「ただいま戻りました」
「ウム」
パールがフタバタウンに里帰りしているその日、プラチナはマサゴタウンへ、ナナカマド博士の研究所へ帰っていた。
事前に、しっかり連絡を入れてである。その際、ナナカマド博士に少々の問いかけもして。
短いやり取りではあったものの、ナナカマド博士はその僅かな会話から、プラチナの心情の一端を理解して、夕過ぎに帰ってくるようにと告げた。
その理由は語られなかったし、プラチナも訊かなかった。
ただ、博士のことだから訳あってのことであろうとだけ信頼して。
言いつけどおり、夕過ぎの時間帯まで我が家で妹と久しぶりに話したりして時間を潰し、西の空が赤らんだこの時間にここにいる。
「あの、父さんは……」
「ウム」
ナナカマド博士はプラチナの問いかけに、奥の研究室を見やる形で回答した。
多くを語らない博士だ。語らなすぎでもあるが。ポケモンのことについて語る時は、けっこう饒舌になることもある人なのに。
その言葉少なさと顔立ちのせいで、少しおっかながられることもある博士だが、彼の優しい心根をよく知るプラチナは怖がったりなんてしない。
静かな佇まいの中に大きく主張しない心遣い、それのみ感じて痛み入り、プラチナはナナカマド博士に頭を下げると、示された研究室へと入っていく。
きっと、パールに感化されたんだろうとは自分でも感じている。
ギンガ団との長い長い戦いを終えて、再び旅に出る前に、一度里帰りしてお母さんに会っておきたいと言ったパール。
確実に叱られるであろうことをわかっていて、会いに行きたいという想いでいっぱいだったパールの姿を見て、きっと自分も。
喧嘩別れする形で袂を分かち、自分から会いに行くことなんて絶対にするかと思っていた相手に、会いに行きたいと思ってしまった。
少しだけだ。本当に少しだけ。そして、実行に移した。
かすかにでも確かにある感情の揺らぎに対し、正直に、行動を。
長くパールと一緒にいて、この辺りが一番感化されたんだろうなとはプラチナの所感である。
「父さん」
「…………プラチナ」
プラチナも、そして彼の父もまた、ナナカマド博士の助手。
学者を志したプラチナは、ナナカマド博士に師事を請い、許しを得て博士の助手となった。
自然な形と相成るならば、プラチナと父はともにナナカマド博士のそばで、いわば同じ職場で日々を過ごすはずである。
憧れのナナカマド博士を師と仰ぎ、先人である父に助手としての在り方を教え説かれていく。かつて、プラチナが夢見た淡い夢だった。
そうはならなかったのだ。
ナナカマド博士の助手となることは叶えられても、そんな彼のそばに父の姿は無かった。
プラチナが博士のそばにつくようになった日を境に、父は研究遠征に赴いて、しばしばの通信と連絡を介して博士の研究を支える身となった。
それは、プラチナには"あてつけ"として映った。
その時だったのだ。プラチナが、父のことを顔も見たくない人だと初めて感じたのは。
あれだけ大好きだった、博士の助手でありながらも学者として小さくない功績も積み上げてきた尊敬すべき父を、そこまで嫌うようになってしまったのだ。
「……………………えっと……」
「私は、今でもあの時お前に言った言葉が、変わっていない本心だよ」
父との再会に赴いて、話すべきことがいくつもあったプラチナが、何から切り出そうかと迷っていた矢先。
父が発した言葉は両者の確執の核心であり、プラチナの胸をじくりと嫌なもので突き刺すものだった。
震える感情。蘇る父への憤り。
だが、こうして迷える心の幼き我が子に、論じ合うべき課題の舞台へ真っ先に引き上げる姿は、ある意味人生の先輩たる大人の導きぶりとも言える。
どれだけ憎まれても嫌われても父親だ。我が子のことは誰よりもよく知っている。
「……父さんは、今でも僕が学者になることに反対なんだね」
「私のエゴだ。わかっているさ。
お前の類まれなる才能のことは、贔屓目を抜きにしてもよくわかっている。
私がお前に、私がかつて失った夢を叶えて欲しいという身勝手を説いていることだってわかっているつもりだ」
そして、プラチナもまた父のことはよく知っている。
父が幼い頃、チャンピオンを目指す純真なトレーナーだったことも知っているとも。
才に恵まれず、時のチャンピオンを破ってシンオウの頂点を極めることはおろか、バッジを5つ集めることが限界だった若者だったことも。
プラチナがトレーナーも学者も志していない、幼い小さな子供だった頃に、自分の過去を楽しげに語ってくれた父の姿をプラチナは忘れてなどいない。
当時一緒に旅をしたポケモン達との日々は、たとえ夢破れた今とあっても、忘れ難き金色の思い出に他ならないのだ。
ポケットモンスター達を愛する父の想いは本物だ。だから彼は、夢破れし後もそれに関われるよう、学者の道を志した。
幼少の夢を捨て、そのために歩んでいたわけではない新たなる道を切り開き、今は学者として大成した人物だ。
今ならプラチナも、苦節の果てに今を築き上げた父が、どれだけ立派な大人で敬うべき先人かはよくわかっている。
だが、プラチナには父には持ち得なかったものがあった。
それは、バトルの才能だ。
本気でポケモントレーナーの頂点を目指して一心に身を磨けば、一握りの者しか掴めないそれにさえ手が届きそうなほどの。
事実プラチナは、バトルを本職としない研究者を志す身分でありながら、パールと共にギンガ団らとの戦いで、大人顔負けの強さで抗えている。
百年に一度の才と言えば親の欲目だろう。だが、類まれなる才と評する限りでなら何ら的外れではない。
そんな我が子の才を目の当たりにした父が、この子ならもしかして、と彼にトレーナーとしての道を推したのは自然な親心だ。
そこには確かに、彼自身が言ったように、己がかつて掴めなかった夢を代わりに我が子が――というエゴがあったのかもしれない。
