パッチは攻撃手段のバリエーションに富むタイプではない。
身体でぶつかるか、噛みつくか、10万ボルトの遠距離攻撃か。
殆どが電気タイプの技で構成されており、せめて"かみつく"攻撃が相手の心を折る痛苦の必殺技であるという程度。
迎え撃つ側からすれば、相手の出方が概ね読めるとおりであり、対処方法は考えやすい方であるといえる。
「ドクロッグ……!」
「――――!」
それでもサターンは、レントラーと化したパッチに対しては、御しやすい相手だという印象は一切抱いていない。むしろその逆。
血走った目でドクロッグに跳びかかるレントラーの気迫は凄まじく、その牙や爪を自らに向けられていないサターンでさえ戦慄を覚えるほど。
激しく発光するほど全身を帯電させ、"スパーク"の突撃を為すレントラーの姿に、絶対まともに受けるなと言うにも等しくドクロッグの名を呼んでいる。
「――――、――――――z!!」
躱して返す刃の毒突きを放つドクロッグの反撃を、振り返りざまにパッチは開いた口を振り上げ、その下顎の牙で毒針の一突きをかち上げる。
この一幕だけで脅威性をサターンやドクロッグに、はっきり知らしめるには充分だ。
顔面狙いの速い一突きを、接点の小さな牙で的確に弾き上げるなど、刹那の勝負に慣れたバトルセンスを物語るには余りある。
片腕を振り上げられて胸元ががら空きとなったドクロッグだが、もう片方の手は引いている。
隙だと見誤って突っ込んでくるなら、ダメージ覚悟でもカウンターの毒針を突き刺すためだ。
しかし、パッチが跳び付くように口を開けて襲い掛かったのは、今しがた自分で叩き上げたばかりのドクロッグの手。
毒針を擁するその手を"かみくだき"、完全に使い物にならなくさせる目的と、相手の胸元の隙が罠であることを看破しての瞬時の判断だ。
想像以上に鋭い勘を持つ相手だと思い知らされ、ドクロッグも背筋がひりつくような感覚と共に大きく退がる。
跳ぶようにして相手から必要以上の距離を稼ぐのは、策を潰され立て直さざるを得ない苦肉の策。
がちんと牙を鳴らすや否や、吠え声あげて突っ込んでくるパッチにドクロッグも即時判断を強いられる。
躱すべきか。いや、それの繰り返しは逃げ回るだけの防戦一方。
俊敏なレントラーの突撃を躱し続けたところで、有利な迎撃機会を作る暇もなく追い回されるだけだと、ドクロッグの積み上げた経験則が訴える。
眉間を貫く狙いで突き出す毒針で、相手が理性を失った猪なら致命傷となるであろう反撃を突き返す。
しかし顎が地面に擦るのではないかと思うほど頭を下げたパッチは、額の上を毒針に掠めつつ、ドクロッグの膝元を顔面で救い上げる突進に切り替えている。
「撃て! ドクロッグ!」
「――――z!」
ドクロッグは跳んでいた。
放電するパッチの体毛に足先を掠め、びりりとする"スパーク"の余波に微弱なダメージを受けはしたものの、パッチを飛び越えその後方へ着地する動き。
そしてサターンがドクロッグに出した指示は、それが踏み切ってジャンプするよりも僅かに速い。
自慢のドクロッグがその最適解を、刹那の自己判断で下してくれることを踏まえた上で、その次の技を命じている。
だからドクロッグは空中で胸の前に両手を近付け、生まれさせた泥の塊を着地と同時に蹴っ飛ばし、"どろばくだん"として発射する。
振り返った直後のパッチの顔面に直撃したそれは、電気タイプのレントラーには痛烈な飛び道具だ。
「パ……」
「――――――――z!」
「く……!」
顔の骨が歪みそうなほどの衝撃でも、その目に泥が入っても。
頭の内外の痛みなど意にも介さぬかのように天井を仰いで吠えたパッチが、周囲一帯を駆け抜ける"10まんボルト"を放射する。
敵がどの方向にいようが関係ない、全方位の攻撃に狙いは必要ない。
パールにだけは当てないよう、記憶の限りにある彼女の方向以外の340度へ放たれた放電は、両手を交差させて身を守るドクロッグを襲っている。
「行け!」
「――――z!」
「パッチ! 来てるよおっ!」
だが、それは目が万全でないことを半ば自白する攻撃手段。
それを好機と確信するのはサターンもドクロッグもほぼ同時。
浴びせられた電撃に身を焼かれながらも駆けだしたドクロッグは、頭を下げて敵を睨むも目が開き切っていないパッチを狙い澄ましている。
