事件発生から二日後。第三グラウンドを貸し切って実地調査を行う。予約の取れた時間は日が少し傾いてくる十五時から。図らずしも事件の起きた時間帯と被ることになった。
「マヤちゃん~! 今日は何の練習をするのかなっ! わたし今すっごく走りたい気分だから、とっても楽しみだな!」
「ウララちゃん、今日はトレーナーちゃんに頼んでマイルのコースで練習することにしたんだ。そっちでやってみたいことがあって」
「ええ? 何のこと~? わたしにも教えて教えてー!」
「ハルウララさん……それはですね。非常に迂遠かつ深淵な策謀を孕んだまさに複雑怪奇千万な大殺界を解き明かすための唯一の鍵でして――」
「へ? フクキタルちゃんなんて言ってるの?」
頭にはてなマークをたくさん浮かべているハルウララ。そんな彼女の斜めに傾いだ頭を、タイキシャトルがわしゃわしゃとかき混ぜる。
「あっははくすぐったいよぅ」
「ウララが気にすることはありまセーン! あなたはいつも通り、元気良く走ってくれればそれでいいのデス!」
「そうなの? わーい、こっちのコース走るの久しぶり~!」
ハルウララははしゃぎながらコースへと駆けていく。その後を「オウ、待ってくだサイ。一人で走っては練習になりまセン」とタイキシャトルが追いかけていく。
……いつも通りに明るい二人の後ろ姿を見送る、私とマチカネフクキタル。今日、調査に参加するのは上記の四名だ。チーム<ブルームス>に欠けてはならないはずの、ライスシャワーの姿はどこにも無い。もちろん声は掛けたのだが、事件以降塞ぎがちとなってしまった彼女は、グラウンドどころかチームの部屋に来る素振りさえ見せてくれなかった。
「どーにか誤魔化しましたが、本当に良かったんですか? 同じチームの一員ですし、ハルウララさんにもちゃんと伝えた方が私はいいと思いますが……」
「うーん……。マヤもそうしたいのはやまやまなんだけど……できない理由が多すぎるんだよね」
ハルウララに事件のことを一切伝えないという判断については私が決めた。
彼女は例外なくチームの誰とでも仲が良いが、取り分けライスシャワーとは関係が深く、まさに親友と言って良い間柄だった。真相がまるで分かっていない現状で、下手に事実だけを伝えれば、いたずらに動揺させかねない。純粋無垢と元気溌剌を体現したかのような彼女が落ち込む姿は見るに忍びない、という見解でチームの全員は一致したわけだ。
さらにもう一点、より重大なのが――。
「おーい、走る前はちゃんと準備運動をしろよ~」
私とフクキタルが立っている所よりさらに後方、ベンチ付近に立っているトレーナーが大声で言う。ハルウララの遠征レースに同行していた彼も、今日からはチーム練習に参加していた。
「……ウララちゃん、確実に隠し事とかできないからトレーナーちゃんにすぐばれちゃう。それだけはどうしても避けないと」
「むむむ~。分かってはいるのですが、実にもどかしい。グラウンド使用禁止なんて、ビターグラッセさんが言いだしさえしなければ……」
「そこはもう仕方が無いよ。一週間の猶予を貰えたんだから、まだマシな方。もしあのまますぐに野良レース突入になってたら、マヤどう言い訳したらいいか分かんないよ」
「私もです……。ああトレーナーさん、申し訳ありません……事前の占いでは中吉という加護がありながら、よもやこのような事態に発展しようとは……」
よよよと泣き崩れるフクキタル。彼女は完全に、現状がトレーナーに伝わるのは不味いと信じ切ってくれているようだ。騙しているようで少し気が引けるが、これも真実を明らかにするため、いわゆる必要悪というヤツである。
「ほら俯かないで、フクキタルさん。あんまり変な動きをしてると、トレーナーちゃんが怪しむから」
「え、ええ分かっていますとも。ではマヤノさん、コースへ行きましょう」
