「ん……!?」
「あ、あら……?」
世界が破滅に向かう中、幼い姿となってしまったシロナを、老けた顔立ちでぎゅっと抱きしめていたサターン。
目にも耳にも肌にも感じる、時の流れが乱れ、空間の裂け目がいくつも生じる天変地異。
それが凄まじければ凄まじいほどに、その異変が急激に収束へと向かっていく環境の変化もまた感じ取りやすい。
サターンの肌に艶が戻り始め、縮んでいたシロナの体もむくむくと大きくなっていくから尚更である。
「時の流れが……裂けていた空間も……」
「……………………ちょっ、こらっ!
いつまでぎゅ~してんのよっ!?」
「んっ?
あっ、おっ、戻……うぶっ!?」
あんな異常事態だったから、シロナを守るために彼女を抱きしめていたサターンだが、気付けば大人の体に戻ったシロナを抱きしめている図に。
シロナは顔を赤らめてサターンの顔をぎゅむと押して離れる。
世の殿方の中では最も敬意の払える男性には違いないけど、そういう意識をしたことのない幼馴染である。
大人になってから、今さら肌を触れ合わせる関係にはなりたくない。絶対やだ。付き合いが長すぎて知り合い過ぎていると色々と複雑。
「……君、重くなったよなぁ」
「うるさいっ! っていうかこっち見ないでよ!
ガブリアス、そいつぶっ飛ばして!」
「~~~~♪」
「こらこらこら、フカ公やめろ!
お前にぶっ飛ばされたら怪我で済むか!」
サターンとシロナを包み込むようにして守っていたガブリアスも、二人の姿が元に戻ったことが嬉しく思いつつ、サターンを威嚇するポーズでからかってくる。
両手を広げたガブリアスの後ろ、シロナはサターンの視界から隠れた位置で何やらもそもそ。
さっき一旦体が小さくなってしまったので、服の下で下着がずれているらしい。
いくらそれが外から見えない乱れであったとて、そのままで人前で落ち着いて話をするなんて出来るわけがない。上手いこと服の上から直しておく。
「あぁ、大変な目に遭った……
それにしても、どうしたのかしら……?」
「先の時間と空間の乱れは、時空の神ディアルガと空間の神パルキアが目覚めたことの証左そのものだろう。
アカギ様が一度、それを目覚めさせたことは間違いないはずだ」
「それによる異変が収まったっていうことは、神は鎮められたということ?」
「さあな……だが、そう考える方が自然だろう。
そんな手段が果たしてあるのか、想像もつかないから信じ難いが」
馬鹿みたいなやり取りしていた割に、頭の切り替えの早い二人である。
考察を手短に重ねるが、いま槍の柱で真に何が起こっているのかを、具体的に推し計るには情報不足だ。
ただでさえ、想像だにしなかった神の力を目の当たりにした直後ゆえ、ここから先のことなど尚のこと想像もつかぬというものである。
「ともかく、終わりは遠のいたのね。
だったら……」
「待て、シロナ。もう行くな」
前に進めるからには進もうとしたシロナを、サターンは落ち着いた声で制止した。
判断力に秀でる彼の、冷静さを伴った声は、強い声よりもシロナの耳によく響く。
良くも悪くも、つまり敵としてならこの上でも厄介ながら、敵対しない限りでなら信頼できる相手だからこそ、シロナにとっては無視し難い。
「たとえ一度、神の力が何らかの手段で鎮められたとしても、アカギ様はまだ槍の柱にいる。
自らの目的を妨げた何かを排除し、再び神の力を目覚めさせようとするはずだ。
いつ、さっきと同じことが起こるかわからない。
そして震源地である山頂に近付けば近付くほどに、同じことが起こった時に僕達を襲う現象はさっきの比じゃないだろう。
僕達はもう、前に進むべきじゃない」
「でも、だからってじっとしてるなんて……!」
「君ももうわかってるはずだろ。僕だってもうわかってる。
僕達は、この歴史の節目で神のお膝元に招かれる、選ばれし存在ではなかったんだ。
意味はわかるはずだ」
回りくどく、サターンなりにシロナに気を遣い、進むべきじゃないことを訴えている。
行間の真意は二つ。
一つ目は、槍の柱には今、アカギと、それを阻む誰かがいること。
そして二つ目は、それがシロナではなかったこと。
あくまで感覚的なものだ。だが、重い。
運命に選ばれなかったという実感はシロナにもあるはずだ。既に無力感に苛まれるには充分である。
彼女に残された道は、座して物語の結末を待ち見届けるか、あくまでも悪あがきと知りながら前に進むかだ。
「……選ばれたのがあの子だとしたら、放ってなんておけないわよ。