毒突きを放たんとするかのようなフェイントを一度挟み、不完全な視界でも頭を動かし致命傷を避けようとするパッチを誘発して。
その上で放つのはパッチの顎を蹴り上げる、受けた痛みのダメージを怒りとパワーに代えて痛打と為す"リベンジ"だ。
「ガ、ッ……!」
「パッチぃっ!」
「ッ――――、ッ!」
意識の飛びかけるような一撃だった。それでも聞こえた。
勝って欲しい、頑張って欲しい、助けて欲しいと涙声で訴えるあの声を聞くだけで、たとえ死んでも蘇れるような気さえする。
血走った目で顎を下げ、間近のドクロッグを獲物と捉えたパッチの眼光は、"いかく"の恐ろしさを超越している。
飛びつき開いた口でドクロッグの右肩へ食らいつき、押し倒すようにしながら骨肉を粉砕する力を入れるパッチが、ドクロッグを一気に窮地へ陥れる。
毒針をパッチの目元へ突き刺そうとしたドクロッグより、全力の電撃を"かみなりのキバ"を介してぶち込むパッチの方が早い。
眩しいほどに発光するパッチが、パールとサターンの目を焼き、ドクロッグの姿を人の目では捉えられぬほどの世界へ落とし込む。
ばりばりと鳴る放電音はドクロッグが本来あげるべき悲鳴にも等しいものであり、意識が飛びかけたドクロッグは声すら出せていない。
それでも骨まで届いた牙の切っ先の痛みに目を覚まし、こちらも呼び醒まされた闘志に突き動かされ、いま改めて毒針を突き出した。
まぶたを貫き眼球を一生使い物にならぬよう繰り出されたその一撃は、生存戦争の中で殺生をも厭わない、野生の血が為す獰猛な本能的一撃に匹敵する。
それを退けるのもまた本能だ。
ドクロッグを床に押し付けたまま、いっそうその身を潰す動きで頭を下げたパッチは、かろうじて狙われた右目の位置を沈められた。
ドクロッグの鋭い毒針はパッチの目の上に直撃し、頭蓋の目の穴の淵をがつんと打つほど深々と突き刺さる。
絶無の痛みはパッチの全力顎に込められた力を僅かに緩め、その瞬間にドクロッグの膝がパッチの腹を蹴り上げる。
口を開くパッチ、それを寝かせられた状態から、もう一度毒針で顔面を貫くつもりだったドクロッグ。
だが、期待以上に蹴りが押し上げたのかとさえ錯覚するほど、パッチは自ら地を蹴って跳び、ドクロッグから僅か離れた場所へ身を翻して立つ。
「ああぁぁ……! パッチ……」
『見てなさい!! 勝ってみせるから!!』
目の上からおびただしい血を流すパッチ、それを見て涙が溢れるパール、すぐに立ち上がるドクロッグ。
どんなに見たくなくたって、目を切るなとばかりに吠えたパッチは、血が流れて入った眼も閉じず、真っ向ドクロッグを睨みつけて放電する。
敵を見定められぬ全方位攻撃ではなく、はっきりと敵の位置を見据えての10万ボルトで以って敵を撃ち抜くのだ。
「――――――――z!」
「ッ、ッ……!」
痛烈な電撃を受けて身が軋むドクロッグへ、パッチは咆哮あげて捨て身さながらで突っ込んでくる。
身構えるのも遅れてしまう。突進速度も、それに踏み込む判断もパッチが早過ぎるのだ。
帯電した全身で額をぶつけてくるパッチの"スパーク"に、強打に加えて電撃を流される強力な一撃に、ドクロッグも吹っ飛ばされて足元が危うい。
尻餅をついたり倒れたりこそせず、泥爆弾を瞬時に作り上げて発射する判断力も屈強さも流石だが、それを飛び越え開いた口で襲い掛かるパッチは止まらない。
逃げからのじり貧を好まなかったドクロッグも、これには跳躍して真下でがちんと牙を鳴らすパッチを見下ろすしかない。
「お前なら出来る! 行け!」
跳ぶとほぼ同時に発したサターンの指示は、無茶を示唆し、しかし今この状況で為すべき無茶とは何たるかも、ドクロッグにすべて伝え果たしている。
宙で身を回して天井に足を向け、それを蹴ったドクロッグは、重力による加速と自らの脚力で、パッチへ流星のような加速で急接近。
対応する暇も与えぬ即時反撃は、突き出したドクロッグの両手の毒針が、パッチの背中を深く貫く結果を導いた。
それこそナイフの刃すべてが体の中へと入り込むような、深い二刃が肌と筋肉を引き裂く一撃は、命を失う意味での致命傷に繋がってもおかしくない。
「――――ッ!!
