空間を司る神、パルキアのみの秘技である"あくうせつだん"。
空間ごと対象を断ち切ってしまうそれに斬れないものは本来無い。
数少ない例外が並び立つ双神たるディアルガと、神の力にも匹敵するものを宿す赤い鎖だ。
その技の前には、狙われたものの硬度たるものは何ら意味を持てず、空間ごと切り裂くその一撃によって容赦なく切断されてしまう。
空間ごと対象を断ち切ってしまうとは果たしてどういうことか。
例えばそれが人体を切り裂いた時、厳密な意味でそれは、対象を二つに切り離してしてしまったとは言い難い。
断ち切ったものは対象そのものではなく、空間であるからだ。
切り離したとてそれは空間の切断面を介して、未だ正しい意味では繋がっている。
パルキアの亜空切断により片腕を斬り飛ばされたかのように見えるパールだが、その腕の切断面から血が溢れることが無いのはそれが理由である。
空間の切断面を介し、血流は胴体から指先まで至り、逆も然り。
望むなら、たとえ腕を斬り落とされたとしても、神経の通う腕の先にある指を、意のままに動かすことだって何ら不可能ではない。
真の意味で斬り飛ばされたのとは異なって、その空間あるべき形に戻ることあらば、パールの腕は健康な状態のまま彼女のそばに帰ってくるはずだ。
「いやあああああぁぁぁっ!?
あ゙ーーーーっ!! あ゙ぁーーーーーっ!!」
「恐ろしい力だな……!
私とて、赤い鎖が無ければああなっていたということか……!」
そんな本質を理解した上で、自らの肉体を亜空切断された者は現代に存在しないのだ。
前人未到の力で腕を斬り飛ばされた、そうとしか認識できぬ事態に直面したパールは、まさしく本当に腕を切断されたにも等しい痛みに絶叫する。
幻痛とも例えられようそれを、彼女の肉体が、経験が、腕を斬り落とされた緊急事態を彼女に痛みとして訴えるからだ。
たとえ切り落とされた腕から血が溢れず、倒れてのたうち転げて泣き叫ぶ彼女に呼応するように、地面に落ちて転がった方の腕がばたばたと足掻いていても。
空間ごと肉体を断たれたこと、それが本当に身体そのものを切断されたわけではないという本質を、経験のない肉体は理解できるはずがない。
「さあ! その力を振るってみせろ! パルキアよ!
貴様の愛する世界の崩壊を望まんとする私を、この場で滅するためにな!」
「――――――――!
ガギャギャアアアアアッ!!」
パルキアは喚き悶えるパールのことも、苦々しい表情で一瞥していた。
敵ではないともわかっている。果敢にアカギに立ち向かい、勝利を収めし勇者であることだってわかっているとも。
アカギを葬るための技を赤い鎖にはじかれ、その余波が彼女を苦しめていることは、当然パルキアにとっても本意ではないことだ。
だが、今は彼女を案じる時間も作れない。想像を絶する痛苦の中にある彼女を救うために、空間を繋げ直す時間すら惜しい。
不完全な復活を遂げた形とて、赤い鎖の発する力は未だにパルキアを苦しめている。先にパルキアが膝をつけば、世界崩壊の半分だ。
何としてもアカギを滅し、この世界を護り抜くことが先決としたパルキアは、少女に許しを求める意識すら封じて力を振るうのみ。
翼を広げて発する力が、アカギを囲う赤い鎖を再び傷つける。
「ぬうぅぅぅ……!
