「なんでついて来るの」
「いいだろ別に。
もう邪魔はしないよ」
「どうだか、悪の組織の大幹部」
「手段が無いっていうんだよ」
サターンのポケモン達を打ち破り、山頂を目指す足を急がせるシロナ。
彼女について走るのはサターンだ。戦えるポケモンなど手元に一匹もいない。
アカギを追うシロナを邪魔するために追っているわけではないことは、どうやら確かなようである。
「そんなこと言って、あんたこっそり四匹目のポケモン隠し持ってたりするんじゃないの~?
悪人だもんね、今のあんた。信用しきれないなぁ」
「無理なんだよ、僕は。
進んできた道が道だけに、絶対的に信頼できる仲間しかそばに置けなくなった」
彼は幼い頃から連れ親しんでいる、三匹のポケモン以外をそばに置かない。
おかげで育成がその三匹に集中できるぶん、あれだけ強い個体が育つのだが。
恐らく今までで、そしてこれからも、たった三匹のポケモンでシロナのポケモン六匹を追い詰めるトレーナーなど、彼の他には存在しまい。
ただでさえトップクラスのトレーナーが、少数精鋭を極めると大変なものを育ててしまうという実例と言えるのかもしれない。
「それはそれで胡散臭いわね~……」
「まあ、今の僕を信用できないのはわかるけどな」
「いや、逆の意味でね。
そんな理屈で三匹しか持てない、ってわけじゃなさそうってこと」
「…………」
「あたし一応、他の誰よりもあんたのこと知ってるつもりだから」
悪の道を進むからには、身近の仲間は厳選すべきだという用心と周到性は確かに不可欠である。裏切りに満ちた利欲の世界だ。
ただ、倫理観さえ投げ打って突き進んだ絶対に道半ばで屈せない道のりの中、それに並び立ち必要不可欠であったものが高い武力。
それほどの道を歩みながら、未だユンゲラーのままであった彼の旧友を見てしまえば、やっぱり。
得るべき今以上の力というものと天秤にかけようと、ほんの一瞬でも大切な身内を誰かの手に渡ることを嫌ったコウキの姿を想像してしまうと。
幼い頃、何度自分に負けたって、大事なこいつらを君に勝てるよう育ててみせると、三匹体制を貫き通してきた彼の心根が今でも垣間見えるというものだ。
理論武装して自分の行動理念を語る大人になっているが、変わっていない何かも確かにある。
もっと言えば、いちいち理屈じみたこの言い訳癖だって、幼い頃から変わっていない所の一つであったり。
「それより、ついてきてどうするの?
出来ることがあるからついてきてる感あると、やっぱり突っぱねるべき?」
「それを僕に聞くか?」
「もう、質問を質問で返さないでってば」
「見届けたいだけだよ、どんな結末になろうとね。
せっかく足は動くんだ、見るだけでもしておきたい。
君こそ、そのガブリアス一匹でボスに挑むなんて無謀だと思うけどね」
「あら、心配してくれるんだ」
「嬉しそうに……君のそういうところがなぁ……」
ガブリアスを共に駆けるシロナの後ろで、サターンは言葉を見つけられないかのように口ごもる。
本来ボールから出されたままの今のガブリアスは、万が一サターンが妙な動きをしようものなら、という見張りとシロナの護衛を兼ねる立場。
そのガブリアスでさえ、サターンに対するマークは薄い。
こちらも今さらサターンがシロナをどうこう妨げるつもりがないことを、半ば本能的にわかっているのだろう。シロナと同じだけコウキを知る仲である。
「子供達だけに任せて大人がじっとしてるわけにはいかないでしょ。
勝算なんて関係ないわ、出来るかどうかじゃない、行くし、戦うのよ」
「まあ、君はそういう奴だよな」
「っていうかさぁ。
あんたがパールのことあんな風にするもんだから、いっそうあたしがやるしかないっていう事情もあるのわかってる?」
「ちょ、ふがっ……!
や、やめろっ、二十歳超えてからやるやり取りじゃないだろっ……!」
薮蛇つついてくるサターンに、一度立ち止まったシロナは彼の鼻をつまんで顔を近付ける。
まあまあ男前のサターンの鼻をつまむ大人なんて他にいまい。昔はよくやったものでもあるのだが。負けてぶすぶす言い訳するコウキの鼻をつまんで煽ったり。
振り払って睨みつけてくるコウキの姿に、シロナは寂しく笑うのみだ。
こんな時だけど、懐かしくてちょっと楽しいなって思えてしまったから。
そう思うたび、こんなどうしようもなく敵対する間柄にはなりたくはなかったとも、ついつい感じてしまうから。
「あんた、帰った時の身の振りぐらいは考えておきなさいよ?