だが、愛する我が子に栄光を、大いなる成功というものを手にして欲しいと願う気持ちの、どこに偽りやお為ごかしがあろう。
自身に向き合い、プラチナの進路を定めたがった己の身勝手を否定しない彼の言い分は、正しくもあり、過ぎている。
「今からでも、トレーナーの道を極めようとは思わないか。
遅くはないと私は思っている」
「思わないよ。
僕は、立派な学者になりたいんだ。
ポケモン博士の権威と言われるオーキド博士のような、そんな人にさえ尊敬されるナナカマド博士のような、立派で、凄い学者を目指してる」
「……そうか」
「……………………父さんよりも、凄い学者になるんだ。
つらいことがあったって、諦めずにポケモン達と関わる道を探し求めて、それを叶えた凄い大人よりも、ずっと凄い大人にだよ」
想像だにしなかった息子の言葉に、父が次の言葉を詰まらせた。
プラチナは、自分の夢を否定した父に対し、悪い感情を募らせてきた。どうしようもない事実だ。
トレーナーとしての道を歩んでほしい想いに反し、学者になりたいと瞳を輝かせて語った我が子の夢を咎めた。
大好きなお父さんに、自分の夢を語って否定された息子がどれほど傷ついただろう。
引くことも出来ず、親子喧嘩に発展し、仕舞いにはその日以来家で話をすることも無くなって、最後はプラチナが自分だけでナナカマド博士に師事を請い。
同じ空間で息子の夢路を見届けることもしづらくなり、研究遠征を博士に願い出た己の弱さを自覚する父にとって、プラチナの言葉は本当に予想外だったのだ。
「あ、でもね。
父さんに対しては今でも怒ってるからね。
学者になりたいって言った僕に、ダメ、ダメ、って何回も言ってくるんだから。
そりゃ僕だって怒るよ。あの子(妹)にお父さんは最低だって何回も言ってるから。今日も言ってきた」
「むぅ……勘弁して欲しいな、それは」
「僕に嫌われるのは耐えられても娘に嫌われるのは耐えられない感じ?
そういうとこだぞ、父さん」
「ぬぐぐ」
胸を張ってふんと怒りっ鼻を鳴らすプラチナに、父は観念の溜め息を吐く。
反抗期っていうものがあることは知識として知っていたけど、うちの子もそうなのかなぁと思っちゃう。それとはまた違うけど。
けっこう本気で言い負かしにくる。仮にも一定の敬意は払ってくれている風の語り口のすぐ後にこれだもの。
父さん父さんとなついてくれた5歳児だったあの日のことが、最近のようにも感じられてかつ遠き日のことだと痛感する。
大人になって忙しい中で生きていると、5年10年なんてあっという間なんだから。
「僕やめないよ。いくら父さんに反対されたって。
僕、父さんの代わりなんかじゃないからね」
「わかってる、わかってるよ。
最後に確認しただけで、もうそういうものだと割り切っているんだ。
私はお前じゃないし、お前は私じゃないもんな」
「よーし、言質取ったよ。
もう僕にトレーナー転向しろなんて二度と言うなよ。
それと割り切ったなら、これからは全力で応援してよね。お父さん?」
「…………ふふっ。
わかった。そうするよ」
「なに笑ってんの、気持ち悪い」
愛憎混じり過ぎてプラチナの要求もめちゃめちゃである。
自分の夢を全力否定してきた父に対してはまだおかんむり、でも本心では応援してくれればそれが一番嬉しい、そうとも取れるしそれが本心。
言葉の端々が皮肉と尖りに満ちているのも、そう簡単に父を許したくないという意地が表れているのだろう。
それでも父には、学者としての自らの半生が我が子に評価されていたという事実。
そして、行間に秘められた息子の想いを正しく感じ取れるから、内心で感極まる想いを顔に出さぬことに苦心するほどだ。
重ね重ねだが、赤ん坊の頃からプラチナのことをずっと見てきた、世界に二人しかいないプラチナの親。我が子のことは誰よりもよくわかっている。
それに否定する理論があるとするなら、学者を目指した我が子の想いが本物で、決して揺らぎようもないものであったことと。
そして、自分がはっきりと決めた道を、誰に何と言われようと決して曲げない強い心の持ち主に育っていたこと。
それをわかっていなかったことを根拠にすることは出来るだろう。何でもわかっているつもりの我が子さえ、いつかは必ずそうでなくなるということだ。
「……パールといったな、あの子は。
あの子との旅は、有意義だったか?」
「あーあーもうその尋ね方が嫌い。
有意義であったかどうかとかそういう考え方しか出来ないの?」
「あ、ああ、すまないな。だったら言い換えようか。
楽しかったか?」
「楽しかったよ、でなきゃこんなに長いこと続けてないでしょ。
少なくとも父さんと離れただけでもウキウキだったし」
「そんなに嫌ってたのか」
「自分が何言ったか覚えてるでしょ」
びしっ、とプラチナは中指を立てて舌を出した。親の前でしか見せないお行儀の悪い姿。
こんなのパールの前では絶対にやらない行為だ。そんな子供っぽい彼の姿を見れるのも親の特権か。
「女の子との二人旅なんて、父さんも若い頃にやってみたかったもんだよ。
さぞかし楽しかっただろうなぁ」
「あ、母さんに言いつけてやる」
「やめろ、あの人お前が思うより怖いんだぞ」
「知ってるよ、僕が風邪引いた時に父さん帰ってくるの遅れたでしょ。
ものっすごい剣幕で怒ってた母さんのことも見てたんだから」
あの日喧嘩別れして以来、こんな冗談交じりの会話も果たしてこられなかった親子なのだ。
我が子への罪悪感の残る父、好きと嫌いが混ざった感情を複雑に父へ抱く息子。
幼子と父の関係であった時のような、純真な語らいが出来る今ではないけれど、それもまた成長した少年と老いを進める男親の現在。
不変のものはそうそう無い。そして、形を変えても変わらない何かもまた実在する。
「パールっていう子とどうなんだ?
