トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
サイレンススズカ不在の天皇賞・秋が終わった。エルコンドルパサーが出ているということでセイウンスカイは珍しく、海人と一緒にレースを見ていた。来週は菊花賞なので、公式練習の真っ最中。
その休憩で、二人はレースを見ていたのだ。
画面の中では、エルコンドルパサーが強豪相手に見事な勝利を収めていた。セイウンスカイはひとりでに拍手をし、友人の勝利を祝う。
「昨日話してエル、ちょっと寂しそうでした」
「それは、そうだろうな」
サイレンススズカという最高の対戦相手は、今回いなかったわけである。しかし、画面の中のエルコンドルパサーに、悲壮はなかった。足を良くして挑んでこいと、不敵にもそう笑っていた。
「でも、テレビの前だと全然そんなことなくて……凄いなぁ」
「恨み言のひとつくらい来てもおかしくないと思ってたんだけど」
「エルはそんな陰湿な子じゃありませんー」
「スペシャルウィークさんからは、それなりに視線を感じたものだから」
昼間、セイウンスカイたちと海人は食堂でばったり会っていた。その時に、それなり以上に思いの籠った視線を向けられていたように彼は感じていた。もちろん、それが事実であるかは分からない。
少なくとも、海人よりは付き合いの長いセイウンスカイから見て敵意のようなものは感じられなかった。だから安心して、と目の前に座る男に告げてみたものの、反応は芳しくなかった。
「もう。困ったトレーナーさんだなぁ?」
「聞こえてるぞ」
「聞こえてるならちょっとは立ち直ってよ」
「と言っても、ね」
少なくとも海人にとって、難しい注文なことにかわりはない。強く責任を感じすぎるのも、善し悪しというわけである。セイウンスカイとしては、彼がもう少し図太い性格なら何もかも解決するのにと思ってしまうのだ。
「はい。とりあえずおしまいー」
「何をだ?」
「スズカ先輩について考えること」
「それは……」
「無理な相談?」
親に怒られた子供のように。蛇に睨まれた蛙のように。百七十以上ある彼の体は椅子に座っているということもあったが、見るも無惨に縮こまっていた。
「少なくとも、スズカ先輩がトレーナーさんを恨むのはお門違いだし。何か言ってくることもないと思う。もし、他の誰かが何か言ってても。私は、ちゃんと分かってるから」
「……味方がいるのは、心強いな」
「でしょう?」
得意げに彼女は決して厚いとは言えない胸を張った。しばらくぐいっと反り返って腰に手を当てていたが、何度も頷いた海人が立ち上がると同じように立ち上がる。言葉が届いたことを嬉しいと思っているのか、ようやく進展があったことを喜んでいるのか。
「ほらほら。私のためにコース行きますよ」
「ん。分かった。最後の追い込みだな」
もう時間としては十五時を過ぎ、コース特性を覚えセッティングを出すための走り込みもかなりの量している。予定のメニューは順調に消化し終えていて、彼女にはそれなり以上の疲労が溜まっていたが一週間後のことを思うとまだまだ気力が湧いてくる。
テレビを消し、控え室から廊下へ。静まり返った一帯にある足音は、たった二つだけだった。
「調子は?」
「結構疲れちゃったけど。道は覚えましたよ」
「うん。いい事だ」
彼が繰り返し言ってきたことは、彼女の中で勝つために必要なこととして染み付いていた。ペースを考え、正しい姿勢で走り、そして道を覚える。次、どのようにコース取りをすれば良いかを常に考える。
海人の教えは、最初から変わっていない。新人トレーナーであるにもかかわらず、なにかの確証を持っているかのような自信の持ち方。
「でもやっぱり、すごく実感が籠ってるのは思うんですよね。昔の経験です?」
「昔の、そうだね。私の実体験」
「本当に。昔のトレーナーさんは何をしてた人なの?」
「ハハ。色んなことさ」
前を見ながら、彼は答えた。それ以外の会話を拒絶するような調子さえ聞こえて、セイウンスカイは足元に視線を落とす。やはり、まだダメだったようだ。