ではなぜ<ブルームス>を率いる唯一の大人にして、私の担当をしてくれてもいるトレーナーを欺くような真似をしているのか――。
これは全く私の予想なのだが、もしトレーナーが事件のあらましを知ったなら、彼は一瞬で何もかもを解決してしまう気がするからだ。ビターグラッセ本人もインタビューで明かしていたが、グラウンドを一生使用禁止など、どう考えてもこの学園では通らない提案だ。優秀極まりない私達のトレーナーがそれを知れば、すぐにでも理事長代理へ直訴し、すぐにでも撤回させるに違いない。そうなれば最後、私の個人的な調査は続行不可能に陥る。なぜなら何の権限も持たない単なるウマ娘の私に、皆が協力してくれているのは、グラウンド使用禁止という脅威があるからだ。意味合いは少々違うだろうが、それはいわば私にとって唯一の後ろ盾。ライスシャワーの涙の理由を解き明かすために、どうしても失う訳にはいかない……たとえ、トレーナーに嘘を吐くことになろうとも、だ。
二人してもう走り始めてしまっていたタイキシャトルとハルウララを呼び戻して、今回行う予定の調査方法について改めて話す。事件現場となった第三グラウンドにて、当時の状況を出来得る限り再現する――。同じマイルコースを走るにしても、スタート地点や、ゴール後のクールダウンの仕方など調整しなければならない箇所が多々ある。
私はスマートフォンで事前に用意していた事件当時の再現画像を、トレーナーを除く全員に見せた(※図1参照)。
「今日はこの通りに走ってみて欲しいんだ」
「オウケイ!! 了解デース!」
「分かったよ~マヤちゃん!」
二人は二つ返事で答えると、私が示した通りのスタートラインに付いた。準備万端といった様子で低い姿勢で構え、こちらの合図を今か今かと待っている。
「どうした? マヤノとフクキタルは走らないのか? それと今見せてたのってなんだ?」
さすがに一連の動きを不審に思ったらしく、トレーナーが私に声をかけてくるが、この流れは想定済みだ。
「ふっふっふ~。トレーナーちゃんには秘密! 今日はせっかくのチーム練習でしょ? 皆で考えたある作戦を試してみようかと思ってるんだ。……ダメかな?」
「そりゃあ、やってみたいことがあるなら試すのは一向に構わないけど……。俺は仲間外れか、寂しいなぁ」
「むぅ~それを言うなら寂しかったのはマヤの方なんだから! 二日もトレセンに帰ってこないなんて」
「いやあれはその……ハルウララを遠征先で一人にするわけにもいかないし、仕方ないだろ!? それにテレビ電話だって毎日一時間以上はしてたじゃないか……」
「それは別なの~。だってトレーナーちゃん、ウララちゃんのレースの話ばっかりで、ちっとも楽しくなかった――」
「マヤノー! スタートのサインはまだデスか?」
……しまった、本来の目的を完全に忘れていた。慌てて手を上げようとすると、それより先にトレーナーが大きな声で「よし、スタート!」と二人に指示を出してしまった。
待ちくたびれていたせいか、綺麗なスタートを切った二人は直線を勢いよく駆けていく。力強く地面を蹴るタイキシャトルの脚色に陰りは見えず、私は思わず胸を撫で下ろした。先日、彼女にインタビューをした際は事件のことで深く悲しんでいたが、走りに影響は出ていない。<ブルームス>は崩壊の岐路に立たされているのでは、という不安は私の杞憂に過ぎなかったようだ。
「ん~相変わらずとんでもない豪脚の持ち主ですね、タイキシャトルさん。まだ半分もいってないのに、ハルウララさんがぐいぐい離されていってます」
しげしげとそう呟くフクキタルはベンチとは反対側に設置されている電光掲示板に見入っている。そこにでかでか表示されているのは二人の400m区間のラップタイム。コース各所に設置されているセンサーは完全自動となっていて、グラウンドの利用者は特に複雑な操作をせずともそれらの恩恵にあずかれる。わざわざ人がコースの傍に立って、ストップウォッチを弄っていた昔とは大違いだ。