長い間一緒にいるんだ、思うところはあったりしないのか?」
「えー、あー……まぁ……」
下世話なことを聞けるのも、隔たりを経て、それが過去になった証だろう。
憎くもあったけど、機を得てこうして自ら再会に赴いたプラチナが、雪解けを実感できるのも、きっと感化させてくれた彼女のおかげ。
ここへ帰ってくる時間を指定し、父をここへ呼び戻してくれたのであろう博士への感謝を胸に抱きつつ、プラチナの心の中心にあるのは博士ではない。
長い旅の中、自分一人では見られなかったものを見せてくれた最愛の親友の姿が、目を閉じずして瞼の裏に蘇らせずにはいられない。
それだけ、彼女が自分の心をいっぱいにしてくれる人物であることを、プラチナははっきりと自覚済だ。
「…………そのうち、父さんと母さんにちゃんと紹介したいと思ってる。
今はまだそんなじゃないけど……そうなりたいって強く思ってるからさ」
あらびっくり。想像以上に。
お父さん、別の意味で言葉に詰まっていらっしゃる。頬を赤く染めて目を逸らす息子、これもまた初めて見る我が子の姿。
冗談半分で尋ねてみたらうちの息子、完全に心を射抜かれているじゃないの。
「そ、そうかそうか……そうかぁ、そうなのか……
それは、楽しみだな……研究に手がつかなくなりそうだ……」
「あっ、念の為言っておくけど余計なことしないでよ!?
僕これもしも父さんが余計な茶々入れて上手くいかなかったら、マジで親でも顔面ぶん殴るからね!!
父さん案外目的のためなら妙にアグレッシブなとこあるんだから!」
「わ、わかってるわかってる……
ううぅむ……これは面白いな……」
「なに笑ってんだよっ!
言っとくけど母さんとかにも絶対言うなよ!」
秘密が出来てしまった。男親と息子の、門外不出の特大秘。
あれだけいがみ合っていたのに、ちょっと心を許しかけたら、つい言わずともいいことが口をついて出てしまったことを、プラチナは早々に悔いている。
もしかしたら、もしかすればだが、男同士だからこそ話せた内容であるのかもしれない。
こんなこと、関係が何ら悪化していない母にさえ明かしていないのに、ここでは父にうっかり明かしてしまったのだから。
親子というものはやはり特別だ。
美しい親子愛、なんて世の中で綺麗な言葉で語られるものとは異なる、べたついたものが両者間に生じることもあろう。
それでも赤の他人同士ではそうそうあり得ないようなことが起こるのも、特別な絆の為せる業。
長年連れ添った親友との間にのみ生じるようなものが、少なくとも長年共にしていた過去があるからこそ、はじめからあるという点でもやはり特別なのだ。
きっとこれから、プラチナと父は今とは違う形の関係を、共に年を重ねるに連れて繰り返していくのだろう。
それもまた、親子だけの為せる業だ。単に血が繋がっているからではない。
幼少の頃確かに父の生き様に敬意を抱いた少年と、成長した我が子に感慨を抱く父であるからこそ、一人と一人の縁が続いていく。
ただの、普通の人間関係のように。特別なようで普遍。
親子というのはそうなり得る要素が少しばかり多い、というだけだ。ゆえに特別と言うなら、それもまた見方の一つである。
「大丈夫? ニャムちー。
我慢してね?」
「~~~~……」
テンガン山の南部脇、ヨスガシティの南かつ212番道路の西にあたる森の中。
人目につかぬ自然界の中を潜り抜け、マーズは今も指名手配犯を追う手の届きにくい、鬱蒼とした森の中に隠遁していた。
ギンガ団が解散となり、目指すべきものが一度無くなり、重い罪科だけが残る今。
ギンガ団としての正装を脱ぎ捨て、パールとリッシ湖畔で出会った時のような、黒のレザージャケットを着こなすカジュアルな出で立ちである。
ギンガ団に与することで叶えたかった夢は、とうとう果たせぬまま終わってしまったが、マーズは決して心を折ってはいなかった。
自分が何を叶えたかったか、その初心は今も胸の中にある。
街を歩くことも出来なくなり、たとえかつてよりもそれが叶え難くなった今でも、やはりそれは諦められないのだ。
最愛のパートナーであるブニャットの頬に、昨日も、一昨日もしたように、選び抜いた野草から作った、ポケモンの傷に効く薬めいたものを塗っている。
「まだ撫でちゃ駄目かな……
腫れてるもんね……」
「~~~~、~~~~~~♪」
「……いいの?」
「~~~~~~♪」
犯罪者となってしまったマーズはもう、ポケモンセンターのお世話になることも出来ない。
テンガン山にてダイヤのゴウカザルと、顔の形がひしゃげるほどの死闘を繰り広げたブニャットの傷は、今も完治していない。
ポケモンセンターに一日預ければ、綺麗になるはずの身体なのに。
それが出来ないマーズはこうして、山々を抜ける中で得たものを活用し、相棒の傷を独力で癒してあげることしか出来ないのだ。
元々マーズはギンガ団幹部の責を任せられた時から、いつかはこんな日が来ることは想定していた。サターンにもそう言われてきた。
だから彼女は、発電所の一件の後からもそうであったように、ポケモンセンターを頼らぬ形で自分のポケモン達を癒してきている。
シンオウ各地のオレンの実やオボンの実が生る木は殆ど正確に把握しているし、いま頬に塗っている野草から作った軟膏もお手製だ。
元々ポケモン達は、多くは元を辿れば野生の身。穏やかな日々を送る限りでは高い自己治癒能力がある。
いかに負傷しようが余程重篤な怪我、たとえば肉体の一部の欠損でもしない限り、ポケモンセンターの利用が不可欠な肉体ではないのだ。
それでも頬骨が砕け、顔の形が変わるほど打ちのめされたブニャットは、あれから何日か経った今でもその顔に痛々しさが残っている。
触られれば痛いはずだ。なのに座り込んだ自分の太腿に頬を擦り寄せ、撫でて撫でてとアピールする姿はいじらしい。
あなたにだったら、撫でられて多少痛くたって嬉しい気持ちの方が勝っちゃうよ、という姿にマーズも胸がじくじくする。
