名探偵マヤノトップガン    作:激辛党

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解答編……1

 午前十時ちょうど、昼間の空き教室に<ファースト>、<ブルームス>両チームの面々が集った。その数合わせて十五人、事件当日に居合わせた者に限ってもこれだけの人数となった。トレーニングや勉強に友達との付き合い――各々他にやることもたくさんあるだろうに、何の権限も無い私の誘いに乗ってくれたことにまず驚く。つまり事件の真相が皆、それだけ気に掛かっているということだ。今日、私が果たすべき役割の重さに、ゲートインした時にも似た高揚感を覚えもする。

 元々配置されていた机は全て後ろへ片付けて、人数分の椅子を黒板に対して孤を描くよう並べた教室。それぞれ座って、開始の合図を一同は今か今かと待ち望んでいる。その大きな期待に応えるべく、私は席を立って発言を始めた。

「今日は皆、集まってくれて本当にありがとう。それとこの一週間の間、私の調査に付き合ってくれたことも。特に<ファースト>は事件にほとんど関係無い子も多かったのに、初対面のマヤにとっても仲良くしてくれて、すっごく嬉しかった」

 お礼とともにぺこりと頭を下げると、照れたように何人かがはにかんで笑う。お互い名前すらしらない間柄だったのに、インタビューをきっかけに友達になれた子も中にはいて、そう考えるとこの一週間も決して悪くはなかったかもしれない。

「あー、そういう堅苦しいのは抜きにしてさ、早いとこ決着させようぜ。ドキドキして昨日から眠れてないヤツもいるみたいだし」

 ビターグラッセがさっそく横やりを飛ばしてくる。そんな彼女の脇腹を、さも恥ずかしそうに肘でつつくリトルココン。少々赤みの差したその目元からして、誰が睡眠不足なのかは一目瞭然だ。

「ごめんごめん、でもこういうのは大事だと思って」

「それなら終わった後でいいじゃん? せっかくこんだけ集まったんだから、合同練習とかしても楽しそう。……そういや野良レースするって約束だったよな?」

「おっと、そうは問屋が卸しませんよ? グラウンド使用禁止などもってのほか! そのために私達は日夜調査に取り組んできたのですからっ!」

「えー私は皆で一緒に走るの、とっても楽しいと思うんだけどなぁ」

 生来、じっとしていられないタイプの子が大勢集まった空間だ。ちょっと気が緩むとこの有様で、途端に教室はわいわいがやがやと雑談で溢れかえってしまう。こうなるともう推理を披露するような雰囲気にはとても――。

「皆うっさい! マヤノが頑張ってくれてんだから、ちょっとは静かにしなよ」

 リトルココンの一喝で、場は水を打ったように静まり返った。やっぱりなんだかんだで、真相が一番気になっているのは彼女のようだ。……あるいは、少しは私に友情らしき何かを感じてくれているのかもしれない。

 私は咳払いを一つすると、一歩進み出て存在をもう一度アピール。……今こうしていられるのも、トレーナーや生徒会に無理を言って捻出してもらった時間の賜物だ。皆が楽しくあるのは大事だけれど、締める所は締めなければならない。なにより……ここに来て、まだ一言も喋っていないライスシャワーのためにも。

「さて――じゃあ始めよっか。あ、その前に一つだけ。マヤは皆ともう友達になったつもりでいるけど、今からの説明では公平を期すために話し方を少し丁寧にします。聞き慣れない人もいるかもしれませんが、真犯人を指摘するという今回の推理の性質上、礼を失することがないようにという配慮ですので、どうかご了承を」

