「クソッ.....!」
猪狩守は悔しさで下唇を噛む。彼は2回表、牽制で軽井沢をアウトにして進塁を防いだ。
しかしその後、思わぬ攻撃に遭って2失点をしてしまったのである。
現在の3回裏は1ー2となり、恋恋高校が一気に優勢となった。
「真の敵は軽井沢じゃない....恋恋のキャプテンか....」
(こうなったら....ボクはもうマウンドを降りて、交代するしかないのか?)
猪狩守にとってそれは1番選びたくない選択肢だった。
プライド云々もあるが、何より自分自身以外にこの役割が務まるとも思えなかったのである。
(....とはいえ、考えがないわけじゃない。もしそうなった場合に頼れるのは....)
猪狩は座席を見ると、試合の様子を見守る早川あおいに声をかけた。
「....早川。ボクがさっき点を取られていたところ、見ていたかい?」
猪狩守はそう自嘲気味に笑いながら話す。....どうせこんなエリートにふさわしくない、
みじめなプレーをしたボクのことなど笑うに決まっているだろう。
彼はそう思ったが、あおいの反応は違った。
「うん...まさか猪狩くんが2失点もするなんてね。....ボク、ビックリしちゃったよ。」
早川あおいは笑いもせずに極めて真面目な顔でそう答えた。
彼女も彼の実力を知っているからこその発言だった。
「....まぁ。キミとはそれなりに同期でやってきたわけだから、今更何を言う事もないとは思う。」
「....し、仕方ないよ。ボクだって、高木や倉橋って子があんなに活躍するなんて思わなかったもん。」
早川は猪狩に精一杯のフォローをする。
しかし、猪狩はいっそ笑われた方がまだいくらか気分がマシだったかもしれないと思った。
こうフォローされてしまっては、どう心を落ち着けていいのか分からなかった。
「ああ。とはいえ....これはボクのミスだよ。悔やんでも悔やみきれない。」
「....だから、頼みがあるんだ。」
「な....何が?」
「....頼む。キミが、代わりに投げてくれないか。」
その瞬間。猪狩守は静寂が訪れて一瞬だけ時が止まったような感覚に陥る。
早川あおいの目つきが鋭くなり、彼女の雰囲気が大きく変わったように猪狩は感じた。
「い。いや。....いつも活躍ばかりしているし、今回ばかりはキミに花を持たせてやってもいいかなと思ってね....」
「....ごめん。その期待には答えたいけど。残念ながら、無理かな」
「ど。どういうことだい....?」
「....悪いけど。ボク、この試合には出ないことにするよ。」
そう言い放った早川あおいの表情はとても冗談と呼べるものではない。
....何かしら決意のこもったものだった。
「な。何か、あったのかい!?急にキミが出ないだなんて....!」
猪狩守は納得のいかない顔で早川あおいに詰め寄る。
しかし彼女はそれに冷たい目をして返した。
「....猪狩くんには関係ないよ。これはボクの問題だから」
(ボクの問題...か....早川があれだけ言っているなら、もう仕方ないだろうな.....)
「あとは....橘ぐらいか。まともに使えそうなヤツは。」
猪狩守はほんの少し熟考する。しかし、橘みずきが戦力として
あまり期待ができない事は猪狩にはやはり明白だった。
「くっ。このボクがプライドを捨てて頼んでやってるというのに....どうしてこうなる?」
やはりこの学校に入学してから全ておかしくなったのだろうか。
猪狩はふとそう思った。....今頃の自分はあかつき大附属で、誰もが羨ましがる輝かしい成績のある一流の野球部に所属していたはずだったはず。
本来ならその部活では、今の弛んだ練習とは比べ物にならない厳しくも成果が実感できるトレーニングをしていて。
そこからプロ野球選手になり、栄光のある一生を送る....そんな人生があったはずだった。
それがなぜこんなパッとしない学校に来て。更にエリートにはふさわしくない"あんな事"までして....
(....パワプロには悪いが。いっそこうなるぐらいなら。ボクは....あかつき大附属に....)
(い....いや。何を考えているんだ。これはボクが自分で選んだ道じゃないか....!)