世界の終わりを阻もうとする戦いに、子供が一人で挑んでいるかもしれない時に、じっとしていろっていうの?」
「まあ、君はそうなんだろうけどな……
そろそろ、体調も悪くなってる顔色が明らかだっていうのに」
「うるさいわよ、こんなのたいしたことないんだから」
いや、たいしたことある。
ドクロッグに受けた毒はある程度中和してここまで挑んできたシロナだが、それは完全に抜いたわけでもないし、今が恐らく一番きつい。
何が最もそうさせるかと言えば、時間が経っているからではなく、先程の激動のせいで一度息を挟んでしまったからだ。
山道を進む中はパールに心配をかけまいと、サターンとの戦いでは言わずもがな必死に、その後も山頂を目指して気を張って。
世界崩壊から一度は免れ、どうしてもほっとしたあの瞬間に、一度緊張の糸を切ってしまったのはかなり痛かったのだ。
自ら気力の熱を出し続けて、毒気の苦しみを隅に避けている間はどうにかなっても、一度糸を切ってしまうと張り直すのはかなり難しい。
忘れようと努めていた毒による気分の悪さは、疲弊し、消耗した今の身体では尚のこと、彼女の足が少しふらつくぐらいには重篤である。
「わかったよ、そばにいてやる。
その代わり、走るなよ。これ以上息が切れたら、本当に身体がついていかなくなるぞ」
「ふんだ、敵の指図なんて受けないわ」
「敵だって塩を送ることはあるんだよ」
つんけんして意地を張るシロナだが、駆け足で前に進むことはしなくなった。
出来ないのだ。視界が悪い。躓かないように気を付けるのも大変。
彼女自身ライバルの手前、余裕のあるふりをしたくても、目指す山頂を見上げるように顎を上げるその顔色は、その後ろを歩くサターンには見ずともわかる。
山頂を目指すように顎を上げながらも、荒い呼吸をはぁはぁと開いた口で繰り返す姿は、この寒空の下にありながら砂漠で水を請う行き倒れ寸前の旅人のよう。
冷や汗がだくだくと溢れているのだって、白い息が溢れるこの気温では体の異常を表す警鐘そのものであろう。
それでも立ち止まれないのが彼女だと誰よりも知っているから、サターンも折れて彼女の意志を尊重しているだけだ。
きっとシロナはこの前進を報われ、自分の成し遂げたい何かを果たすことは叶うまい。
意味の無い、苦しいだけの歩みである。コウキは彼女の行動を肯定できないが、それを否定することも出来なかった。
これがシロナなのだから。信念や人生観、生き様を貫くことは、ただそれだけで無意味でなどない。
あらゆるものをかなぐり捨ててでも我が道を進んできたコウキに、それを否定する言葉は持ちえない。彼自身が最もよくわかっている。
「プラッチ!」
「あ……ダイヤ……」
時間と空間の乱れが収束し、世界が元の形へ戻る過程で、一度離別したダイヤとプラチナは、お互い驚くほどあっさりと再会を果たせた。
空間の絶離によって互いを目も声も届かぬ距離にさせられた二人だが、世界が戻ればお互いの位置は元通りということである。
とはいえ、プラチナが仰向けに倒れているのでダイヤは二重の意味でびっくりしたのだが。
厳密には倒れたのではなく、自分から寝そべったのだが。
「傷がやばいのかー!?
どうしようどうしよう! 絆創膏あるけど要るか!?」
「や~、別にそれほどやばくは……
えぇと、少しくらっときたから休んでただけだよ。ほんとほんと」
体を起こしてプラチナは、咄嗟の作り話で真意を隠しておく。
さっきは本当に絶望したのだ。それはそれはもう、心の底からどうしようもないほど。膝から崩れ落ちたほどなので本当に心底である。
ここまで来たのに全部無駄だった、涙すら出ない、元々体調も最悪だし、膝立ちの姿勢すらつらくなって寝転がってしまったのである。
死んだ目で裂けた空を見上げながら、家族のこととか思い出しちゃったりして、僕は親不孝だったなぁなんて悔いたりもして。
世界の終わりを目の前にして、この世からのお別れに覚悟さえ決めかけていたところ、なんだか助かっちゃったので照れ臭いのである。
彼は現在11歳。精神年齢的にはちょっとそれより上に至っているかもしれない。
そのぐらいの年頃って、後から思い出すと恥ずかしくなってしまう達観をやってしまいがちな時期である。結構みんな通る道。
ダイヤに寝転がって泣きそうになっていたことなんて知られたくないので、色々ごまかしながら立つには立つ。
「あわっ、わわ……」
「おっとと! 無理すんなってプラッチ!