負けぬぞ、神々め……!」
「ガギャギャアアアッ!」
パルキアの発する亜空切断がアカギを襲い、それが赤い鎖にいっそうのひびを入れ、しかしはじかれ周囲に拡散する。
今にも砕けそうなほどの亀裂を得ながらも、赤い鎖は砕けない。
アカギの意志と感情と、それがこの鎖の力となるという知識を持つアカギの精神力が、神の力にさえ抗って鎖を砕けさせないのだ。
アカギに感情の力というものの大きさを見直させたパールとの戦いが、今もっとも鎖を強固に保たせる要因とさえなっているとは実に皮肉である。
「ッ――――!」
「む……!?」
パルキアとの我慢比べに集中したいアカギにとって、悲鳴をあげてのたうち回るパールの声はノイズに他ならなかっただろう。
だが、努めて無視していたその声の方向から、ずしんと地を鳴らす音が聞こえた時には、流石にアカギも一度振り返らざるを得ない。
そこには、クロバットとの戦いで瀕死寸前まで追い込まれたはずのドダイトスが、自らボールから飛び出して地に降り立った姿がある。
「グガアアアアアァァァッ!!」
「ぬ、ぐ……っ!」
片目が潰れたドダイトスにして、その凄まじい吠え声と形相から感じる殺気は、アカギを戦慄させるにも相当するものだ。
赤い鎖に守られたアカギへと全力でぶつかり、パルキアの攻撃を受けて軋んだ鎖を揺らすほどの衝撃を食らわせて。
ひび割れた鎖の一部から、からりと破片が落ちる光景は、不完全な赤い鎖に微々ながら軽視できぬダメージを与えたことを示唆している。
血にまみれたその頭でぶつかって、赤い鎖の堅固さに押し返されて退きながらも、憎悪に満ちた眼でアカギを睨みつける迫真にはアカギも背筋が寒くなる。
「っ……! 好きなだけ足掻くがいい!
神とそれに立ち向かう者の聖戦に、貴様のような獣の力など及ぶまい!」
「グガアアアアアッ!!」
「ガギャギャアアアアアッ!!」
ピョコの葉っぱカッターと、パルキアの亜空切断が、鎖に守られたアカギに前後から襲いかかる。
アカギにとって最も脅威なのは当然パルキアの攻撃だ。一撃でまた赤い鎖に大きなひびを入れ、意志と感情の力を振り絞って保たねば今にも鎖が崩壊する。
だが、それに劣るとて後方のドダイトスの攻撃も決して楽観視できない。
葉っぱカッターに続き、再び体当たりで鎖の結界に激突し、はじかれ後退するままにアカギに背を向ければ、前足を振り上げて背上の樹をこちらに向け。
それを急成長させて打つウッドハンマーで以って、重い追撃を加えてくる。
それらすべての攻撃を足してもパルキアの攻撃力には及ばぬが、手数を重ねてくるその行為が、確実に鎖を崩壊に向けて歩ませている。
「ガギャアッ!」
「ぬぅ、ぅ……!」
「い゙あ……!?」
アカギの表情にも焦燥感がある。もう無表情でなどいられるものか。
パールに自分のポケモン達をすべて打ち破られた今、赤い鎖で身を護ることは出来ても、このドダイトスを止める手立てが無い。
このまま赤い鎖の持ち堪えさせられたとして、パルキアの動きを完全に封じられたとしても、ディアルガが続いて顕れれば受け切れるのだろうか。
元よりただでさえ綱渡りであったアカギは、さらに自らを追い詰めるドダイトスに憎々しげな歯ぎしりを覚えるばかりであろう。
そして、憎まれる以上に憎むのが、今パルキアの亜空切断がはじかれた余波に襲われたパールの、右の足首から下を斬り落とされたピョコだ。
彼女の悲鳴、振り返った先、その光景を見て彼が何を思うかなど言うにも及ぶまい。
大切な親友である彼女を今苦しめているのは神の力だ。神すら憎い。
だが、すべてを招いたのは目の前のアカギだ。
こいつさえいなければ……! お前さえいなければ!
「あ゙ぁっ、あぁーーーーっ!
はぁっ、ああっ、うああ゙ぁっ……!」
「ッ……!