いくら隠れて色々やってたって言っても、自分のやってきたこと無かったことなんて許さないからね?」
「……そうだな。
僕達はもう、大人なんだからな」
「言質取ったわよ。約束だからね?」
サターンの悪行の数々の多くに証拠は無いだろう。
だが、自身の行動には責任を。大人達の不文律。
それを確約させようとするシロナの言葉には、サターンだって反論のすべは無いというものだ。
「……まあ、再び山を降りられたならね」
「あたしがそうさせるわ。必ず……ん?」
表は軽口、内心には揺るがぬ決意。
両立させて駆けていたシロナの足が不意に止まる。サターンの足もだ。
示し合わさずして二人の足が同時に止まる程度には、いま二人が肌にさえ感じた異変の予感は明確だ。
「……………………これは……!?」
「……言っただろ。
山を降りられたなら、って」
テンガン山が震え始めた。
それは今この状況下において、かつてない何かが起こらんとする予兆に他ならない。
こんな時に都合よく、ギンガ団が成し遂げんとする何かとは無関係に、大自然の気まぐれで地震が起こるなんて思う方が馬鹿馬鹿しい。
アカギが叶えんとする新世界。
それが果たされた時、きっと世界は元の形ではいられない。
サターンが人間社会に降り、罪を償う機会が訪れるかどうかさえ、もはや保証されてなどいないということである。
ゴウカザルとブニャットの戦いは、あれから長く続かなかった。
長く続きようがなかったのだ。元より両者、とうに限界を目前にして吠え合った最終局面。
その上で、あのように原始的な消耗戦となってしまえば、長続きする戦いであろうはずもない。
そこに、トレーナーが自分のポケモンを勝利に導くための、理知を以って下される指示など一つも無かった。
襲いかかるブニャット、迎え撃つのではなく自らも飛びかかるゴウカザル。
その咆哮だけで聞く者を身震いさせるような声と共に迫り合ったゴウカザルとブニャットは、ひたすら至近距離で傷つけ合ったのだ。
距離を作ってのエアカッターで相手を弱らせる余力が足にないブニャット。
接近戦に持ち込むしかなかったゴウカザル。
双方ともに、"きりさく"爪と"インファイト"の拳で、けだもののように互いを引き裂き打ちのめす、見るもおぞましい獰猛な戦いのみがそこにあった。
鼻が折れても、頬骨が割れても、耳が焼けただれても、一歩も退かずにブニャットは爪を振るい。
胸を裂かれても、目元を斬られても、喉元を抉られても、血みどろになろうとゴウカザルは握り拳を振るい。
並のバトルであれば一撃で致命傷になるほどの深手を、どちらも幾度も受けながら、同じものを敵に返し。
壮絶なその戦いを選んだ両者に、トレーナー達に下せる指示など一つも無い。
ゴウカザルの名を叫ぶダイヤ。ニャムちーと強く呼びかけるマーズ。
自分が彼ら彼女らの立場にあれば、あれほどの傷と痛みの中でなお、戦い続けることなど出来るはずがないと、畏怖と恐怖を胸に覚えながら。
ただただ身内の勝利を願う声しか発せないトレーナー達とは、つくづく無力な図がそこにあるのみだった。
超え過ぎた末の限界が訪れるのは間もなくだった。
ゴウカザルの十三発目の拳を眉間に受けた瞬間、ぷつりとふいに何かが切れたかのように、顔をのけ反らせたブニャット。
"だましうち"を仕掛ける余地一睡も無き戦いの中、ゴウカザルもぴたりと十四発目の拳を止めたその目前。
どろりと口の端から血を流しながら、目を剥いたブニャットが前のめりに崩れ落ちた姿を前に、ゴウカザルはよろよろと二歩退がった。
死んだように動かなくなったブニャットを、マーズが震える手でボールに戻したのが決着の一幕だった。
果たしたかった勝利、叶えたかった勝利。あれほど渇望したもの。
そんな中で、ダイヤはガッツポーズの一つさえ叶えられなかった。
