トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
カーテンの隙間から盛れる光で、セイウンスカイは目を覚ました。意識が覚醒すると同時にゆっくりと瞼を開き、もぞもぞ手足を伸ばす。布団の外に体を少しづつ出して、ベッドの上に腰かけて伸びをすれば、新しい血液が全身を巡る感覚がした。
「はぁ。いい天気じゃん」
最後の一冠。最強を決める戦いに相応しい天気である。カーテンを開けて、改めて空を見上げる。チラホラと雲が浮かぶ、とても高い秋の空。 輝いているようにすら見えて、彼女は人知れず息を飲んだ。
綺麗な空をバックに、セイウンスカイは尻尾の先まで体を伸ばす。世代最強のウマ娘。つまり、世代の一番。昨日言ったように、人生で一番の日にするには、これ以上ない天気と言える。
身支度をして朝食をとって、そしてレース場に出発する。時間に余裕がある訳ではなく、彼女は身支度からさっさと終わらせることにした。寮の部屋とは使い勝手の違う洗面台に苦闘しながら寝癖を抑え、顔を洗う。
冷たい水に若干の後悔をしながらおでこに張り付いた前髪を拭いているとスマホが着信を知らせた。
「もしもーし。おはようございます」
「ああ、起きてたか。さすがにな」
昨日と変わらない落ち着いたセカンドテノールがスピーカーより聞こえてくる。
「それはこっちのセリフですよ。よく起きれましたね?」
「年取ってくるとだんだん早起きになるもんなんだ」
「まあ。バッチリならいいですけど」
「もちろん元気だ……時間は大丈夫か?」
ホテルからはタクシーに乗って京都レース場へ行くわけであるが、あまり遅くなる訳には行かない。レースの出走前は本当に色んなイベントが待っていて、のんびりしてはいられないのだ。
「はい。あとは朝ごはんだけです」
「私もそうだ。食事後、荷物とってすぐ出発でいいな?」
「ええもちろん」
正直、もう出発しても良いというのがセイウンスカイの気持ちだ。早くレース場に行って、早くレースがしたい。走りを海人を初めとした人達に見て欲しい。有り体に言えば、彼女は大いに昂っていた。意気軒昂というものだ。しかし、気持ちを外に出すことはしない。
「なら、そうしよう。今日は人生で一番の日にしてくれるんだろう? 期待してるよ」
「待っててよね? トレーナーさん」
「じゃあまた」
「はーい」
彼と、同じものを見ていることが分かれば十分だからだ。チーム《アルゴル》が同じ方向へ向かっているのだから、負けるわけが無い。セイウンスカイは絶大な自信を持ってそう言えた。
皐月賞もダービーも超えた一番を。不安はなく、この気持ちだけを抱きしめて彼女は勢いよくベッドを立った。しかし、きゅるる……と可愛らしくお腹が鳴く。
「……とりあえずご飯食べいこ」
誰にも聞かれなくて良かったと大袈裟に胸を撫で下ろす。腹が減っては戦ができぬ。海人を誘って朝食に向かうことにし、彼女は部屋の外へ出た。
海人がいつも使っているペットハイヤーの大きな車体が関係者用の降車場から離れ、信号渋滞に飲まれて見えなくなる。行き帰りは新幹線なのに東京からわざわざ呼ぶくらいには信用しているらしく、顔なじみとなった運転手からもエールを受けたセイウンスカイはひとり無機質なコンクリートの箱を見回した。
地下の乗降場はひんやりと静まりかえっている。警備員のほかは《アルゴル》の二人と一匹しかいない空間。息をのんで立ち止まったセイウンスカイを不審に思ったのか、海人はゆっくりと振り返る。きっと、足音が真横にないことを怪しんだのだ。
「どうした、セイウンスカイ」
すっかり聞き慣れたセカンドテノールが耳を打つ。駐車場のがらんどうとした空間に反響し、何重にも重なった声。
「気分でも悪いのか? 車酔いとか」
そう言いながら、手を差し出してくる。若干方向が見当違いなのは仕方ないとして、彼女はその手を取らないで海人の横に並んだ。「だいじょーぶです。ありがとうございます」と言えば、ようやく彼は手を下ろして大きく頷いた。
「時間はあるさ。問題なんてないよ」
「はーい」