――――――――――z!!」
痛みを奥歯で噛み潰すかのように歯を食いしばった直後、立ち上がるほど上を見上げて発したパッチの咆哮は、間違いなく今日一番大きかった。
耳が痛んでサターンが眉をひそめた程だ。振り落とされるかと思ったドクロッグも、不屈の精神を間近に目色が鋭くなる。
ぎゅうっとパッチのボールを両手で握りしめ、スイッチに指をかけ、押さないよう震えて耐えるパールの姿を見たパッチは、壁に向かって突き進み始めた。
それも、全身から放電し、自分に触れているドクロッグに痛烈な電撃を流しながら。
跳びの大きいその走りは、背中に毒針を突き刺して掴まっているドクロッグを振り落とさん勢いだ。背中に跨られた闘牛と何も変わらない。
だが敵を捕えたこの好機を、ドクロッグとて決して逃さない。ぐっと腕と腰に力を込め、パッチの背中に食らいつく。
深く突き刺さった毒針の切っ先は肌の下で筋肉を抉り、傍目から見る以上の壮絶な苦しみを与えているはず。
それだけの痛苦の中にありながら、パッチは壁まで近付いた所で、跳んで自らの身体を横倒しにする。いや、むしろ背中を下にするほどの勢いで。
横っ腹を床に擦りつけ、同時にドクロッグを床に走る勢いのまま叩きつけて。
半身の皮膚を削り取られるような痛みに、ドクロッグも地獄へ道連れにされる形だが、毒針を抜かず踏ん張るその行為がパッチに与えるダメージはそれ以上。
自分で身体を打ち付けて、背中を裂く毒針はいっそう深手に。それでもパッチはすぐに立ち上がり、目の前の壁に再び突き進む。
額から壁にぶつかっていく勢いのまま跳んだパッチは、思いっきり顎を引き、空中で前回りする形で背中を壁に向けていったのだ。
逆さまに映る後方の光景を前に、自分の背中と壁の間に挟まれ叩きつけられたドクロッグの手から、僅かに力が失われた瞬間をパッチは見逃さない。
辛うじて前足二つで床に着地した瞬間、腰を勢いよく振ってドクロッグを投げ飛ばす。
抜けた毒針、痛みに耐えて空中で体を回して体勢を整え、なんとか片手と膝と脚で着地するドクロッグ。
四本足で降り立ってすぐ、背中の深い傷も忘れたかのように、すぐさまドクロッグに身体を向けて睨みつけるパッチの眼光は死んでいない。
「パッチ……パッチ、ッ……!」
『信じて……!
私が勝つ! あなたを守ってみせる! 私にしか出来ない!!』
再び咆哮を発してドクロッグに向けて10万ボルトを放つパッチの攻撃は単調で、跳び退がったドクロッグに比較的容易に躱される。
激しい発光と炸裂音を伴うその一撃だったが、ここからがこれまでのパッチの放電攻撃とは違った。
放電を終えたパッチの全身の発光はおさまらず、いや、むしろいっそうの光と、ばちばちと激しく火花散る音も、強く、大きくなる。
それはまるで、天翔ける伝説の雷鳥が"かみなり"を放つ直前の、その神々しさに恐ろしさすら内包する発雷直前の輝きを彷彿とさせるものだ。
伝えずともその"きけんよち"能力で迫真の危機感を得るであろうドクロッグを信頼し、サターンはユンゲラーのボールを握りしめている。
あの矛先が自らに向くリスクさえ想定せずにいられないのだ。
最悪、あの怒れるレントラーから、自身とドクロッグをユンゲラーの"テレポート"により逃れさせるという最終策さえ視野に入れざるを得ない。
『私は強いのよ……!