海人に何があったのかは、未だによく分からない。だが、辛いことがあるのなら少しでも分かち合いたいと思うのは間違っていないはずである。
「さあ。あと少しだ。集中していこうか」
また口を開こうとしたものの、彼は話題を打ち切った。たしかに間もなくコースが見えてきているのは事実であったが、その話題から離れたがっているような印象を彼女に与えていた。足が緩まったセイウンスカイを置いて、海人はぐんぐん進む。
無人の廊下に置いていかれそうになって、彼女は慌てて小走りで追いつく。いつもなら足音がないこと位は簡単に気づくはずなのに、彼は全ての情報をシャットアウトしたかのように歩いていた。
ハーネスに繋がれたセリカが一回だけ振り返ったきり、外の光の中へ消えていく。その姿が消える前に、彼女は大きく「トレーナーさん!」と声を張り上げた。
「どうした?」
「もー。置いてかないでよ」
「ああ、すまん」
ゆったりと振り返った顔に浮かぶ、その表情が意味するところはよく分からなかった。しかしよく見れば、その背中はやや丸まっていて、口元には憔悴が見え隠れする。残念ながら疲れが一番出やすい目元は見えないが、少なくとも体調は思わしくなさそうである。
「おつかれ?」
「多分、ね」
「多分って」
「でも安心してくれ。菊花賞には何ら問題は無いさ」
そうつけ加えた海人に、セイウンスカイはムッとする。そういうことを言いたかった訳では無いのにと、目の前のトレーナーになんと言ってやろうかと考えるその口元は、くちばしのように突き出されていた。その様子も知らず、足音が追いついてきたのを確かめた海人は歩き出そうと外の光へつま先を向けた。
「どうした?」
しかし、彼女は立ち止まったまま。じっと、顔をしかめて彼のサングラス面をにらんでいた。
「トレーナーさんって、人の健康にはよく気を遣うのに自分のことになると途端に不養生になったりするよね」
「そう見えるか?」
「そう見えるか、じゃなくて実際そうなの。いい? トレーナーさんがいないとチームが成り立たないんだから」
ぐうの音も出ない正論に、百七十を超える体が揺らぐ。セリカが引っ張られて苦しそうに喉を鳴らし、彼は踏みとどまった。
「君に迷惑をかけないようにと思っているんだけどね。未熟な……」
「ちがうよ!」
反射で叫んだ言葉は、廊下の遙か向こうまで消えていった。それくらいの大音量が自分の喉から出たセイウンスカイはびっくりしていたが、それ以上に驚いていたのは海人の方だった。サングラスの上からでも、目を見開いていることがわかる。「あ、ごめなさい」とすぐ近くで大音響を聞かせてしまったことに対して謝罪を述べ、取り繕うように両手をふらふらさせた。
「いいや。気にしないでくれ」
「ならいいけど……とにかくさ。チーム《アルゴル》にはトレーナーさんもいないと成り立たないんだから。もっと自分を大事にしてほしいな」
「ああ、わかった。今日は早く休もう」
「理解してくれたなら良いです。ささ、最後の追い込み行きましょ」
人の考えを変えるのには骨が折れるものだ、とつくづくセイウンスカイは思った。鏡を見ろという声が聞こえた気がしたが、聞かなかったことにする。ただ少なくとも、右堂海人という男はわずかなりにでも変わっていると彼女は信じていた。
ゆったり歩く男の後ろ姿を視界に入れながら、彼女は足下の芝をよく踏みしめる。行ってらっしゃい。そうコースを指し示した海人の腕に導かれて、彼女は秋晴れの太陽の下を走り出した。
京都の夜は意外と冷える。それは十月でも変わらないようで、セイウンスカイはホテルの一室から窓の外を行き交う人を眺めていた。近畿三番目の百万都市は月が天高く登るようになっても未だ眠らないようだった。秋分はとうに過ぎているので、典型的な『秋の夜長』と言って差し支えのない夜。テレビはゴールデンタイムを過去のものとし、ローカルなバラエティが流れる時間になってきていた。
