「ちょうどいい所に洞穴があるもんよねぇ。
おかげで今夜は凍えずに済みそうだけどさ」
「……サターン、あんたもしかして下調べ済み?
あたし達をここまでリードしてきたのもあんたよね?」
「さて、どうだろうな」
キッサキシティよりさらに北上した先の山々の奥、未開の山林の中にひっそりと佇む洞穴に、ギンガ団幹部の三人は腰を落ち着けていた。
標高が上がるにつれて気温は低くなるもので、洞穴の外で降る雪風もやや強く、外で野宿なんて絶対に出来そうにない。間違いなく凍死する。
薪代わりになるものを集めてきて、ヘルガーとスカタンクが吐き出した炎による焚火を囲み、火が絶えぬ限り朝まで過ごすことも可能だろう。
今は夜。野外で焚火などしようものなら、彼らを追って山狩りに赴いた警察の目にも触れかねないところだ。
隠遁者としてもキャンパーとしても、この洞穴は絶好の宿である。
エイチ湖からの逃亡に際し、サターン達は逃亡の行き先を南部に向けることは出来なかった。
キッサキシティに近付く走りということは、正義の組織の庭へと自ら飛び込むことに他ならない。消耗したポケモン達とともに、そんなリスクは冒せない。
山林向かいの北上逃走路を選んだサターンは、マーズとジュピターを導くように先頭を駆け、程よくエイチ湖から離れた場所であるこの洞穴に辿り着いた。
適当に走ってこんな絶好の隠れ家に辿り着くとは思えないのだ。ジュピターには、こうした場所すら下調べしていたサターンを想像せずにいられない。
はぐらかすように鼻を鳴らすサターンだが、それはマーズにさえ、肯定の返答にしか聞こえなかった。
「どうする? ちょっとは寝ないと朝になってからも大変そうだけど。
見張りはいるのかしら?」
「必要だな。
警察連中の山探しで、一夜のうちにここが見つかるとは思えんが、万が一があった時に全員が寝こけているわけにもいくまい。
あの少女なら、無理を押してでも我々の追跡に手を貸しかねんしな」
「なに、あんたの言う"万が一"って、あの少女ってかパールのことなの?」
ふかふか体毛のブニャットに背中を預け、身体をその体毛に包んでもらってぬくぬくのマーズ。
マーズに借りたヘルガーが座る体に背を預け、熱のあるそれに触れることで暖を得ているジュピター。
寄り添うものなくあぐら座りで焚火のそばに身を置くサターンは、未だはずさぬ白い面が炎にゆらめき少々不気味な出で立ちだ。
「パールという名のあの少女は、フタバタウンの出身だ。
そして、幼少の頃の取るに足らぬ、当人にとっては人生を変えるほどの出来事により、フタバタウンのそばにあるシンジ湖にはとりわけ強い思い入れがある。
恐らく、事あるごとに通い詰めるほどにな。それも、その都度強い情念と共にだ。
そのせいか、リッシ湖に対して強い"感情"を抱くあの少女には、このエムリットにさえも縁を感じさせているのだろう」
「……情報通よね、あなた。
あの子にそんな過去があるなんて、あたしだって初耳よ?」
「信頼できる情報筋がある。伊達にギンガ団の最高幹部は務めていないさ。
情報は、それに踊らされぬ知性があるなら、あればあるほど越したことはない」
エムリットを捕えたギンガボールがある胸元をぽんと叩くサターンが語るのは、親しい相手にしかパールが語らない彼女だけの秘密のようなもの。
いったいどこからそんな情報を仕入れているのか、マーズやジュピターには想像もつかないだろう。
誰の口からその話を聞くにしたって、それを知っている人物自体がそう多くはないというのに。
「エムリットは、パールという少女が近くに来れば、思念を飛ばして彼女に助けを求めるだろうな。
まさかあれだけの消耗戦の後で、夜の山狩りにあの少女が参加することはあり得まい。
よもや自分が我々を探せる切り札であろうとは予想もつくまいし、仮に何の気まぐれで自己主張しようが大人達が受け入れるはずもない。
あのような子供を、凍える夜の山奥へ連れ込む警察ではないと信頼できるよ」
「頭を痛めるような素振りを見せてたのも、そのせいなのかしら?」
「恐らくそうなんだろうな。
いかにこのエムリットがパールに対して一定の好意を寄せていようが、こいつはこいつで神にさえも並び、絶大な力を持つ存在だ。
苦痛に喘ぎ、余裕なく必死に叫ぶこの力が発する思念と波動は、所詮人間に過ぎぬ少女が受け取るには重過ぎる。
あれだけ苦しむほどの頭痛を覚えるのも、ぞっとしないが想像に足る話だ」
「一定の好意、ねぇ」
「感情の神、エムリットだぞ?
