最も容易で、最も残酷な満場一致試験が終わり、教室は淀んだ水中のようだった。
クラスメイトは
違う、もうクラスメイトではないんだ。
明人くんと啓誠くんは、苦しそうな表情で視線を送っている。何か言いたげなようにも見えるし、かける言葉が見つからないようにも見える。
清隆君の発言を否定しきれなかったことを負い目に思っているのかもしれない。
実際、私だって、言いたい言葉もかけたい言葉も沢山あるのに、どうしても口にはできない。
そんな表情を見てしまうと、自分の出した答えが壊れてしまいそうだ。でも、もう遅い。
この答えは、決意は、結果は、崩れることは無いのだから。
自然に私は清隆くんが座っていた席の方へと向く。
そういえば一年生の時、清隆君はちょうど今日座っていた席と同じ場所だなと、今更ながらに気づいてしまう。
見慣れたその方向には空の机が残っているだけだった。
清隆君は教室を出るところだ。
その横顔を見たら、何か零れそうで、胸が苦しくなる。ずっと、あの時からずっと、この胸の痛みは続いている。けれど、今の胸の締め付けはいつもとは違っていた。
清隆君が教室を出ると啓誠くんは後を追う。
何かを話すような声が聴こえたけど、内容は良く分からない。
続いて明人くんも追うように、逃げるように、淀んだ空間から抜け出した。
教室を出る刹那の間に目が合う。
悲しそうな瞳に私はどんな顔に映っただろうか。
先生からは教室に待機するように言われているから、二人に声をかけれないのは残念だな。
最後にお礼を言いたかった。
友達になってくれて、ありがとう。
そんな一言でさえも。
そして、まだ熱のこもる教室の中には私ともう一人
―――波瑠加ちゃん
私たちは目を合わせることもなく、ただ沈黙の時間が流れるだけだった。
けれど、その時間はとても遅く感じる。やはりここは泥の中なんだ。
思えば小さいころから、私はこの泥の中にいる。
小学生の頃も、中学生の頃も、一年生の最初の頃だって、私は泥の中心にいた。
だれにも迷惑をかけないように。息を潜めて、目立たないように、存在を深く、深く、見つからないように潜っていた。
この学校に来て私は変われると思っていた。清隆くんに助けてもらって、波瑠加ちゃんに会って、啓誠くんと明人くんと友達になって。
泥から這い上がれるような、そんな勇気を沢山もらった。
でも、変われなかった。最後まで迷惑をかけないという選択をしたのだ。
一生、外には出れないのだと、確信にも似た自分の
なぜ、私は変われるのだと勘違いしたのだろう。
運動も、勉強も、人間関係も苦手な私が何をしたって迷惑が掛かることなんてわかり切っているのに。
清隆くん。
確かにきっかけは清隆くんだった。
けれど、自分をここまで思わせてくれたのは清隆君じゃない。
深い奥底までいつも笑って声をかけてくれる人がいたからだ。
何度も何度も手を差し伸べてくれた。
最初に声を出したのはやっぱり波瑠加ちゃんだ。
「ごめん・・・ごめん・・・」
酷くかすれた声で、大気の中から染み出すような晩夏の雨の臭いがした。
私の人生で唯一の親友が、泥の中に潜っていく。
その光景があまりにも痛々しく、胸が痛い。
立場が逆なら私はもう生きてはいられないかもしれない。
波瑠加ちゃんの痛みが伝わる。
張り裂けそうなほど辛い。
そうだった
一つだけ変われたことがあるのだとすれば
私は、知ることが出来たんだ。
この泥の中心は私じゃない。
沈んでいく原因が私だとしても、私は知っている。
底はとても冷たいということを。
だから、声を掛けなくちゃならない。
私を変えてくれた貴女に。
髪を強く結ぶ。ほどけないよう固く。
「・・・波瑠加ちゃん」
勇気を出して手を伸ばす。
「ごめん・・・ごめん・・・愛里」
「・・・もう、いいんだよ」
「良くない・・・こんなのおかしいよ」
優しく手を伸ばす。
「私が選んだの。だからおかしくないよ」
届いて。