ピョコと一緒で、最初の頃からずっとあなたと一緒だったもの……!
あなたと長く、ずっと、ずっと一緒にて、あなたのに育てられて力を培ってきた!
ニルルにも、ミーナにも、ララにも絶対負けない! 私が一番強い!』
「っ……ぅ……」
四本の足で力強く床を踏みしめるパッチの全身が放つ光は、パールに伝わる迸る"感情"の強さを象徴するかのように、いっそう強くなっていく。
誰も直視できない眩しい光。限界を超えんとする強き"意志"。
自分をここまで強くしてくれたパールのポケモンだという、決して何者にも変えられぬ事実を胸に持つ"知識"は、悲願を果たせる自らを信じる最大の根拠だ。
どくどくと背中の生傷から流れ続ける、ドクロッグの毒素が混じった赤紫の血さえ、パッチの放つ光はパールの目に映させない。
それはまるで地上に顕現した太陽の如く、見る者すべての目を焼くと同時、その光で以ってパールの未来を照らさんとするかのよう。
『だから、私がやる! 私にしか出来ないこと!
私が手にした最強の力は、あなたを守るためにある!!』
「な……!?」
暗いこの部屋を照らしていた薄明りの蛍光灯が、点滅ののちに光を失った。
そして、エムリット達を捕えている機械を制御する、メインコンピューターのランプの光もだ。
日の差さぬ地下室、そこに光をもたらしていた電気がすべて消え、だがこの一室は闇になど包まれない。
アジトの電気エネルギーが失われていくとともに、それを吸収しいっそうの強さで輝くパッチの全身が発する光は、未だ眩しくこの部屋を照らすからだ。
『パール!!』
「っ、っ……!
が……っ、頑張ってえっ! パッチぃっ!!」
「く……! ドクロッグ、恐れるな! 行け!
僕が必ず始末をつけてみせる!!」
「「――――――――z!!」」
パッチとドクロッグの迫真の雄叫びが響き渡り、両者が勢いよく敵へと突き進む。
瞳孔の開いた眼のパッチ、光量に耐えられず目を細くしたドクロッグ。
それでもドクロッグの狙い定められた毒針は、真っ向から迫るパッチの額の横を抉っていく。
相手の足音、そして覚えた相手の顔の高さだけを頼りにだ。
視界を限られてなお、パッチが首を逃がさねば眉間を貫いていた毒突きの一撃は、底知れぬドクロッグの力量高さを物語るものだ。
こめかみの肉を削ぎ落とされる鋭い痛みにも耐え、すぐさま振り返り跳びかかるパッチの反撃を、ドクロッグは躱し切ることが出来ない。
殺気のみを頼りに振り返って右腕でガードする体勢を取ったドクロックの右腕に、パッチの牙が深々と突き刺さる。
"かみなりのキバ"を介して流し込まれる電流、それも施設の電気エネルギーを奪い集めての超電流は、目を閉じていたドクロッグもそれを開くほど。
光の中に凶獣の形相を目にしたドクロッグが、もうひと踏ん張りの脚の力を込めたパッチにより、背中から床へと押し倒される。
前足でドクロッグの左肩を押さえつけるパッチ、その接点と牙から100万ボルト級の電撃を流し込む追撃が、ドクロッグの意識さえ遠のかせる。
「ドクロッグ!!」
「…………ッ!」
意識が飛ぶのを阻んでくれたのはサターンの、コウキの声。
暗喩された指示が裏にあるわけではない、屈するな、しっかりしろという想いのみで自らの名を呼ぶ声。
それだけで充分なのだ。負けられるものか、コウキを負けさせられるものか。
目が潰れることも厭わず、意識を取り戻すためだけに目を開いたドクロッグがパッチの前足を振り払い、左手の毒針でパッチの眼球を突き刺そうとする。
瞬時の判断で牙を抜き、顔を振り上げたパッチは目を貫かれることを免れるが、差し向けられた毒針は顎の下に突き刺さる。つまり、喉元だ。
「お願いぃ……っ!