グゥガアアアアアアアアアアッ!!」
大切なひとを傷つけられたポケットモンスター達の怒りとはかくも凄まじい。
赤い鎖に牙を立て、瞳孔の開いた眼のドダイトスを間近とするアカギは、神以上に恐ろしいものと直面している。
泣いて喚き、あっという間に消耗して声が掠れるパールが死にも瀕するその声が、ピョコの激甚な怒りの炎を決して小さくなどさせないのだ。
捨て去っていたはずの感情、その中にあった"恐怖"。動揺の声さえ溢れず、息を呑むばかりのアカギの精神を、神でもないドダイトスが追い込んでいる。
それから目を切れなくなったアカギの背後から、パルキアの亜空切断が鎖を再び傷つける音と実感が、我すら忘れていたアカギの意識を引き戻す。
「っ……けだもの風情が……!
私は屈さぬ……! 悲願はもはや、目の前にあるのだ!」
恐怖がある。自覚もある。それが自分を敗北へ導くものであるともわかっている。
だからこそ、果たさんとする大願を想起して、退けぬ意志を、屈してならぬという感情を、己を奮い立たせるかのように取り戻す。
眼前の怪物は恐ろしい。神の力は畏ろしい。すべてわかっていたことだ。
恐怖をも、戦慄をも、十数年に渡って願い望んできたこの渇望が凌駕する。
パルキアの力とピョコの牙で、めきめきと音を立てて砕けかけていた赤い鎖は、アカギの不撓の精神力で以って未だ崩れ落ちない。
「先に死ぬのは貴様だ! 無念への覚悟をしろ!
この聖戦に不届きにも踏み込んだ愚を悔いるがいい!」
「グッ、ガ……ガアアアアアッ!!」
パルキアの亜空切断をはじき返す赤い鎖、それによって生じた余波がパールを苦しめるように、その余波はピョコをも襲っている。
大樹の殆どは切り裂かれ、甲羅の一部を削ぎ落とされ、今は後ろ脚を一本斬り落とされた。
己の重さを活かした体当たりはもう出来ない。だから鎖を噛み砕こうと続ける。
空間ごと断ち切る力に自らをバラバラにされかけながら、その痛苦に喘ぎつつも食い下がる姿は壮絶だ。
アカギの目にも、ピョコ自身の得る感覚にも、このドダイトスの死が時間の問題であることは明白であっただろう。
怒りと憎悪で苦痛を忘れ、命に代えてもアカギを食い殺し、パールをこれ以上苦しめてなるかと命を削る凶獣は、やはり力尽きる寸前に違いないのだ。
「っ……ゔぅぅ……
ピョコぉ、っ……」
「!?」
誰の目にも明らかだったこそ。
ただでさえ全身傷だらけで、片足を斬り飛ばされても食い下がる友達の姿に、これ以上耐えられなかった少女もあったのだ。
片腕を失っている身でありながら、その痛みで涙と鼻水でいっぱいになった顔でありながら、葉っぱのシールが貼られたボールのスイッチを押し。
絶句してボールに戻されていくピョコの姿が消え、そのボールを握りしめたパールが、鞄にそれを押し込めて。
そして、残された腕と胸だけでぎゅっと鞄ごと抱きしめて、鞄の中に収められたボールから誰も出てこられないようにする。
パッチも、ニルルも、ミーナも、ララも、フワンテも、ピョコさえも。
彼女の体を突き飛ばしてまで、自らの意志でボールから飛び出しては、か細い彼女の身体を自分達が壊してしまうからだ。
「みん、なっ……ごめんねぇ……
こんな、とこに……連れて、きちゃってぇっ……」
「愚かな……!
