シンジ湖の水面はいつも静かに揺れている。
湖底に棲むポケモン達が湖上に顔を出すことは稀で、ほとりに並ぶ木々の隙間を縫って吹く風だけが、なだらかに水面をくすぐるのだ。
昼は太陽の光に照らされたさざ波が輝き、夜は月を美しく映すそのシンジ湖の湖面は、自然の美しさを体現する一幕だと名高い。
この美しい眺めを、月に一度は必ず眺めに訪れる少女がいる。
彼女は今日も湖のほとりに立ち、とりわけこの日は幼い頃から見慣れたシンジ湖の景観を、感慨深い眼差しで眺めていた。
今は夕方に差し掛かる少し前の時間帯。陽が弱くなってきた頃合いに、晴れた青空の色をすらりと映し込む湖面はやはり美しい。何時でも綺麗な湖だ。
「……この眺めも、もうすぐ見れなくなっちゃうな」
彼女にとって、このシンジ湖は特別な場所。
8年前にこの湖で経験したことを、少女は一度も忘れたことはない。
それだけ歳月が経った今も、あの日のことを忘れたくなくて、月に一度はここへ来ていたほどにだ。
だけどもうすぐ、月に一度、この湖に来ることも出来なくなる。
故郷を旅立つ日を目前に、この景色をはっきりと目に焼き付けようとする彼女の目は、未来に向けた憧憬にも似た色で輝いていた。
「――よしっ。
今日はこのぐらいにしておこうっと」
シンジ湖の近隣にあるフタバタウンに住む少女、"パール"。
今日もいつものように湖を眺めていた彼女は、名残惜しいけどもう充分なはず、とばかりに、家に帰る方向へと歩きだそうとする。
「…………あれ?」
しかし、帰り道に目を向けようとした時、ふっと視界の端に人の姿が見えた。
湖の方ばかり見ていたからさっきまで気付かなかったが、ちょっと離れた所の湖畔に、自分と同い年ぐらいの男の子がいる。
背中を丸めてもぞもぞと動いているが、何か落として探してでもいるのだろうか。
なんだか困っているようにも見えたので、パールはてこてこと駆け寄ってみる。
「う~ん……やっぱり変わったことはないけど……」
「どうしたの? 何か探しもの?」
「はわ!?」
後ろから近づいたパールは穏やかに声をかけたのだが、びっくりしたのか裏返った声を出し、びくんと跳ね上がった少年が慌てて振り返る。
おばけでも見たかのように、尻餅ついたような姿勢で見上げられ、パールの方こそびっくりする想い。おどかすつもりはなかったのに。
「ご、ごめん、びっくりさせちゃった?」
「い、いや、別に気にしないで……
ちょっと集中してたから……あっ、やばっ」
お互い気まずい感じの言葉を向け合っていたが、ふっと何かに気付いた少年は、そばでころころと転がっていたモンスターボールに手を伸ばして拾う。
彼のそばには、口の開いたままのバッグが倒れている。
どうやらさっきパールが声をかけた時、驚いて振り向く際にバッグを蹴倒してしまったらしい。
バッグからこぼれ落ちてしまったボールを拾い上げ、ほっとした顔で彼はバッグの中にそれを入れる。
「……………………あれ? あれ!?」
「どうしたの?」
「ボールが足りない!
2つ入ってたのに……っ!?」
慌てて周囲を見回す彼だが、バッグからこぼしたもう1つのボールはすぐに見つかった。
ころころと、彼から離れる方向へと転がっていくそれは、まさに今、湖の際まで辿り着いたところ。
2秒後には岸から湖へと転がり落ちてしまう、もう間に合わない位置にあったのを、パールもほぼ同時に気付いていた。
「いけない……!」
「ちょ!?」
パールの行動は早かった。
逃げていくボールへと一気に駆けだして。
明らかに間に合わず、ボールは岸を踏み切って、湖の方へと落ちてしまい。
それでも迷わず、走ることをやめず、パールはボールが落ちていった湖へ、岸を踏み切って飛び降りていったのである。
ざぶーん、と着水した大きな音がして、大慌てで立ち上がった少年は岸へ駆け寄り、えらいこっちゃの顔色で湖を見下ろす。
こぽこぽ泡が立つ湖面を見下ろしていると、数秒経ってざばぁとパールが顔を出し、ぷぅと息を吐いて目元を拭ってみせた。
「あったよー!
これ、あなたのモンスターボールでしょ?」
「だ、大丈夫!?」
「私泳げるから平気平気~!
ちょっと待っててね~、今上がるから~!」
3メートル近く下の湖面、顔を出してボールを持って振るパールは誇らしげに笑っていた。
勝利報告と帰還の報せめいた言葉を元気に発し、ここからでは上がれないのでと、ちゃぷちゃぷ水面を泳いでいく。
ここは彼女にとっては地元のような場所。どこから上がれるかはよくわかっている。
飛び降りた場所から少し離れた場所、浅くなっている場所を歩いて湖のほとりに上がれる場所へ、パールは何事も無く泳ぎ着いた。
びちょ濡れになってしまっているが、ボールを落としてしまっていないか確認することの方が彼女にとっては大事。
しっかり掴んだモンスターボールを見て確かめ、ふふっと達成感に満ちた笑顔を浮かべていたものだ。
「――――あっ!?
危ない! ムックルだ!」
「え……ひゃわっ!?」
しかし、そんな彼女のすぐ目の前に、ばさばさっと翼の音を立てて舞い降りるポケモンが一匹。
シンジ湖の周りは野生のポケモンが少ないことで知られるが、ある一角に踏み込めば遭遇することもある。
地元住まいであるパールは、シンジ湖周囲のポケモン遭遇場所をよく知っているはずなのだが、今いるここがそうだとは今一瞬頭から抜けていたようだ。
それだけ、少年の落としたボールを保護することで頭がいっぱいだったと言える。
「――――z! ――――――z!」
「あ、あわわわ……どうしよう……!」
パールの目の前に舞い降りた一匹のムックルは、こちらを見上げて威嚇してくる。
30cm程度しかない小さな鳥の姿でも、怒って飛びかかってこられたら、確実にパールは怪我をする。
野生のポケモンは結構好戦的だ。あの小さなくちばしでつつかれただけでも、人の肌は血が出る傷を負ってしまう。
「そのポケモンを出して! モンスターボール!
使っていいから!」
湖畔を回り込んで駆け付けようとしてくれている少年だがまだ遠い。
一歩後ずさったパールに対し、ぴょんぴょんと二歩ぶん近付いてくるムックルだから、逃げても後ろからつつかれるかもしれない。
パールの手にはモンスターボールが握られており、それがムックルへの一番の対抗手段だと少年が大声で伝えている。
「い、いいの!? いいんだね!?
えぇっと、こうかな……!?」
片手で持っていたモンスターボールを両手で持ち、パールはボールのスイッチを、重ねた両手の親指で素早く三度押し。使い方は知っているのだ。
それによって、ぱかんとモンスターボールが開き、一匹のポケモンが中から飛び出した。
ムックルとパールの間に立つ位置に着地したそれは、ぷいんと頭を振り上げて頭上の葉っぱを一度揺らす。
「え、ええっと、えぇと……!」
「"たいあたり"が使えるよ、その子は!
指示してあげて!」
「たっ、たいあたりっ!」
パールの握りしめたボールから出てきたのはナエトルだ。
その突然の登場に面食らっていたムックル、出したはいいがどうすればわからなかったパール、どちらも何も出来ない数秒はあったものの。
近い所まで来つつも叫んでくれた少年の言葉を信じ、パールはナエトルに指示を言い放つ。
それにより、見知らぬ場所で少し周りを見渡そうとしていたナエトルも、目に火を宿して目の前のムックルへと駆けだした。
強い体当たりを受けたムックルは吹っ飛ばされ、ごろんごろんと地面を転がったのち、痛そうにしながらも何とか立ち上がる。
しかし、ナエトルに怖気づいたのかすぐ翼を広げ、逃げるように去っていく。
ピンチが去ったことを目で追うパールは、はぁ~っと息をついてほっとする。
「ごめん、大丈夫だった!?」
「へ、平気平気、私は何もケガしてないから。
それよりごめんね、あなたのポケモン勝手に使っちゃって」
「いや、それはいいんだ。
元々僕の預かってたポケモンを助けてくれたんだから。
ありがとう、えーっと……」
やっとパールの目の前まで辿り着いた彼は、ちょっと息が上がっていた。
対するパールは、ボールを持った両手を胸元に抱え、びしょ濡れになっている今の胸元をさりげなく隠している。女の子だからそういうのには敏感だ。
「私、パール。
あなたは?」
「僕はプラチ……うっ……」
「プラッチ?」
「あ、いや、違くて……」
名乗りを途中でやめてしまい、少年は帽子を目深に引いて顔を伏せる。
濡れた胸元は隠しているが、スカートがべったり脚に貼り付いているのを見たら、あんまり見ちゃいけないものだとわかったようだ。
耳まで赤くして顔を逸らすその態度、紳士的とも初心とも言う。
「ちょ、ちょっと、そういう態度されると余計に恥ずかしいじゃん。
あなたのポケモン助けるためにこの有り様だよ」
「そ、それは別にいいんだけど……」
「すけべ」
「うるさいなっ。
そっ、それよりもポケモン返してよ」
彼女を徹底して見ない姿勢を決め込んだ彼は、不愛想な仕草とは思いつつも片手を出す。
パールはナエトルが入っていたモンスターボールのスイッチを三度押しだ。
ぱかっとボールが開き、ナエトルがそのボールの中へと戻っていくと、ボールはかちっと音を立てて閉まる。
パールは胸元を片手で隠しながら、少年の手にボールを返した。
受け取ると、パールの方に背を向けた少年は、バッグにボールを入れてそれを肩にかける。
「……ありがとう、ほんとに助かった」
「あ、ちょっと……」
パールに目を向けることが出来ないので、居づらくなってしまったか少年は走りだし、そのまま去ってしまった。
追いかけるのもしづらいびしょ濡れ姿なので、パールはその後姿を見送るのみだ。
「………………へくちっ。
いけない、帰ろ。風邪引いちゃう」
やや唖然としていたパールだが、寒くなってきたので小走りで湖のそばを離れる。
家に帰る道を進む前に、一度だけ思い出深いこのシンジ湖を振り返って。
もう一度だけ、この眺めを名残惜しそうに目に焼き付ける。
ぶるっと感じる寒さに今一度帰り道を向き、パールは家へと駆けるようにして向かっていくのだった。
「あれ?
パール、どうしたんだ? びしょ濡れじゃん」
「あっ、"ダイヤ"。
あははは、ちょっとね……」
フタバタウンに着いたパールだが、家までもう少しという辺りで、幼馴染の少年に声をかけられた。
今日も両サイドがハネた髪の毛である。せっかちな彼のことだから、今日も寝癖を直しもせずに遊んでいたんだろうなとパールは想像する。
「大丈夫か?
服すごく貼り付いてるけど」
「わかってるわよっ! がさつ!
風邪引かないかとかそういう心配してよ!」
今のちょっと人に見せたくない恰好を、口に出されると余計に恥ずかしい。いやに顔が熱くなって、胸元を隠す手にも力が入る。
いい友達なんだけど、ちょっとデリカシーの無いところが困る幼馴染だ。
この恰好で長話もしたくないし、べえっと舌を出してパールはさっさと家に向かおうとする。
「ホントに風邪引くなよー!
明日はポケモン捕まえに行くんだろー?」
「わかってるってばー!」
せっかちなのとそそっかしいのは、愛称ダイヤの名で知られる彼の代名詞とこの町では有名だが、今はパールが慌ただしく家に帰り着く。
どうしたの、と濡れ濡れの我が子に驚くお母さんに適当に言い訳し、パールはさっさとお風呂に入るのだった。
明日は大事な日なのだ。風邪は引きたくない。
冷えた体を温めつつ、明日が待ち遠しい想いをパールは膨らませているのだった。