勝者とは誰だったのだろう。ダイヤとプラチナだろうか。戦い抜いた二人のポケモン達だろうか。
やったぞ、と腕を掲げて誇ることの出来ない、さながら戦争の後のような、血にまみれた身内の姿の上に掴み取った勝利。
ゴウカザルをボールに戻したダイヤの手もまた、この勝利を誇るよりまず恐れに心を囚われて震えていたものだ。
立てぬ状態でこの戦いを見届けていたプラチナさえもが、自身のぐらつく意識も忘れ、決着とともに立ち上がったほどである。
まるで、この程度で立ち難いと脚に力を入れていなかった自分が、これほどの覚悟で戦いに挑んだ仲間の前では恥じるべきであったとさえ感じたかのようにだ。
ダイヤは最後、無言でマーズとジュピターを睨みつけ、山頂への道を駆けだしていた。
マーズはもう、戦意を喪失していた。見ただけでわかる。
ブニャットのボールを両手で握りしめ、膝をついて、己の過ちを神へ懺悔するかのような姿で。
ジュピターもまた、抗うすべを失った悪党として潔く、舌打ち混じりの顔ながらダイヤを見送るようにして。
そして、立ち上がったプラチナは、ダイヤのあとを追うように走りだしていった。
悪に潔さなど要らない。ジュピターには悪あがきの選択肢もあった。
だが、所詮自らの痛みから逃げた者の覚悟など、眼前にて壮絶な覚悟を繰り広げた勇士らのそれを前にしては拙いものだ。
子供達に完全敗北した屈辱。それさえも、ジュピターに抗う力などもたらさない。
十年以上貫いてきた、悪の組織に仕える覚悟以上のものを一日で見せつけられたジュピターは、ただただ握りしめた拳を震えさせることしか出来なかった。
マーズは、きっとそれ以上だ。
「プラッチ、ほんとに大丈夫なのか?」
「うん、なんとかなる。
ラクではないけど、立ち止まりたくないんだ」
山頂を目指すダイヤの隣を、プラチナも遅れずついてくる。
先のバトルでは、ただでさえ弱っていた身体でスカタンクの大爆発の爆風を受け、地面に叩きつけられて立てずにいた少年だ。
あの時は本気でもう立てなかったプラチナとて、道が拓ければ立ち上がり、体に鞭打って前に進まんとする。
手持ちのポケモン達はみんな戦闘不能、自分に出来ることがあるかどうかもわからないけれど、じっとはしていられないらしい。
「それにほら、あのままあそこでじっとしてても、悪者に捕まって人質にされちゃったりするかもしれないし。
ダイヤのそばが一番安全だよ」
「ん~、そっかぁ。
それじゃ、絶対俺とゴウカザルがプラッチを守ってやるからな!
なっ、ゴウカザル?」
「――――♪」
見るも痛々しいほど傷だらけのゴウカザルだが、駆けだしたダイヤのそばに自らボールから出てくると、前を走って導かんとしてくれている。
弱った態度など欠片も見せない。無傷の時のような、男気を表したかのような気風よい笑顔で振り向きさえする。
内心、八つ裂き寸前のゴウカザルの姿にはダイヤも胸が苦しいのだが、大丈夫だと意地を張って前進と先導を兼ねるその姿に、ダイヤも思い切って甘えている。
ギンガ団の野望を食い止められなければ、明日は無いかもしれないのだから。
戦う意志を固めてここまで来たダイヤは、それ以上の決意を以って導き手たらんとする相棒を止める無粋をしない。それもまた信頼関係だ。
こんなになっても歩を進めるゴウカザルの姿に、自分がへこたれていられるものかとプラチナが触発されたのも事実ではあるのだが。
それが無くても、彼は歩ける限り前に進んでいただろう。彼自身が言っているように、あのままあそこに留まっていても良い予感はしない。
年相応に感情的になることもあるが、基本的にプラチナはお利口さんである。
無茶な行進をしているのは確かだが、賢明に休むよりは理で以って、より良い行動を選んでいるという側面も確かであろう。
「山頂まであとどのくらいなんだ?