これ以上無茶しなくていいってば!」
とはいえ、やはり血の少ない身体で無理に急に立つとふらついてしまう。
ダイヤが肩を貸してくれて、寄りかかるプラチナはちょっとみっともなくて恥ずかしいが、自分の限界もそろそろ意識してしまう。
流石にもう山頂は目指せそうにない。シロナと一緒で、こちらも一回糸を切ったばかりで、張り直すのが難しい状態に陥っている。
無念だが、その割り切りもまた賢明であろう。シロナとは異なるスタンスだ。
「……パールが、頑張ってくれたのかな」
「だろうな! あいつ、ああ見えてすっごい根性ある奴だから!
山のてっぺんで何か起こってて、それを止めたのが誰かっていえば、俺は多分パールなんだろうなって思うぜ!」
「見てた?」
「何を?」
「あ、いや、何でもない……」
プラチナはマーズやジュピターと戦っている中で、一瞬パールの姿を目にしている。
"ロッククライム"を思わせる勢いで崖を駆け上がるピョコの背に跨る、パールの姿をだ。
だからプラチナには山頂で起こった出来事に、彼女が関わっているのかもしれないと推察できたのだが。
どうやらダイヤは、そんなパールの姿を見てもいないのに、プラチナと同じ推察に至っているということである。
「シロナさんかもしれないけど……」
「い~や、違うと思う! 絶対パールだ!
こういう大事な時のあいつって、チャンピオンにだって負けないガッツあるんだぜ!
俺知ってるんだ! あいつの幼馴染だからな!」
「推すんだね、パールのことシロナさんより」
「当たり前だろ~!
プラッチわかってないぞ、あいつのこと!
あいつ、やると決めたら何がなんでもやっちゃう奴なんだからさ!」
わかってないぞ、と言われるのが何だかプラチナには悔しい。
確かにそうだ。一緒に旅をする中で、何があっても自分のやり遂げたいことを諦めず、時には我が儘ごねてでもプラチナに協力を訴えてきて。
自分との絶交に怯えながらも、ギンガ団に挑むことを頑なに選んだことだってあった。それほど、彼女はやると決めたら止まれないのだ。
そして、どんな時も、力及ばずの時でさえ、彼女は叶えたいことの概ねは叶えてきたじゃないか。
ギンガ団の野望を完全に阻止するほどの成功は果たせなかったとしても。
一度こてんぱんに負けたジムリーダーに諦めず挑み、先の敗北を帳消しにするほどの完勝劇をもぎ取ったことだってある。
これまでの人生では最大級の挑戦であった、ギンガ団アジトへの潜入だって、おおよその勝利を獲得して生還したことは、今にして思えば快挙に違いない。
そばにい過ぎて、近過ぎるからこそ忘れかけていたけれど、どんな試練も乗り越えてきたパールの不屈さは、プラチナが最も知るところだ・
そんな彼女の最近の姿を目にしてもいないのに、幼い頃からの付き合いだけで、今のパールをシロナ以上に信じられるダイヤがプラチナには羨ましい。
わかってないぞ、と言われるのが悔しくさえある。
崖を駆け上がるピョコとパールを見ていたからこそ、パールが山頂にいることを想像できた自分。見ずして半ば確信しているダイヤ。
負けているような気がしてしまうのは、それだけプラチナが、自分が一番パールのことをよく知っている男の子でありたいからということだ。
「大丈夫だよ、絶対に!
パールならきっと何とかしてくれるってば!
俺がそばにいてやるから、プラッチももう休んでおくんだぞ!」
「……うん、そうするよ。
ありがとう、ダイヤ」
「おおっ? そんなお礼を言われるほどのことじゃないぞ!