二人はいよいよコーナーへと差し掛かり、ゴールラインを目掛けてラストの曲線を走っていく。通常のレースではその後に最終直線が用意されているものだが、今回のコース設定だと曲がり終えた所ですぐゴールとなる。レースに向けた練習としては不適格なのではないかと、監修を務めたビターグラッセに尋ねたところ、以下のような答えが得られた。
『ラップタイム計測がメインなんだから、センサーの位置的にこれが一番効率良いんだ。他だとどうしても微妙にずれちゃってね。かといって2000mにすると体力面でついてこられなくなる子が出てしまう……と。他のチームも、このグラウンドを使う時は結構悩んでるんじゃないかな』
確かに<ブルームス>のトレーナーも第三グラウンドの使用時には色々頭を捻っていた。今日のトレーニングを私に丸投げ――もとい一任してくれたのも、その辺りの事情があったからかもしれない。
「イェス! ゴォール! さっそく今日のベストタイムね!」
あれこれと思考を巡らせていたところ、タイキシャトルがいつの間にかゴールラインを抜けていた。一方、ハルウララの姿は未だコーナーの真っただ中……。バ身で言うなら、十以上の距離が空けられてしまっている。マイルコースへの適正はお互いかなり高かったはずだから、ここは経験の差が如実に出た形だ。
タイキシャトルのタイム、一分三十二秒から遅れることたっぷり二秒。一分三十四秒でハルウララがゴールした。待っていたタイキシャトルとハイタッチを交わし、コースに沿ってゆっくりと私達の方へと戻ってくる。
「今の走り、ドーでしたか、マヤノさん! 今日は調子がベリーグッド! まだまだいけマスよ!」
「負けちゃったけど、わたしもすっごく楽しかったよ~。もう一周してきて良い?」
今にもそのままスタートを切りそうな二人を「待て待て」とトレーナーが落ち着かせる。いかに体力が有り余っていよいと、無闇に走り続けては疲労が溜まるばかりだ。彼は二人の傍へ行くと、気になった点や次に向けたアドバイスなどを伝え始める。その様子を遠巻きに眺めていると、フクキタルが神妙な顔で訊いてきた。
「あのマヤノさん……私、もしかしたら気付いてしまったかもしれません」
「ん? 何に?」
「今の模擬レースを見ていて、天啓と言うべきか天運と言うべきか、ともあれ突如として脳裏にびがっとある考えが閃いたのです。しかしこれを果たしてマヤノさんに伝えるべきか否か……釈迦に説法なのではないかと思い悩む次第……。ぶっちゃけ外れてたら恥ずかしいなぁ……と」
「い、いいからいいから。マヤだってまだ何にも思いついてないし。分かったことがあるなら、何でも教えて欲しいな」
「ええっとですね……口で説明するのは難しいので……先ほどの画像をもう一度見せて頂けますか?」
言われるがままにそれを見せると、彼女は図のコーナー付近を指で示した。
「Aの位置が先ほどタイキシャトルさんがいた位置、Bがハルウララさんだとしてですよ? お二方はつまりこのくらい離れていたわけです。着差はおよそ二秒……実時間としてはあっという間ですが、レース結果としては圧倒的な開きです」
「確かにそのくらいの距離はあったね。でもフクキタルさん、それが何に繋がるの?」
「それはもちろん、あの事件に決まっています! マヤノさんのお話では事件発生時、水筒の置いてあるベンチに近寄れる人物はいなかった……ということでしたよね?」
「うん。そう聞いてるし、ビターグラッセさんの言葉に嘘が無かったなら、私もその通りだと思う」
あの時、<ファースト>のメンバーは、ラップタイムを計測する二人組を除いて、それ以外全員がスタートラインで待機していた。位置取りだけを考えるならベンチに近いと言えなくもないが、そこへ向かうには監督役の許しが必要で、本人の話ではそれをした覚えはただの一度も無いとのことだった。また密集形態で待機していたことを考えると、こっそり一団から抜け出す……というのも現実的ではないだろう。よって、私は水筒に触れることができた人物はいないと結論付けていたのだが……フクキタルはどうやらそこに新発見を見出したらしい。