あんまりここから長いようだと、プラッチの方が先に死んじゃうだろ」
「死ん……あんまり縁起でもないこと言わな……えっ!?」
流石にプラッチもしんどそう、と、ダイヤも彼なりの気配りか、冗談交えて軽口を叩いている。
内容にエッジが利き過ぎで冗談きついのは、未熟ゆえに仕方ないとして。
それでもプラチナにはちょっと苦笑い出来る程度に肩の力が抜けた会話であったのに。
彼が思わず足を止めてしまうほどの、異変の予兆はもう始まりかけている。
「えっ、プラッチ?
どうし……うわわわっ!?」
「っ、く……!
まさか、これ……そんな……!?」
時を同じくしてシロナ達も体感している、揺れ始めたテンガン山。
今はまだ、小さな揺れだ。しかし、不思議と、そして嫌なことに、この揺れは徐々に大きくなっていくであろうと、無性に感じ取れてならない。
転ばないよう耐えられる程度の揺れでさえ、震える大地がもたらす不安は只ならぬものなのに。
きっと自分の予感ははずれないだろうと半ば確信させるような、激動の予兆から目を逸らさせない、この揺れの恐ろしさとは如何ばかりか。
「ちくしょう……!
間に合わなかったってのかよぉ……!?」
どんな時でも希望を捨てず、掴み取りたい何かに向かって、いつも突き進んできたダイヤでさえ。
ジュピターに完膚無きまでに敗れた過去さえ乗り越えて、ここまで参じた彼の姿など、まさにその不屈さを体現するものだ。
そんな彼をして、心を蝕み始める絶望感というものがある。唐突に生じ、一気に心を呑み込もうとするほど黒く、深い闇。
神の力とは、それほどまでに絶対的なのだ。
小さな、小さな、世界の一かけらでしかない一人の人間に抗えるものではない。
「これが、神の力か。
その姿をこの世に顕さずして、ここまでの影響を世界に及ぼすとは」
槍の柱。
テンガン山の頂に鎮座する、かつては神々しかった神殿の跡地を思わせるような場所。
朽ちた柱に囲まれた祭壇、幾星霜の時を経てなおその威厳を失わぬ、未だシンオウの民に古代の聖地と崇められる聖域だ。
そこにただ一人立つアカギのそばに、もはや彼を妨げんとする存在は無い。
彼がこの地で成し遂げんとしたことを阻むため、傷ついた身体を推して参じた三匹のポケモン達は、闇の使徒の手によって退けられてしまった。
マニューラとドンカラスは、二匹でありながらユクシーとエムリットとアグノムを撃退し、いっそうの傷を負った三柱は空の彼方へ逃れるしかなかったのだ。
祭壇の中心を見据えるアカギが歩を進めるにつれ、山の揺れは大きくなる。
アカギ自身の足元も揺れているのだ。だが、彼の足はふらつきもしない。
まるでこの揺れさえも、それを起こす神の力を我が物に収めたかの如く、その体幹は激しくなりつつある振動に微塵も揺るがされない。
その不可思議な現象を、アカギは当然のこととさえ感じているかのように、無表情で足を進めていくのみだ。
「……美しいざわめきだ。
この鎖を手にした私に、神が憎しみさえ抱いていることがわかる」
足を止め、自らの右手の掌を見るアカギも、思わずその指が硬く曲がるほど力を入れずにはいられない。
その手に、我が身に取り込んだ"あかいくさり"に、シンオウ地方の絶対神が反応している実感がある。
激しい怒りだ。所以もわかる。人の身如きが三湖の神の力を手に、傲慢にも神の力を手中に収めんと聖域を穢していることへの憤怒。
そこには、この聖地に眠る二柱の神にとって、同胞とも言えようエムリット達を傷つけたアカギに対する、感情的な憎しみが含まれていることもわかる。
「神ですら愚かだ。
そうした感情に支配され、これより人の手に落ちることを夢にも思わず、私の前に姿を顕わさんとする。
そんなものを絶対的な存在だと崇めるこの世界に、完全なる世界へ辿り着く見込みなど初めから無かったのだろうな」
神に我が声が届く場で、天に唾を吐く行為。
手中の赤い鎖を通じて、アカギの言葉にいっそう激しい怒りを覚えた神の感情が伝わる。
それをアカギは、この神でさえ己の理想とする世界の主には、いかにも不的確だと見切りをつけるのみ。
この世界の新たなる支配者として取って代わらんとする革命家の意志は、恐るべきほどの神の力の片鱗を前にしてなお、畏れるどころか強くなる一方なのだ。
「さあ、見せてみろ。
その不完全な有り様で、黴の生えた世界に胡坐をかいていた旧き神よ。
いや、かつては神であった愚かな偶像よ」
両手を広げたアカギの掌から、一本繋ぎの赤い鎖がこの世界に顕現する。
それは、エムリット達を傷つけることによって得たものを、神を支配するために利用せんとする、傲慢なる存在による挑発的行動だ。
槍の柱に眠っていた神が、もはやアカギを赦す余地は一片たりともない。
「ディアルガ! そして、パルキア!