並び歩く。どれだけ仕上がりが良くとも、どれほど事前のタイムが良くとも、本番前には多少なりとも考えてしまうものだ。その機微というものを、彼はよくわかっている。ウマ娘が背負うプレッシャーを、トレーナーが背負うことはできない。しかし、察して寄り添うことはできる。ともすれば、分かち合えるかもしれない。
セイウンスカイは確かに突いてくる足音を少し後ろに聞きながら、控え室まで歩く。何回か来たことがり、天井に吊り下げられているプラスチックの案内板に従えば、チーム《アルゴル》に与えられた部屋はすぐに見つかった。
「みんな来てるのかな?」
「さあな。先輩ともやりとりはしてないけど」
「セイちゃんたち一番のりだったりして?」
「あり得る話だ」
控え室はレースごとに大まかに区画が分けられている。周囲に人の気配はなく、セイウンスカイは渡された鍵で部屋の扉を開けて海人を中に招き入れる。空調からか、かすかにオゾンが香る。
「荷物は全部ある?」
「なかったら大惨事ですよ」
いくつか並んだ段ボール。壁沿いに立つロッカーを開けて中身を見る。少なくとも、足りていないものはなさそうだった。クリーニングされ、新品同然になった勝負服。蹄鉄が組みつけられたいくつかの靴。セイウンスカイというウマ娘が勝負に挑むための武装の数々がずらりと並んでいる。
「こっちはぜんぶありまーす」
「私のも……問題なさそうだ」
ひとつひとつ箱を開け、中身を確かめる彼女とは対照的に、海人は蓋だけ開けて眺めておしまい。ダービーの時はどうだったか。よく覚えてないが、キッチリしている海人にしては珍しい。
「ほんとに見ました?」
「まあいいんだよ。私が使うものなんてほとんどないんだから」
大事なものは全てカバンで持ってきているから問題ないんだとも付け加え、海人は一人椅子に座った。そのままパソコンを広げるでもなく、秘密兵器の資料を出すわけでも手帳を開くわけでもない。何も出さずに壁へ寄り掛かっていた。
「さあ最後。やりたいことはない?」
「うーん。特には。ないですね」
「おや。最後の確認でもすると思ったんだけど」
コースやライバルについて、前の二戦ではコースに出る直前までよくミーティングをしていた。それが一転今回はしないという言葉に、海人はしたたかに驚いた。セイウンスカイというウマ娘は、あらゆることへの備えを欠かさないが、そんなことしてません? 問いという雰囲気を出すのがうまいウマ娘だ。少なくとも、外にいるときはそう。
「自信あり?」
「ええ。とっても……あと、私も進化してるってことで」
「不安がないなら良いことだ」
不安が完全にないと言えば嘘になるが、今の彼女は絶好調だった。不安は少なく、逆に勝てるビジョンがいくつも浮かんでいるくらい。早く走りたい。早く勝負がしたい。いろいろと考えた作戦で皆をあっと言わせたい。そんなわくわくが、彼女の胸の中を支配していたのである。
「さあ。しばらく時間がある。調子を崩さないようにな」
「はーい」
軽やかな返事をしかと確かめた海人はまた壁により掛かり、重く息を吐いた。
しかし、よく休んだと言っているが、体調を崩しかねないのは海人のほうではないか。セイウンスカイは一抹の不安を抱きながら、折り込みチラシを見るかのごとき気楽な手つきで資料をめくっていた。
《ゲーテ曰く、『どこへ行こうとしているのか知らなければ、決して遠くへは行けない』。心地よい秋晴れの京都に、十八人のウマ娘が集まりました。URAスーパートゥインクルズ 第五十九回菊花賞三〇〇〇mレース。クラシック三冠の最後を彩るレースが始まります》
決戦の地へ向かう廊下には、多くの人がいる。ウマ娘、チーム関係者、報道陣、係員。チケットを買ったファンなどもいて、かなり騒がしくごったがえしている。
「さて。ねえトレーナーさん」
「ん?」
「帰るの大丈夫?」
「いやいや。たかだか三分。待ってるよ」
「あら珍しい」
彼はどちらかと言えば、控え室で待っていることの方が多かった。グランドスタンド上の関係者席で見る訳でも無く、コース脇で見る訳でもない。そもそも、彼にとってはどこにいても観覧には向かないのである。
「君が一番と豪語するんだ。同じ空気を吸ってみようかなとね」
「へえ。やっぱり珍しい」