「違う、おかしいのは皆だよ!」
届けるんだ。
「顔上げてよ。波瑠加ちゃん」
「っ!・・・」
目と目が重なった。やっと見てくれた。
波瑠加ちゃんの目には、メガネをはずし髪を結んだ私が映る。
「愛里・・・それ」
「波瑠加ちゃんのおかげだよ。波瑠加ちゃんのおかげで私はこんなに変われた。友達ができて、勇気をくれて、世界が広がったんだ。」
「あい・・・り」
「だから泣かないで。この学校じゃ私は実力不足だったかもしれない。けれど、それは、今だけの話。私、頑張るの。退学になっても私は沢山努力する。勉強もして、スポーツもして、友達も沢山つくるの」
ハリボテの強がり。精一杯の宣言。親友に捧げる誓い。私の大切な理想の私に。
「そんなの、想像できないよ」
嗚咽を交えながら、無理やりの笑みを浮かべる。
「もう、分かんないじゃない。だから、次に会った時に答え合わせしよ」
「・・・え?」
「一年と半年後、波瑠加ちゃんが卒業してもう一度会うの。そしたら、私がどれだけ成長したか分かるでしょ?」
たわいもない、いつもの約束のように。
子供の頃に埋めたタイムカプセルの中に詰まった夢のように。
破るくらいなら死んでもいいと思える固い誓い。
「だから、波瑠加ちゃんが卒業するのを待ってる。待ってるから。」
教室の扉が開かれる音がした。
振り返って確認するまでもない。茶柱先生だ。
「佐倉、こっちへ」
波瑠加ちゃんにばれないよう、小さく息を吸って吐いた。
私の姿を見た茶柱先生は少し驚いたようだけど、それについては何も言ってこない。
「もういいのか?」
優しい瞳で先生は問いかける。
こんな茶柱先生を見るのは初めてだ。
もしかしたら、茶柱先生とも仲良くなれたかもしれないとそんな妄想をする。
先生の優しさに甘えて波瑠加に振り返る。
やっぱり、どうしても寂しい。
一年と半年。
その期間は短いのだろうか。それとも長いのだろうか。そんな先の話なんて考えた事のなかった。
けれど、私には、私たちには先がある。未来がある。
だからこう言おう。
底にも届くような声で。
「またね!」
いつか、きっと。
教室を出て茶柱先生と職員室へ向かう。
そこで、今の私が終わる。
そして、新しい私の始まりだ。
何処にでもありそうな決意を、私だけのものにして、深く刻み込む。
一つ心残りがあった。
その心残りは波瑠加ちゃんとは違って卒業後には達成できないと、そんな予感がする。
「あの、先生。もう少し待ってもらえますか?」
「・・・5分だけだ、すぐ戻って来い」
厳しい言葉が返ってくるものだとばかり思っていたけど、あっさりと聞き入れてくれた。
想像とは違う返答に固まっていたが、茶柱先生の声で意識が戻る。
「そういば、綾小路はまだ校内をうろついていたな」
「っ!すぐ戻ります!」
校舎を駆ける。すぐに息が上がったけど、不思議と疲れは感じない。
せめて。最後に。会わないと。後悔する。
私にないものを全て持っていて、全てが完璧で、泥の中に隠れながら綺麗に泳ぐ私の初恋。
何もかも違っているのに、泥の中を見るその目だけは他の誰とでも違っていた。
だから憧れた。人を知りえないその貪欲な瞳が。
未だ深い泥の中に潜む彼を救い出すことはできない。そんなことは分かり切っている。
私にはそんな実力は無いのだから。だからこそ学校から淘汰された。
見放された。見てもらえなかった。
言いたいこと聞きたいことは沢山ある。
軽井沢さんとなんで付き合っているのだとか、文化祭のメイド喫茶ってどんなことをするのだろうとか、ただ一人の満点だった数学を教えてほしいとか、どうしたら足が速くなるのとか。
本当に沢山、数えきれないほど話したい。
けれど、話すべきことはそんなことではない。
私は走る。
強くなれるきっかけを与えてくれた彼に。
勇気を出せるということを見てもらうんだ。
これを逃せばもう二度と会えない。
世界一深い場所にいるあの人に。