水くさいな~、プラッチは!」
「あははは……」
大切な人が危険な戦場に身を置いているであろう現状、何も出来ない自分。
信じて待つだけの身はつらいものだ。まして、敵の強大さを意識して、信じるべき人を信ずる想いを強く抱けなければ尚更に。
プラチナがダイヤに感謝したのは、彼女を信じる根拠を熱弁してくれたことで、気持ちが少しでも楽になれたこと。
悔しいけれど敵わない。パールにとっての唯一の男性になるには、僕はまだまだだと思い知らされるばかり。
同時に、自分以上のパールの理解者がいること自体は悔しくはあれど嬉しく感じるのも、パールに特別な感情を抱く少年の複雑な想いによるものだ。
もっと、もっと、パールのことを正しく知っていこう。
プラチナはダイヤに支えられる体の真ん中、心の奥底で新たな、密かな決意を今一度固めていた。
それは、この世界が明日以降を迎えられなければ出来ないこと。
そして、明日以降のことを考えられる程度には、世界の終わりを導かんとする巨悪に立ち向かうパールの勝利を、彼も信じつつあるということだ。
テンガン山に集った、世界一新を望む一団と、今ある世界の存続を望む者達は、いま槍の柱で対峙する二人を除き、とうとう全てが脱落した。
世界の命運は、たった二人の人間の手に委ねられたのだ。
この世界に運命というものが存在するのだとしたら、やはり運命は人を選び、それ以外のすべてを聖戦の舞台から退ける。
シンオウ地方の聖域にて繰り広げられし、ギンガ団とそれに立ち向かう者達の戦いの千秋楽。
いよいよ時は、最終局面を迎えていた。
アカギは一歩、パールに歩み寄る。
パールはそれを見て、大人の一歩と同じぐらい大きめに一歩退がる。
互いの間にある、バトルフィールドになり得るスペースを確保して、その距離感を絶対に崩さない。
戦いになることはもう定まっているのだ。
挑む側たるパールの覚悟は、アカギもそれなりに感じ取れている。
アカギの名を一度呼んだものの、続いてかける言葉を見付けきれず、対峙する怖い大人を前に身を縮めた少女だ。
崖から突き落とされた時にボロボロになってしまったコートを脱ぎ捨てた姿。
ぱんぱんに膨らんだ鞄の中に恐らくそれを丸めて入れている。大事なものだからどうしても棄ててこられなかったのだろう。
そんな彼女の上半身が、遠目からもはっきりわかるほどかたかた震えているのは、決してこの冬山の寒さによるものではあるまい。
テンガン山の聖地、槍の柱は高い標高にありながら、あれほどの薄着でも寒さを感じまいであろうほど暖かく、それもまた聖地の神秘性。
思い返せば、出会うたびに姿を変えてきた少女だとアカギもふと回想する。
一度目はテンガン山。バッジを集めて旅をする、どこにでもいるような無垢な少女であり、自覚のあるこの強面に少し怯える顔も見せていた。
二度目はカンナギタウン。自分の何が気に入ったのか、初めて会った時よりも随分と人懐っこくなっていたものだ。
三度目はギンガ団アジト。寒い季節に差し掛かり、厚いコートに身を包んだ少女は、衝撃の告白に心を傷だらけにしながら挑んでくる気概を持つ姿だった。
そして、四度目の今。初めて会ったあの時と変わらぬ姿ながら、面構えだけは随分と強くなったものだと感じさせてくる、そんな風格を身に付けて。
零度目の出会い、シンジ湖に落ちた幼い彼女の姿を今になってふと思い出せば、時の流れとはこうも人を変えるのかと、ただただ痛感するというものだ。
「…………ふっ」
「アカギさん……」
「いや、すまない。
今は反省しているんだよ。私もまだまだだったということだ」
初めてアカギはパールの前で、かすかにながら笑う表情を見せた。
だが、好意的な笑顔でないのは明らかだ。パールもその笑顔には寒気すら覚えた。
間違いなく自らを血祭りにあげようとしている人間の笑顔というものが、これほどまでに恐ろしいものだとはパールも知らなかっただろう。
「子供というものは成長が早い。
私が十年以上かけて目指してきた神の目覚めを、君のような少女が一度は打ち砕いてみせたのだ。
君は一年も前には、トレーナーですらなかったのだろう。
君の一年未満が、私の十年以上を挫くものでさえあったのは事実であり、私はそれを見くびったおかげでこの失態というわけだ」
無表情に戻って語るアカギの眼差しは、突き刺すような敵意や殺意に満ちたものではない。
淡々と語る声が表すとおり、自身の野望を妨げた者へ抱く怒りのようなもの、そうした感情は一切感じさせない。
怒りのままに大声で怒鳴られるのとはまた違う、不気味な怖さをパールは感じている。
「これを機に、詰めの甘かった私自身を悔い改めるとしよう。
自らの障害たり得るものは、多少の手間や非効率に目を瞑ってでも、必ず排斥すべきだという教訓を得た。
それも、徹底的にな」
ああ、駄目だ。やっぱり恐ろしい。想像していたよりもずっと怖い。
息も詰まるような恐怖心がパールの心臓を鷲掴みにする。
呼吸が荒くなり、まばたき一つ出来ずに震えるパールと対峙するのは、やはり無表情が最も恐ろしいアカギの姿である。
「君は、ここで葬り去らなければならない。
異論はあるだろうが、生憎それに耳を貸すわけにもいかん。
君とて敗れれば相応の末路を辿ると、充分な覚悟でここに来たのだろう?」
「………………ぅ……」
「抵抗するなとは言わん。想定内だからな。
一人、一人と仲間達が倒れていくのを、君の命のカウントダウンと見立てて、存分に楽しんでくれ」
言葉を一つも発せないパールに、あとは始めるだけだとばかりにアカギがボールを持つ。
パールもピョコの入ったボールを手には握っているのだ。
どちらかがボールを押した瞬間に、決戦の火蓋は切って落とされる。
「わ……私を、殺して……それから、どうするんですか?」
「ん?」
「赤い鎖は、もう壊れましたよね……?