かすかな勝機さえ自ら手放すとは……」
ドダイトスの姿が消えたことで、アカギはパルキアに真正面から向き合う形を取る。
パルキアの攻撃さえ耐えられれば。ドダイトスの追撃は無くなったのだ。
未だ苦しいが状況は好転している。耐えきってみせる。
アカギはパールのことを脳裏から締め出し、神との一騎打ちに集中する。
「あばれない、で……私、もう……だれか死んじゃうのは嫌だよぅ……
かみさまが、きっと……なんとかして、くれるから……」
もう、無茶は……しないでよぉ……」
腕を失い、片足首を失い、それに相当する痛みの中にありながら、鞄を抱きしめて背を丸くするパールは、掠れた声で身内に訴える。
鞄が揺れている。中のみんながパールを守るために、ボールから出たくてしょうがないのだ。
エムリットの力の残滓が残るここにおいて、パールの友達六人の声もまた、彼女の脳裏に響いているはずだ。
それは自分達を守るために、切り刻まれた我が身の痛みを耐えるパールの姿に、やめて僕達に俺達に――あなたをお前を守らせてと訴える悲痛な声。
それでもピョコが神の力によって脚を一本失った光景を目にしたパールは、誰一人としてボールから出てくることを許さない。
ギンガ団のアジトでパッチの死に直面しかけた彼女にとって、最も恐ろしいことは自分自身の死ではないのだ。
己が今まさに体験しているこの痛み、だからこそそれをもたらすこの場に、誰一人として大切な友達を踏み出させることなんて出来ない。
鞄の中の六つのボールがどれだけ騒いでも、そこから聞こえる心の涙声がいくら聞こえても、パールは鞄を抱きしめる自分の身体に弱めない。
「みんなっ……大好き……
いなく、ならないでよぅ……」
「っ……黙れ! 私は間違ってなどいない!
情に絆されて私を否定するんじゃあない!!」
パルキアの攻撃に耐えつつも、脳裏に響く声を振り払うように叫ぶアカギが退けんとしているものは何か。
ドンカラスの声だ。ギャラドスの声だ。マニューラの声だ。
どれだけ自分が傷ついても、大切な友達を守るために身を呈す人間の姿を感じ、その姿に何も感じずになどいられようものか。
アカギの想いを叶えたかった。穢れたこの世界を一新したいという彼の想いに、自分達を大切にしてくれた恩義からここまで従ってきた。
今でもアカギを悲しませたくないとは思っている。彼が叶えたい何かを叶えられず、絶望してしまう姿を想像するだけで胸が痛くなる。
自分達は今ここで、頑張れアカギ、負けるなご主人と心の声を訴えるべき局面だとも、彼に育てられた者達は理解しているはずなのだ。
だけど、やはり、この世界は穢れ果ててなどいない。
あんなにも、自分自身の苦しみを耐え忍んででも、大事な友達を守るために尽くせる人間がいるじゃないか。
あんただってこの世界の一部だろう?
俺達をここまで育て上げてくれたあんたそのものが、穢れし救いの無い世界という理屈に反する最大の根拠だったんだ。
あんたの望みが叶っちまえば、この世界はゼロになってしまうんだろう……!?
この世界には、きっと、無くしちゃいけないものがあるはずなんだ。
あいつもきっとそうだ。あいつらはそういう奴らのはずだ……!
それに、あんただってそうだ!
この世界をぶち壊し、そして自分も消えようだなんて寂しいこと言うなよ……!
俺達は、あんたにいなくなって欲しくなんかないんだ!!
「っ……黙、れ……!」
嘘一つ無い、身内の切願する声も、今のアカギには正しく届かない。
ずっと自らを肯定し続けてくれた仲間達でさえ、これほど望んでいる自らの道を阻まんと、強い心の声で以って制そうとしてくる声としてしか届かないのだ。
感情の蓋を失ったアカギの、怒りではなく、嘆きを含む搾り出したような声が、十数年ぶりの悲哀に苛まれる彼の心情そのもの。
そして揺らいだ感情は、彼を守る鎖に著しい影響を及ぼし、びしばしとひび入り始めたその様相にまで表れ始めていた。
「――――!
