「………………ぁ、れ」
気が付くとそこは黄泉川家の天井…ではなく先程見た蛍光灯の付いた天井だった。
分かっていたつもりだったが、どうやら現実というやつは私の想像以上に非情なものらしい。
「気分はどうだ」
起きてすぐ横を見てみると、そこには夜蛾さんが座っていた。
答えようとして声を出してみるものの、長い間水を飲んでいなかったせいか喉が渇いて上手く発声できない。
そんな私を見た夜蛾さんは黙って水の入ったペットボトルを差し出してくれた。
軽く会釈して有難くそれを頂戴し、浴びるように水を飲む。
飲み口から口を離す時にはもうペットボトルの中身はほとんど空になっていた。
「そんなに喉が渇いていたのか」夜蛾さんが少し驚いたふうに聞いてくる。
私は少し気恥ずかしくなって、誤魔化すように頬を掻きながら「ええまぁ…その、お昼からなんにも飲んでなくって」と強盗被害に遭ったことは伏せながら正直に話した。
「そうか」
夜蛾さんはそれだけ言うと手元に視線を落とす。
数分気まずい空気が漂ったものの、静かに告げられた一言がその雰囲気を断ち切った。
「…君のことを調べさせてもらったが、」
「驚いたことに、戸籍や住民票などをあらかた調べてみてもそれらはおろか〝落界レイトが生きていた痕跡さえもが〟全く存在していなかった」
「────」
やっぱりな、と。
半ば諦め気味にため息を漏らした。
先の夜蛾さんの「学園都市は存在しない」と言う発言。
私がいた世界の日本人であれば絶対に言うはずのない言葉。
そして、保健室の壁に掛けられていたカレンダーには『西暦2006年』と書かれている。
この際ナチュラルにタイムスリップしているのは置いておくが、この頃の学園都市はすでに世界有数の科学・教育機関として名を馳せており、日本であればどんな辺境の地に住もうとも学園都市の評判を聞くほどには有名で。
このタイミングで「学園都市が存在しない」という言葉が出るということはある一つの可能性が出てきたということだ。
その可能性というのが…俗に言う『異世界転移』である。
………正直考えたくはなかったし、信じたくもなかったけれど。
「驚かないのか」
「驚いてないわけではないです。ただ、ちょっと、その…疲れてしまって」
不幸やらさっきの悪夢のような夢を見たお陰で、既に精神力が一気に削られ力無く笑うことしか出来なかった。
いや、そもそも。
私は笑っているのか、ちゃんと笑えているのか。
私が笑顔を作っているつもりでも、鏡を見れば実は無表情のままなのではないだろうか。
…もう、疲れた。
不幸如きに私の幸せな一時を台無しにされ、あまつさえマンホールから落下して(暫定)異世界へと転移し、そして動揺のあまり気絶して、あの悪夢のような夢を見て…。
ここに来てから併せて12時間ほど眠っていたらしいが…全くもって気分が晴れない。
むしろ逆に疲労が溜まっているような気がする。
ああ帰りたい。
あっくんに会いたい。
どうして私がこんな目にあわなくちゃいけないのだろう。
どうして、どうして───。
そんな淀みが、私の奥でグルグル廻り、そして。
ぐしゃり、と。
気が付くと、持っていたペットボトルを握り潰していたようだった。
脳を怪我しているというのに、まだこんな力を残していたのかと私は自嘲気味に笑う。
「…本当に大丈夫か」
「大丈夫ですよ」
殆どノータイムで虚勢を張った。
別に『これ以上他人に心配を掛けさせるわけにはいかないから』なんて、そんな綺麗な理由で『大丈夫』を取り繕ったわけじゃない。
何もかもが面倒で、あらゆるものがどうでもよかった。
ただそれだけの理由で、私は投げやりな形で虚言を吐いた。
命の恩人に対してする態度じゃないってことは分かってる。
どこに打ち捨てられようと、文句すら言えないようなことを私はしてしまった。
なのにどうして。
どうして貴方は、そんな真剣な眼差しで私を見据えてくれるのだろう。
「君の話を聞かせてくれないか」
「…話」
かけられたのは、予想外の言葉だった。
てっきり追い出されるかと思っていたのだが…『話を聞かせてくれ』か。
「私の話なんて聞いてもただの子供の妄言にしか聞こえないと思いますよ。今の私は、戸籍も存在を証明するものも何も無い。無い無い尽くしの身元不明な怪しい人物ですし」
突き放すように私は言う。けれど彼はそれでも引き下がった。
「確かに君は怪しい人物だ。だが話を聞かない限りは呪詛師かそうじゃないかの判断を下すことも出来ない。例え妄言じみた話だったとしても、一時期ではあるが俺は君の話を信じると約束しよう」