彼女は明日のレース本番に向け、海人が用意した資料を読みあさっている。早く寝なければと頭は思っていたが、体はまだ足りないとページをめくり続けている。レースに挑む気持ちは皐月賞やダービーの時とあまり変わらないはずなのだが、どうにも落ちつなかないのだ。
「ううむ。どうしたものか」
さっさと寝て明日に備えるべきなのは言われなくてもわかる。スマホを見てみても、時間が巻き戻るわけではない。時間は前にしか進めないのだ。時計のアプリを閉じてからLANEを確認する。夕食前に更新したきり、めぼしいやりとりはなかった。
ロック画面に戻る。そこには、手ぶれの酷いセイウンスカイの写真がある。
「ふむ。そういえば、何してるんだろ」
ベッドに一人で寝転がりながら、その写真をじっと眺める。体操服ということや、被写体がセイウンスカイだということはわかる。しかし写真は傾いており、その上ピントも合っていない。この写真を撮ったのは、一ヶ月ほど前の海人だ。彼は今、隣の部屋で何をしているのだろう。
画面を何回か叩く。具体的には十一桁の番号だ。LANEを使う方法もあるが、この番号の方が歴史が古いし何より風情がある。この番号だけで、隣の部屋との何センチかの壁を超えることができるのだから、すごい発明ではないか。
覚えている番号をよどみなく入力し、スピーカーにして待つ。わずかにコール一回で、彼はでた。
「珍しいな。どうした」
連絡はいつでもして良いと言われているが、こんな夜に電話をかけるのはめったにあることではない。そもそも非常識と言われても仕方のない時間だが、彼はすぐに応えた。
「本番前だし、もう寝てるかと思った」
「私にも眠れない夜はあるんですよ~だ」
「そうか。失敬」
夜遅くだが、落ち着き払ったセカンドテノールはいつも通り。表情も動作も見えないが、酷く安心したのは、動かせない事実だった。ベッドに寝転がる姿は想像できないので、いつも医務室で仕事をしているときのように椅子に座っている姿を想像する。
「私は眠れないからですけど、トレーナーさんは何してるんです?」
「私か? 後顧の憂いを立つために仕事中だ」
「そんなところだろうと思いましたよ」
「よくわかっているじゃないか」と褒められても全く嬉しくない。こんな日にも、夜遅くまで仕事が入っている。ちょっとずつ変わったと言っても、百のうちどれくらいに当たるのだろうか。ささくれる心を自覚しながら、画面の向こうの男をチクリとさした。
「怒りますよ。いい加減」
「そう言わないでくれ。必要なことなんだ」
そう言って引き下がってくれたら良かったのだが、残念ながら彼は引き下がらなかった。これも予想通りの彼の動き。
「なら、今日は早く寝るって約束してくださいよ」
「もちろんするさ。これが終わったらちゃんと休む」
そこまで言わせたのなら良いだろうと、彼女は矛をしまった。むこうからは、キーボードをタイピングする軽快な音が聞こえている。時たまうなり声がするのは、やはり年のせいなのか。
「ほんとに。明日倒れられちゃたまったもんじゃないですからね」
明日は、一生に一度しか訪れない日である。だからこそ、菊花賞という偉大なレースに出られる喜びを二人で分かち合いたいし、勝ったら思いっきり褒めてもらいたい。ささやかとは言い難い願いだが、二人でないと叶えられない願い。チーム《アルゴル》だからこそ、叶う願い。この壁で隔てた向こうにいるのが、ほかの誰かでは絶対に叶わなかった願いだ。
「そうだな。ここまで来たんだ」
チーム結成からいままで。概ね順調な道のりといえるが、誰もがこうなれるわけではない。環境に恵まれとても良く実力を伸ばせたことは事実であり、なおかつ運も良かったといえる。
「思えば、もう一年半。結構、長くやってきたんですね」
「そうか、一年半か……馬鹿にできない長さだ」
「トレーナーさんにもそう思います?」
「なんだ。年寄りなのにって言いたいのか?」
顔を見なくても、軽口だとわかる。声の調子はあまり変わっていないが、笑いを我慢するようなニュアンスがあって、彼はあきれているようだ。「いやいや! そんなわけ。むしろ、トレーナーさんの方が一年は大事でしょ?」とやり返すと、感心しきりな反応があった。