またエムリット達を捕まえて、傷付けて、赤い鎖を作るんですか?」
「……面白い冗談だな」
どうしても、どうしても心の準備が固まりきらないのだろう。いざ始まれば、無理にでも腹を括れるであろうパールでありながらも。
相手のペースで急に始まってしまうのは今でも怖い。話を伸ばして、恐怖で委縮した自分の心と身体に空気を入れようとするパール。
かと言って、発する言葉は駆け引きにもならぬ浅いものだから、アカギはまた一度嗤わずにいられない。
「砕けた赤い鎖だが、この力の残滓はまだ私の中に息づいている。
エムリット達も最後の力を振り絞って、私の中に脈付く力ごと剥奪したかったのだろうが、それもどうやら叶わぬほどまで消耗していたのだろうな。
集中し、意識を高めれば、今さらあれに頼らずとも鎖の再生は可能なのだ。
いくら一度赤い鎖を作れたからと言って、エムリット達をもはや用済みと断じて君に開放を許した私が、再びそれの力を必要とすると思うかね」
そもそもの話、アカギが三湖の精の力をもう一度借りねば赤い鎖を作り直せない、そんな前提ならとうにアカギの野望は完全に潰えている。
今やアカギはギンガ団のボスとして正体が割れ、神の力を利用しての世界崩壊を目論む存在だとまで判明しているのだ。
表立って人里を歩くことも、半壊状態のギンガ団の利用も儘ならず、再び三湖の精を捕らえることなどまず不可能だろう。
パールの言うことは全くの的外れであり、未だ赤い鎖の生成と神の支配を諦めていないアカギは、自分の力で赤い鎖を取り戻せるという根拠を持っているのだ。
「そのためには、君が邪魔なんだ。
私が赤い鎖を再生させようと意識を集中しようとしても、君はそれを許さないだろう。
私は君を始末し、邪魔者もなく、ゆっくりと赤い鎖を再び生み出すことに努めるのみだ」
「わっ、私のことをどうこうしたって、シロナさんだって……」
「来ない。辿り着けたとしてもその時には手遅れだ。
確信がある。言ってもわからぬであろうがな」
理詰めで説明することもアカギには出来る。だが、そこまで彼女にわからせる時間を割く謂れもない。
アカギがパールをもの言わぬ姿にすれば最後、彼の宣言通り、何者もアカギを止められる者はなく、再び赤い鎖がその手に握られる。
その果てに起こることとは、先程の絶望に他ならない。
「今の世界が終わることを、君は望んでいないのだろう。
だが、私の悲願が果たされる時、君はもうこの世にはいない。
君は君にとって最も望ましくない結末を、目の当たりにせずに済むということだ。
ここまで辿り着いたことだけは出来た君に対し、それぐらいの手向けはあってもいいだろうな」
「……………………どうして……」
「ん?」
「……どうして、そんなに滅茶苦茶なことばっかり言うんですか。
アカギさん、おかしいですよ……普通じゃない……
どうしてそんなに、この世界をぶち壊しにすることにこだわるんですか……?」
パールの胸の内に宿り始めるのは、どうしようもないほどの悲しみだ。
まるで話が通じない、人殺しに臨むことを躊躇いもしない、あまつさえそれが手向けだの救いだの宣って、まるで善行でさえあるかのように語る。
理解できないほどの歪んだ悪に直面した時、人が抱く感情は大別して4つほどある。
共感するか、怒りや憎しみを抱くか、諦観を覚えるか。
あるいは、哀しみだ。憐憫や同情ではない。文句一つ聞き入れてくれず、人の命を奪い去る災害に対して抱く、儘ならぬ想いに似た想いに例えられるものだ。
「それを聞いて、君は納得できると思うのか?