「……ゆっくり、撫でるからね」
「っ、っ――――
~~~~~~……♪」
やはり、どんなにそっと触れたって、ブニャットはまぶたを震わせて、隠しきれなかった痛みが表情に垣間見えてしまう。
それを隠すようにマーズを見上げ、平気な顔を作って、もっと撫でてと訴える姿は痛々しくもあり愛おしい。
敵対する者達には荒っぽい声を投げ付けてきたマーズだが、ブニャットを壊さないよう撫でるその表情は、穏やかかつ慈しみに溢れていた。
わざわざもう、口にはしないけれど。
たくさん、たくさん無茶をさせてきたことを、敢えて謝ることはしないけれど。
自分の積み重ねてきた業が、傷跡に痛む相棒を一日でも早く救うことが出来ないことに、言いようもない胸の痛みを覚えるけれど。
言葉にすることはもう出来ない。謝るぐらいなら最初からしてはいけない、そう誹られるに値することをやってきたのだから。
「ニャムちー、行こっか」
「――――♪」
鬱蒼とした暗い森を、マーズはブニャットと共に歩き始める。
傷跡の残るブニャットだが、それでもそんじょそこらの野生ポケモンに後れを取るような実力ではない。
むしろ高い実力とその風格が、縄張りに入ってきた人間を追い返そうとする野生ポケモンにすら、恐れを抱かせ退けるほどのものでさえある。
元々マーズは指名手配されてからがやや長く、シンオウ各地の人里離れを渡り歩き、隠遁してきた身分である。
この辺りに来たのは初めてではないし、かつてここで自分達を襲撃してきた野生ポケモンも、ブニャットとともに撃退してきた実績がある。
いわばこのブニャットは、シンオウ各地の野生ポケモン達に対してある程度、顔を利かせられるだけのものがあるということだ。
彼女がそばにいる限り、野生ポケモン達も易々とはマーズを襲えない。
マーズがブニャットを外に出して歩くのは、何かあったらすぐ戦えるようにではなく、周囲への牽制の意図が強いのだ。
はっきり言って、ゴールドスプレーなんかよりも余程効果が高い。
「……あのね、ニャムちー」
「――――?」
「もし……もしもよ?
あたしが、昔別れたニャルマーと出会えても……
そりゃあ、上手く仲直り出来たら、もう一度抱きしめて、あたしと一緒に暮らして欲しいなって思うけど……」
マーズは歩きながら、ブニャットの方を向かず、まるで独り言のように語りかけていた。
はっきりとブニャットに向けての言葉でありながら、その気まずさめいたものから、相手の顔を見ることが出来ぬまま発する言。
何度か、このブニャットには言ってきたことでもある。
だけど、いま改めて強く念に押しておきたい、そんな気持ちが彼女にはある。
「……あなたや、ブルーや、バットンよりも、その子の方が好きだなんてことには、もう絶対にならない。
みんな、あたしの大切な子。ずっと、あたしのこと支えて続けてくれた。
だから、その……あたしのこと、薄情な奴だなんて、思わないでね……?」
マーズがギンガ団に入り、神の力を得んとした首領の夢に与してきたのは、空間を操る神の力により、叶えたいことがあったからだ。
幼い頃、初めてのポケモンであったニャルマーと、些細なことで喧嘩して。今にして思えば、本当に些細なことで。
言葉と鳴き声をぶつけ合い、反抗するニャルマーに引っかかれ、幼かったマーズは涙ながらにニャルマーのボールを、掴んだ石で何度も殴って壊してしまい。
あんたなんか嫌い、どこかに行ってと吐き捨てるように言って、ニャルマーは本当にどこかへ去ってしまい。
それ以来会えなくなったあの子に、もう一度会って謝りたいというのがマーズの大願だったのだ。
空間を操るパルキアの力でなら、世界のどことでも繋がれる。広い広い世界のどこにいるかもわからぬ彼女を探すには、それしか手段が無かったのだ。
大人になった今なら――いや、我が儘だった幼心でも、喧嘩した翌日には嫌というほどわかる。
自分があのニャルマーのボールを壊して訣別を表明した時の、あの子が見せた悲しそうな顔。
喧嘩の内容は本当に些細なものだったのだ。それが、あんなにエスカレートして、自分もすっかり引けなくなって。
あの子を失い、パパやママよりも大好きかもしれなかった親友がそばにいなくい翌朝、どんなに悔いたことだろう。
己の未熟さが生んだ人生最大の後悔の傷跡は、ギンガ団という夢を果たしてくれるかもしれない組織を前にした時、己の道を踏み誤るほど深く。
大人になっても尚、その幼さは残っている遠因と言っても過言ではない。
ギンガ団が解散した今、もうかつて目指した手段であのニャルマーを探すことは出来ないのに、未だ頼るすべも無いままにして夢を追うのを諦めぬほどに。
「~~~~♪」
「…………ありがとう、ニャムちー。
あなたのこと、信じてあげられないあたしでごめんね。
それでもあたし、あなた達に離れられたらもう、生きていけないからさ……」
マーズはきっと、他の誰より、あるいはパール以上にさえ、失うことに臆病だ。
ニャルマーと再会できたとて、思い出のそれとの絆を重んじて、ずっとそばにいてくれた三匹への愛情が薄まるような。
そんな人物だと誤解され、失望されることさえ耐えられない。
あのニャルマーへの未練を捨てられないのは事実だ。再会が果たせるなら、それは人生最大の目標を達成できた究極的な幸福だろう。
だけど、仮にそれが果たされたって、ヘルガーやゴルバット、ブニャットとの縁だけは絶対に手放したくない。
あの日、大切だったはずのニャルマーと離れ離れになり、もう会えなくなってしまった悲しみにはもう耐え難いのだ。想像するだけで泣きそうになる。
見放されることだけは絶対にしないで、あたしから離れていかないでと切望するその弱さは、きっとパールのそれ以上のものに相違ない。
「あなたが、あなた達があたしの一番だよ。
これからも、絶対、ずっと……」
「…………!