「よくわかってるじゃないか。人間八十年とも言うが、私はもう半分終わったからな」
だから、一日一日をかみしめて生きているんだぞ。心の底から言っているのかもしれないが、気にするなと言うように真剣味はなかった。
「そっか。もう半分、か」
しかし、セイウンスカイにとってその情報はとても重要だった。いつもフランクに話しているこの男が、自分の二倍は生きているという事実を再認識すると、ずしりと背負ってるものが増える音がした。しかし不思議と、いやな気持ちではない。自分で、改めて背負いたいと思った。
「なんだ。年寄りなのにって?」
「また。そんなこと言ってないじゃん」
「じゃあなんだ」
改めて聞かれて、そして言葉にするとなると恥ずかしさが勝る。さすがに、真正面から「あなたのために」というのは中々難しい。どう繕おうかと、人の心も知らないで……とスマホの画面に向けて唇をとがらせた。若干、顔も熱を持っている気がする。カメラなどで、見られなくて良かった。
「これまでの人生で一番印象に残る一日にしてあげるってこと」
「繋がらない気もするけどな」
「細かいことは良いの」
そうやって押し切ると、海人は電話の向こうでしばらく追求の糸口を探すためかうなっていた。しかし、結局諦めたようで苦笑いが返ってくる。
「はあ。仕方ないな。そういうことにしとくよ」
「でも冗談じゃなくてさ。私、本気だよ?」
「レースか?」
レースは大前提。しかし、彼女が本気と言ったのは、もっと別のことに大してだ。
「これまでの人生で一番の日にしてあげるってこと」
レースを走るだけではない。勝つだけではない。明日目覚めてから夜寝るまで、彼が送ってきた四十年近くの人生の中で最も刺激的で記憶に残る日にしたい。セイウンスカイはそう思っていた。
「これまでの人生で一番、か。そいつは厳しいぞ」
「でしょうねぇ。だって私より倍以上生きてるんですから。でも、きっと特別ですよ」
どうやら海人は、これまで送ってきた人生に結構な自信があるようだった。少なくとも、彼女よりは波乱万丈な人生を送っていることに間違いはない。
だが、彼女は明日のレースが人生で一番の日になると疑いすらしていなかった。
「それには間違いない……うん。間違いないな」
海人は、何かを噛み締めるようにずっと繰り返していた。そして、不意に黙る。口調が変わって、そこに込められる思いも変わる。
「私の人生の中で、最も濃い一年半だったように思う」
「最も濃い?」
「ああ。これまでの人生、心に残ってることは沢山ある。いいことも、悪いことも。だが、君と出会って。トレーニングをして、レースに挑んで」
一つ一つ、彼女にも思い出すことが出来る。初めて海人を見た日のこと、言葉を交わした時のこと、契約を申し出た時の顔。初めてのトレーニング、模擬レース。
「初めてづくしだったが、デビュー戦を勝てた」
「そうでした。逃げを封印しろ、だなんて言われるとは思わなかったですけど」
様々な番外戦術を用いて挑んだデビュー戦。全てはクラシックへの布石のつもりで随分と苦労した。だが、勝てた。
初勝利の味は、とても格別だ。
「そこから、勝ったり負けたり。ハラハラしたな。そして挑んだ皐月賞……不安はあったが、君なら勝てると信じていた」
「たかだか半年前なのに、随分と前に思えますね」
「見事に答えてくれた時は、とても嬉しかったよ」
彼女が人を喜ばせる心地良さを知ったのも、皐月賞の時。興奮気味にウィナーズサークルに出てきた彼の姿を、セイウンスカイは忘れることは出来ないだろう。
「私も。トレーナーさんが喜んでくれて嬉しかったです」
「うむ。そしてダービーだ。私は、無条件に勝てると思ってた。勝負の世界は常勝とは行かない。とても身に染みているはずなのに、君が勝つと信じていた」
「そりゃ、信じてくれるのは嬉しいですけど、ね」
実力は疑っていない。やはり、そう言われると心が暖かくなる。それだけでなく、セイウンスカイと言うウマ娘に海人がベタ惚れしてくれていることを改めて聞かされると、頬まで熱くなる気がした。