世界を巻き込んででも己が野心を満たそうとする者が、そう思い至ったきっかけや過去を、物語のように語れば君は理解が出来るのか?
その涙目は、人の道を踏み外した私の過去を勝手に想像して抱く、身勝手な哀れみによるものか?」
「違います、そんなんじゃないです……!
こんなの、私にだってわかんないですよっ……!」
指摘された目をぐしっと拭うパールだが、また溢れてくるものをやはり止められない。
彼女自身、決して認めたくはないけれど、やはりアカギに対する憧憬めいたものを、すべて完全に捨て去ることなんて出来ないのだ。
あの日シンジ湖から救い出してくれた恩人がいてくれたからこそ、何年も、何年もパールは夢を抱き続け、今に至っている。揺るがない。
今になって、それが自分の完全なる敵だと判然とした今なお、自分の人生の殆どを形作ってくれた存在は、あまりにも変えようがなく特別だ。
八年という歳月は重いのだ。大人にとっての八年間よりも、子供にとっての八年間は、もっと、ずっと。
憧れの人がこんな人物であったことを、知れば知るほどつらいのは当然だ。
それでも彼のことを、もっと深く知りたくなる感情に、理念で以って語れる言葉などそう簡単には見つかるまい。
自分がいっそう傷つくことをわかっていながら、アカギの真意を問い質すパールの心に、利口さや賢明さというものは確かに無縁である。
「簡単な話だ。それも、ごく普遍的な話だよ。
この世界は、醜いものに溢れている。
憎しみ、闘争、言葉や暴力で他者を傷つけることを、不道徳と定めながらもやめられない命の数々。
君もその幼さとはいえ、争いや憎しみに溢れるこの世界の実情を、その片鱗だけでも知っているはずだろう?」
「汚いものばかりじゃ、ないです……!」
「私は幼い頃から、君の言う美しいものへの共感よりも、醜いものへの嫌悪感が勝ってきた人間というだけだ。
この世界を変え、真の理想的な世界を創るにはどうすればいいのか、今の君の年頃よりも幼い頃からずっと考え続けてきた。
あらゆる媒介から目と耳に入る、この世界の醜き実情に対する嫌悪感を育みながらな」
大人達とて、昔は子供だ。アカギだって、生まれた時からこうだったわけじゃない。
そしてアカギに限らずとも、この世界の美しいものよりも、醜いものにばかり目を奪われ、この世界は腐っていると謳う者は決して少なくない。
生まれや育ちなど関係なく、誰もが一度は通り得る道だ。
アカギの語る自らの道のりは、決して一般的な心理から逸脱していない。
「カリスマと呼ばれる指導者が歴史上に何千人生まれても、この世界は変わらず未だ醜い。
善行に励み、己の信じる美しき世界を広げようと努める者がいても、それを根拠なく偽善と指差して糾弾する者は絶えない。
所詮一人の人間がどれほど尽くしても、同志を集めて力を合わせても、どれほど大きな組織を形成しても、この世界を変えきるには至れない。
ならばどうすべきか、どれほどの力が必要なのか、そんなことを追究し続けていった結果――」
アカギは一度、言葉を止めて空を仰いだ。
彼自身、己のことを、人の道を踏み外したと口にしている。
自覚はあるのだ。そして、悔いも無い。歪んだ形で完成してしまったものは、二度と綺麗な形には戻らない。
「こんな、破れた人格が出来上がったというだけの話だよ」
「神様の力で、一度、この世界を真っ白に……?」
「そうだ。
一度の変革を以ってして世界を改めんとしても、いつかは必ず、それも遠からず、歪みは再び清純な世界を曲げ、必ず醜い世界が目を覚ます。
ならば一度すべてを一掃した、善も悪も存在しない真っ更な世界が、すべての始まりとして欠かせない。
何百何千年という人の歴史で成熟された、正義と悪が常に裏表として存在し、常しえに対立が介在し続ける今の世界では、決して完全なる世界は叶うまい。
人類には、生きとし生きる命には、この世界に存在するすべてのものには、そうした再出発が必要なのだ」
理解したくなかった。だけど、別のことは理解できてしまった。
アカギの目的とその根拠を知れば知るほどに、そしてどんな言葉も彼には届かないことだけが。
この世界を一度ゼロにしてしまうことで、何が救われるというのか。
今ある世界中の幸せ全てが理不尽に奪い去られ、深い悲しみの果てに世界が辿り着く暗黒に、理想郷があることを誰が信じられるのか。
この世に真に絶望し、こんな世界は壊れてしまえと謳うならず者だけが喜び、それさえもアカギの理想とは異なる醜い存在。
アカギの理想は誰にも理解できない。パールにだって理解できようはずもない。
こんな理想を胸を張って唱え、恥も悔いも無いアカギの無表情を前にして、永遠に取り除けない心の壁をパールは実感するのみ。
やめておいた方がいいような気はしていたのだ。こんな話を、アカギから聞き出すようなことなんて。
かつて憧れの人だった人物から、理想とはかけ離れた人格を矢継ぎ早に聞かされ、失望と言うには生ぬるいショックを受け。
涙さえ枯れて止まり、頬をつたり落ちていたものも含め、顔いっぱいをぐしゃぐしゃ拭うパールは、今一度アカギを真っ向から見据えている。
やはり、そこにいるのは無表情の、理解し合えぬとわかったアカギのみだ。
「どうやら神々は、私の意に沿いこの世界を一新することを望んでいないらしい。
この世界に神の意志たるものが実在するなら、君がここへ来たこともまた、私を妨げようとする神の試練のようなものなのだろう。
私はそれを踏みにじり、前に進んでいくのみだ」
「っ、ふ……アカギさん……」
「君は、奇跡を起こせるか?
思えば君とは、数奇な縁で結ばれていた気がするよ。
君を救い、その情が私の計画を数年遅らせた経緯から、私は感情を捨て去ることが必要だという教訓を得た。
私をここまで高めてくれたきっかけの一つである君が、今この最後の局面で私の道を阻まんとする、最後の試練となっている。
ここまで良く出来た運命めいたものを前にすれば、私も些か熱が入るというものだ」
静かで、無感情な声でありながら、アカギの胸の内にあるものは冷たいものばかりではなかった。
数奇な縁。確かに"縁"と言ったのだ。
敵対し、自らの夢をぶち壊しにしようとする者に対し、当然抱くべき敵対心の他に確かにある、言い表しようのない奇妙な想い。
アカギはパールよりもずっと人生経験豊富な大人だ。こんな理解し難い感情を人の心が抱き得ることを、彼も経験上知らぬではない。
それが邪魔になり得ることもあろうから、彼は感情を捨て去ろうとしたかつての決意を、未だ強く肯定するのみだ。
「~~~~っ……!!」
パールは握りしめていたピョコのボールを鞄に入れると、その鞄を肩にかけて両手を自由にする。
そして、その両手でばっちーんと自分の顔を挟むようにして叩いた。
腫れそうなほど強く、目が覚めるほど痛く。
これからバトルフィールドとなる場所を挟み、離れた場所に立つアカギの耳にもはっきり届く炸裂音は、誰よりパール自身の目を覚まさせる。
「アカギさん……!」
勝つしかないのだ。この世界を守り通すためには。
いや、大好きなみんなと一緒に過ごせる、明日以降の日々を取り戻すためには。
世界の命運を懸けた戦いであることを薄々と感じながらも、彼女を突き動かす最大の動機とは、決してそんなものではない。
ピョコと、パッチと、ニルルと、ミーナと、ララと、新しい友達のフワンテと。
お母さんと、プラッチと、ダイヤと、たくさんたくさん優しくしてくれた大好きな大人達と。
ケンカしたって、つらいことがあったって、二度と会えなくなるなんて絶対に嫌なひとが、この世界には溢れている。
幼く純真な子供達が守りたいものとは、大き過ぎて見えない大世界なんかじゃなく、身近なるありふれた小世界。
それを無くしたくない感情そのものこそが、使命感や正義感よりもずっと、遥かに、諦めてなるものかという想いを形にしてくれる。
どんなに悲しくても、つらくても、それを上回るほどにだ。
「私、あなたの叶えたい世界を絶対に叶えさせたりなんかしない……!