――――――――z!!」
「え?」
重ね重ね伝えるマーズに、ブニャットは微笑みの顔を向けるのみで、わかってるよとその愛情に応えるばかりだった。
だが、マーズの言葉半ばの中で、ブニャットが前方を睨みつけて荒っぽい声を発した。
これは、敵対者がそこにいると感じ取ったブニャットの態度だ。
野生のポケモンが迫っているのだろうか。
ブニャットの態度を見て、マーズはすぐにヘルガーのボールをその手に持つ。
周囲への牽制にブニャットを出しているだけであって、未だ重い傷が残るブニャットにバトルをさせることをマーズは選ばない。
ポケモンバトルじゃあるまいし、対野生ポケモンでは二匹以上のポケモンを出すこともマーズは厭わないのだ。
『大丈夫だよ。
ちょっとは怒ってるけど、もう怒ってないから』
「エムリット……!
あんた、どうしてここに……!?」
テンガン山に神が顕現したあの日、神々が再び自らの世界へと還っていくと、三湖の精らも姿を消していた。
論ずるまでもなく、故郷である各々の湖に帰っていったのだろうと、誰とて容易に想像できたはずだ。
現に、誰も確かめていないことではあるが、既にユクシーはエイチ湖に、アグノムはリッシ湖に帰り着いており、大変だった数日間の疲れを癒している。
エムリットだけが誰しもの予想に反し、未だ故郷のシンジ湖に帰ることをせず、こうしてシンオウ地方を飛び回っている。
そしてマーズは今、あの日以降でエムリットを目にした最初の人物となっている。
『あなたの感情、伝わってくるよ。
離れ離れになることが怖い、嫌われることが怖いんだね。
それだけ、あなたに寄り添ってくれるみんなのことが大好きなんだね』
「…………」
『良くないよ、誰かを同じように追い詰めるのは。
あなた達の行いは、大切な誰かと離れ離れになってしまう恐ろしさを、今のあなた以上に誰かにもたらしていたよ。
大切なひとと離れ離れになる恐ろしさを知っているなら、そんなことはしちゃいけなかったんだよ』
ぞく、とマーズの背筋が凍り付く。
わかっていたけど、意識して向き合うことが出来なかった罪だ。
マーズがパールの性格を利用し、サターンという彼女を葬らんとする悪魔の棲むアジトへ誘い込んだ策謀は、彼女をどれほどの恐怖に陥れたか。
恐るべき大願を果たさんとするギンガ団を止めるため、立ち向かって来たダイヤとの死闘の中、相手はどんな顔をして戦っていただろう。
パールはパッチの命が喪われる寸前を目の当たりにして一度は絶望し、ダイヤもまたゴウカザルが命を賭して戦う姿に震えていたではないか。
見放される恐怖どころか、二度と生きた瞳と向き合うことすら叶わなくなる、恐怖と呼ぶでは足らぬほどの悲壮と絶望感。
今の自分が恐れているもの以上のものを、年端もいかぬ子供達に強いた己の罪深さは、今のマーズが思い返せば一瞬で冷や汗が溢れ出るほど重い。
「…………私の、大切なものを奪っていくつもりなの?」
『そんなことしない。
あなたを悲しませても、誰も喜ばない。
あなたの寝返るためだけに、心魂を懸けて戦った無辜の純粋な勇士たちを苦しめることで、あなたの罪を贖うなんて間違ってる』
大人は聡い。良くも悪くも。
罪に連想するものは罰。己の罪とは、誰かの大切なものを踏みにじってでも、自らの叶えんとしたものを身勝手に追い続けてきたこと。
それに対する最も厳正な罰とは、奪わんとしてきたものの重みとその痛みを知らしめるため、己の大事なものを奪われることだと発想してやまない。
もっともそれは、いま最も自分にとって恐ろしき罰になるものが何なのか、迷わず答えられる心境ゆえのバイアスがかかった閃きでもあろう。
マーズはシンジ湖でジュピターとともに、エムリットへ直接手を下し、苦しみの牢獄たるギンガボールに捕らえた張本人だ。
偏に純粋な私怨による報復があったとて、何ら不思議ではない相手が目の前にいる。少なくとも、マーズにとってはそう見えた。
ブニャットを、ヘルガーを、ゴルバットを奪われる恐怖から逃れられないマーズは、エムリットが首を振っても身構えたまま力を抜くことが出来ない。
『あなたの大切な友達、本当に美しい心をしてるんだ。
あなたの力になりたい、そのためだったら何だってする。
感情も、意志も、戦うための知識も、すべてを懸けてそれを叶えようとする姿は何よりも美しい。
傷だらけの姿で、痛々しい身体を引きずっているなんて可哀想だよ』
「っ…………!?
