寮の門限はとっくに超えた二十二時。いつもなら明日に備えて眠りにつくこの時間帯に、しかし私はベッドにも入らずただその時を待っていた。何をするでもなくじっと椅子に座っていると、さすがに不審に思ったらしい。同室のトウカイテイオーがくるまっていた毛布から顔を覗かせて言う。
「マヤノちゃん、まだ寝ないの? 僕はそろそろ……」
非常に眠そうにしぱしぱと目を瞬かせている彼女に、「ごめんごめん」と手を合わせて断りを入れる。
「電気、消して良いよ。別にやりたいことがあるわけじゃないから。ただ、もうちょっと起きていたいだけ」
「そう? じゃあ遠慮なく。ふぁ~あ」
ぱちんと落ちる照明。一瞬にして夜の暗闇に包まれた部屋で、ごそごそとテイオーが毛布に潜り込む音が聞こえる。
「マヤノちゃんも……良く分かんないけど早く寝た方が良いよ……。じゃあおやすみ」
そこからもう彼女が声を出すことは無かった。代わりに聞こえるのは規則的な呼吸音。良いウマというのは、良く食べて良く眠れる子だというのは本当らしい。よっぽどのことが無い限り、テイオーは床に就いたら僅か数十秒で夢の世界へと旅立ってしまう。
ただし、他人事のように評しているものの、私も体質的には似たようなもので……実のところこうしている今だってものすごく眠い。油断すれば椅子から崩れ落ちて、そのまま朝まで床で寝っ転がる羽目になりそうだ。早朝六時からトレーニングは始まって、間に授業や休憩を挟むものの、最後グラウンドを離れるのは早くて十九時頃。くたくたなんて貧相な言葉じゃ言い表せられないくらい、トレセンの日々は疲れるものなのである。
こっくりこっくりと自分でも分かるくらい船を漕ぎつつ、ひたすら眠気に耐えることしばらく。目が悪くなることも承知で、スマートフォンという最後の手段を持ち出すかと覚悟を決めようとしたところ、ついにその時が訪れた。
こつこつ……と寮の廊下を歩く足音が耳に届いた。それは消灯の確認をする寮長のもの。この時間になると、毎日律義に彼女は全ての部屋の見回りを行っている。トレセン学園にある寮は、大小に関わらずその全てに同一の門限と就寝時間が定められている。生徒会によって規則として明文化されているそれは、まさしく鉄の掟であって、比較的緩い方針のウチの寮長といえども反故にはできないのだろう。
ただし、それはあくまで表立っての話。実のところ、電気が点いているところを発見されても小言を少々貰う程度で、あっさり許されることがほとんどだ。なにせ各部屋に集まっているのは遊びたい盛りの少女達……多少の御茶目はご愛敬にせねばキリが無い。
だから、こうして無理に眠気と戦わずとも、寮長に頼み込めば見逃してもらえはするのだが、今日ばかりはそうできない理由があった。
今夜、私が目論んでいるのは食堂への侵入だった。事件を解く鍵の一つである二つのソースとスイープトウショウのいたずら。これらの立証に当たっては、そもそも寮をこっそり抜け出すことは可能なのか? という前提をクリアしなければならない。
無論、スイープとフジキセキの話を総合すれば、その可否は既に明らかなのだが……。曲がりなりにも誰かを犯人として指名するというのに『おそらくそうだった』では話にならないし、何よりフェアじゃないだろう。かくして私はこの部屋と寮から、誰にもバレないよう脱出する必要があるわけだ。
テイオーを起こしてしまわないよう、慎重に席を立つと私は窓へと向かった。カーテンを除けてガラスを引けば、ひんやりとした夜の秋風がさぁっと押し寄せてくる。巻き上がる前髪を振り払って身を乗り出せば、そこに広がるのは遥かな高み。ほの暗い蛍光灯に照らされて、ずっと下に小さく花壇が見える。雑草取りをやる時は死ぬほど大きく感じるのに、今はあんなになるのは実に意地悪である。
スイープの部屋は三階。一方、私の住む部屋は五階――同じ脱出経路であっても、文字通り段違いに危険度は増している。ではなぜこんな無謀な真似を、と訊かれればそれは五階がトレセン学園全ての寮の中で最上階だからである。
したがってここからの脱出にさえ成功すれば、すなわち寮に住む全員にとって『深夜、寮をこっそり抜け出す事は可能』と証明できる――だなんて浅はかに考えた昼間の自分を力いっぱい殴りたい。
ウマ娘は人間よりもはるかに優れた運動能力を持ってはいるものの、決して万能なエスパーではないのだ。衝撃を受ければ打撲するし、打ちどころが悪ければ骨折する。私は幸いまだ経験したことは無いが、レースを走っている最中に不運にもそういった怪我に見舞われた子は何人か知っている。皆、笑った顔がどんな風だったか思い出せないくらいに顔を引きつらせて……。
「っ……」
背筋がぞくりとけば立って、思わず窓から離れた。やっぱり止めよう、いくら推理のためだからって、ここまで身体を張る必要無いじゃないか……。こんなことで怪我をしたら、それこそトレーナーちゃんにどう言い訳したら良いか分からない。完全に怖気づいてしまってベッドへ戻ろうとしたその瞬間、開け放った窓からそれが聞こえた。
「ライスシャワー……どうしたんだ……こんな時間に……呼び出して」
聞き違えるはずが無い。それはまさしく、私達のトレーナーの声だった。すぐさま窓へ戻って顔を覗かせる。薄暗がりの中を必死に目を凝らしてみたところ、寮からほど近い道合に、二人の人影を発見した。
「お兄様……ごめんなさい……どうしても……」
ダメだ。この距離からでは細部までは聞き取れない。より深く内容を把握するためには、ひとまず接近する必要があるだろう。合理的にそう判断した私は、ひとまず窓から身を躍らせた。
ひゅんと耳元を掠める風切り音と共に、形容しがたい浮遊感が包み込んでくる。スイープに後から教えてもらったが、落下中に壁を蹴って減速する必要があるらしい。具体的なやり方までは知らないが、彼女に出来て私に不可能は無いだろう。
コーナーを曲がる感覚で右脚を蹴り込んでみたところ、ちょうど良く壁にヒット。杭を打ち込むようなその感覚が全身へと流れて、その瞬間どうすべきか全て分かった。一瞬も間を空けず、足が壁にかけるベクトルを極限まで下向きに調整。身体を持ち上げる方向へと跳ねる。要は三角跳びの応用だ――それも上に到達する目的で無い分、より難易度は下がっている。
後はもう閃きが示す通りに四肢を動かすだけのことで、一秒も経たない間に私は花壇の中へ着地していた。ぱさっ……と乾いた音が隣で鳴って、その正体がさっきまで履いていた室内用のスリッパだと遅れて気付く。手に取って見れば、接触時の摩擦によるものか中心から真っ二つに千切れてしまっていた。つまりそれが意味するところは、素足だったら大怪我をしていたかもしれないということで。……そもそも私はこんな高さを飛び降りるつもりなんて、さらさら無かったような……?
「ライスシャワー! ダメだ、こんなところで」
ってそんな事考えてる場合じゃ無かった。私は素早く身を翻すと、声のした方へと静かに移動していく。どういった内容の会話が繰り広げられているかは甚だ不明だが、こんな深夜に、寮の外で、しかも二人きりでこっそり話しているという時点で怪しさはメーターをぶっちぎっている。事と次第によっては、トレーナーちゃんを問い詰める必要がある。
「お兄様、どうしてもなの。だからお願い、こんなライスを許して……!」
ライスシャワー……! まさかこのタイミングで、こんな形で抜け駆けを食らうとは。あんな事件があったばかりなのだから、しばらくはトレーナーと二人きりでゆっくりするべきか、と多目に見たのが間違いだった。こうなるのが分かっていたら、あの日第三グラウンドで彼女を行かせはしなかったのに。全ては私の失態か?
「待てって! こんなのダメだ、俺は君のトレーナーなんだぞ……!」
「どうしてもダメ? ライス、もう我慢できないの……」
ダメに決まってるダメダメ、ダメだったら……! そう思ってもしかし口には出せない。二人の立っている路のちょうど脇の草むらにやっとたどり着き、事態がどういった方向へ伸展しているのかを私はやっと目の当たりにできた。
トレーナーとライスシャワーはほとんど抱き合う一歩手前のような距離で向かい合っていた。……が、それだけだ。あられもない姿でくっついてるとか、そういった不埒な様子は全く無い。それが分かった途端、全身から力が抜けて私はへなへなとその場に崩れ落ちた。頭のてっぺんへと沸騰しかかっていた血液が、すぅっと急速に下がっていく。だがそんな私へさらに追い打ちをかけるように、ライスシャワーがとんでもない言葉を吐いた。
「ライス、この学園にいられない。出て行かなくちゃいけないの」
「どうしてだ、何の理由で。前のレースを気にしてるのか? 誰だって負けることはあるんだ。それに、君は今までめげずに頑張ってきたじゃないか」
「そういうことじゃないの、お兄様」
「じゃあなんなんだ。もしかして……いじめか? 君は大人しい性格だから……もしそんなことがあるのなら、俺が絶対に解決してみせる。だから話してくれよ」
二人は真剣な表情で会話を続けている。一方、それを草むらの影で盗み聞いている私はといえば、もちろん内心穏やかではなかった。
ライスシャワーが学園を去るといえば、その理由はもう推測するまでも無い。どう考えても例の事件絡みだ。だが、あいにくトレーナーは全く知らされていない……。かといって、今ここでライスシャワーが明かすこともまた無さそうだ。でなければ、こうもトレーナーは憔悴しきった顔をしていないだろう。恐ろしい事に、ライスシャワーは全てを自分一人で背負い込んだまま消え去ろうとしているらしい。
「ごめんね、ライスはお兄様に迷惑をかけてばかりだよね……。でも、やっぱり言えないの。何があっても……」
「そんなの通るか! 俺は君の担当トレーナーとして、最後まで付き合う。そう二人で約束したじゃないか」
いっそのこと私が事情を説明すべきか? ライスシャワーは何があっても口を割らない――彼女の気性からしてそれはもう間違いない。ならば、偶然にも居合わせた私が話すしかないのだろうか? 事件を推理しようなどとは、結局のところ私のエゴ。事をさも大きく取り扱ってきたが、大人の手に掛かれば一日かからず全部は丸く収まるだろう。私達のトレーナーなら、なおのこと。何なら明日の朝には<ファースト>全員と仲直りの握手にまでこぎつける。……これが本来の最善策なんだ。
私が草むらからゆっくり身を起こし、二人の前へと姿を現わそうと――したところで。
「ライスシャワー!」
ひと際大きな声で名前を呼んで、いきなりトレーナーがライスに抱き着いた。彼の大きな背が、小柄な彼女の身体をすっかりと包み込む。
「君が、何か大きな物を抱えているのは分かった。それが俺に言えないことだってのも。それでも、俺は君と離れたくない。離れたくないんだよ!」
「おにい……さま?」
「君の走りをまだ見てたいんだ。君が勝つところを見たい、君が笑うところをもっと見たい、ずっとずっと見てたいんだ。ごめんな、でも我がままなんだよ俺……」
トレーナーちゃんの声は、いつの間にか涙交じりのものになっていた。男の人が、顔をくしゃくしゃにして泣いているところを私は初めて見た。そしてそれはライスシャワーもどうやら同じらしかった。
「お兄様……? 変だよそんなの。私なんかに」
「だから、いなくなるなんて言わないでくれ。そんな寂しいことを口にしないでくれよ。俺は……君がいなかったら――」
痛い。
胸の奥とか頭とか、お腹とか……そういう特定の部位がどうとかじゃなくて。
とにかく、痛い。
我慢できないくらい……痛い。
私は耳を塞いで走り出して、夜の闇をひたすら駆けだして、とにかく二人から、トレーナーのいるところから逃げ出した。
まぶたが熱い。後から後からとめどなく涙が溢れてくる。止めようと思っても止められない。どれくらい足を動かしたか、いったいどこへ来たかも分からないけど、どこかで私はつまずいて、顔から地面に投げ出された。
体中が泥まみれになっても、感覚は寒いとか冷たいじゃなくて、相変わらず痛みだけで支配されている。それがいやでいやで振り払おうとして、手足をばたつかせようとしたけれど、痺れたような身体では何も上手くいかなくて代わりに喉から良く分からない呻きが勝手にほとばしった。
最初は嗚咽による言葉にもならないものだったけど、それはいつしか意味ある呟きになった。
「やっぱりかぁ。やっぱりだよねぇ。<ブルームス>だってライスちゃんが考えたチーム名だってマヤ知ってたもん。チームレースだっていっつもライスちゃんを中心に配分決めてたし、大事なレースは絶対に二人きりで行ってたし、お出かけも海も、チームで行くのとライスちゃんと行くのとで別だったし。初めからこうなるって、分かってた。マヤは最初からずっと、全部分かってた……んだけどなぁ」
夜で良かった。誰にも見られない、皆が寝静まったこの瞬間で本当に良かった。ユキッペにだって、テイオーにだって誰にも言えない……私が私である限り、絶対に口にできない、そんな恨み言。
「あーあ。それがこーんな形ではっきりさせられるなんてなー。何もあんなに見せつけるような感じじゃなくたってなぁ。せめてライスちゃんが告白するのが先にして欲しかったなぁ。だって、これじゃもう……もう……ああ」
しかし、溢れかえるような感情をたった一つの口だけで発散しきることは叶わず、どうしようもなくなった私はとりあえず寝転がって仰向けになった。
今夜はちょうど満月で、嘘みたいに真ん丸なお月様が、空の彼方に輝いている。
これからどうしようかと、徐々にぼんやりとしていく頭の片隅で考えた。
止めるべきか、進むべきか。どちらを選ぶにしても、大事なのは動機だ。
「そう、動機。この事件で一番大事だったのは動機。……ライスちゃんも、真犯人も、皆譲れない動機があったからこんな複雑なことになってる。じゃあ私は? 私はどんな理由で、この事件を解決するべきなんだろう」
薄れゆく意識にあって、しかしその答えはすぐに『分かった』。