《皐月賞はセイウンスカイ。ダービーはスペシャルウィークと分け合う格好になりましたが、最後のひとつを手にするのは残る『三強』のキングヘイローか。はたまた、その他の挑戦者か》
かなり騒がしい廊下であっても、セイウンスカイには聞き分けられる足音が何個かある。ひとつはもちろん海人のもの。他には約五つ程度あったが、今日聞こえてきたのはそのうち二つだった。
「おや。主役は遅れて登場って感じ? おふたりさん」
「遅れてってほど遅くないわよ……調子よさそうね、スカイさん」
「今日も負けないよセイちゃん!」
キングヘイローとスペシャルウィーク。三冠の全戦でぶつかることになったライバルである。二人共非常に堂々とした足取りで、調子もとても良いようだ。海人は会釈をしてから一歩下がり、三人の会話に耳を傾ける。
「えー、お手柔らかにね?」
「何を言ってるの。二番人気よ?」
「そういうキングも上の方じゃん?」
「あなた達には負けたけど。ひっくり返してみせるわ」
力強く、どこまでも前を見据えた姿勢。友人として尊敬できるが、それを真正面から受け止める訳にはいかない。
「私らしい走りで、二人とも倒す。見てなさい」
「おお、こわ〜……っと、なら、受けて立つよ」
バチッと火花が散る。しかし、それ以上睨み合うことはしない。彼女たちはウマ娘であり、決着はターフの上で着くのだから。キングヘイローは満足そうに下がって、光の中へ歩いていく。
今度は自分、とばかりに、スペシャルウィークが前へ出た。
「今日は頑張ろう!」
「えー、頑張らないよ。私は……やれるだけのことをやる、かな」
「うん。そっか、セイちゃんらしくていいと思う!」
「スペちゃんは元気だねぇ。私はもう、三千メートル逃げなきゃいけないと思うと気が重いよ。はぁー」
少なくとも、長距離レースに勝利するためにはスタミナは絶対的に必要だ。そして、策略でレースを支配するのなら思考回路も常に冴え渡っていなければならない。求められる素質は非常に大きい。
なので、長距離レースになればなるほど逃げは不利だ。どの脚質も勝つためにそれなりの実力を求められるにも関わらず、逃げは特に一段高い実力が必要である。実際に菊花賞での逃げの勝率は、ほかの二戦に比べて低いものとなっている。
「でも、セイちゃんはずっと燃えてる」
「まあそりゃ〜私にも背負ってるものはあるんだよね」
例えば彼女の祖父を始めとした家族の夢や、海人が語った「見返す」という願い。応援してくれるファンの気持ち、サポートしてくれる企業の期待。そして、セイウンスカイ自身の「勝ちたい」という熱。
「だから、負けないよ。負けてあげない」
「うん。全力で楽しもうね!」
そして、スペシャルウィークも光の中へ消えていく。その背中を見送り、そしてまた振り返る。そこに居たのは、これまで彼女を支えた男だ。最後に言葉を貰うならば、これまでを総括するならば、彼しかいないわけである。
「じゃあこれでほんとに最後。何かある?」
「楽しんでこい。全力でな」
彼の中でふつふつと煮える感情が見透かせるような調子の声。力強く彼女は返事をすると、戦士の顔になって今度こそ歩き始めた。
秋晴れの日差しが、適度な温度を作り出している。寒すぎす暖かすぎず。セイウンスカイに言わせれば昼寝をしたいくらい気持ち良い空だ。
《三冠最後のひとつとなる菊花賞ですが、三〇〇〇メートルという長丁場の耐久戦となります。これをご覧の皆さんはよくご存知だと思いますが解説の由良川さん。コースの特徴はどのようになっていますか?》
《この外回りコースはですね、やはり三コーナーの坂が特徴になるでしょうね。レースの行方を左右すると言っても過言ではありませんし、ここでの争いがホームストレートまで影響しますからね。走るのもとても難しいです》
目で見てもわかる程に高低差のあるコースが京都の特徴である。一コーナー側を通りバックストレートに設けられたスタートへ向かう間も、その高い高い坂は視界に入る。
《そして彼女たちに大きな影響を与える気温ですが、本日の最高気温は二十二度、今はやや下がって二十一度》
《かなり、過ごしやすいですね。彼女たちにも気持ちいい気候だと思いますよ》
《寒すぎず暑すぎず。この良い天気の中で、ウマ娘たちがどのような走りをするのか注目したいところです》