ニャムちー、離れて! そいつに近付かせないで!」
ゆっくりとブニャットに近付いていくエムリットの行動が、最愛の友の命を刈り取らんとする死神に見えるほど、今のマーズは動転している。
だが、そんなマーズの意図とは裏腹、ブニャットは威嚇する眼さえエムリットに向けず、ふんと鼻を鳴らして"当たり前だ"と主張を返すのみ。
動かないブニャット。そして、ヘルガーのボールのスイッチを押したマーズの行動に反し、ヘルガーさえもボールから出てこない。
エムリットがブニャットに近付くにつれ、焦燥感に駆られるマーズはゴルバットのボールを掴み、そのスイッチを押すも結果は同じである。
『私、神様によく言われるんだ。お前は人間みたいだなって。
感情が強いからなのかな。同胞らしくないかもな、なんて冗談半分で言われちゃったりもするよ。
確かに私は、あなたの友達とはちょっと違うかもしれないね』
「やめて……っ!」
『あなたの友達は純真だ。
本当に、大切な誰かのためなら、命さえ惜しまないほど。
……あなたが、その子達の道を誤らせちゃいけないよ』
両手でエムリットがブニャットの額に触れるのと、たまらず駆け寄ったマーズがエムリットに手を伸ばしたのはほぼ同時だった。
だが、エムリットの力がマーズに自らへ触れさせず、薄皮一枚のところでエムリットに触れていない感覚をマーズにもわからせる。
数々の悪行の報いとして今、大切なブニャットを奪われるのではないかと戦慄するマーズの表情は、これまでの生涯でも最もとさえ言えるほど迫真だった。
『………………もう、間違えちゃ駄目だよ。
あなたの幸せを願っているこの子達の想いに、これからは応えていってあげてね。
誰かを幸せにすることでしか贖えない罪というものは、必ずあるはずなんだから』
エムリットの身体が優しい光を発し、ブニャットの全身も同じ色の光に包まれる。
恐怖に胸を掴まれていたマーズでさえ、その光に敵意や殺意が無いことは感じ取れて、それこそに動揺し。
間もなくして光が消えたその後に、エムリットはよれよれと疲れ気味の浮遊とともにブニャットから離れる。
「~~~~~~~~♪」
「にゃ、ニャムちー……?」
『幸せにね。そして、健やかに。
どれだけあなたが積み深くたって、あなたのことを一途に愛したみんなには、幸せにならなきゃいけない命運が待っている。
苦難に対し、痛みを伴い戦うことで立ち向かう日があったって構わない。
だけど――』
そこには、エムリットの"いやしのねがい"により、まるまると可愛らしい形の顔に戻ったブニャットの姿があり、もう痛くないと喜ぶ表情があった。
対するエムリットは、己の力の多くを注ぎ込んだことによる疲労で、ただでさえ瞼の重い目がいっそうに細くなり、両手と尾もだらりと下げている。
復讐心さえ抱いてもおかしくない相手に対し、只ならぬものを与えて微笑むエムリットの姿には、マーズも信じられないものを見た表情だ。
『今度こそ、大切にしてあげるんだよ。
あなたの幸せが、この子達の幸せだ』
「――――、――――――♪」
そう言い残すかのように、空高くへと昇っていくエムリットに、ブニャットは感謝なのか惜別なのか、友好的な声を発して見送るのみ。
エムリットに敵意が無いことを理解し、マーズに呼ばれても出てこなかったヘルガーやゴルバットも同様だ。
何一つ危害を加えられなかったどころか、癒されたことに言葉もないマーズだけが、ただ茫然とその姿を見送るのみだった。
静かな森の中。
戦い抜いたあの日の傷から言え、綺麗で愛くるしい顔に戻ったブニャットを再び前にして、マーズは喪わずに済んだ実感がようやく沸いてきた。
それだけで、ちょっと目が潤みそうになったほどだ。それだけ、エムリットを前にしただけで追い詰められた。パニック状態に近い。
友達の前で涙を見せたくなくて、目をしぱしぱさせて耐えるその挙動は、幼い頃より大人になってからの方が多くなるそれそのものか。
「ニャムち……」
『ヒカリ』
語りかけようとした言葉を遮られるかのように、マーズの脳裏に響いた声。
発しようとしていた続き、大丈夫なの? という言葉は、その入り口に達する前に封じられる。
今、はっきりと聞こえた声の主が、誰のものであるのかが直感的にわかってしまうからだ。
パールが幾度か経験したものと同じ体験。初めて聞く誰かの声、だけどその声から溢れる想いにより、何者の感情の賜物であるかが知れる事象。
そして目の前のブニャットが、マーズという今はもう捨てたコードネームではなく、親から貰った無二の名を呼んだことがいっそう言葉を失わせる。
『もう一度、ニャルちーって呼んでよ。
ずっとニャムちーって呼んで貰って、今は愛着もこっちの方が強いけど……
たまには、そう呼んで欲しいなって思うこともあるんだ』
そしてその次に続いた、照れ臭い表情で感情を伝えるブニャットの心からの言葉が、今度こそ真の意味でマーズを絶句させた。
去り際にエムリットが残していった、己の力で為せる最大のギフト。