「二人一組で走っているからといって、決して常にお互いを認識しているとは限りません。先ほどのタイキシャトルさんがいたAの位置は、Bのハルウララさんからは死角となっていたのではないでしょうか?」
「んん? そうかなぁ……いくらなんでも、レース中に前を行っている人を見失ったりしないと思うけど」
「それだけではありませんっ! ハルウララさんはコーナーの途中です。体勢的に視点の角度は電光掲示板へ大きく逸れていたはず。さらに走っている最中はそこまで周囲に集中力を割けるものでもありませんし、可能性は十分に考えられるのです!」
「電光掲示板……? あ、そっか。そこにはタイムも表示されるから」
「ええ、それもあるでしょう。自分のラップタイムはどーしても気になる。場合によっては、もう追い抜くことは不可能と決まった勝負相手より、ずっと注意を惹くかもしれません」
「なるほど……」
フクキタルの言わんとするところを理解した私は、さっそくハルウララに直接聞いてみることにした。タイキシャトルがどこにいるか、常に把握できていたか――というその問いに対し、彼女は「んー?」と悩まし気に言った。
「見えてたような……そうでもないような。でもでも、ハイタッチは一緒にしたよ!」
「じゃあウララちゃんもう一つ、タイキシャトルさんはゴールした瞬間にあるポーズをしていたんだけど、それが何だったか分かる?」
ハルウララは朗らかに「分かんない!」と答えてくれた。ちなみに、タイキシャトルがしていたのはいつもの親指を上げたグッドサインだった。
その後、私はより検証を重ねるために自分でも何度かコースを走ってみた。フクキタル、タイキシャトルとの協力の元、トレーナーが困り顔になるまでトレーニングを続けた結果、以下の点を明確にすることができた。
まずAのランナーが死角に入るためには、後続のBに十バ身以上の差をつけなくてはならない。これは確実に不可欠の要素で、それ以内の距離にまで迫ると、どれだけ注意力散漫であっても、自然と後ろ姿が目についてしまう。……1600mという短めの距離でそれだけの差をつけるのは、練習とはいえ至難の技だったが、ここはクリアしなければならない大前提だ。
次に、死角に入るといってもそれはほんの一瞬だということ。具体的にはBの視点からゴールラインが見えるまで、一秒とその半分といったところ。そこを超えるとやはりAの姿は否が応でも入り込んでくる。その猶予を引き伸ばすことは不可能で、例えばゴールを抜けても全力疾走を続けるなどしても、コースが直線となっている以上、悪あがきにすらならなかった。
極めつけは、同じ相手には一度しか通用しないということだ。あのハルウララでさえ(こういう表現は多分に失礼だが)もう一度実験を頼むと、今度はAを見逃すことは無かった。となると無論、タイキシャトルやフクキタルでも同様で、いくら差が開こうが他所を見ようが相手が速かろうが、やはり見失わない。そもそも人間の視野の角度を考えればこれはごく普通の話で、むしろ一度目は奇跡に近いものだと考えた方が良さそうだ。
といった諸々を考慮したうえで、私が出した結論は「このトリックは犯行に使えない」だった。
「フクキタルさんには申し訳ないけど、これじゃやっぱり無理だよ。水筒の置かれているベンチまではコースを突っ切っても軽く500m以上はある。それまでの間、後ろの子に全く見つからないなんてのは有り得ない。運任せで何度か試すってのも性質上難しいし、仮にそこを乗り越えたとしても、スタートライン位置にいる待機メンバーの目も逃れないといけない。……その上で、ベンチの水筒に工作してまた元の位置に戻る――そんな余裕は無いと思うな」
「ふぐぐぐぐぅ……! この閃きはシラオキ様より賜った託宣に違いないと思っていたのですがっ。そう正論で責め立てられては、返す言葉もございません……。出しゃばり過ぎた結果の大恥、出る杭は打たれるとはまさにこのこと……。すみませんすみません以降私は大人しくすっこんでいます……」
「ちょちょ、ちょっと。そこまでは言ってないって。当たりじゃなかったけど、マヤもいい線いってるとは思うんだ。ただもう一捻り――というか、あと一歩足りないっていうか。そこが思いつかなくて、もどかしいなぁって」
「そう言っていただけると恐悦至極ですが、アイデアがこれ以上無いのはマヤノさんも同じであると……。ああ先ほどの快進撃はどこへやら、事態はいつの間に八方塞がりに」
またもへなへなと崩れ落ちるフクキタル。芝居がかった口調で分りづらいが、落ち込んでいるのは本当のようで、ずんずんと顔色が沈んで青色になっていく。
「だいじょうぶ、まだ時間はあるんだから。聞き込み調査をしていない子だってまだたくさんいるし……。ほらほら、そんなところで座り込んでると、トレーナーちゃんが不思議に思うよ?」
「ええぞうででずねっ……。よっと」
体操着についた土埃をフクキタルが払っていると、最後の周回を終えたタイキシャトルとハルウララがこちらへとやってきた。
「おつかれさまデース! マヤノにフクキタル! 何か分かったことはありマシタか?」
「さっきから皆して何か楽しそうだね~。ウララにも教えて欲しいなぁ」
「ごめんごめん、仲間外れにしてるわけじゃないんだ。答えが出たら、ちゃんとウララちゃんにも教えてあげるから」
「フームどうやら調査は難航しているようデスね。グラウンドに来れば何か分かると思ったのデスが」
「いえいえ成果は無きにしも非ずだったのです。ただ芽が出なかっただけでして」
和気あいあいと話し合う<ブルームス>の面々。久しぶりに明るい空気が戻ってきたかと思ったところで、「そういえばライスちゃんは?」とハルウララが屈託の無い声で言った。
「てっきり後から来ると思ってたんだけど、練習時間もう終わっちゃうよね? ライスちゃん、今日レースだったっけ?」
どう伝えたものかと顔を見合わせる私達。すると、後ろでずっとニコニコ眺めていたトレーナーがにゅっと現れて言った。
「ああ、ライスシャワーからは欠席の連絡が届いてたぞ。どうにも都合が悪くって、ごめんないさいお兄様って。ジムで自主練習でもやってるってことなのかな?」
「そうだったんだぁ。ライスちゃん、一人でも頑張れるなんてすごいね。わたしだったらすぐサボっちゃうよ」
「そうだと良いんデスけど……」
事情を知っているタイキシャトルが、とっさに暗い調子で相槌を打ってしまう。普段は鈍いトレーナーもこれは聞き逃さず、「どうしたタイキ」と鋭く突っ込んできた。
「ライスシャワーの休みについて、何か知っていることがあるのか?」
「いえいえいえ! そのような事は決して全くこれっぽっちも有り得ませんとも。トレーナーさんの勘違いです、はい」
「なんでフクキタルが答えるんだ……? まぁいいけど、あれだけ頑張り屋なライスがチーム練習を休むってのには、のっぴきならない事情があるんじゃないかと思ってさ。皆は知らない?」
「うーんトレーナーちゃん。その、それは……」
どう誤魔化したものかと私が頭を抱えていると、「なぁマヤノ?」と急にトレーナーがこちらへ矛先を向けてきた。
「君もなんだか練習開始から様子がおかしくないか。まさか――」
と、そこで言葉を切ってあろうことか私の両肩をぎゅっと握ってくる。
「何か俺に隠し事とかしてない?」
「わひゃっ……ひゃっ……」
触れた肌から、トレーナーの体温がしっとりと伝わってきて。考えていた言い訳は何もかもてんでバラバラに、代わりに頭を埋めつくすのはドキドキという自分の心臓の音。
「と、トレーナーちゃん、近いよぅ」
「マヤノ。本当のことを言ってくれ」
それだけに留まらず、次第に近づいてくるトレーナーの顔。いったい何をするつもり、それも皆が見ている前でなんて。私の頭が沸騰しかけたその瞬間、出し抜けに横合いから低い声が聞こえた。
「お兄様? ……なにしてるの」
「ひょえっ! ら、ライス? いつの間に」
「いつの間にって……ずっと見てたよ? お兄様」
私とトレーナーの間に、割って入るようにしていずこから飛び出してきたのはライスシャワー。今もって事件の渦中にあるウマ娘にして<ブルームス>の筆頭、その人だった。ゼッケン付きの体操服をしっかり着込んでいるところからして、練習へ参加しにきた風ではあるが……。
「ずっとそこって……どこにもいなかったろ君。だいたい欠席の連絡が」
「その……皆が頑張ってるのに、ライスだけ来ないのはいけないなって少し経って考え直したの。でも来てみたら皆すっごく一所懸命走ってて、遅刻したことが申し訳なくなって……」
「それで、どう声をかけたものか分からなくなったと。しかし、ずっと見ていたとは……ライスさん、じゃあグラウンドに結構前からいたという事ですか?」
フクキタルが強張った顔でそう訊くと、ライスシャワーは「うん、そうだよ」とためらいなく頷く。
「あ、でも正確にはグラウンドじゃないかも……。柵の向こう側、ベンチのとこから見てたの。あの位置からなら、ちょっと顔を出したらコースの半分は見えるから」
公道が近くにある第三グラウンドは、その外周をぐるりと覗き見防止の高いフェンスで覆われている。ゲートは手洗いのある場所とコーナー付近にのみあって、その他から出入りすることは出来ない。しかしライスシャワーの言うベンチ側には、コンクリートの段があるため、実際にグラウンド内の地面よりも高くなっていた。彼女の低い背丈でも、そこからならコース内の様子を全部とは言わないまでも、ある程度窺うことができただろう。
「あのなぁ、ライス……遅れるなんてのは誰にでも有り得ることなんだから、そういう時は遠慮せずに言ってくれて良いんだ。誰も君を責めたりしない」
「お、お兄様……そうだよね。ライス、間違えてたね」
ライスシャワーは感極まった表情で、さりげなくトレーナーへと接近する……ものの、身体が触れ合う寸前で止まってしまう。彼女には色々と訊きたい事があったが、そのどこまでも控えめな仕草に、私はすっかりその気が失せてしまった。
「さて、グラウンドの使用時間も迫ってるし、今日はこのくらいにしておこうか。ライス、まだ走りたいっていうなら、学園外の土手で付き合うぞ」
「いいの? お兄様」
「ああもちろん。ここ数日はハルウララのレースで空けてたからな、そのお詫びってわけじゃないけど……」
「はーあ。マヤなんだか疲れちゃった。食堂に行って、おやつでも食べよっかな~」
「オウ、名案デース! ワタシも突然ハンバーガーが食べたくなったところデス!」
「それは重畳! 私もたった今やりました下駄占いで、グリンピースを速やかに摂取するのが吉と出たところです。ぜひぜひお供しますとも」
「え? 私はおやつより、ライスちゃんと一緒に走りたいかな――」
「そんなウララさんに耳より情報! にんじんプリンなる物が、食堂で今日から発売されているそうですよ?」
「ほんと!? なにそれ、食べたい食べた―い!」
皆で示し合わせて、トレーナーとライスシャワーを二人きりに。普段の私なら是が非でもそんなものは許さないところだけど、今日は別だ。思いもよらなかっただろう展開に戸惑っている彼女に、手を振って短くさよならの挨拶。
「それじゃ、またね。ライスちゃん。……今度は、ちゃんとお話し聞かせてね」
しかし、あったであろう彼女からの返事は小さく、走り去る私の耳には届かなかった。