「マヤちゃん……?」

 不思議そうに首を傾げるハルウララの口を「お静かに~」と手で覆うフクキタル。別にそこまではしなくて良いと思うのだが……。

「はじめに、事件の概要をもう一度おさらいしましょうか。時間も経って、内容を忘れてしまった人がいるかもしれませんから。

 事が起きたのは今日からちょうど一週間前。<ファースト>が第三グラウンドにて、1600m距離のラップタイムを計測するとトレーニングを行っていた日です。<ファースト>の方々は、練習開始からそれぞれ黙々と周回をこなし、そして至る十五時二十分に異変が発生します。十分間隔で刻まれている給水時間になったので、リトルココンさんが水筒を置いているベンチに向かったところ、そこには<ブルームス>所属のライスシャワーさんが一人立っていました。彼女の手には空になったリトルココンさんの水筒、足元には水溜まり。客観的に判断しても、ライスシャワーさんが水筒に何か操作を加えたことは明白だと言える状況です。

 『日向に置いてあったから、日陰に移動させようとしたらうっかり転んでしまった。その際に中身が出てしまった』とはライスシャワーさんの弁です。……それは今もお変わりなく?」

「はい」

「……ありがとうございます。では続きまして、被害者となったリトルココンさんの意見。『水筒には蓋とロックがしてあった。転んだくらいで、全て零れだすわけがない。ライスシャワーは故意に私の水筒をひっくり返した』とおっしゃられたと記憶していますが……?」

「それでいいよ」

「ありがとうございます。ではこれで、皆さんにもお二方の意見の食い違いがご理解いただけたかと思います。喧嘩ではよくある互いの言い分じゃないか……とも感じられるかもしれませんが、しかし真実はいつも一つ。どちらかが誤った発言をしているのは間違いありません。ではどちらなのか?」

 ここで私はいったん一呼吸置いてから、彼女の方へ向き直って言った。

「それはライスシャワーさん、あなたです。転んだ程度で水筒の中身は流れださない。つまりあなたはあの時、ロックを外して蓋を取り、水筒を逆さにひっくり返して、握る両手を何度も振った。一滴たりとも残さないように……。違いますか?」

「ストップ、マヤノ! 何てことを言いだすのデスか!? あなたはライスを信じないのデスカ?」

 タイキシャトルが我慢できなくなったらしく、椅子を蹴り飛ばして立ち上がる。その彼女を「落ち着いてください」と制しながら、私は続けた。

「信じる信じないの話じゃない……私は事実を言っているまでです。実験は何度も試みましたが、あのタイプの水筒は少しどころか、かなりの衝撃を加えても中身を漏らすことはありませんでした。よって、どう考えようとライスシャワーさんの言葉は嘘です」

「それはもう皆だいたい分かっていたことデース! だからこそ、水筒を零した人物は他にいた……そういう調査をしていたんじゃありまセンか!?」

「いえ、水筒をひっくり返したのはライスシャワーさん以外ありえません。なぜなら水筒にはロックがかかっていて、かつ日向に置かれていたと彼女は言ったからです」

「どういう意味デスか?」

「偶然零してしまった……という嘘を吐くのならば、ライスシャワーさんは本来、水筒は日陰にあって、それにロックも外れていたと言うべきです。でなければ、すぐに嘘だと見抜かれてしまう……今回のように。ひるがえって、もし上述のような発言をしていれば、ある程度は誤魔化しが利いたはずです」

「……だから?」

「ライスシャワーさんの発言は、その部分だけは真実だったということ。水筒は彼女が来る前から日向にあって、ロックも蓋もされていて、中身も入ったままだった。となると、水筒を零したのはライスシャワーさんしかいないと必然的に決まる。……分かりましたか?」

 タイキシャトルはなおも狐につままれたような表情だったが、反論は思いつかなかったようで椅子に座り直した。代わりにリトルココンが手を挙げる。

「ちょっと待った。私、水筒は日陰にちゃんと置いてたって伝えたよね? なんで日向にあるのが事実みたいに言ってるの?」

「疑いようもなくそうだからです。でなければ、ライスシャワーさんからそのような言葉は出てこない。……もちろん、これだけだと循環論法のようになってしまいますから傍証を出します。先ほど私は水筒を零したのはライスシャワーさんしかいない……と発言しましたが、厳密には違う。彼女がやって来る前に、水筒には触れた者が一人いました。それこそがまさに、この事件の真犯人……日陰にあった水筒を日向に移し、ライスシャワーさんが中身を零さざるを得ない状況を作り上げた黒幕です」

「え~誰それ!?」

 話は呑み込めないといえども、説明の盛り上がりは察しているようでハルウララが楽しそうに相槌を打ってくれる。ちょっとテンションの上がった私は、結構な溜めを挟んだ後、その人物の名前を出した。

「クレセントエースさん、あなたが犯人です」

 一斉に彼女の方へと振り向く一同。指摘された本人は、さぁっと漫画のように分かりやすく顔を青ざめさせた。

「ではクレセントエースさんが、今回の事件の裏で何をやっていたのか。その内容を説明していきましょう。あの日、あなたはラップタイム計測に際して、ある重大な思いを抱いてコースを走っていた……。それは次のG1レースに絶対に出たい! という私達にとってはごくありふれた目標です。それだけに純粋で、誰にも負けないくらい強い気持ち。

ラップタイムが出走を決める指標となるのは事前に聞かされていたでしょうから、あなたはそれをクリアするために着々と努力を積んでいたはずです。……ですがその途中で、越えられない壁にぶち当たった。<ファースト>きっての長距離ステイヤー、リトルココンさんの存在です。彼女の実力が抜きんでていることは今期のレース結果をさかのぼっていっても明らかで、特に長距離分野では圧倒的でした。

 ですが、同じく長距離を得意とするウマ娘として、あなたはどうしても彼女を乗り越える必要があった。チームに与えられる出走権の枠は一つのみ。リトルココンさんを押しのけなければ、実力主義の<ファースト>にあっては、次のG1レースには出られない。強迫観念にも似たそんな思いが、あなたの内にはあったのでしょう。

 それが暴走した結果、あの日のトレーニングであなたはとんでもない過ちを犯すことになりました」

 クレセントエースは俯いたまま何も反応しない。ただし、膝の上に置いた両手は遠目でも分かるほどきつく握り締められていた。

「あなたはあの日、周囲の目を掻い潜って、給水時間でないのにベンチへと向かいましたね? そこでリトルココンさんの水筒に、にんじんデスソースを大量に混入させた。慣れていない人なら一口だけでも失神するほどの調味料です。練習後の喉が渇いている状態で、そんな代物が多量に含まれている水筒を手にしたら、いったいどうなるか……想像できないとは言わせません。最悪、病院に担ぎ込まれるような事態に発展する可能性すらある。少なくとも、トレーニングの続行は確実に不可能になるでしょう。

……あなたはそうすることによって、リトルココンさんが良い成績を残し、G1出走権を手にすることを防ごうとしたのです」

「はあ!?」

 驚愕の表情を浮かべて席から腰を浮かせるリトルココン。彼女からすれば、まさしく降って湧いた災難だ。実際には被害に伴わなかったとはいえ、そのショックはひとしおだろう。

「マヤノさん、お……お待ちをっ! 色々と言いたいことはありますけど、あの日好成績を残していたのはリトルココンさんだけじゃなかったですよね?」

フクキタルからの質問に「そこは私から説明をしようか」とビターグラッセが身を乗り出す。

「なにもあれはマイルの記録を計るためだけの練習じゃない。わざわざラップタイムを計測していたのは、最後の末脚やスタートダッシュも見るためだ。だから中、長距離の指標にもならなくはない……トレーナーがどこまで考えていたかは分からないけど」

「ステイヤーとしてならチーム二位に相当する実力を有していたクレセントエースさんにとっては、リトルココンさんにさえ勝てれば、次の長距離G1……有マ記念に確実に出られると踏んでいたのでしょう。あのレースの規模を考えれば、このように大それたことをする動機には十分なり得ます」

「でもでもでも! 周囲の目を掻い潜ってなんてさらっと流しましたが、あの時ベンチに行ける人がいなかったってのは、他でもないマヤノさんが何度も言ってきたことじゃないですか! これは一体――」

「そのトリックに関しては後ほどきちんと説明するので。今は事件を順序通り説明することを優先します。……では話を戻しまして、クレセントエースさんがたくらんだデスソースの混入ですが、これは皆さんご存知の通り失敗しました。そう……ライスシャワーさんの手によって」

 皆の視線が今度はライスシャワーへとさっと向く。だが、その当人は相変わらず暗い顔で押し黙ったままだ。

「あの日、マチカネフクキタルさんやタイキシャトルさんに先んじて、一人で第三グラウンドに先んじたあなたは幸か不幸か、クレセントエースさんが水筒に触れるその現場を目撃しました。彼女の手には、デスソースを移した容器が握られていたことでしょう。それを誰かの水筒に注ぎ込もうとしている……そんな場面に出くわしたあなたは、すぐさま彼女の意図を察した。なにせトレーニング中に独り、酷く焦った様子でそのような真似をしているのですから、これを不審と思わない方がおかしい。

 そこであなたが声を掛けたら、彼女はすぐさま逃げ出した。その際、目撃されたという動揺のあまり水筒は日向へ置いてしまった。……問題なのはここからです」

 私はごくりと唾を呑み込んでから、その先を口にした。

「あなたはまず、水筒の持ち主にこの事態を伝えることを考えたはずです。ですが、リトルココンさんの水筒には名札が無かった。さらに悪い事にあなたは<ファースト>とあまり交流を持っていませんでしたから、水筒にも見覚えは無い。そのため、持ち主にだけこっそり伝える事は不可能だと分かった。

 では自分はどうすれば良いか? 逃げ出した犯人を追ってグラウンドへ行くべきか? しかしそんなことをすればより騒ぎが大きくなるかもしれない。<ファースト>の面々に説明するのも論外だ……。そう、あなたがこの時に一番警戒していたのは、事態が公になることでした。是が非でも、たとえ何を犠牲にしたとしても、クレセントエースさんが悪事を働いたことが露見してはいけない。あなたはとにかくその一心でした。

 挙句、迷った末にあなたは最悪の手段に及びます。異物が混入した水筒を、その場で全て捨てた。こうすれば犯行の事実そのものが消え、クレセントエースさんが追及されることも無くなる。しかしその代わりに――」

「ライスが、犯人になるね」

 やっと立ち上がったかと思えば、彼女は開口一番そう言った。

「ライスが全部悪いの。他には誰も悪い人なんていない……。ずっとそう言ってる。マヤちゃんの推理、とっても面白かったけど、やっぱり粗が多いと思うよ? じゃあまず、さっきしてくれなかったトリックの説明を聞きたいな」

「……いいでしょう。言葉で表現するのは難しいので、図を使わせてもらいます」

 私は教室の黒板へ向かうと、チョークを使ってあの日のグラウンドの再現図を書いた。

「スタートラインがここ、ゴールラインがここで……。<ファースト>の皆さんが走っていたコースはこんな感じでしたね。さて、もう知っている方も多いことでしょうが、コーナーがゴール直前にあるこのコースでは、二人で走っているとある魔の瞬間が訪れることがあります。それは彼我の距離が十バ身以上離れている時に発生する、先を行く子の姿が死角に入るという現象。

 クレセントエースさんはマイル距離が苦手な方ですから、二人組を作れば後方を走ることが多かった。よって、これを知る機会はいくらでもあったことでしょう。しかし、もちろんこれだけでは犯行に用いることはできない……なぜなら死角に入れるのは、僅か三秒足らずのごく短い間だからです。それを越えれば、すぐに後続の視界に入ってバレてしまう」

「じゃあ無理じゃんか」

 リトルココンがけんもほろろに言う。

「私も最初はそう思い込んでいました。ですがこうすることで――」

 私は先ほどの図にそのコースを書き加えた(図参照)。

【挿絵表示】

 

 

「問題無くなります」

「……なにそれ。フェンスを越えるってこと?」

「はい。ゴールラインから、電光掲示板前のゲートまでそこまで距離はありません。ウマ娘のトップスピードなら、二秒も猶予があれば十分辿り着けます。フェンスさえくぐってしまえば後はこちらのもの。覗き見防止用にかなりの高さとなっていますから、よっぽど注視しない限り気付くことは無いでしょう。まして、全力で相手が走っているとなればなおさらです」

「全力で走るって……まさか、ベンチまで外周をぐるっと!? ずっと走りっぱなしで?」

「ええ、その通りです。クレセントエースさんは、マイルコースを外れた後、フェンスから出て、グラウンドの外周を一気に駆けて水筒の置かれているベンチへと向かった。ラップタイムを計測した後はある程度のクールタイムが許容されていましたが、それを含めても時間的余裕は全く無かったはずですから、速度を緩めることは無かった。また目視される危険性を考えれば、途中でグラウンド側へ出ることもまた一度も無かったでしょう」

「マヤちゃん、それってどれだけ距離があるか分かってる?」

 代わって、ライスシャワーが静かな声で指摘してくる。いよいよもって、私に真っ向から立ち向かうつもりらしい。

「もちろん。概算ですが、半周でも3000mは優に超えるでしょうね。これに元々のマイルコース、1600mを加えれば、軽く5000m以上の化け物レースの出来上がりです。これを全力で走り切れるウマはそうそういない。……それこそ、生粋のステイヤー以外は」

 私が何を言いたいのか理解したようで、クレセントエースがびくりと肩を震わせる。

「ですから、クラヴァットさんやデュオペルテさんのような、スタミナ面に不安のある子ではこのトリックは実行不能です。そもそもマイルが得意なら1600mでスタミナを使いきるように調整するでしょうから、好タイムを記録している子ほど逆に怪しくない。……その点、クレセントエースさんは余力を残してゴールラインを抜けている。十バ身の差が生じたのも後続のミスによるもの。後はつちかってきたスタミナと根性の勝負です。結果、彼女は賭けに勝って、見事ベンチへと誰にも見つからず辿り着き、かつ不審がられることなく待機場所へと戻ることができた」

「そうかな? さすがにフェンスをくぐって戻るところは、誰かに見つかるんじゃない?」

「そこはおそらく『実は帰りにお手洗いに寄ってて』とでも誤魔化したのです。幸い、このルートでいけばちょうど隣に化粧室があります。<ファースト>では無断でトレーニングから抜け出すのは禁止されていたようですが、何事にも例外はつきもの。それも行ってしまった後ともなれば、わざわざ告げ口する子もいないでしょう」

 どうやらそれを言われた心当たりがあったようで、端の方に座っていた<ファースト>の子がぎょっとした顔になった。……ただ、議論に巻き込むのはちょっと可哀想に思ったので指摘するのは止めておく。

「そっか……。でも、それがクレセントエースさんを犯人扱いする証拠って言うなら、ちょっと弱くないかな? 他の子達だって、長距離の練習を全然したことが無いって訳じゃないと思うもの」

「そう指摘されると思いまして、ここに過去の出走データも用意してあります」

 <ブルームス>の皆が集めてくれたデータベースからの引用したグラフを黒板へ張り付ける。細かい内容は抜きにして、それが各ウマ娘の評判の根拠を的確に再現していることは、すぐに皆が理解してくれたようだった。

「レースで積極的に手を抜くウマ娘を私は聞いたことがありません。何か特殊な事情があれば、もしかしたら別なのかもしれませんが、それにしたって人生に一度か二度くらいでしょう。ましてや、長距離という分野で活躍できる才能を、こんな使うかどうかも分からないトリックのためだけに隠しておくとは到底思えません。もう一度はっきり言いますが、十五時以降――すなわち最後にリトルココンさんが水筒に触れてからの時間帯で、このトリックを実現できたのは、クレセントエースさん……あなたしかいないんです」

 とうとう観念したかのように、がっくりと肩を落とすクレセントエース。しかし、彼女が何かを言う前にライスシャワーがその前に立ちはだかった。

「ううん、納得できない。そもそもクレセントエースさんが十バ身も差をつけられたのはほんの偶然だよね? 事件の成立に関わる重要なトリックを、そんな運任せで試みるかな?」

「ライス……さっきから黙って聞いていれば何のつもりデスか? マヤノはあなたの無実を晴らすために……!」

 食って掛かろうとするタイキシャトルを「いいの!」と私は遮った。

「ライスちゃんがそういう姿勢でこの場に来るのはマヤ、最初から分かってたから。……それにマヤの推理はまだ説明不足な点が多い。上手く指摘してくれて、逆に助かってるくらい。だから、いいの」

「それなら……」

 しぶしぶ椅子に戻るタイキシャトルを見届けた後、「えへん」と咳払いを挟んで口調を戻す。

「質問にお答えしましょう。クレセントエースさんの犯行は一見、計画性を持って見えますが、その実これは突発的なものです。食堂の調味料という足のつきやすい物を凶器に選んだこともそうですし、そもそも水筒に混入させるという行為自体、確実性に欠ける。被害者がいつそれを飲むかは分からない上、犯行の前に好タイムを出されていては意味が無くなる。はっきり言って、出走権を横取りする手法としては、成功の可能性はかなり低い。まだ朝食のコーヒーに何か仕込んでおく方がマシなくらいです」

「……ごめん、その辺あんま詳細に説明すんのやめてくれる? 何も食べられなくなりそう」

 さっきからずっと顔色の悪かったリトルココンが、いよいよ吐きそうな声色で言う。……失態だ、推理に夢中で彼女への配慮が足りなかった。

「あー……そうだな。マヤノ、気にせずに君は続行してくれ。ココンは確かに事件被害者だが、どうも流れからして彼女にこれ以上確認すべき事はないだろう? ちょっと保健室で休ませてくる。ほら、立てる?」

 ビターグラッセが彼女の肩を抱いて、教室から二人が連れ添って出てゆく。その後ろ姿を目で追うものの、胸が詰まって謝罪の言葉も間に合わなかった。

「どうしたのマヤノちゃん? それで終わり?」

「……っ。いいえ、続けます。……つまり、クレセントエースさんは出走のチャンスを掴む一助になればいいな――くらいのごく僅かな期待の下でこれらの準備をしていたのです。あるいは、最後の一押しでしょうか。リトルココンさんの調子が上がってきたら、これを使うしかないかも――と体操服のポケットにソースを忍ばせていたんです。

 ですから、使わないで済むならそれが最善だと本人が一番良く分かっていた。十バ身の差なんて自分ではそうそうつけられないし……と半ば投げやりに。トレーニングがもう終わろうかという、十五時二十分のぎりぎりになってしまったことからもそれが窺えます。

 クレセントエースさんにとって、後続がつまずいて差が出来てしまったのは、天の助けでもあり、同時に悪魔の囁きでもあった。その抗いがたい魅力に、彼女は屈してしまったんです」

「そんなに不確かな決意で、犯行がやり遂げられるものなの?」

「だから実際に失敗したんですよ。ここからは推測を多分に含みますが、クレセントエースさんは犯行直前になって躊躇を覚えてしまったのではないでしょうか? リトルココンさんの水筒を前にして、ソースを持った手が止まった。そのまま硬直すること何秒、何分か……その場をライスシャワーさんに目撃された。混入に成功したか否かは今となっては当事者のみが知ることですが、偶然にも二人のタイミングが合ったというよりは、こちらの方が考えやすい」

 私が喋り終えると、しんと静まり返る教室。これはもう決まったか、という顔を浮かべている子も多い中、ライスシャワーは依然として闘志の炎を瞳に宿している。

「まだだよ」

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