ガギャアアアッ!!」
「ぐ、ぅ……」
勝利を確信したのはパルキアだ。
赤い鎖の魔力が自らの余力を削ぎ落とし続けてくる中、ここにきていっそうの力を込めた亜空切断を放つ。
アカギの感情が揺らぎ、信念を貫き通さんとする意志にかすかででも陰りが出れば、赤い鎖が弱くなることなどパルキアには知れた話だ。
元より時間をかけるべき勝負ではない。ディアルガが控えているとは言ってもだ。
何よりもパール、その肉体に本質的な傷一つつけていないとて、幼くか弱いかの少女を己の力が苦しめている。
この世界を護り通さんと奮戦してくれた幼き勇者を、一刻も早くアカギを葬り、空間を整えて苦しみから救うこともまたパルキアが自らに課す命題だ。
「こ……ここ、まで……なのか……?」
パルキアの攻撃で鎖に刻み付けられる傷は、長く彼を囲いこむ鎖全体にばしばしと駆け抜け、崩壊寸前の様相を隠せなくなってきた。
時間の問題だ。仮にパルキアの攻撃に耐えきって、パルキアを鎖の魔力で制し果たしたとて、続き顕れるであろうディアルガを凌げるのか。
長く目指してきた夢の終わりをいよいよ意識し始めたアカギも、ぎりぎりの精神力で鎖を保っている。だが、それももう長く続かない。
「あ……アカギ、さん……」
「黙れ! 貴様の声など聴きたくはない!」
向こう十年分の痛みにこの短時間で苛まれるパールは、もはや死相さえ思わせる顔だった。
そんな彼女が瞳を上げ、心折れかけたアカギに呼びかける声を、語りかけられし者は夢砕きし者を憎らしく睨む眼で怒号を返すのみだ。
その振り返った瞳に、痛苦の地獄の末にやつれ果て、大きく開けぬ目で顔面蒼白の少女の姿が映れば、あまりの姿に言葉を失いそうにさえなるけれど。
「この世界……無くしちゃ、駄目ですよぅ……
アカギさんのことだって……大好きな子達が、いっぱい……」
「黙れと言っている……! ふざけるな!
貴様に幼少の頃大切なものを取られた者の気持ちがわかるか!
こんな世界は間違っている! 創り変えられねばならぬ!」
「間違ってなんか、ないですよぅ……っ!
アカギさんが、美しい世界を創ってきたはずですよおっ……!」
突き刺さり、引き裂く、アカギの心を乱す言葉。
感情渦巻くこの小世界、ドンカラスやギャラドスやマニューラの魂の叫びさえ耳にするパールの口から搾り出される真意は、アカギの胸を劈いている。
アカギを愛する彼の仲間達の感情の嘆きは、我が身を断ち切られる痛みの渦中にあるパールに、その痛みにも匹敵するものとして彼女の心を打ちのめす。
いっそうの涙を溢れさせ、必死で叫ぶパールの感情が、アカギの感情に強い糸を繋いだかのように、その苦しみさえ共振させている。
我が身の苦しみ以上に心に血を流すパールの痛みを感じさせられるアカギはもう、彼女の必死の訴えから意識を逸らせない。
あれほどの姿になり、立つことも儘ならぬ中、残された身体だけで身内を守らんとし、なおもアカギの過ちを正そうと意志力を振り絞る少女の姿。
これが自分の半分も生きていないはずの幼き少女の姿なのかと、信じられぬものを見る想いで息を呑むアカギの心境も当然というものだ。
「やめて……くださいよぉ……
私……大好きなこの世界、無くなって欲しく、ないよぅ……っ……」
「む、ぐ……ぐううぅぅぅ……っ!」
「ガギャギャアアアアアァァァッ!!」
パルキアの力が再び赤い鎖を激しく痛めつける。
ばきん、と決定的な音が鳴る。鎖の限界だ。
次の一撃で砕け散る鎖の気配を感じ取らせられたアカギに、いよいよ夢の終わりが確定する瞬間が訪れようとしている。
神への敗北。それ以上に、かの因縁深き少女への敗北。
先の一度の敗戦に続き、満身創痍のパールの涙目の訴えとその切実さに呑まれかけた自らに、アカギも理解せざるを得なかっただろう。
けして、認めたくない事実。