感情を司る神として、その感情を種族の垣根も超えて伝え合わせられる、本来ならば人に関わり過ぎて濫用すべきではないと戒めてすらいる力だ。
意図せぬ残滓を残してしまい、同様の現象を起こしたテンガン山の事象や、切実な助けを求めてパールに頭痛を伴わせてでも声を届けた時とは違う。
自分を傷つけたマーズ達にさえ、その力が何らかの救いを与えられるならと律すべき力をもたらすほどには、確かにエムリットは人間的なのだろうか。
こんなに、近くに。
空間を隔てた遥か彼方を求めるまでもなく、すぐそばに。
人とポケモンは、どうやったって共通の言語では語り合えない。
そうでなければ避けられた悲運は、きっとこの世にいくつだってある。
『謝ってくれなくていい。
私はもう、あなたに、いっぱい、いっぱい大事にして貰ってきたよ。
初めて会った時から離れ離れになる時まで、ずっと。
もう一度出会えた後から、今まで、ずっと、ずっと』
「う…………うそ、だぁ…………
そんなこと……そんな、こと……あたしに、起こるわけ……」
『私はあなたに、二回も長く大切にして貰えてきたんだよ。
あなたのこと、大好き。小さかった時よりも、ずっと好き。
あなたに触れてもらえることが、私の幸せでずっと変わらないよ』
もう駄目だ。大人になっても耐えられないものは必ずある。
溢れ出るものを抑えられない中、マーズはこのブニャットと出会ったあの日のことを思い出す。
今度はあのニャルマーのように冷たく突き放すことは絶対にしないと心に誓い、新たなパートナーとしてズバットを捕まえて。
まだまだ未熟だった頃のあの子と共に旅をしていた中、野生のブニャットに遭遇して。
勝てない相手だと感じて逃げて。何よりも、悲しき記憶が蘇るニャルマーの進化した姿を、目にすることさえ忌避するように。
そのブニャットは追って来た。マーズがどこまで逃げても、ずっと、ずっと。
しつこく獰猛なブニャットのようだとしか思わなかった。街に逃げ込んでも追いかけてきた。
当時は罪一つ犯していない若きトレーナーだった彼女の窮地を、街の人々がブニャットを追い払ってくれて。
だけど翌日、街を出ればしつこく自分を見つけて追いかけてくるブニャットの姿は、当時のマーズにとってたまらなく厄介な存在だった。
ボールを壊され野生化し、ブニャットに進化した強き姿で。
かつての友達と再会し、もう離れ離れになってたまるかと、ずっと必死で追いかけてくれていただなんて想像もしないじゃないか。
あまりにもしつこくて、とうとう腹を括ってズバットで抗戦した時、まだまだ未熟なはずのズバットでいい勝負が出来たことが確かに不思議ではあったけど。
どれだけ傷ついて毒に侵されても逃げず、しつこく食らいつく姿はただの執念深い狩猟者にしか見えなかったのだもの。
根負けして、無力化するために、ボールで捕らえて手持ちにしたけれど。
思い返せば、初めて仲間にしたあの日から、普通の野生のポケモンよりはずっと懐っこい子だった理由に気付くべきだった。
そんな奇跡が起こるはずがないと、決めつけてしまったのが運の尽きだったのだろう。自然な発想が生み出した、ごくごくありふれたすれ違い。
『ブルーだって、バットンだって、あなたのこと大好きだよ。
でも、あいつらにだって絶対負けないし、譲らない。
私が一番、世界で一番、ヒカリのことが大好きなんだからね』
「にゃ……………………ニャル、ちー…………?」
『……んふふっ。
なんだか、子供扱いされるみたいでちょっと恥ずかしいね。
やっぱり、これからもニャムちーでいいかも』
にゃぁぁ、と鳴くブニャットの嬉しそうな声が、今はあの頃何度も聞いたあの声と同じように聞こえる。
進化して、鳴き声も変わったのに。
それはまるで、かつての旧友と再会すれば、互いに年老いた顔でありながらかつての顔に戻ってくる不思議な感覚のように。
今すぐに抱きしめたい衝動さえ、両膝をついてその両手で目を覆うヒカリはもう、最愛の親友に手を伸ばすことさえ叶わない。
「あっ…………あ、ぅ………………
あああ、っ…………うあ、ぁぁ……っ……」
なんて、馬鹿だったんだろう。
あの日の私も。これまでの私も。今の私も。
ずっと追い求めていた夢は既に手の中にあったのに、過ちだらけの人生を歩んできた愚かしさはもはや、言葉で表せる領域を超えている。
だから、エムリットは伝えたのだ。
純真で無辜たる、最も大切な誰かを幸せにすることが、あなたが果たせる最大の贖罪。
簡単なようでいて、今の彼女にはあまりにも重い。
一生ぶんのその悔いと、犯してきた社会的な罪が彼女を追い続ける今後を含め、それこそがきっと間違いなく、罪深き彼女には最大の十字架だ。
『ヒカリ、大丈夫だよ。
私達が、あなたがまた心から笑えるぐらい幸せにしてみせる。
それを叶えることが私達にとっても、一番の幸せなんだからね』
「あああぁ~~~~っ…………!
あぅっ、えぐっ……ああぅぅぅ……っ……!