お前達に、新世界の始まりに立ち合うことを許そう!
愚かしくもその姿を我が前に晒し、時と世界の変わり目を示す礎となれ!」
祭壇が歪む。祭壇上も、祭壇そのものもだ。
世界が形を変え始める。何も無い空間上が、陽炎と呼ぶには足りぬほど曲がり、渦巻き、空間を裂いて。
二つの渦から姿を見せ始めた、神話上に語られる壁画や石像に、色と例えようもない存在感を携えた本物の神。
シンオウ地方の全てを――いや、世界の在り方そのものさえをも司る二柱の顕現に、揺れているのはここだけではない。
テンガン山そのものも。そして、山から離れた下界にも徐々に。
それは、終わりの始まりと形容して何ら違和感の無い、世界すべてを巻き込む大いなる激動の幕開けに他ならなかった。
「シロナ!!」
「え……!?」
「フカ公! シロナに寄り添え!
絶対に離すんじゃないぞ!」
「ッ、――――z!!」
揺れが激しくなっていくテンガン山の道半ば、サターンは思わずシロナの手を握っていた。
続けて叫んだのは、親しみ長いシロナのガブリアスを呼ぶ声。さんざん自分をバトルで負けさせてきた、憎くもライバルであった旧友だ。
ガバイト、ガブリアスに進化した後でも自分をそう呼び続けていたコウキの声に応えるように、ガブリアスはすぐにシロナとサターンを両手で抱きかかえる。
大きな揺れは脅威の表れ。
何が来るのか、何が来てもシロナ"達"は守ると身構えていたガブリアスが、サターンに導かれ二人を抱くように両翼で包んだのは間違いなく正解だった。
ガブリアスの両翼で視界を囲まれた中でも、二人には外界が乱れている事実は感じ取れる。それも、どうしようもないほどに。
「ゆ、雪が溶け……」
「時の流れが狂っているんだろうな……!
そして、空間も歪みつつある……!」
「――――――――z!」
「ああ、そうだフカ公! 絶対にシロナを離すなよ!
こんな場所で離ればなれになったら終わりだ!」
時の神、ディアルガがこの世界に顕現したことにより乱れる、テンガン山の時の流れ。
降り積もっていたはずの雪は春を迎え、夏を迎え始めたかのように溶け始め。
どくん、どくん、と自らの内なる何かが強く脈打つ実感を得るシロナもサターンも、まるで自分が今と違う何かに作り変えられていくかのような感覚だ。
急速な老いだろうか。それともあり得ぬ若返りだろうか。
自身の手が小さくなっていくにつれ、その手を握るサターンの手の力が痛く感じるシロナは、言い知れぬ恐怖を覚えるばかりだ。
「こ、コウキぃ……!」
「っ、く……!