「期待が重すぎたらごめんね。でも、勝負の世界に私は身を置いていたから、よく知ってるはずなんだ……まあ結果は、負けたな。見事に」
「ええ。完敗でした……今なら、冷静に負けを見れます」
「悔しかったよ。本当に……自分が負けた時より悔しかった」
「私も、すごい悔しかったです。でもひとりじゃきっと、いくら考えても前を向けなかった」
悔しがる海人を見たからこそ、自分も悔しがっていいんだと思えたところもある。
「そういってくれるのは、嬉しいね」
「そして次、菊花賞ですか」
「ああ、最後の一戦だ。泣いても笑っても、もう二度と走れない……うん。なんだか、人生で一番の日ってのが、現実になりそうな気がするよ」
「さっきと言ってること違いません?」
「人の気持ちってのは変わるもんだ」
彼女の言ったことを受け止めてくれた。それだけで、海人と一緒にやってきてよかったと思える。ちゃんと受け止めて、楽しみにしていてくれる。誇大に過ぎるかもしれない『人生で一番』。笑わず、否定せず、楽しみだと笑ってくれる。
デビューの時よりも皐月賞の時よりもダービーの時よりも。彼の人生で起こった様々な出来事よりも、良い日になると信じている。そしてそれは、一人では絶対に到達できない。
「そうですね。私も変わりましたし……スペちゃんとか、キングも変わってると思います」
「そりゃそうだ。みんな進化している。強くなっている」
「でも、トレーナーさんと一緒なら。そう思ってます」
「ああ、見せつけてやろうじゃないか。チーム《アルゴル》ってやつを」
一人ではダメ。かといって、ライバルだけがいればいいか。それも否。右堂海人という相棒、スペシャルウィークやキングヘイローと言ったライバル。そして、セイウンスカイという、クラシックに挑むウマ娘。そのどれかひとつが欠けても、ここまで来ることは有り得なかった。
「じゃあさ。また改めて宣言するね、トレーナーさん」
「ああ、いいぞ」
願わくば、こうやって投げれば彼がキャッチしてくれて、望むものを投げ返してくれる。こんな関係が、この先もずっと続けば私は幸せだ。セイウンスカイは目を閉じ、今の幸運に感謝しながら決意を言葉にする。
「明日は、トレーナーさんの人生で一番の日にしてあげる。一番幸せで、一番驚いて、一番楽しい。そんな日に」
一気に吐き出し終える。言葉は足りていない。彼女の心中全てを表現しきることは出来なかったが、精一杯の気持ちだ。
「そうか。うん。一番か。期待して待ってるよ」
いつしか、キーボードを叩く音は消えていた。仕事をやめえ耳をずっと傾けてくれていた事実が、また暖かかったがむず痒い。しかし、その温もりはとても心地よかった。
その温かみを離したくない。逃したくない。ずっと抱き締めていたい。落ち着いた心で、彼女は求める。
「……なんか、眠くなっちゃいました。私としては、もっとお話したかったんですけど」
「そう言ってくれるのは嬉しいが、明日があるしな。そうした方がいい……私もそろそろ寝ようと思う」
最後に思い出したように取ってつけた「寝ようと思う」という言葉だけが引っかかる。とりあえず、最後念を押すことも忘れない。
「トレーナーさんも早く寝てよ? 最近おつかれ気味みたいだし」
「もちろんそうするさ……じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみなさい」
通話は切れた。直ぐに沈黙した真っ黒な画面をしばらく眺めてから、彼女はふかふかの布団を肩まで引き上げる。寮のベッドより広く、体のよく沈み込む一人で寝るにはほんの少しだけ大きなベッドは、とても暖かかった。こういうベッドはあまり好きでは無いはずなのに、今日は違う。
目を閉じると心地よい熱がじわじわ体を解していく。それと同時に、意識はゆらゆら夢へ向かっていく。眠りの井戸の底へ落ちる間際、彼女の頭に響いていたもの。それは“期待して待ってるよ”という、とても柔らかなセカンドテノールのリフレインだった。