それでも、疑いようのなくなった事実。
己を破りし少女に突き付けられて尚、認めず抗えど、死に体の姿で決死の声を届けてくるその姿に呑まれた己が、もはや認めざるを得ない現実。
敗北だ。真の意味で。
自らの半分すら生きていない幼き少女に、これほどまでのものを見せられ、呑まれ、子供のように意地を貫き通すこと。
もはや、出来ない。アカギは大人だ。
子供になど負けて道を譲れようものかという意地以上に、現実視からは逃れられぬ大人が導き出した答えにはもう抗いようがない。
新世界を創り上げる器は己には無かったのだ。
「……………………パール」
「アカギ、さん……」
パールに背を向け、パルキアと今一度向き合うアカギは、憤怒に満ちた表情で自らを見下ろす神と再び直面する。
恐ろしい姿だ。だが、アカギの心はそれに怯まない。
もっと畏れるべきものを見た直後というものは、本来肝が縮み上がるべきものを見た時に抱く感情さえ、それに劣るものと映り怖くなくなってしまう。
あれほど追い求めていた神の力でさえ、今のアカギにしてみれば矮小だ。
「……私の負けだ。
だが、私は神の力に屈したわけではない。
一度は完全に二柱を掌握し、勝利を目前としていた私が、神々の力に敗れし者だと認識されることは我慢がならん」
「ぅ……ぅ……」
「私は、貴様に敗れたのだ……! 神になどではない!
新世界を創造せんとした私を阻んだのは他ならぬ貴様であり、私が超えるべき最大の壁とは、神などではなく貴様だったということだ!
ああ! 今となっては私を破りし貴様が、神と呼ばれた卑しい獣の力ごときで、情けない姿を晒していることすら腹立たしい!!」
アカギの感情に、再びの火が灯る。そして、それはすぐ炎に。
折れかけていたアカギの心が燃え上がり、赤い鎖が再び力を取り戻す鈍い光を発し始める。
敗北を認め、自らが新世界の創世者たり得る器ではなかったと認めた上で、赤い鎖を再び奮わせるその真意とは。
砕けかけた鎖の最後の力を振り絞り、今のアカギが果たさんとしていることは、パールはおろかパルキアの想像さえ裏切るものに相違ない。
「パール! 貴様の名は忘れんぞ!
必ず貴様を超えてみせる! この汚点を雪ぎ、私は己を創世主たる器を取り戻してみせよう!
これで終わりだと思うなよ! 私は、必ず再び貴様に立ち向かう!」
「ガギャギャアアアアアァァァ!!」
「"ギラティナ"よ! 我が声に応えよ!
その力を以って、この世界のあるべき形を取り戻せ!!」
パルキアの放つ亜空切断が迫るその中で、アカギが呼びかけた神話においても語られざる一つの名。
それを耳にしたパルキアの目には、はっきりと、人の身がその名を知っていることに対する動揺の意が表れていた。
放たれた亜空切断が赤い鎖に激突し、ついにアカギを護るそれが、激しい音とともに砕け散った。
自身の命綱を失ったアカギだが、両腕を広げて天を仰ぐ姿はすでに、パルキアに葬られるのとは別の、自らの末路を見据えていた。
それはある意味で、死よりも恐ろしい顛末でありながら。
はっきりと未来を見据えた言葉を口にするアカギは、絶望ではなくいっそうの野心を胸に、修羅の道を突き進まんとしている。
「ぁ……っ……?」
アカギの見上げるその先を目で追ったパール。そこに彼女は、新たなる異変を目の当たりにする。
空にばきりと亀裂が入り、空間の裂け目が生じるような光景自体は、パルキアがこの世界に顕現する時に空間を裂いて現れたのとよく似たもの。
だが、それは美しくなかった。
パルキアがこの世界への入り口を切り裂いた時の、一筋の裂け目をこじ開けるかのような異界への門ではなく。
ガラスが乱暴に砕かれ、空の欠片が、空間の断片が宙に舞い、形を失い消えていくような、形容し難いその亀裂。
空は砕けるものではない。だが、パールとアカギが見上げるその空は、確かに砕けているのだ。