フカ公! 離すなよ! シロナを喪いたくはないだろう!?」
思わずサターンは、シロナを引き寄せ胸の中に抱きしめていた。
背丈が縮み、抱き寄せれば地面に足がつかないシロナだ。
かつては幼くして、同じ目線で笑い合いも睨み合いもした、幼き頃の姿となったシロナを、サターンは唐突に軋み始めた両腕で抱きしめる。
抱き寄せられたシロナが見上げる先には、急激に顔に皺を増やしたコウキの姿、十年か二十年先に見るはずだった彼の姿がある。
「か、神の、力……
人の手に、余る……力、か……」
時の流れが乱れている。シロナと、サターンが我が身に感じているように。
そして、異変はそれだけではない。
触れ合っているからこそ離れない、幼きシロナと老いたサターンとガブリアス。
そのすぐそばで、びしり、ばきりと音無き音を立て、いくつもの空間が裂ける気配が確かにある。
この世界に顕現したのは、時間を司る神だけではないのだ。
神の目覚めしその場所から近いほどに、その影響は大きくなる。
テンガン山はもはや人智を超えた現象に満ちた、聖域とは呼びようもない魔境と化していた。
「プラッチ!?」
「うあぁ、っ……だ、ダイヤ、っ……!」
神の力が襲ったのは、シロナ達だけではない。
思わずプラチナに手を伸ばしたダイヤ、それに手を伸ばし返したプラチナも、ともに手を握り合うには至れない。
咄嗟に素早くダイヤに代わってプラチナに手を伸ばしたゴウカザルでさえ、その手を握ることは叶わなかったのだ。
お互い、すぐそばにいたはずのダイヤとプラチナだった。
両者の間に、ぴきりと硝子にヒビが入るような音がした瞬間に、ダイヤもプラチナも嫌な予感を覚えたのは確か。
得も言われぬ嫌な展開への予感に、二人が手を握り合う暇さえ許されず、二人の間の近かったはずの距離は隔たれた。
確実に、届き合えるはずの距離に違いなかったのに。
手を伸ばしても相手に近付いている実感の無い、相手に届くより前に離れていく、目が映す光景とははっきり異なる現実との乖離。
ダイヤとプラチナの間の空間が裂け、本来あるはずの距離が意味を為さなくなり、届き合わぬ隔たり合った世界として切り離された現実。
生まれて初めてこのような現象に直面した二人には、何が起こったのか、どうすればよかったのかなどわかりようはずもない。
「っ、プラッチ!?
おい、どこに行ったんだよ!? プラッチぃっ!!」
「――――――――z!
――――ッ、――――――z!!」
そして、触れ合えなかった二人は、いつの間にか目の前からお互いを見失っていた。
一歩先に見えるものを、一歩歩めば触れられる。それがこの世界の当然あるべき空間の形。
その前提すら失われた世界下で、空間の裂け目に呑まれた者達は、己の位置さえ保証されない。
ダイヤとゴウカザルはほんの数秒前まで立っていた場所とは違う場所にいることにさえ気付けぬまま、目の前からいなくなったプラチナを呼ぶばかり。
そして、プラチナも。
賢い彼だからこそ、突然に目の前からダイヤ達がいなくなったことも、自分がさっきまでいた場所と異なる場所にいることも。
すぐに察せてしまうからこそ、人の手にはもはやどうにもならぬ現象に囚われ、為すすべ一つ無いことを悟らざるを得ない。
誰一人としてそばにいない、雪解けの荒原の真ん中にいつの間にかいて、遭難に等しき状況に置かれた心を支配するものは何か。
一つは絶望。そして、もう一つは諦観だ。
「ここまで…………ここまで、来たのに…………」
山岳のどことも知れぬ一角にて、両膝から崩れ落ちるプラチナは、雪雲の厚い空を見上げることしか出来なかった。
寒く凍死もあり得る霊峰にて、下山道もわからぬ死の孤独に恐怖するでもなく。
あっという間に自らを、この絶望のどん底に追い詰めた、神の力なるものに触れてしまった実感が、何よりプラチナの心を粉々にする。
どうにもならない。どうにも出来ない、何者にも。賢しいからこそ目を逸らせない現実。
何が何でも食い止めたかった悪の親玉が、この力を目覚めさせてしまった事実から、お利口であればあるほど否定できないというものだ。
自分達が今日まで当たり前のように過ごしてきた世界が終わり、今この時より新たなる世界の在り方が始まる。
それはきっと、この世界を不完全だと否定し、それをいっそう悪しき方向へと改めんとしていた悪の親玉の意のままに。
知識でもなく、推察でもなく、実感で以ってそれを知ってしまったプラチナの目元から溢れるものは、彼自身とて覚えが無い。
力無く跪き、嫌なこともあったけどお別れしたくはなかった美しさもあったはずのこの世界が、もはや失われていくこの実感。
真の絶望は、それによって溢れるものの自覚さえその者には抱かせないのだ。
世界の終わりだ。
少なくとも心の底から嫌いではなかった世界が去り、希望一つ無い世界へと変わっていく幕開け。
灰色の空を見上げ、自覚無く流したそばから乾いていく涙を頬に伝わせながら、プラチナは忘我のうちに凍え死んでいくことすら拒めぬ心持ちにあった。
寄る辺一つ無く、心まで凍る寒空の下に放り出された少年は、この日一度は目にし、希望を貸してくれた少女のことを想起する余裕一つ無かったのだ。