「……………。」
『呪詛師』が何なのかは分からなかったが、要は私の話を聞いてから敵か味方か見極めるってことなんだろうか。
双方黙ってしばらくの間互いの目を見ていたが、気力も忍耐も反抗するだけの余力もなかった私は早々に諦め、彼の言う『呪詛師』…というか『呪術』?について教えてもらう変わりに(この取引をした際、夜蛾さんは何か呟いていたが)私は私のいた世界について知っていることを話した。
と言っても、さすがに魔術サイドについてまで話す必要は無いと判断したため科学サイドについてのみだが。
◈
………うん。
科学サイドの総本山たる学園都市と能力開発、そして私の持つ能力について説明したはいいものの。
自分で言ってて現実離れした話だなと改めて思った。
都市に住む総人口230万人の約8割が学生という時点で既に現実離れが過ぎるが、更に学生全員が脳の改造を施され、能力の開発を行っているなんて、最早夢物語などという次元を超えているとしか言いようがなく、正体と目的を知っている私でさえ、客観的に見たことによって改めて学園都市という街の異常性を再認識した気がした。
それに、私が話したのは学園都市の表面上の話だけ。
裏側の話はしなかった。暗部の事なんて、それこそ一般人相手に気軽に言えるようなものじゃない。
私でさえ、暗部で行われた実験内容を思い出すだけでも胸糞悪くなるというのに。
しかし、夜蛾さんは聞き始めから聞き終わりまで、決して「ありえない」だとか「信じられない」などというわけでもなく、ただ納得したように、うんうん頷いて「なるほど、大まかな事情は理解した」と言うだけだった。
というか。
あの世界に住む学園都市の名前だけを知っている外部の人間に説明しても理解してもらえるかすら怪しい話を、学園都市の〝が〟の字も知らないような異世界の人間が何故こうもすんなり理解出来るのかが謎だ。
と思ったがしかし、聞くところによると、呪術と能力は少し似通った部分があったため大方の理解が出来たとのこと。
夜蛾さんの説明を受けるまで、私は呪術師…いや『呪術』という物をてっきり私のいた世界で言うところの〝魔術〟と同じような物なんだと認識していた。
けれど、その認識は間違いだった。
より正確に言えば『半分正解の半分不正解』と言うべきか。
どうやら呪術というのは、例えるとすれば能力と魔術を足して2で割ったようなものらしい。
能力と似ている部分を挙げるなら、やはり一人に一つ。特有の能力…というより術式?が備わっているという点か。
ただ、呪術の場合は先天的、対して能力の場合は脳の開発によって授かった後天的なものであり、この時点では能力と言うより『原石』に近いな、と私は思った。
魔術と似通っているところと言えば、やはり目に見えない『力』を使っているという部分だろう。
魔術を行使するには魔力が必要であり、また呪術を使う場合には『呪力』という人間の負の感情を原料としたエネルギーが欠かせないようだった。
「なるほど…確かに、能力のことを全く知らないような夜蛾さんがすぐに理解出来たのも納得です。所々違いますけど似ている部分も要所要所でありますね。それで、呪術を行使する呪術師というのはどんな存在なんですか?」
「呪術師、というのは基本的に〝呪霊〟を祓い、非術師を守る者達のことを言う」
呪霊。
負の感情から生まれた異形の存在。
人に害をなし、この世界で起こっている怪死時件や行方不明事件の殆どが呪霊による被害とされているらしい。
呪いは呪いでしか祓うことが出来ず、だからこそ呪霊から人々を守るために呪術師というのが存在している。
反対に、呪詛師は人間に危害を加える呪術師のことを言うとのこと。
呪いは呪いでしか祓えない───なんて。
普通呪いに呪いをぶつけたらさらに強力な呪いが出来上がるだけなのでは?とも思ったが、ここではそれが常識らしいので、私は余計なことを言うまいと口を噤んだ。
「それで、私が今いる学校がその呪術師を養成するための学校であると」
「そうだ」
都立呪術専門学校は、東京郊外にある学校で表向きは宗教系の学校ということになっており、京都の方にも姉妹校があるらしい。
本来であれば「天元様」という呪術師が張る結界によって守られているようで、未登録の呪力が発生・侵入した場合はアラートが鳴る仕組みになっているとのこと。
非術師でも多少の呪力を持っているため鳴るはずなのだが…私の場合はアラートが全く鳴らなかったため、悩んだ末に仕方なく介抱したと、夜蛾さんはため息をつきながらそう言った。