一歩一歩ごとに、ゲートが大きくなる。18人が入れる鋼鉄の檻。栄光へのスタート。それに比してコースオフィシャルの数も増えていき、やや空気が締まる。レース場の中には、独特の空気が漂っているものだ。控え室から地下道、地下道からコース上、そしてゲートの周辺。段階を踏んで緊張感が高まると、本番というものを強く意識させられる。
《さあ、ゲートインが始まりました。足下の感覚を確かめながら、バックストレートは大きな緊張感に包まれています》
返しとして走るウマ娘が多い中、セイウンスカイは比較的ゆっくりとゲートへの道のりを歩んでいた。適度に心拍数をあげるが、それだけ。いつものように、残ったのは一人。
《日本を代表する、十八人のウマ娘たち。過去より連綿と紡がれてきた京都の歴史に、どんなページが綴られるのか》
歴史と伝統の京都三千メートル。その長く険しい道のりが彼女たちの前に広がっていた。
《百八十秒の速さと戦略のせめぎ合いのあと、歓喜に沸くのはただ一人。それはこの世代文句なしの最強を巡る戦いでもあります!》
実況が煽ると、スタンドの熱量が瞬く間に大きくなる。歓声は遠く離れたところを歩く彼女にまで届いた。もちろんゲートに入ってスタートを待つライバルたちにもそれは聞こえていて、ザリザリと芝生を踏みしめる音がする。
《最速、セイウンスカイ》
皐月賞を取ったのは他の誰でもないセイウンスカイだ。デビューから積み重ねた布石を全て使い、勝った。考えて実行し、それがハマって勝てた。
《豪運、スペシャルウィーク》
この世代で最も運が良いと証明されたのはスペシャルウィークである。もちろんゲート位置や展開が良かっただけではなく、実力もある。真っ向から走りきったスペシャルウィークは、今外から二番目のゲートに収まって発走を待っている。
《なら、最強は誰の手に!》
ここにいる十八人が誰もが手を伸ばして欲しがる勝利。もちろん誰もが「負けないよ」と思っている中、セイウンスカイはゆっくりとゲートの中に収まった。いつもの閉塞感は不思議と無い。言わずもがな、これは作戦のひとつだ。「私は余裕ありますよ」という姿を見せることも、大事な意図。緊張した面持ちのウマ娘を横目で見ていると、後ろの扉がついに閉まる。
《全員がゲートに収まりました。二回の急坂を駆け下りた先に待つのはどのような結末か。セイウンスカイの逃げ切りか、スペシャルウィークの指し切りか、キングヘイローの悲願か、はたまた伏兵登場か!》
区切られたハコ。たった一人でレースへ向けて思いを高める瞬間はこれが最後だ。大丈夫。勝てる。思い出すべきはトレーナーと積んできた鍛錬であり、ダービーの敗戦ではない。六月からの四ヶ月の努力の結晶がどの程度なのか、この三千という距離でわかるのである。
《これより始まるは限界バトルです》
三千という距離は、誰にとっても未知である。セイウンスカイも同じであるが、少なくとも自信はあった。むしろ、他のウマ娘でも自信のないという者はいないだろう。
《ロングディスタンス・バトルです》
誰もが未知に挑む三千メートル。そのスタートがいよいよ近づいている。コース上のグリーンが確認された。檻の中から見る芝は使い込まれていたが、大きく有利不利ができるほど荒れてはいない。
《でも、スプリントバトルです! 心も、体も消耗戦!》
最近は長い距離のレースでもスプリント化が著しいと言われている。用具や彼女たち自身の進化によってタイムはどんどんあがり、一昔前とは長距離レースの戦い方も変わってきているのだ。スプリントレースのように、最初から最後まで全力のぶつかり合いが行われる。それが今の菊花賞なのである。
段々と、セイウンスカイの世界から音が消えていく。ゲートを通り抜けて鳴く風や観客の歓声。隣のウマ娘の息づかいも消えていく。あるのは自分の呼吸、心音。そして頭の中で鳴り響く時計の秒針だ。
《URAスーパートゥインクルズ、菊花賞! クラシック最長距離の道のりが、今スタートしました!》
ゲートが開く。セイウンスカイは大空を羽ばたく猛禽のように飛び出した。
三千メートル。この一年の総決算。
クラシック最長距離のレースが、今始まったのである。