「ギラティナ……!」
「ぅ…………ぁぁ、っ…………」
割れた空の裂け目から、その眼を覗かせる存在を、アカギは再びギラティナという名で呼ぶ。
垣間見えるその眼と気迫だけで、それがパルキアら神に比肩する存在であることは、誰の目にも明らかなものがあった。
パルキアやディアルガは、いかに憤怒に満ちた表情でアカギを裁かんと気迫を発するとて、そこには神々しさや使命に基づく気高さめいたものが残っている。
だが、割れた空の裂け目からアカギを見下ろす眼は、二柱の神が醸す威光には似ても似つかぬ、極めて俗かつ迫真のものに溢れていた。
殺意と憎しみ、凄まじい怒り。
それはこの世界という大切なものを奪わんとする者に対するパルキアらの怒りとは全く異質の、己に不遜な声を発する愚かな人間に対する純然たる憤慨だ。
絶大な力を――パルキアに匹敵する力の持ち主であろうことなど、それを目の当たりにした者なら一目で感じるはず。
それほどの存在が、感情のままに殺意をむき出しにした眼光は、差し向けられた者が為すすべなく死を迎える己を予期するにはあまりにも充分。
さしものアカギも腰が引けそうになるのを必死で耐え、パールに至っては体の痛みさえ忘れ、息をすることも出来ずに凍り付くばかり。
それほどまでにギラティナと呼ばれた存在が発する激情は、あの怒り狂うパルキアでさえ人類に対し温情があったのだと感じさせるほど恐ろしい。
「ギゴ、ガ……!」
「――――――――ッ!」
あと一撃の亜空切断でアカギを葬れるパルキアが、天高くのギラティナを見上げ、もはやアカギのことなど意にも介さない。
ギラティナの発する力の前兆を感じ取れば、アカギの撃破など最優先事項でも何でもない。
大き過ぎるギラティナの力を、ただその意のままに振るわせて、傍観しているだけでは大変なことになってしまうからだ。
ギラティナを見上げて、恐怖のあまり心臓が止まりそうな表情をした少女を、ほんの一瞬だけ一瞥して。
パルキアは、アカギを仕留めることを諦めると同時、守るべき存在を強く意識して再びギラティナを見上げていた。
「ビシャアアアアアァァァ!!」
「ッ、ガギャギャアッ!!」
ギラティナとパルキアが咆哮を発したのは、殆ど同時のことだった。
果たしてギラティナがどのような力を発揮したのか、それはパールの目には理解することが出来なかった。
ただ、アカギを仕留めんと亜空切断を何度も放ったパルキアにより、空間の有り様がずたずたになっていた周囲が、少しずつ正常化されていく。
パールが最もそれを実感する身であり、離れた場所に落ちていた自らの腕と脚が、切り離された空間の正常化により、彼女に近付いていくからだ。
神の力であるべき形を一時失った世界を、元のあるべき形へ。
空間を司る神、時間を司る神。その絶大で他の何者も介入できない力に、どちらにも対抗できる唯一の存在がギラティナだ。
パルキアが已む無く乱した世界の様相を、ギラティナの力が正しい形に修正していく。
そんな中で、パルキアがそこに咆哮とともに己の力も投じるのは、正しき形に戻りつつある世界を、一寸違わず元の形に戻すための微調整を目的としたもの。
切り離してしまったパールの身体をはじめ、すべてを完璧な形で本来の姿へ戻すため。
空間を操る力はどうしてもパルキアの専売特許である。ギラティナの反物質の力はそれを修正するが、微細なズレは残しかねない。
たとえばパールの身体が、ほんの1ミリでもずれた形で偽の原型に戻れば、それは彼女に只ならぬ傷を残してしまう。
大義のために一度乱した小世界を、何よりもこの世界を守るために全身全霊を尽くした少女に果たせる、パルキアの最後の手向けである。
「…………ぁ……………………」
「…………これで、私のこれまでの旅路は終わりだ。
だが、終わりではない」