「なんか、その…すみません」
「いや。とりあえずは君が呪詛師でないとわかっただけでも大きな収穫だろう」
呪術についてのざっくりとした説明が終わり、粗方の情報交換は出来た。
後は…どうやって元いた世界に帰るまで生きていくかだろう。
マネーカードは持っているものの、この世界ではただの紙切れ同然。
戸籍もない上に私の姿はどこをどう見ても〝ただの非力な子供〟だ。
さらに言えば脳の半分に傷を負い、結果頭に電極を刺す羽目になり、杖に頼らざるを得ない生活を余儀なくされている私に近づこうと思う、ましてや雇ってくれる人間なんて世界中どこを探しても見つからないだろう。
ああ…死ぬ前にあっくんと式を挙げたかったな。
さらばあっくん。君を幸せにする役は、他の誰かに譲ることにするよ。
「なんで半泣きになっているんだ君は」
「このまま野垂れ死にする運命なんだなと思うと悲しくなりまして」
「ああ、そのことについてなんだが」
「いえ、分かってます。もうこれ以上お世話になるわけにも行きませんからね。今までお世話になりました。ということで私は早めにここを出て───」
「早まるな。そして話は最後まで聞け」
夜蛾さんはそう言うと、ベッドから降りようとした私の首根っこを掴んで強引に座らせた。
まだ何か話があるのだろうか。
「君の身柄についてだが、俺の元で保護しようと思う」
その言葉を聞いた時、私は思わず夜蛾さんの顔を二度見した。
正気か、この人。
「そして、高専生としてこの学校に入学させたいと思っている」
正気じゃなかったこの人。
「本気ですか。アラームってやつに引っかからなかったってことは、私にはおおよそ『呪力』と呼べるものがないってことですよね?呪術師どころか、補助監督…でしたっけ。それさえ私には到底務まりませんよ」
一般人に見られないために『帳』とやらを張るにも『呪力』がいる。
一応、呪術師の送迎なども補助監督の仕事に含まれるらしい。
それでも呪術師にわざわざ呪力を割いてもらってまで帳を張るよりも補助監督が帳を張り、後は呪術師に全て任せる方が理にかなっているだろう。
呪術師を送迎し、事務仕事をするだけの補助監督なんて、前線で命を張って戦っている呪術師達に反感を買いそうだ。
「いや、補助監督ではなく、呪術師として君には活動してもらいたい」
「えっ」
「確かに君には『呪力』がない。だが補助監督とは別の形で前線でサポートができるはずだと、俺は思っている」
「それって……」
「君にはあるんだろう。それを可能にするだけの能力が」
───なるほど。そうか、盲点だった。
あの能力が呪霊にも効くのであれば、祓うことは出来なくとも大幅に弱体化させることは可能かもしれない。
私の持つ本来の
あらゆるものを
人間だろうが、そうじゃなかろうが───例え神であろうと問答無用で弱体化させ、無力化する力。
この能力が呪霊にも通用するのなら…特級呪霊と呼ばれる最高ランクの呪霊でさえも四級以下の低級呪霊に格下げ出来る、かもしれない。
まぁ…まだ試したことないから可能かどうかも分からないけれど。
「もし本当に、君の能力があらゆるものを弱体化させると言うのなら、その力は呪術界にとっての切り札になり得るだろう。その分上層部に目をつけられたら何をされるか分からないが…」
上層部、ね。
あの世界でも『上層部』という言葉には良い印象を抱いたことは無い。むしろ聞くだけで不穏な予感すらさせる言葉だ。
「ここに入学するなら、術式を偽って一応四級術師として話を通しておく…とは言え隠し通すのにも限度があるがな。基本的に上層部は自分の保身しか頭にない。バレたら最悪死刑…ということも普通に有り得る」
「えぇ…」
そこまで腐ってるのか。
もしかしたら学園都市上層部よりも…いや、比べるのは野暮ってやつだろう。
「リスクはあるが、一応の衣食住は提供するし、卒業後も寮を拠点にして元の世界に帰るための方法を探すのも構わない。もちろん、呪術師のサポートも引き続きしてもらうが───どうする」
それを聞いて、私はふっと笑った。
異世界だと知って動揺したりもしたけれど。
覚悟はとうの昔に出来ていたし、答えは既に決まっている。
私の答えは───
「あの、夜蛾さん」
そう言って、保健室から去ろうとしていた彼を引き留め、こう質問した。
「どうして、ここまでして私を助けてくれるんですか?」
彼は振り向かずに、ただ一言だけ言って、今度こそ保健室から出ていった。
───『ここで終わらせるには惜しい子供だと思ったからだ』