私の大好きなこの世界、あなたに壊させたくありません……!」
「君にとって、その迸るような感情は最大の武器なのだろうな。
その感情によって得る絶望や悲哀によって、苦しむこともさぞ多かろうに。
だが、結果として君は数々の艱難を乗り越え、私からの勝利さえ勝ち取れば悲願を叶える境地までは至れている。
それでいて、その感情を利に果たせている姿は、感情とは不必要で愚かなものだと唱える私にとって、無視できない反論者そのものだ」
アカギは今一度天を仰ぎ、空を見渡すように目線と首を動かしている。
赤い鎖の力を未だ我が身の中に取り込んでいるアカギだ。
仮にパールが空を見上げても見えないものが、アカギの目には見えている。
「今の私は饒舌な自覚がある。
感慨深いものは感じているんだ。
神の力を目覚めさせ、夢叶えし一歩手前で邪魔をされ、必要の無かった一戦を強いられる。
つくづく疎ましいばかりだが、同時に最後の試練となるのが君であるのも、そう悪くはないという不可解な認識もある」
感情を捨てたはずの男が使う感慨という言葉。
"感情"という言葉だけは使わなかったものの、実に感情的なものを大きく含み、それを否定しない言葉の選び方だ。
そして饒舌な自覚があるという言葉どおり、アカギはその根拠をわかっている。
「去ったように見えたであろうユクシー、エムリット、アグノムは未だ、私達のそばを離れてはいない。
この戦いの結末を、世界の行く末を見ずして去ることなど出来ないのだろうな。
感情の神エムリットから溢れる、私の捨て去ったはずの感情さえもが呼び起こされる感覚が、赤い鎖の力を介して明確に伝わってくる。
君にも、小さくない影響を与えてはいるだろうな」
「……そうかもしれないですね。
私、今までできっと一番、色んな気持ちで胸がぐちゃぐちゃですもん。
アカギさんと、こんな形で戦いたくなかったんだなって、よくわかります」
「だが、私にとってはやはり感情というものは邪魔だ。
それによって冷静な判断を欠き、目的を果たすためにベストではない行動を起こすことは瑕疵にしかならぬ。
たとえエムリットの力の余波によって感情を呼び起こされようが、私はそれを封じて戦いに臨むのみだ」
「…………私にとっては、大事なものですよ。
つらいことだってあったけど……みんなのことを大好きな気持ちは、絶対無くしたくありません」
「君の生き様は充分に証明しているよ。
君は君、私は私だ」
敵対するようになってから、初めてまともな会話が出来たことに、パールの心は少なからず救われていた。
決してわかり合うための会話ではなく、譲り合うことのない意志を確かめ合ったものとて。
かつては確かに尊敬していた人から、自分の生き様を賞賛されることは、たとえちょろくさい奴と笑われようとも胸が満たされてしまう。
ここまで来たのだ。"あの人"に会うための旅路の果て。
決して望むような再会ではなかったけれど、ここまでの道のりで出会ってきた素敵なものの数々。忘れ得ぬ、一生大切に出来る思い出はきりがない。
そんなすべての原初のきっかけをもたらしてくれたのもこの人物だ。
そんな人に幾許でも認められ、かの過ちを正すために力を尽くすことに燃えられずして何が誇れよう。
今が人生最大級の大勝負だという想いで臨んできたことは、これまでにだって沢山あった。
それでも、今までのそれを凌駕して今が一番その時だ。きっとこれからの人生でも、これ以上の時は無いであろうほどに。
最初のボールを握ったパールの手には、その力の込めようだけで汗が滲むほどのぎゅっとしたものが込められている。
「君に利する、エムリットがもたらす"感情"の力。
私が圧倒的な優位にある、ユクシーがもたらす"知識"の力。
君も私も決して劣り合わぬであろう、アグノムがもたらす"意志"の力。
どちらが上回るかで、明日の世界は定まるということだ」
「絶対、ぜったい……! 絶対に負けません!
アカギさん、私達が絶対に勝ってみせますから!
この世界は、あなただけのものじゃないんです!!」
誇張無く、世界の行く末を決する最終決戦だ。
完全なる世界を創るという使命に魂を焼かれた男と、喪いたくない大切なものを抱きしめて離すまいとする無垢な少女の戦い。
その戦いが決する壮大な命運に反し、その闘争に臨む者の動機とは、必ずしもそれに匹敵するほど壮大とは限らないのだ。
「行くぞ、ドンカラス」
「頑張ろうね、ニルル!」
結果が全てだ。勝利の他に、望む未来を得る手段など無い。
ギンガ団の野望とそれを阻む者達の長き戦いを締め括る、最後の戦いがここに幕を開ける。
結末がどうなろうと、揺るぎようなき歴史的な一戦だ。