自分の身体が元の形に戻り、痛みが消えたことにパールの全身から力が抜ける。
耐え難い痛苦からようやく解放され、ずっと苦しみの中で消耗し続けていた彼女の肉体も精神に、ようやくの安息が訪れるとともにぷつりと糸が切れる。
心も体も限界だった少女、地獄の終焉、赤い鎖の消失による世界崩壊の阻止。
張り詰めていたものが切れた少女は、薄れゆく意識の中で顔を上げたその瞳に、ずっと追いかけ続けてきた人の姿を最後に映す。
アカギの背後の空間が、砕けるようにばきりと割れた。
パルキアの空間を断つ力とは異色のもの。ギラティナが姿を顕した時の空間の割れ方と同じ、すなわちその力。
ぼんやりと目に映るアカギの姿が、ノイズに乱されたテレビの映像のように歪み、それは人の形を保っているとも言えぬ光景だとパールには見えた。
だが、そんな中でアカギが発した言葉は、パールの耳にははっきりと、今日一番、鮮明に届いた。
「改めて誓おう。私は、必ず還ってくる。
お前を超えることで、これまでの至らぬ私を超えるために。
お前が顔も名も知らぬ私をずっと追い求めてきたように――今度は、私がまだ見ぬ未来のお前を追う日々の始まりだ。
何年かかっても、何十年かかっても、必ずお前に追い付いてみせる」
アカギの表情は、感情的にパルキアと対峙していたその時とは異なり、再び鉄面皮の彼のそれになっていた。
だが、元より彼が表情の機微に乏しい人物であったことを鑑みるならば。
それがきっと、彼にとっては、最も彼らしく、真なる胸の内を明かす姿として真摯なそれであったとも言えるのかもしれない。
だから、なのだろうか。
ギラティナの切り裂いた異界へ取り込まれつつあるアカギは、もはや目視では表情はおろか、形状さえもアカギのそれだと認識し難いものとして現世にある。
それでもパールには、はっきりと、アカギの表情と声が、人としての魂の形を感じ取るかのように、目と耳と心で感じ取ることが出来た。
感情と、意志と、知識を司る精の力の残滓に満ちた槍の柱が起こした、長い因縁の末に衝突し、再び道を分かつ両者の間に叶えたささやかな奇跡。
「さらばだ、パール。
また会おう、――――――――」
パールに背を向け、異界の向こうへと消えていくアカギ。
彼の表情を見ることはもう叶わず、だが、完全に消えていく寸前、また会おうの言葉に続いて間を置き、アカギがぽつりと呟いた一言。
アカギの姿を見失うその時まで、最後まで気を失わぬように必死で耐えた彼女だからこそ、最後の言葉を聞き逃さなかった。
それもまた、良くも悪くも縁の深かった相手を最後まで見送らんとした、彼女の強い精神が勝ち取った栄光だ。
命の恩人であり、彼の残影を追い続けたからこそここまで大きくなり、それでいて憎むべき世界の敵でさえあったあの人。
もう一度好きになることも、尊敬することも出来ないかもしれない。だが、今でも嫌いになることが出来ない。
短い言葉で表現しようもない、複雑な感情を幾重にも抱かずにはいられない奇妙な因縁、その人だった。
世界を隔て、永劫の別れともなり得るその時、途切れかけていた意識を最後まで保たんと心を保った、パールの心情は彼女だけのもの。
凄絶な痛みによる涙でいっぱいの顔に、既に枯れたかというほどもう流れなかった涙が、あと一筋零れ落ちて頬を流す。
それだけ彼女にとって、この別れは得も言われぬものだった。改めて、彼女だけの感情だ。
「ぁ……………………アカギ…………さ、ん……」
目を閉じる余力も無く、光を失った瞳を開いたまま、事切れたかのようにパールは意識を失った。
長い、長い、パールとアカギの因縁の終結。
世界は滅びなかった。明日はまた訪れる。
それでも彼女にとってこの一日とその最後は、後から思い返しても何ら誇張無く、一度目の人生の終わりだと思える瞬間そのものだった。