まさかこんなことでボク自身がナイーブになるとは思っていなかった。
少し疲れているのだろうか、と猪狩は苦笑する。
「いいや....まだまだやれるさ!最悪ボクだけでこの試合を乗り切って見せてやる!」
そう猪狩は意気込む。しかしその様子は誰から見ても、
もはや満身創痍であることは座席の空気感から容易に察せられていただろう。
....そんな聖パワフルのチームに徐々に暗い雰囲気が漂っていた時。
イマイチ成績はパッとしないが、元気だけはあり余っている2人が座席で密かに話し合いをしていた。
◆
「....なんなんだい?これはいったい。」
4回表。猪狩守は試合中に突然タイムをかけられる。
そして、呆然とした様子をしながらマウンドに立っていた。
「大丈夫なのか?お前ほどのヤツが....まず一塁に進まれる事なんてなかったはずなのに」
パワプロが猪狩の様子を見かねて声をかけてきたのである。
猪狩守は微笑みながら、心配ないさと答えた。
「....まだボクはやれるよ。試合は始まったばかり。たったの4回じゃないか?」
「....それとも、アレかい?これだけの事で橘に早くも交代をさせるつもりなのかい?」
試合自体は先ほどの3回裏であの後すぐに聖パワフルがヒットを放ち、
ひとまずは2ー2に拮抗させる事ができていた。
「いや....違うさ猪狩。ただオレは、少し心配になってさ....」
「ま。....だいじょーぶなんじゃないの、パワプロくん。」
そう言ってパワプロの後ろから近づいてきたのは橘みずきだった。
「やれやれ。ウワサをすれば、当の本人がさっそくおでましじゃないか....」
彼女の口調は明るいものの、普段の間の抜けた雰囲気の声ではない。
それを聞いて猪狩守はすぐに理解した。2人は自分のプレーについて相談をしていたのだと。
「フォローしてやるのもなんかシャクだけどさ。猪狩君はこの程度でやられるようなヤツじゃないと思うわ。」
「....まー、その実力はこの私が身を持って体験したわけだしね。」
「よく分かってるじゃないか。」
「でも、パワプロくんの言いたいことも分かるよ。無理しないで、危なくなったらすぐ私に交代してよね?」
「なーに、任せなさい。....ピンチの時は私がすぐに駆けつけて、チームを救ってやるんだから!」
そう自慢げに話す橘みずきに対して、パワプロはボソっと呟いた。
「....橘はそんなこと言って、ただ自分が出たいだけじゃないのか?」
図星を突かれた彼女は焦った顔をしながらも反論する。
「むっ!....う、うるさいわね。パワプロくんは分かったって素直に言えばいいのよ!」
「ハッキリ言って、素直さぐらいしかあんたの取り柄なんてないんだから!」
「なんだよそれ!?....そんな事言うなら、橘は試合に出してやらねーぞ!」
「はぁーっ!なによそれ!それじゃ、私が活躍できないじゃない!」
「....いや。活躍とかじゃなくて、普通はチームとかの心配をするもんじゃないのか?」
冷静に突っ込むパワプロ。みずきは腕を組んでうーんと唸る。
その間に、ほんの一瞬だけ沈黙が流れる。
「ま、それも心配ね。....だけど、私の活躍も大事なのっ!」
「全く。みずきちゃんはワガママだなぁ....」
猪狩守は2人の言い争いを静かに見守る。真剣な話を始めたかと思えば、まだ試合中にも関わらず口ゲンカをしているとはね....
そう猪狩守は呆れつつも、ある意味その図太い神経に少し感心した。
「....仲が良さそうで何よりだよ」
「いや。これ、仲が良いって呼べるのかよ?....まぁ、嫌いってわけじゃないけどさ」
「あはは、照れてやんのー♪」
「....う、うるさいなぁ!照れてねーよ!」
(フッ....まったく、バカな連中だよ。....しかし。この空気に、ボク自身も救われているのかもな....)
猪狩守はとうとう決心をした。
「橘みずき。....キミに頼みがある。聞いてくれるかい?」
「....ええっ?何?...まさか、私に早くも交代なんかさせちゃったりー?」
「フン。常識的に考えてみてくれ....普通はないよ。」
「あはは。....まぁ、そうよね。私の出番はもっと後に取っておかなくちゃ!」
得意げになっているみずきに、話をよく聞いてくれと猪狩は諭す。
「....普通はないと言ってるんだよ。感謝してほしい」
「....ん?」
「投手交代さ....橘みずき、よろしく頼むよ。まぁ、せいぜいチームの足を引っ張らないでくれたまえ。」
「ええええっ!?」
「....猪狩、やっぱお前.....!」
「おっと、パワプロ。....キミの思っているような考えじゃないよ。」
「じゃあどういうことなんだ?」
「....ただ。ボクは、賭けてみたいと思っただけだよ。新世代のメンバーにね」
橘みずきは一呼吸をおいて答えた。
「分かったわ。...よく分かんないけど、ようやく私の活躍を見せる時が来たってことね!」
「なるほどな...。猪狩の言いたいことは分かったよ。よし、そうなったら橘。とにかく期待に応えられるよう頼んだぜ!」
「ふふっ。言われなくたって!」
橘はパワプロに向かって、自信満々な表情でそう答える。
◆
マウンドに立つ私の目は、打席に立っている打者をゆっくりと見据える。
この人物は猪狩から恐らくこの恋恋で一番強いと聞かされた選手だった。
(....たぶん、ここがこの試合の一番の見せ場になるかもね。だって、私がこの打者をしっかり打ち取ってやるんだから!)
私はそう意気込んで、聖にサインを送るのだった。