うああぁぁぁ~~~~~っ……あ~っ、あぁ~~~っ……!」
犯してきた罪はあまりにも重く、いま彼女が感じている以上の報いもまた、その身に降りかかる日が必ず訪れるのだろう。
それだけのことをしてきたのだ。そんなことを、積み重ねてきたのだ。
どんな者とて罪を犯すことはある。それでも救いはあって良いという一般論は確かに存在し、決してそれは単なる甘さと切り捨てられたものではない。
たとえかすかな救いがもたらされたとて、贖い果たされていない罪に対する報いがやがて身を焼くという不文律もまた、真理であり覆らない。
幼き彼女が一度の過ちで親友と離れ離れになり、この日まで真の再会を果たせなかったように。
過去は絶対に無きものには出来ず、それに連なる形で今と未来が作られていくのだから。
罪深き者への救いとは、顧みぬことすら出来ぬようになった愚者に、この美しき世界を穢したという真なる業を顧みらせるための残酷な優しさであるべきだ。
心からの愛を説いてくれる親友の想いは、きっとそれに値するもので、己の罪から逃げ続けるだけであったマーズをゼロに引き戻している。
ヒカリは間違いなく幸せなのだ。きっと、世界中の誰にも劣らぬほど。
彼女をこの美しき世界に真の意味で引き戻してくれたのが、十数年も愛し続けた、二人であると同時に一人の親友であったのだから。
「――それじゃあ、いってきます!」
「ええ、いってらっしゃい。
今度はもう、あんな危ないことはしちゃ駄目だからね!」
朝を迎えたフタバタウン。
誇張無く世界を救った少女は今、決してそうとは見えぬような、ただの女の子の姿で元気いっぱいに我が家を出発していた。
釘を刺され、ちょっと気まずそうにへへへと笑って、逃げるように小走りで家から離れていき。
そんな愛娘を見送る母もまた、確約しきれぬ我が子のやんちゃぶりに苦笑いを浮かべるばかり。
私も悪いんだろうなぁと。育て方を間違えたんだろうなと。親の心子知らずとはこのことなり。
パールは再び、チャンピオンとなるために旅をすることを選んだ。
元は顔も知らぬ命の恩人に、自分を見つけて貰うために、シンオウ地方一番の有名人になることを目的に始めた旅。
その人とはもう出会えた。決してかつて夢描いた形とは異なったものだったけれど、叶え果たすことは出来たと言えよう。
それでチャンピオンを目指す旅の目的が失われてしまったのかと言えば、それもまた違う。
もちろん、せっかくバッジを7つも集めてきたんだし、ここでやめたら勿体ないだとか、そういう安直な考えでもない。無いこともないかもしれないが。
パールだって、自分の気持ちには気付いているのだ。
とっくの昔に、命の恩人に会うことを目指した旅そのものより、出会えたみんなと歩んだ日々の方が、自分にとってはずっと大切であったことを。
ピョコのことが、パッチのことが、ニルルのことが、ミーナのことが、ララのことが、プーカのことが、出会えたあの頃よりもずっとずっと好き。
そして、自分の目指す夢のために、みんなが心と体を尽くして戦い抜いてくれた、あの尊ぶべき姿は一生忘れられやしないのだ。
今なら信じられる。傲慢なようで口にすること自体は憚られるけれど、それが真実だと迷いなく信じられること。
自分が喜べば、みんなも喜んでくれる。そう信じさせてくれるのも、掛け替えのない6人だ。
昔からそうだったけど、パールはもうかつて以上に、6匹のポケモン達のことを"匹"という数詞で数えることなんて絶対に出来ない。
みんなは大切な友達だ。悪いけど、幼馴染で親友のダイヤより、幾度も助けられた恩人かつ親友のプラチナよりも好きだって言えちゃう。
人とポケモン、変えようのない隔たりは確実にある。関係ない。
みんなと一生一緒にいたい気持ちは、今もこれからもずっと変わるまい。
それだけだったら、別に旅を続けなくたって叶え続けていけるだろう。
だけど、みんなと一緒に何かを叶えて、喜びを分かち合うことの悦びを知ってしまったパールはもう、それを追いかけ続けずにはいられない。
ポケモントレーナーというものを目指すことを、そうあり続けることをやめられない最大の一因であろう。
パールのように、勝利を絶対視するならば他の選択肢があろうに、一生この6人を改めず勝負し続けていくタイプのトレーナーも。
勝敗にシビアな考え方を揺るがさず、状況に応じて自分が繰り出すポケモンに愛着というものを持ち込まず、手持ちを総替えすることを厭わぬトレーナーも。
すなわち勝利のためならば、何十匹のポケモンを、時間と労力を惜しまず丹念に育てる忍耐強い人物も。
ポケモン達とともに大きな成功を勝ち取ることは、それが大好きな人達にとって、何度経験したって忘れられず、慣れない。
大人も、子供も、一度好きになってしまったら最後、みんなポケットモンスター達のことが大好きであることは変えられまい。
パールもまた、そんな虫に刺された一人であるというだけの話である。
「ピョコ」
フタバタウンを出てすぐの所で足を止めたパールは、前に進むはずの脚を数秒に渡って滞らせ、空と、周囲を見渡していた。
左には、幾度となく訪れたシンジ湖。右には旅路の行く先であるマサゴタウン。
そして晴れた空を見上げても雲一つ無く、見つめても何も得るものの無きものをまるで感慨深く眺めた後、パールはピョコを声で呼んだのだ。
ボールに指をかけず、スイッチも押さぬ、出てきてと言われずとも求められる行動を理解し、彼女のそばに姿を表すピョコは流石ベストパートナーであろう。
地に降り立ったピョコのそば、自分の姿を見向きもせず、空を見上げるパールの姿がある。
彼女が何を思っているのかなんて、流石にピョコでもわからない。
だけど、彼女が何かを感じている空を、無言で見上げて同じ行動を共にする。
今すぐにはわからなくたって、彼女と同じものを共有したくて手探りで見つけようとするようにだ。
これだけパールに対して理解の深いピョコですら、もっともっと今よりパールのことを知ろうと努めるのだから、きっと誰も彼には敵わない。
お前の特別なひとにはなれないけど、なんてパールに伝えたピョコではあるが、とっくに彼は彼女にとって唯一無二の、世界で一番の特別だ。
「……………………」
「……………………」
「……なんだか、世界が変わっちