トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
チーム《スピカ》の二人が去り、海人も考えを吐き出し終えた医務室では、セイウンスカイが体操服に着替えてトレーニングの開始を待っていた。手足を曲げ伸ばし。腰を回して良く準備体操をする彼女の横で海人はまだ仕事に勤しんでいる。
歳の割に綺麗に手入れされた指が軽快とは言えないスピードでキーボードを打つ。しかし遅すぎるとも言えない絶妙なスピードであった。
そんな男の足元では走らせてもらえると察したセリカが落ち着かない。首を持ち上げ、期待でキラキラとした目でセイウンスカイを見ていた。
「で、まだです?」
「まあ待て。菊花賞への最後の追い込みだしな……メニューを用意しよう」
「そう言って仕事しか見えないんですけど」
「焦るな焦るな」
そう言い、彼はパソコンの画面を切りかえた。他にも机の下から資料を取り出しては並べて広げる。いつ見ても壮観な量の情報が、画面と机の上に積み重なっていた。初見のウマ娘に見せたら回れ右をして帰りかねない量である。
「ホントいつ見ても……」
「いつ見ても?」
「やる気を無くす量〜」
「なんだと」
ムッと眉間にシワを産んだ彼は大袈裟に資料を片付けようとまた引き出しを開く。放り込まれそうになる紙束を両手でキャッチすると、海人は無言で力を込めてきた。
引き出しに押し込もうとする海人とさせまいと粘るセイウンスカイ。至近距離でのやり取りがしばらくあった後で、ため息を先について白旗をあげたのは海人だった。
「全く。私じゃなかったらもっと怒られてるぞ」
「トレーナーさんじゃないとこんなことしないよ」
「先生とかにはするなよ」
もちろんと頷きながら、彼女は椅子に座る。海人がひとつ咳払いをして、菊花賞へ向けてのミーティングが始まった。まず指さしたのはレーシングコースの見取り図だ。
「で、この前走ってみてどうだった?」
「やっぱり坂すごい辛かったかな。ペース配分を惑わされる感じ?」
「菊花賞だとそれが二回だからな」
走った時の感触を、セイウンスカイは詳細に脳裏に思い浮かべていた。二千四百メートルの場合前半は平坦なコースであったが、後半に入った途端に坂が訪れる。突如の坂は心臓破りと言われるほどであり、実力が如実に出る点だ。
三千と比較して幸いな点をあげれば、その坂が二回は現れないということ。しかし、一回でもかなり疲労した淀の坂が二度も現れたらどうなるか。彼女には想像すらできなかった。
「じゃあ、最後までスタミナ強化?」
「それも大事だが、追い込まれた時の登坂もやるぞ」
「うぇ〜それって散々ペース走やってから坂路ってことでしょ?」
よくわかったね。などというセリフを、海人は吐かなかった。ニヤッと笑って意味ありげに何度も頷いている。いたずらっぽいというより極悪非道の悪人面であり、ニシノフラワーなどに見せたら築き上げてきた好感度がゼロになってしまうような表情だ。
「悪い顔。やりますけどね。菊花賞後のご褒美は期待しても?」
「今からその話をしてもしょうがないと思うけどね。いいさ」
「言質取りましたからね」
やる気を出してくれるなら安いものだと考えたのか、はたまた別の企みがあるのか。海人は嫌がる様子もなく了承した。代わりに、セイウンスカイに出されたのは見るだけでうんざりするような量の資料とメニューの数々。といっても、毎日やっているメニューを可視化しただけだ。いつもよりは量は増えているが、劇的に辛くなったとは言いがたい。
「というわけで坂路対策にちょっと時間を使ってる。もっと確度を上げて走れるようにしたい」
「確かに。ギリギリだったのは正直なところなので」
彼女としても、出されたメニューの正当性には何ら異論はない。課題である坂の走り方とスタミナをつけるため、必要なトレーニングが列挙されていることはよくわかった。特に取り立てて言うこともなく、セイウンスカイはパソコンのメニュー表を食い入るように見つめていた。
種類ごとに色分けされた表は目に痛いほど鮮やかだ。割れたステンドグラスのように入り組んだ色を追いかけ、そして一際大きな文字の『本番』まで追いついた。
「本番……」
「書かない方が良かった?」
「いやいや」
明確にゴールが見えてくれたほうが、気が楽だ。口には出さなかったが、彼女の目は日曜日にずっと吸い寄せられている。泣いても笑っても、その日がゴール。デビュー二年目のウマ娘が誰もが目指す舞台が待っているのだ。
そして画面から目を離し、パソコンを操作しているサングラスを掛けた男へ視線を転ずる。普段より眉に力が入っているのか、やや険しいという印象を与えてくる。
「もう緊張してるの?」
「緊張というのか。高揚というのかは分からないけど、何だろうね」
「いやいわ。トレーナーさんが分からなかったら私も分からないって」
「そうだな。すまんね」
「別に謝るほどのことじゃ」
体の筋肉を弛緩させるように深呼吸。深く深く吐き出してから、海人はページを閉じた。そして、白衣を翻して立ち上がる。薬臭い空気がうごき、彼女の鼻腔を刺激する。すっかり慣れて安心する匂いとなったことが、良いことなのか悪い事なのか。
「さて。お待ちかねのトレーニングだ」
「うーん。ここで『わーい』とか言ったらキャラ崩壊になりませんかね?」
「前向きなのは大歓迎だぞ」
「トレーナーさんとしてはそうでしょうとも」
パッとセリカが立ち上がり、期待の目でセイウンスカイを見てくる。もう無条件でリードを掴んで走り出したかったが、主人は彼女ではなく目の前に立つ男。そもそもハーネスではなくリードな時点で海人が持つことは想定されていないが、了承はとるべきだと考えた。
「持ってもいい?」
「いいぞ」
足元にまとわりつくシェパードのリードを手首に巻き付ける。海人は白杖を伸ばしてかまえ、大きなカバンを反対側に持った。チーム《アルゴル》としていつもの光景を繰り広げてから、二人して外に出ていく。
「さーて。やりますか」
「やっちゃおうか」
ゆっくりと後ろから着いてくる足音を耳におさめながら彼女は歩く。さあいっちょやったりますか。心の中で気合を入れるのは慣れたもので、セイウンスカイは足取りも軽くグラウンドをめざしていた。
菊花賞まであと何週間といえど、結局彼女のトレーニングに挑む姿勢は余り変わらない。軽口を叩きながら海人とやりとりをし、セリカと一緒にコースを駆ける。
ジャーマン・シェパードと一緒に練習するチームがあるというのはもうすっかりおなじみとなってしまった光景で、注目される視線を感じながら、彼女は一ハロンを十二秒半で駆け抜けていた。
「あと千だぞ〜」
「ひとでなし〜!」
そう言いながらも、コースの先を見つめる視線は変わらない。海人は目の前を通り過ぎる足音を耳に焼き付け、大きく満足気に頷いた。
「良い足音だ」
重さが増している。正しく地面を捉え、そして蹴り出している証拠だった。疲労が溜まってくると精度が怪しくなってしまうのは弱点と言えるが、同年代のウマ娘と比べれば十分にレベルが高い。
つまり彼女が疲れるほどの距離なら周りも疲れているわけであり。ほかのウマ娘も同じように姿勢が崩れるはずだ……という推論である。
「バイタルも安定してるね。感心感心」
彼女の手首に巻かれたスポーツウォッチは心拍数や体温など様々な情報を送ってきてくれる。海人はタブレットを見ながら、ずっとセイウンスカイのコンディションについて想像をめぐらせていた。
「皐月賞の時から比べると、距離を伸ばしても心拍は上がってないかな」
体が慣れ、そしてスタミナが着いてきた証拠である。一つ一つ、改めて彼女のことを確認する。足音と送られてくるバイタルだけでも、推察を膨らませることは出来た。もちろん、足りないところもある。
観察は、トレーナーとしての基本だった。ウマ娘がどんな姿勢をしているか。手の振り、首の動き、足の振り上げ。だが残念ながら、彼は見るという行為が制限されている。
「彼女の走りか……実物をよく見てみたいね」
カメラの映像は何度も見たが、やはり昔まだ医者でもトレーナーでもなかった頃に目に焼き付けた感動とは程遠い。ざっくりと短く整えた髪の毛がどのように揺れるのか。白群の、見惚れるほど長い尻尾がどのように靡くのか。彼女の両手足がどのように切れ味鋭く振られるのか。
ウマ娘に一番近い存在でありながら、最も遠い画面越しの走りしか分からない。
「……再生医療は高いし。それに順番待ちだ」
医者だからこそ、わかる事情もある。
「ああいや。いけないな。トレーニングに集中しないと」
そしてタブレットの向こうのセイウンスカイが走り終わる。一ハロン十二秒半を継続し、今のノルマは十六ハロン。つまり三千二百メートルだ。その長距離を走り終わったウマ娘が、今こちらに向かってきているはずだった。
言うべきものを頭の中で整理する。問題点ばかりではなく、褒める点も抜かりなく。批判する訳では無いが、指摘ばかりされては誰も彼も嫌になってしまうので褒めるという飴も必要。
秋口の風に乗せ、三キロ強を走りきった後の足音がサクサク聞こえてくる。肩を喘がせ、とぼとぼと芝を踏みしめるウマ娘がそこにいるのだ。
「もぅ〜ながいよ」
「本番で三千走るんだからそれより長く走れないと意味が無いだろ?」
文句を言うセイウンスカイも、海人の言葉が正しいことは理解しているので何も言い返さない。疲れと距離に対する恨みを乗せて、「む〜」とうなっただけだった。
大きな木のようにスラリと立つ海人は、何も反応しないで足元のカバンからスクイズボトルを取り出していつものように渡した。音もなく差し出されたそれを受け取って、セイウンスカイは喉を潤す。
仄かな甘みが体に心地よく、全身の隅から隅までエネルギーで満たされる思いがした。飲めば飲むほど体に染み渡る
「はい。セリカも水飲め」
しゃがんでセリカの水を用意する海人。走り終わった一人と一匹の世話を焼くのも、いつもの仕事だ。
「タオルちょーだい」
「タオルね。あいよ」
彼女のリクエストに答えて、クリーニングから帰ってきた白いふかふかなタオルを渡す。思いっきりガシガシと汗を拭うのもいつもの光景。しかし、芝生に腰を下ろして息を整えるセイウンスカイには注意をせねばなるまい。
「運動後いきなり止まるのは感心しないぞ」
「えー、クールダウンはしたし次も同じでしょ。休ませてよ」
「しかしだな」
トレーニングはまだまだ続く。だから休ませろという意見を聞いてしまうのは海人の甘いところかもしれない。医者としてのホンネとセイウンスカイという頑張っているウマ娘を間近に見ての情。どちらも彼が抱えている感情であり、板挟みになった本人は悩む時にいつも見せるように顎に手を当てて低く唸っていた。
「で、タイムはどう?」
彼女は一番気になっていたことを問うた。脳内の計測ではかなりいい線を言っていたはずなのだ。歩幅、足を繰り出す速度。疲れている中でも、かなり正確にこなせていた自信がある。
「ん? ああ、少し待て」
唸りが止み、彼は小脇に抱えたタブレットを操作し始める。それなりに日が照っているので、体を丸めて画面に影を落としながら数字の羅列とにらめっこする。
「いつも通り多少のブレはあるが……最大でもコンマゼロ以下だ。いい調子だよ」
「やったー」
「だが、もう三本目。そろそろ誤差が大きくなってくる頃ってのは忘れてないよね?」
「いやいや忘れてませんよ」
「うん。まだまだあるけど、よくやってくれているのは事実だ」
屈託のない微笑みがムズ痒い。どんなシチュエーションでも、海人から好意的な言葉がきこえてくると嬉しくなってしまうのは仕方の無いことである。見ていてくれると言う実感は、なによりも離したくない感情だった。
しかし、それを悟られるわけにはいかない。ならばとライバルの動向を訪ねてみた。
「で、スペちゃんとかはどうかな?」
「今日もトレーニングに勤しんでるよ」
「それは知ってる。分析は?」
セイウンスカイの無茶ぶりだが、彼は全く動揺しないで所管をスラスラ述べてみせた。こういうところは非常に頼りになり、そしてほかのチームにはない強みだと彼女は考える。
「スペシャルウィークさんね。多分、ずっとロングラン試してるんだと思う。何人かまとめて前に立てて、抜け出しの練習でもしてるのかな」
「スペちゃんは後方策かな。そりゃそうだよね」
海人はあくまで推測だぞ、と続ける。それはもちろんセイウンスカイもよく分かっている。しかしスペシャルウィークがいきなり逃げを選択することは無いと思っていたし、前すぎる先行策も取らないだろうと判断していた。
後方策は脚を溜められる事が良いところだが、うっかり囲まれて抜け出すのに時間がかかると勝負権を失うこともある。そうならないためのトレーニングだと判断したわけだ。
「スペちゃん、他は?」
「他ねぇ。足跡が想定以上に重かった。脚力強化のためウェイト積んでるかも」
「これ以上強くなるのか〜」
脚力の強化にはいくつかの方法がある。スペシャルウィークとリョウは、重い蹄鉄をつけてのトレーニングを選んだらしかった。それをつけた上で他にどのようなトレーニングを積んでいるかは未だ分からないが、大きく進化をすることは間違いない。
「君も進化してる。負けるわけない」
「そうだといいんですけどね」
全面的に信じ、そして前向きな言葉をかけてくれるのは嬉しいが、結果が伴わなければ嬉しさ半減だ。
「あとキングは?」
「キングヘイローさんか。たまにしか聞こえてこないから確かなことは言えないけどね。彼女もロングランだと思うよ」
「だよね。キングにとってはまさに鬼門、か」
キングヘイローについて、適性距離は少なくとも三千はないというのが海人の考えだった。しかし実地に確かめた訳では無いのでどのくらいの距離というのは彼にも分からない。
「でもさ。油断は大敵だよね」
「もちろん。克服のためにあらゆる事をやってくると考えた方がいい」
「だよね」
一流はこの距離だって克服してみせるんだから! などと彼女が吐きそうなセリフを脳内で再生し、その出来の良さに満足する。きっと、キングヘイローは並々ならぬ覚悟でトレーニングに挑み、そして菊花賞に臨んでいる。
「キングヘイローさんの脅威度は今の所低いけどね……それがどこまで上がってくるか」
「追い込まれてるからこそ、何をやってくるか分からない、か」
「そう。流石にペナルティ貰うようなことはしないと思うけど」
その他、ライバルを蹴落とす盤外戦術は太古の昔から様々用いられてきた。もちろん今のURAスーパートゥインクルズにはそれを禁止するルールがあるが、検索を少しかければ近年起こった色々な事件を見ることが出来る。
しかし、キングヘイローはそういうことはしないはずだ。
「それはキングだもん。堂々と戦いに来ると思うよ」
「しかし、キングヘイローさんか……情報集めておくかな」
「よろしく。その方面は任せま〜す」
「おうよ」
安請け合いした海人だったが、セイウンスカイは全く心配していない。きっと、自分が策を練るのに十分すぎる程の情報を仕入れてきてくれるはずという信頼がある。これまでもそうだったから。
「はぁ。よく休めちゃいました。なのでまたトレーニング行ってきます」
「うん。残りは予定通りだ」
「はーい」
ズボンについた芝をはらいながら彼女が立ち上がる。リードを手首に巻き直して、見つめるのはコースを走るライバル達だ。
特に警戒するのは先程あげたキングヘイローとスペシャルウィークの二人。しかし、その他にもライバルは多い。菊花賞に出走するのは最大十八人であり、自分を除けば十七人。
どんなことをしているのか、どんな表情をしているのか少しでも見ようとしていた。情報は多ければ多い方がいい。そうして擦り合わせて、本番に持っていく。
「じゃ、行こー。セリカちゃん」
「行ってらっしゃい」
セリカの返事はひとつの鳴き声だった。元気よく振られる尻尾の勢いに笑ってしまいそうになるが、コースに入ってしまえばその笑顔もどこかに飛んでいってしまう。
くいくいっとリードを引っ張って、走るよ、とセリカに伝える。息を整え、ゆっくりとしたスタート。
セイウンスカイの足に合わせ、横から聞こえてくる首輪に付けられた鈴の音も段々と早くなる。顔にあたる空気がどんどん強くなり、そして風を切る音が聞こえる。
一ハロン十二秒半を維持して走る自分との戦いが、今始まったのである。