頑張れっ、頑張ってパッチぃっ!!」
「ル……ッ、ガアアアアッ!!」
眩し過ぎる光を前に目を開けられず、この惨状を目に出来ていないパールは、指示も出せず、パッチの勝利を信じることしか、祈ることしか出来ないのだ。
それがいいのだ。パッチにとっては。
血みどろの自分を見て、もうやめてと引っ込めることだけはして欲しくない。
頑張れって言ってくれるその言葉が、こんな所であいつらに殺されたくないという想いが、死さえ見えかけた自分を奮い立たせてくれる。
喉元に毒針を突き刺したドクロッグの手首をその両前足で掴み、全身全霊の電撃を流し込んで力を失わせ、力任せに引き抜いてしまう。
再び開いたその口で、お返しだとばかりにドクロッグの首元にその牙を立てる。
皮膚の下、ドクロッグに傷つけられた自らの脈から溢れる多量の血が、その傷口から噴いても関係ない。
「く……っ!」
「――――!?
ッ、ッ……、――――――z!!」
喉元に容赦なく噛みつかれた瞬間に続き、強すぎる電撃を流されたドクロッグは、意識を吹き飛ばされかけて死さえ意識したものだ。
その恐怖さえも、自分を救うため、ボールに戻すか盟友ユンゲラーのテレポートによる逃亡を選ぼうとしたコウキの気配を感じ取れば。
それだけは駄目だという意地によって闘志をかき集め、自らを組み伏せたレントラーの腹を、渾身の膝でかち上げる行動を実現させる。
げはっと息を吐いたパッチの顎から力が抜けると、下半身を振り上げて大きな体のレントラーを頭の上まで押し出すようにして突き放す。
失神寸前だったパッチが顔から床に転がって、しかしすぐに立ち上がるその中で、ドクロッグもまた身を転がして立ち上がる。
「あっ、ああぁぁぁ……!」
「っ……すまない、ドクロッグ。
負けられないよな……!」
「――――――――z!」
パッチの発する光が弱くなり始めたことで、パールはあまりにも痛々しいパッチの後ろ姿を目の当たりにしてしまった。
背中から流れるおびただしい血、そして喉元からぼたぼたと流れ落ちる血。
薄目でようやく視認できるその姿は、今にもパッチが死んでしまうのではないかという光景に他ならない。
ドクロッグの右腕がだらりと上がっておらず、今日はもはや使い物にならない事実がそこにあっても関係ない。
撤退を決断しかけたサターンがそれを詫びる中、そうだそれでいいんだと片腕失ってなお意気込むドクロッグは、決して自ら退くことだけはしないのだ。
パールとパッチの間に、命懸けででも大切な人を守りたいという強い絆があるのと同様に。
ドクロッグにも、たとえ明日は戦えぬ身体になろうとて、コウキを敗者になどしたくないという確固たる信念がある。
「も……もう、だめ……」
『パール!?』
「ごめん……ごめん、パッ……」
「グガアアアアアアアアアアッ――――!!」
「ぅぁっ!?」
「ぐ……!?
これ、は……っ!?」
もはやパールが、これ以上戦えば本当にパッチが死んでしまうという恐怖のあまり、ボールのスイッチを押そうとしたその時だった。
激しく地面が揺れ動き、震える脚で辛うじて立っていたパールが腰砕けに転び、サターンも腰を沈めて手をつかずにはいられぬほどの大地震。
パッチもドクロッグも膝を曲げて踏ん張る中、遥か遠くから響いてくる恐ろしげな咆哮が、この事象の正体をサターンに真っ先に悟らせた。
「っ……駄目だ!
すまないドクロッグ! 撤退する!」
「…………!」
今度は一縷の迷いもなくボールのスイッチを押すサターンに、ドクロッグも身震いして頷くのみだった。
彼方より聞こえたあの咆哮はドダイトスのもの。その前の大きな揺れは、それが起こしたもの。
プラチナを助けるために一度はパールのそばを離れこそすれ、使命を果たせばその足が向く先など知れている。
ドクロッグをボールに収めると同時、ユンゲラーをボールから出したサターンの意に、ユンゲラーも次の行動は最初からわかっている。
「ここが正念場だ……! 頼むぞ!」
ドクロッグに死力を尽くして戦って貰ったとして、あのレントラーを撃破し、パールの命を終わらせられる可能性は半々である。
勝負を打つ価値のある率だ。しかし、ドダイトスがここに参戦することになろうものなら。
疲弊したドクロッグが敗北する想定、そしてシロナとの戦いでミノマダムが力尽きている現実、残るはユンゲラーのみ。
これでドダイトスを撃破できなければ一巻の終わりだ。撤退手段も無く、パールを亡き者にしようとした自分が無力化すれば、己の結末は知れている。
ユンゲラーはサターンにとって、テレポートにより自分達を緊急退避させてくれる、決して力尽きさせてはいけない最後の保険なのだ。
テレポートを行使しようとするユンゲラーが苦心している肩に手を置き、サターンは頑張ってくれと檄を飛ばす。
ユクシーが、エムリットが、アグノムが、逃がしてなるかとユンゲラーの超能力を行使させぬよう、その目を向けているのがサターンを追い詰める。
自分達をこんな所に閉じ込めた組織の連中が、一転追い詰められて逃げようとしている。させてなるものか。
囚われの三柱の憤慨に満ちた眼を向けられたユンゲラーが、一つのスプーンを両手に握りしめ、念力妨害に抗うべく汗すら流している。
「ユンゲラー……!」
「ッ――――――――!!」
そこにも確かな意地があった。
並々ならぬ窮地に追い込まれた時、危機から逃れる最終手段として、戦列に立たせることを敢えて避けられた自分。
培ってきた力はある。戦っても力になれる自信はある。それでも付き合いの長いドクロッグ達のように、戦陣に立ってコウキの力になることが少なくなった今。
彼の撤退を叶えられずしていつ役に立てるというのだ。三柱だか何だか知らないが、弱った連中三人がかりの力に妨げられようが、絶対に果たしてみせる。
ユンゲラーの強い念の力により、触れたるサターンとともに、ここではないどこかへとサターンを連れ自分達を転送する力を行使したユンゲラー。
エムリット達のノイズを振り切って、それは果たされたのだ。
「パッチ……!」
自らの命を脅かす悪辣な敵が去った中、パールはもはやそんな奴らのことなど眼中に無かった。
逃げやがったなあいつら、と不満げに鼻を鳴らすも、その表情にはパールを守り切れた満足感をその表情にかすか匂わせるパッチ。
そんな彼女が振り返ったその先から、守りたかった最愛の人が駆け寄ってくる姿を見て、最大限、得意気な顔で微笑んでみせるのみ。
光源を失った暗い部屋の中で、淡い発光を保つパッチだからこそ、パールも目を潰されず駆け寄れるのだ。
ああ、なんてめちゃくちゃな顔。あんなに泣いて、ぐじゅぐじゅの目元で可愛い顔が台無しじゃないの。
パッチもそんなパールの顔を見て、作り笑顔ではない笑みが溢れてしまったものだ。
放電するパッチに真正面から抱きついて、痺れて痛い電気を体に伝えられても、ぎゅうと抱きしめる手を離せない。
「あり、がとう……
守って、くれてぇっ……」
「…………♪」
一番、最も、聞きたかった言葉だ。すべて、報われた。
私はやり遂げたんだ。そう、実感させてくれる最大の賛辞。
それを耳にすることが出来て、パッチはパールを心配させまいと努めて作っていた表情も、心からの満足げな、穏やかな表情に変わる実感すら得ていたものだ。
温かかった。
心から守り抜きたかった誰かが、感謝とともに自分を抱きしめてくれる、至高の幸せ。
野生であった頃からパールのポケモンになった後を含めても、今までの生涯の中で、経験したことのなかった喜びだ。
それは脅威が去り、彼女を傷つけるものが無くなった今、ずっと張り詰めていたパッチの心を、ぷつりと切れさせてしまうほど心を穏やかにさせてくれた。
「……………………ぇ…………?」
四本の足で立っていたパッチに前から抱きついていたパールの腕の中から、ずるりとパッチの体が抜け落ちていく。
地に立つ力を失ったかのように座り込み、お腹を床につけ、それを追って座り込むパールの手でも追い切れず。
痛くないようにゆっくりと頬を床につけたパッチの姿を前に、パールの頭は一度真っ白になってしまう。
『よかった……
あなたが、無事で……』
かろうじて目先だけはパールの方に向け、無事な彼女の姿を見届けたパッチの、力無くも穏やかに微笑んだ表情。
それを目の当たりにしたパールの背筋を襲った悪寒は、もはや言葉では言い表せない。
ぐったりとしたその身体の下に血溜まりを作る程、全身を穴だらけにされたパッチが、その痛みさえ忘れて悔い無く微笑む姿に、残された者は何を思うか。
まさか、まさか、そんな、まさか。
暗い部屋を照らすパッチの全身の発光が弱くなっていくにつれて、パールの心は恐怖でいっぱいになる。
「パッチ……!? ねえ、パッチ!?
嘘でしょ!? そんな顔……ねえっ、パッチぃっ!!」
血の色を失ったパールの表情を前にして、パッチが僅かに申し訳なさそうな顔をしながら、目を閉じたその表情がパールの恐怖を決定的にする。
光が失われた真っ暗な部屋。だけど目の前に倒れて動かないパッチがいることだけは確かな今。
パールは目に見えぬ、確かにいるパッチに手を伸ばし、座り込んだまま震える全身でその身体を両手で揺さぶっている。
「やだやだやだ……!
パッチお願い、しっかりしてえっ!
そんなのぜったい駄目だよおっ! ちゃんとしてよおっ!!」
自らの死を意識して恐怖した瞬間は確かにあった。
だが、大好きな誰かが死に瀕するという恐怖は、きっと彼女にとって自らのそれを遥かに凌駕する。
いや、人によってはパールと同じ想いを抱く者も少なくはないはずだ。
親か、祖父母か、妻か夫か、あるいは我が子か――家族の誰かが血まみれで今にも息絶えようとしている姿が目の前にあれば――
命を賭してでも自分を守り抜こうとしてくれた、大切な、大好きな、掛け替え無き誰かの命の灯が消えゆかんとする現実を目前とすることは、それに匹敵する。
「ッ、ガアッ!!」
この時パールは、後方で響く数度に渡る激しい激突音さえ、その意識には捉えられなかった。
サターンが閉じてしまった、この部屋への入り口ゲート。
それに何度も巨体でぶつかり、扉をひしゃげさせ、三度目の体当たりで足と頭をねじ込める隙間を作り、こじ開けてこの部屋に入ってくるもう一人の相棒。
パッチがニルルやミーナやララと同列に扱わなかった、パールの最初にして最愛の相棒がようやく帰ってきてくれた姿にさえ、気付くのが遅れている。
アジトに供給される電気エネルギーをパッチが根こそぎ吸い上げたことにより、真っ暗闇だったのはこの部屋だけではなかった。
ここまでの通路でも自らの"フラッシュ"で視界を拓いてきたピョコは、背上の樹木の先々が光を発し、さながら果実が電球たり得るかのような姿。
そんなピョコも、闇の中で座り込むパールと、そばに倒れた戦友を目の当たりにするや否や、地鳴らしさえ発する脚を急がせて近付く。
「――――z!」
「ああぁぁ……ピョコぉ……
パッチが……パッチがぁ、っ……」
一目でわかる。信じたくない結末が近付いている。
穏やかな表情で目を閉じて横たわるパッチの姿に、彼女が大いなる何かを果たしたことはピョコにも理解できた。
パールを守るために、死力を尽くして戦い抜き、敵のいないこの状況を鑑みれば、パッチはそれを達成したのだろう。
立ちはだかった敵を退け、パールを守り抜いた。これだけ傷だらけになって。
そしてその代償は、あまりにも大き過ぎたのだ。
「ピョコっ、なんとか……なんとか、してよぉっ……!
パッチが……パッチが、死んじゃうよお……!」
「ッ…………!
――――――、――――――――z!!」
絶望に満ちた表情で訴えるパールには、ピョコに今のパッチの命を救うすべなどないという、ごく当たり前のことさえわからない。
それでも泣いて縋るしかないのだ。最悪の、決して認めたくない、一生後悔するこの結末だけは受け入れられないのだ。
ピョコも何とかそれに応えんとして、パッチの顔に自らの鼻先を近付け、普通に話して聞こえる距離で大きく訴える声を発するばかりだ。
しっかりしろ、とでも言うかのように。
いや、きっと単純な言葉で例え表せるほど、命を失わんとするに見えるパッチを前にしたピョコの声はシンプルではない。
「――――z!! ――――――z!!
――――――、――――z!!」
「やだよおっ!! パッチお願いだから目を開けてよおっ!!
いなくならないでよおっ!! あなたがいないの、絶対無理だよおっ!!」
パールが泣いてるんだぞ、しっかりしなくてどうするんだ、こんな所でお前が消えてパールが幸せになれるものか。
お前がいなくなったら悲しむのはパールだけじゃないんだぞ。
ニルルやミーナやララだって、お前が思ってるよりずっとお前のことが好きなんだぞ。
頑張れよ、ずっと俺と一緒に最初からパールと一緒にここまで来たじゃないか。
こんな所でいなくなるなよ、お前は俺達の大事な仲間で家族なんだぞ。
俺やパールを置いていくなよと、切実な想いで声をあげるピョコの目は、今まで一度もパールの前に晒したことのない涙を浮かべている。
そんな彼を振り向く暇もないパールの必死な叫びもまた、ピョコのそれと同じほど重く、かろうじて意識の残るパッチの耳に届いているはずだ。
生存を望むばかりの声に奇跡は起こせないのだ。
果たすべきことを果たして満足げな、閉じた瞳で意識を遠のかせていたパッチの表情を、僅かに変えるだけだ。
命懸けでパールを守り抜こうとした、自分の決意が間違っていたとは思わないけれど。
こんなにも、息絶えんとする自らに親愛の想いと生存を訴える身内の声を聞き、出来ることなら、生き延びて胸を張りたかったという想いを抱かせて。
唇を噛み締めて、閉じたまぶたの間から一筋の涙を流し、わずかな悔いを胸に抱くパッチの情念を呼び起こすことしか成せない。
「やだやだやだあっ!! こんなの嫌だあっ!! おかしいよおっ!!
一緒にいてよおっ!! ずっと……ずっと私達のそばにいてよおっ!!」
「――――――――z!!
――――、――――――z!!」
悲痛な叫びも、毒を巡らされた体から色の変わった血を流す、心優しき家族の命を繋ぎ足り得ないのだ。
大切な誰かを守りたいという高潔な意志だけではなく、その上で生き延びて最愛の人の心の安らぎを守るべきだという、あまりにも困難で理不尽な命題。
だが、どんなに無理に見えたって、それを目指すべきだったと今になって悔いるパッチは、ぎゅうっと絞っていた唇を僅かに開いた。
伝えたい想いが、たった一つだけあったから。
「――――――…………」
「あ…………
あ、あああ……ああぁぁぁ……」
ごめんね、と訴えるかのような、か細き心からの声を伝えられたパールが、まさに断末魔だとわかる声を前にして心を粉々に砕かれた。
ピョコももはや、今のパッチに向ける言葉は紡げなかった。
色を失った目のパールの前には、伝えるべき意志も失って、目を閉じて横たわるパッチの姿。
決して自分達が受け入れたくなかった、大切な家族を喪いたくないという結末を、目の前の彼女が受け入れてしまったという現実。
そうなれば最後、パールが震える両手をパッチの体に添え、力無くゆさゆさと揺さぶっても、血の温かみのある反応は決して返ってこない。
「ぱ……パッチ……?
ねぇ……パッチ……………………」
目覚めてくれれば、彼女の生還を満面の笑顔で受け入れるんだとばかりに。
次々に溢れるものに目元と頬を濡らしながら、パールは理性とかけ離れた笑顔を浮かべ、横たわるパッチの体を揺さぶっていた。
ピョコが沈黙し、ぼろぼろと涙を流し、他の誰よりも付き合いの長かったパッチの姿を見届ける中。
どれだけ揺さぶられても、パッチはパールの手と想いに応えてくれなかった。