうことをしようとはしてないので、「困ったものだ」という表情を作るとまた机に向いた。
意外と、ノリもいいし表情もわかりやすい。今、セイウンスカイから海人に対する評価はそれだった。なので、彼が抱えているものも、何となく見えてしまう。
「で、話を戻してもいいですか?」
「ああ。なんだ?」
「昨日も練習でスズカ先輩を見たんですけど、すごい楽しそうでした。誰も寄せつけないような話で、とても気持ちよさそうに走ってました」
「ああ」
「あの先に、本当に限界なんてあるんですか?」
「そう思うのもわかるよ。だがな……」
彼は言葉を探す。どうやって、例えをみつけようか。しばらくの沈黙の後、海人の頭に浮かんできたのは結局昔の話だ。
「トレーナーさん?」
「ああ、限界はある。来てしまうんだ……そしてタチが悪いのは、限界に近づけば近づくほど、『いい景色』が見えてくるんだよね」
「それ、って」
段々と、顔に浮かぶのは何がしかの感情。喉に粘性の増した唾液を送り込む音がする。頬が痙攣し、胸に込上げる何かを我慢するように海人は鼻から息を吐いていた。
両手を握りしめて、彼は何とか吐き出した。
「壊れる直前が、一番いい景色が見えるものなんだ。どこまでも走れそうとか、誰よりも速く走れそうとか。そういう気持ちになる」
どこか懐かしむ口調はすぐになりを潜め、体の内側から漏れ出てくるのは後悔と苦痛と絶望。どんどん丸まり、うわ言のようにハッキリしなくなる言葉を聞き、セイウンスカイは彼の肩を掴んだ。
「壊れてからじゃ遅いんだ。綱渡りの最高の走りの向こうで足を踏み外したら、もうあとは落ちるだけ。私は、それで……」
「トレーナーさん!」
「ああ、なんだ」
「もう。なんで自分から苦しもうとするの?」
落ち着いて、と繰り返して彼を宥める。額に浮かぶ汗がキラキラと光を反射して、目に眩しかった。
「私は、もうこんな人間を出しちゃいけないって思ったんだ。医者としての原点は、私なんだ」
肩から手を離し、ちょっと離れたところで彼の様子を観察する。力尽き、首は重さに耐え兼ねて項垂れ、両手を彼は投げ出していた。
表情は、いつも通り見えない。
「もう、私みたいな思いをする人間はいてはいけないんだよ」
「それは……分かるよ。なんにせよ走れなくなるのは、嫌だよね」
幸いにも、彼女は怪我を始めとして理由で走れなくなったということは無かった。しかし、周りにはいくつも例がある。良き先輩であるトウカイテイオーや、同期のグラスワンダー。体質的なもので言えばツルマルツヨシや同室のサクラローレルなど、苦しむ姿はよく見ている。
「それに、この学園はあくまで通過点だと私は思ってるんだ」
「それは……議論があるかもしれませんよ?」
「そうかもね」
通過点、という言葉が引っかかるが、セイウンスカイは冷静だった。レースに人生をかけるウマ娘からすれば反感を買いかねない言葉だが、海人がレースを軽視したり、バカにしたりする発言をしないことは彼女もよく分かっている。
「でもほとんどの場合、このあとも人生は続いていく。重賞を勝つだとか、レースを無事に引退する。学園を卒業する。そのあとも、何十年と人生は続くんだ」
「だから、『通過点』だと?」
「そう。だからこの学園からは、健康で卒業して欲しいってのが私の願いだ。全員を救えるわけじゃないのは分かってるけどね」
海人の笑顔はどこか疲弊していた。この仕事をしていて、思い通り、理想の通りにならないことの方が遥かに多い。それを一気に思い出したのか、俯き気味で深く深く息を吐いては吸う。
「それはやっぱりトレーナーさんが優しいからじゃないかな」
「……分からないよ。そんなものは」
「そう?」
「優しかったら。チームなんて持ってないさ」
「どういうこと?」
「優しい」と「チーム」が結びつかなかった彼女は頭上にたくさんのハテナを浮かべていた。チームを持っているトレーナーでも、優しい人間は沢山いる。逆に持っていないのに優しくない人間もいる。
ふたつの単語がどう繋がるのか分からないまま、海人の言葉を待つ。
「ん? 本当にウマ娘のために働くなら、チームなんて持たない方がいいだろう。贔屓することになるからね」
「そうかな? 今のところはそんなことないじゃん」
「わからん。重大なことがあってそれに君も巻き込まれたら……とか考えるとね」
聞こえてきた声に拍子抜けする。そんな重大な問題なのかと思ったが、どちらかと言えば彼の意識の問題。規則でどうとか、何か罰則がある訳では無かった。なら問題ないじゃないか。
「そんなところまで考えるのはやっぱり優しいよ」
「……そうか。そう言ってくれるのはありがたいね」
海人は力ない笑顔を浮かべて、セイウンスカイを見上げていた。
「スズカさん。どうなるかな」
「それは分からない」
「だよね」
どうなるかは分からないが、少なくとも良い方向に転がってくれるといい。サイレンススズカというウマ娘の走りが、できるだけ長く見れたらいいと。彼女はそう思いながら「練習してきます」と立ち上がった。