己が庭たるシンジ湖に、打算も害意も他意も無い強い愛着と情念を常に抱き、幾度も足を運ぶ純真な感情の持ち主など共感の対象にさえなるというものだろう。
私達のような、常に理性が感情に勝る大人の抱く濁った感情などに比べれば、幼き子供の純粋な想いなど、さながら棲んだ湖水の如く美しいだろうさ」
捕獲されるに際してマーズやジュピターにより徹底的に打ちのめされ、ギンガボールという苦痛の監獄に囚われ、身体を休めることも癒すことも叶わない。
そんなエムリットは、ボールを携帯したサターンにその力で抗う力すら出せず、唯一接点を持ち得たパールに呼びかける以外のことが何一つ出来ない。
力を調整する余裕も無いのだ。そんなエムリットの叫びは、泣き声は、ただの少女が受け取るには脳を乱すような念波を飛ばすことで精一杯のもの。
ギンガボールに懐越しに触れている、かすかにエムリットが発する思念を感じ取れたサターンだからこそ、この仮説を確信めいて語ることが出来るのだ。
「……思えば我々も、幼く純真だったあの頃からは、遠く離れたこの地まで長い旅を続けてきたものだ。
お前も、お前も、そしてこの私もだ。
私達では、我々が捕えてきたこの三柱の神との理解など、本来ならば到底果たしようもないのだろうな」
「珍しいじゃないの、そんな感傷めいたことを口にするなんて。
そういうのって、その気色の悪い声で話されても反応に困るけどね」
「あたし達、あんたに本名さえ教えてるのに、あんたは未だにその顔も名前も教えてくれないの~?
まあ、悪の組織の最高幹部が正体を隠したままっていうのも、なんかそれっぽくていいけどさ」
らしくないことを仰るサターンに、ジュピターは笑い、マーズもいたずらっぽい笑みとともに軽口を叩く。
言葉を選ぶべき上司のような相手だが、二人も存外サターンには心も許しているようだ。
くせのある自分達だと自覚している二人にしてみれば、何のかんので邪険にせず、組織の若頭として二人を信頼した仕事を任せてきてくれた上役だ。
口を滑らせたことで怒らせてしまったら、畏怖や恐怖を抜きにした想いで素直に頭を下げられるほどには、二人もサターンを敬愛している。
だから、肩の力を抜いた語りが出来るのだ。
「……そうだな。
"僕"もいつまでも、お前達にまで顔を隠したままでは失礼かもしれないな。
お前達が僕の指示に、疑うことなく従い続けてきてくれたことで、いよいよ我ら悲願も目前に至れた事実を軽視するわけにもいかないな」
「え……」
「ちょ……」
おもむろに、サターンはその仮面をはずしてみせた。
合成音声を発する機能を搭載した仮面をはずせば、その肉声もマーズとジュピターの前で明らかになる。
そして、長い髪を携えた仮面で自ら本来の頭髪をも隠していたサターンの素顔は、名乗るまでもなくマーズとジュピターも存じた人物のもの。
唐突に仮面をはずす行為にも驚いたが、ギンガ団最高幹部サターンの正体が"彼"であったことには、二人も驚愕のあまり一度言葉を失ったものだ。
「ボス以外では、お前達二人にしか見せていない素顔だぞ?
まだ秘密にしておいてくれよ?」
「あ、あははは……
うっそぉ、あんた、そんな大物だったの?」
「ギンガ団最高幹部、ね……
表も、裏も……よくもまあ、白々しく二つの顔を使い分けていたものだわ……」
表のギンガ団。
オーナーと呼ばれる"コウキ"という名の指導者に導かれ、トバリシティに拠点を置く財団法人めいた、高出力エネルギーを産出する大企業。
裏のギンガ団。
世には影も形も見せぬボスの一つ下、世間に知られる限りでは最高幹部たる"サターン"が導く、不可解な思想と目的とともに咎ある行為に臨む無法集団。
二つの組織は別物だと、表のギンガ団の最高指導者であるコウキは常に唱えてきた。
確かにそれは事実なのだろう。トバリシティに根差すギンガ団に属する労働者達は、決して悪のギンガ団として行動しているわけではない。
悪のギンガ団が率いる兵、下っ端連中は、他方から寄せ集めたモラルの欠けし無法者どもに過ぎない。
トバリシティで立派な社会人として、ギンガ団員として社会貢献している大人達に、悪のギンガ団として暗躍する者は一人もいないのだ。
だからオーナーたるコウキの訴える、我らギンガ団と悪しきギンガ団は別物だという主張を、トバリのギンガ団員達は誰一人疑わず肯定してきたものだ。
身内さえ欺き、表ではトバリのギンガ団を導きながら、裏では悪しきギンガ団を導いてきたコウキ。
コウキの名とサターンの名を等号で繋ぐことが出来る現実を知ったマーズとジュピターは、流石に驚きを禁じ得なかった。
「去年、トバリシティで行われたアンケートを知っているか?
子供達が尊敬する大人、ベスト5なんてものをテレビで特集したんだがな。
そのトバリシティ部門で、まさかの堂々の一位を取ったのは誰かわかるかな。
まあ、お前達はテレビなんて見られる時間が少ないだろうから知らないか」
「見てなくたって、今の流れだったらわかるわよ」
「あたし見てたわよ、その番組。
それはギンガ団オーナー、コウキさん!」
「いやー、びっくりしたね。
よその街では殆どがチャンピオンシロナ、違う結果になるとしたらせいぜいご当地ジムリーダー様だよ。
それがトバリシティ部門では、シロナはおろかスモモも抑えて僕がトップだ。
尊敬できる大人ナンバーワンだぞ? それだけみんなにわかるほど、社会貢献し、敬われる人物になっていたってことだ。
正直、誇らしかった。本当に嬉しかったよ。何年もかけて頑張ってきたことが報われた、そう感じられてたまらなかった」
手を広げ、心からの笑顔を浮かべ、今思い出してもあの時の感動は忘れられない、という無邪気な顔のサターンだ。
仮面の奥から冷徹な指示を下していたサターンと見比べれば、まるで別人。
しかし、世間の前に顔を出す時のコウキの表情として、その姿は何ら違和感なく彼らしいとさえ言える。
どちらが本当の彼なのだろう。二つの顔を共に知るマーズとジュピターには、それがわからなくなってしまう。困惑さえする。
「……ねぇ、サターン。
いや、コウキって言うべき?」
「サターンでいいよ。
お前達にはそう呼ばれ続けてきたからな。あだ名のようなものでその方が耳に馴染む」
「……………………あたしには、あんたのその顔、気立てのいい大人の顔を演じてきたものには見えないわ」
「…………」
マーズの言葉に、ジュピターは沈黙を以って同意する態度を表すことしか出来なかった。
単なる自慢話なのだろうか。立派な大人だと胸を張れない自分達を前にした、僕はこれだけ立派な社会貢献者だぞというマウント理論なのだろうか。
そうは思えないのだ。その程度の器たる人物が、ならず者集団たる悪のギンガ団を纏め上げ、ここまで導いてこられたものだとは到底想定できやしない。
サターンが導いてきた悪の組織の構成員とは何者か。すべて、大人だ。
一人一人が、酸いも甘いも二十年以上経験し、苦い経験を恐れて無意識にでも、本能的にでも、他人の嘘や落とし穴には敏感にならざるを得ない者達。
そんな者達百人以上を、底の浅い指導者が率いるなど出来るはずがないのだ。大きな組織を率いる若頭に、悪に通ずるカリスマたるものは絶対に必要だ。
相手の境遇を暈に着たような自慢話で鼻高々になるような、自ら反発を買うようなことをするような者に、そんな器が宿っているはずがない。
「ああ、勿論だよ。
僕はギンガ団――トバリシティを地盤とするギンガ団の方だな。
それを導き、トバリシティの人々の暮らしを豊かにしていくために尽力する日々には、充実したものを感じていた。
その裏で悪のギンガ団として、暗躍するための力を蓄えていたことも事実ではあるけどね。
だが、そのためにはまず街に貢献し、社会的な信頼を得ることが肝要だという目的に対し、心から前向きに臨めていたことも事実なんだ。
一つの成果が、大きな発展に繋がり、豊かな暮らしに喜ぶ人々の笑顔に繋がり、それを僕は地元民として身近に触れることが出来た。
それによって仕事を奪ってしまった相手もいたけれど、時間をかけ、話し合い、なんとか折り合いをつけ、共に街のために知恵を搾る同胞として認め合えて。
何歳も年上の敬うべき大人達が、僕を飲みに誘ってくれたあの日々なんかは、商売敵だった僕をも認めてくれたんだなって嬉しかったものだよ。
本当に、トバリシティのために働くこと、結果を出していくこと、その結実によって満たされる街に僕もまた満たされていたんだ。
これは本心だよ。尊敬する大人の一番に選ばれた日は、本当に嬉しかったんだ」
わかるとも。それを自慢するように語るサターンの、いや、コウキの顔は、嫌味一つなく本当に誇らしかった。
僕は優れた人間だと言いたいわけじゃないことも、お前達なんか僕の足元にも及ばない落伍者だという含み一つ無かったことも、マーズ達は信頼できる。
たまらなかったんだ、聞いてくれ、誰かに話したいぐらい嬉しいことだったんだという、純真な想い一つだった表情と声だったと、大人の目で理解できたのだ。
「それだけ、満たされていたんだ。
そんな僕でさえ、叶えたい何かのためには、悪に身を堕とす道さえ断つことが出来なかった。
……きっと僕が、十代のまだ純粋な心の持ち主のままで同じ境遇にあれば、この道を突き進むことなどなかっただろうさ。
充実した日々に身を置くことを選び、悪の道から足を洗い、裏の悪しきギンガ団に与し、率いることなどどこかでやめることが出来ていたんだろうな」
いくつもの含みがあった。
子供の頃なら選べた正しい道を選べなくなった、純真さを失った大人という存在の業の深さ。
そして、それだけのものに満たされていながらも、この道を進むことをやめられなかった己の愚かしさ。
加えて言うなら、それは世間に否定される道であり、自らでさえ愚かしいと断じ、否定さえする魔道に身を置く救いようの無さ。
さらには、自身を最も尊敬する大人だと評価してくれた、トバリシティの人々に対する裏切りに手を染めている罪深さ。
自嘲気味に笑うサターンの、コウキの表情の声には、マーズもジュピターも受け取るものが多すぎて言葉も無い。
「マーズ。
君は幼い頃に喧嘩して、別れ、二度と会えなくなってしまったニャルマーに再会したくて、僕達に手を貸している。
君にはもう、新しいブニャットというベストパートナーがいるのにな。
それでも、その夢を追わずにはいられないのだろう?
きっとそのブニャットは、自分よりも大事なニャルマーがいると君が訴える姿に、私じゃ駄目なのかってずっとやきもきしているぞ」
「……お前、って呼びなさいよ。
あんた、あたし達のことはずっとそう呼び続けてきたじゃないの」
「すまないな。
素顔で好き勝手に話させて貰うと、抑えていたものが全部溢れるんだ。
ずっとサターンとして、理だけを重んじたつまらない大人を演じてきたからな」
からっとした笑いを浮かべる男前のサターンの表情を前に、マーズは頭が痛くなってくる。
同時に、自分が背中を預けている今のベストパートナー、ニャムちーの頭を撫でて許しを請うほど胸をじくじくとさせて。
わかっている。たった一つの己がわがままのために、許されじことをいくつもやってきた。
サターンが自身の経歴を引き合いに語ってくれた、歪んだ大人がいま歩む身勝手な道を、自分もずっと歩き続けてきたのだ。
「空間を支配し、この世すべての隔てた距離をゼロにさえするその力を統べ、私をあの日失った友達の元へと導いてくれる。
……あたしは、神の力を得んとするボスの夢を支え、それを叶えさせて貰えると信じていいのよね?」
「ああ、勿論だ。
ボスには、それが出来る器がある。
だからこそ僕も、ボスに力を貸している」
シンオウ神話に語られる大いなる神。それは、空間を操る力を持つ。
マーズは、その力を求めている。失われた縁を、若き自らの過ちが失った掛け替え無き絆を、悔いてやまぬあの日々を取り戻すために。
マーズは二十歳になったばかりだ。大人と呼ばれるようになったばかり。
いや、成人の定義にわざわざ愚直に従わなければ、一年か二年前から大人の仲間入りと称されて然るべき年齢だろう。
そして大人になれば、いくつものものを、賢く、賢しく、諦めていくことをも求められる。それが大人というものだ。
もう八年も前、12歳の時に喧嘩別れして一度も再会を果たせていないニャルマーとの再会なんて、もはや諦めろと誰だって言うはずだ。
それを諦められなかったマーズだからこそ、普通の手段では叶えられない夢を果たすため、ギンガ団に与している。
今さら、後戻りは出来ない。それだけのことをやってきたのだ。
「ジュピター。
君はポケモンコーディネーターとしての自らの才に見切りをつけ、トレーナーとしての自らの才を信じ、過去に戻って人生をやり直したいんだよな。
果たしてそれが、今の知識や経験を以って生まれ変わった自分であってなお、頂点を極められる人生となるかはわからないぞ。
そこまでして尚、頂点を極めることが出来なければ惨めだという怖さがあることも君は知っているはずだ。
それでも、時を遡る力を君は求めてやまないんだよな?」
「……果たせるものなら、次の人生ではすべてを懸けるわ。
あたしだって、今の汚れたあたしじゃなく、胸を張って誰にだって誇れる道を歩みたかった。
人生をやり直すだなんて反則だけど、その反則を実現するためにすべてを尽くす今のあたしを、次の人生のあたしは絶対に否定しない。
必ず頂点を……いや、シンオウ地方のチャンピオンじゃなく、全世界のチャンピオンにも勝る最高のトレーナーになってみせるわ。
それを今の時空であたしに傷つけられ、踏み台にされた者達へのはなむけとさせて貰うわ」
シンオウ神話に語られる大いなる神。それは、時空を操る力を持つ。
ジュピターは、その力を求めている。かつて見誤った自らの才、それによって歩んだと思えてならぬ、挫折と悲観に満ちた悔い多き人生を改めるために。
あの日、ああしていれば。あの頃、あんな道に進まなければ。
大人になっても、そんな後悔はいくらだってある。いや、大人であればこそ、時を経ればこそ、そんな悔いのきっかけはいくらでも増えていく。
時を遡り、こうであってほしくなかった人生を描き換えたくなることは、子供じみた悔いなどでは決してない。
そんな後悔を、賢しい大人達は愚かなことだと結論付ける。不可能だから、考えても仕方のないことだから。だが、叶えられるならば?
数ある選択肢の正解を知った大人になった今、その知識を抱えたまま幼き日々に生まれ変わり、すべてをやり直したいと願うことは愚かな夢妄想なのだろうか。
そんな妄執に取り憑かれたジュピターだからこそ、時を遡る前の今の"前世"で、手段を選ばず非道に手を染めることも厭わない。
今の自分が、幼く純真な頃の自分が見れば、最低最悪な大人だと軽蔑するような自分であるとわかっていても、なお。
今さら、後戻りは出来ない。それだけのことをやってきたのだ。
「僕達が子供だった時、大人達の姿はどう映った?
口やかましく僕達を躾ける親、身勝手な子供達を叱る大人達、それらが唱えるのは美しく社会的に肯定される正義の数々。
おもちゃを買って欲しいからって泣き叫ぶな、周りの人の迷惑だから。
いくら楽しかったからって夜遅くに帰ってくるな、心配だから。
どれだけむかついても暴力を振るうな、自分が同じことをされたら嫌だろう。
鬱陶しくも感じた小奇麗な言葉の数々が、大人になった今では、自らを律し、他者を幸福にさせことが出来る正しい生き方を説くものだったとわかる。
幼い頃に見渡す中で目に入った、毎日靴底をすり減らし、寝坊もせずに朝起きて、出勤する大人達の姿に、今では敬意さえ覚えることが出来るじゃないか。
大人達って凄いんだ。勝てない人達だ。子供心に僕達は、力や背丈で勝る大人達に、そうした感情を無意識にでも抱いていたはずなんだ」
親に起こされるでもなく毎日きちんと起きて、遅刻もせずに仕事に行き、それを一年も十年も繰り返し続ける大人達。
そんな苦労を我が子に理解して貰えるはずもなく、反抗期の我が子にさんざん生意気に罵られても、家族の生活を守るため出勤を繰り返して。
誰にでも出来ることだと評価されにくい家事や炊事を、自分のためだけでなく家族のために、朝から晩まで毎日、毎週、毎年休みなく繰り返して。
理解し合えぬこともあり、殴りたくなるほどの憎しみを胸に妻や夫と喧嘩することさえあれど、家族の日々を守るため、明日も渾身の想いで生き続けて。
苦労のかかる我が子に手をかけながら、口うるさくも見捨てられない自らの親を養い、忘れられず、喪い弔うその日まで上にも下にも献身して。
孫が可愛くて我が子を躾けていた時の牙が抜けた老人もまた、そんな日々に辿り着くまで何十年も、社会人として休む間も無く力強くき続けてきて。
かつてわかっていなかった大人達の凄さは、自分達が大人になって初めてわかる。
本当に、みんな、みんな凄かったのだ。武力なるものが否定されるこの時代にあってなお、ずっと、ずっと戦い続けてきた、戦い続けているのだ。
サターンも、ジュピターも、マーズも、子供達であった自分達が様々な想いで見上げていた社会人達に対する印象は、大人になった今その想いに尽きる。
「まさか大人になった僕達が、かつて敬った大人達の姿とは似ても似つかない、身勝手で、傲慢で、他者の犠牲も顧みない悪党になっていると思ったか?
そして僕達が率いる悪しきギンガ団もまた、年だけ重ねて体だけ大人になり、非道も顧みぬ心は子供のままのならず者達だ。
僕達が、力だけ得てその力を振るい、他者の血や涙を糧に我が儘な道を叶えんとする、たちの悪い子供達のままであるのと同じようにだ」
だから、いくら己の心に蓋をしようとも、決して逃れられない負い目がある。
自分達は、退屈なようで正しかった、平凡なようで誰にも恥じることなき形でこの社会を支えていた、あの大人達のような立派な大人にはなれなかった。
受け入れ難き現実を拒絶し、それを塗り替えるためなら、誰かを傷つけることさえ厭わない。
きっと幼き頃の自分達が今の自分を見れば、軽蔑の眼を向けてくるであろうことをわかっていて、なお。
どれだけ今の自分の価値観で己を肯定しようとしても、かつてと今を含めた自分自身を、嘘で騙したり誤魔化したりすることは出来ないのだ。
出来た気になっているなら、それはただ現実から目を背けているだけだ。
「いくつになっても、大人は迷子だ。
今になれば敬える、かつて僕達が見上げてきた大人達も、今の僕達のように誰にも語れぬ苦悩を胸に戦い続けてきた。
だから、僕達が率いるような歪んだ下っ端達のような、幼い頃の僕達が軽蔑するような大人達もまた絶えない。
正しき戦い続けることをほんの少しやめ、転げ落ちた末に悪としか呼べぬ存在となった大人の姿もまた、僕達は見届けてきたはずだ」
「……悔い改める道があるとでも思ってるの?」
「愚問だな。僕達は、それを捨ててここまで来た。
今さら引き返せないことは、君達が誰よりもわかっているはずだ。
決して悪の組織の最高幹部として、逃げれば只ではおかぬと脅す意図はないぞ。
君達が、やはりと引き返すならば、僕は咎めも引き止めもしないし、今の地位にある権力を以ってして制裁を課すことも断じてしないさ。」
サターンは、誤った道へと進んできたマーズとジュピターを、そして自らを否定する論駁を厭わない。
正しいことを言うのが大人だ。そして、その上で叶えたい何かを果たす能力を持つのも、二十年以上生きてきた大人の知恵の賜物。
真実を突きつけるサターンとて、マーズやジュピターと同様に、数多くのものを傷つける組織の最高幹部としての指揮を繰り返してきた。
己が手を下してきたかどうかなど関係ない。その手引きをしてきたという自らに対して目を逸らすほど、彼とて現実逃避する器ではない。
今さら、後戻りは出来ない。それだけのことをやってきたのだ。
人は、費やしてきた日々や犠牲、道徳を、道半ばにして諦めて無駄にすることなど相当に出来はしないのだ。
それは、失ってきたものが掛け替え無きほど、尚更に。
さながら大金を失ってなお、これ以上の喪失は自滅に破滅にさえ繋がると自覚しながら、崖の向こうへ跳ぶことをやめられない博打好きの如く。
便利な言葉だ。『今さら後戻りは出来ない』
かつては子供だった大人達の心がどれだけ濁っても、必ず、ひとかけら以上の良心はそこに残っている。
悪党を自称し、良心のひとかけらも残らぬ自らを謳ういかなる者とて、己を正当化せんとする時には"正論"を吐きたがる姿がそれを物語っているではないか。
そんなマーズやジュピターの、かすかに残る良心を抉るサターンの言葉も、二人を今さら後戻りさせぬことを彼は知っている。
不都合は無い。好きなように語ろうとも。だから、彼はギンガ団最高幹部として、数々の部下を束ねてきた器としてこれまで在ったのだ。
「ねえ、サターン」
「ん?」
「あんた、あたし達にそんな小奇麗な話をして、何が言いたいの?」
耐えかねたジュピターの、直球の問い。
サターンは今もまた改めて、自嘲するような笑い。
その態度には、本当に、相手を小馬鹿にするような意図や気配は無く、自分自身の弱みを隠さぬ姿そのものだ。
「いや、何だろうな……
僕にしてみれば、君達はしっかりしていると思うんだ。
かつて離れ離れになった親友に会いたいという未だ無垢な想い。
かつての過ちを正したいという、共感さえ覚える人間的な望み。
皮肉じゃなく、尊敬しているんだ。そのために、胸を痛める本心を抱えて、我が道を突き進めるその姿がね」
「……本当に、はぐらかしてるわけじゃなさそうね」
「じゃああんたは、何がしたくてギンガ団にいるのよ?」
「…………」
核心を迫るマーズとジュピターに、サターンは僅かな沈黙を作った。
話術の一端として、沈黙や間を作ることは出来るサターンだ。
この沈黙は、何らかの目的があって作ったものではない。ただ、彼が言いづらいことを躊躇う間だ。
先の言葉に嘘が無いものだと信じられる表情と声のサターンだからこそ、マーズとジュピターもそうだと確信することが出来た。
「……大きなことが、したかったんだ。
ただ、それだけだよ」
「抽象的ね」
「申し訳ないが、これ以上は問い詰めないでくれ。
……僕も、これ以上を上手く語れる言葉が見つからないんだよ」
少々力無く笑うその表情は、身内からすれば踏み込みづらくなる顔だ。
ずるさはある。流石に悪の組織の大幹部だ。
ジュピターは舌打ち気味に、マーズは溜め息混じりに、それを受け入れこれ以上は追及しないのだから、それもまたサターンの築き上げてきた強み。
二人が身内として認めさせてきた実績と、それを叶えたサターン自身の、二人を親近感ある身内として捉え語り合ってきた日々の賜物だ。
つくづく人の上に立つ者のうち限られた一握りというのは、計算し尽くされた態度や言動のみに留まらず、他者をたらしこめる才に溢れたものである。
尊敬できる大人の第一位とさえ称されたコウキが、悪の組織の重鎮サターンたるというこの現実は、社会的に見て本当に嘆かわしいことだ。
「それより、マーズ、ジュピター。
ひと休みする前に改めて確認しておきたい。
ギンガ団幹部として、君達に課すラストミッションだ」
「ええ、わかってるわ」
「……わかってる」
エイチ湖のアグノムを捕獲するという、悲願に向けて必要なことを果たす、最後の山場は乗り越えた三人だ。
後はもう、三人は定められた未来に向けて、組織の最高戦力として立ち回るのみ。
その中で、マーズやジュピターの能力を活かす最後の仕事を、サターンは二人に課そうとしている。
そして、その内容は二人も理解している。
ジュピターは、ただ頷いて。
マーズは、心にもやのかかった表情で首を動かさず肯いて。
そんなマーズの心境も、サターンは当然理解している。
ジュピターと異なり、悪の組織としては甘さが、人としては正しく良心の残るマーズに、このミッションは心に引っかかるものがあろう。
だが、彼女にこそ最適な役割だ。マーズの性格を鑑みれば、ジュピターではなく、マーズにしか任せられないこと。
それもまた、コウキとしてではなく、サターンとしての非情な指令だ。
「……頼んだぞ、マーズ」
「…………うん」
追われる身。緊張感があるはずの境遇。
それを忘れさせたサターンの語り口は、マーズを心からラストミッションに集中させ、雑念を抱かせない。
それもまた、ギンガ団最高幹部として、部下や同僚には悟られぬままにして、心を操る手腕の一端だ。
サターンの長い話には、間違いなく意図的に、マーズにそれを強く認識させる目的があったことに疑いはない。
やはり、サターンはサターンなのだ。悪のギンガ団として身を置く限り、社会的にも敬われるコウキとしての姿がすべてではないということだ。
ギンガ団の悲願が果たされるとしたその日はもはや、目前にまで迫っている。
それを阻まんとする者達との戦いは、必ずこの後にも訪れる。
そしてそれは、悪を挫かんとする者達もまた、これ以上は負けられないと強く意識してのものとなることが確約されている。
迎え撃つ者達もまた全身全霊だ。戦いは、片側の強い想いだけで成り立つものではない。
憎まれるべきことを重ねてきたからこそ、時を追えば追うごとに、戦いが熾烈になることはサターン達こそ自明の理と認識してやまない。
それは、リッシ湖、シンジ湖、エイチ湖のミッションと、時を追うごとに敵の数が多くなったサターン達が、身を以って経験してきたことでもある。
宿願まであと少し。だからこそ、ここからが大詰めだ。
作戦の全容を知るギンガ団幹部の三人は、そう確信している。
シンオウ地方のすべてを巻き込み得る、運命の日が近付いているのだ。
歴史の節目、そう言い表して何ら過言無き日が、間もなく訪れる。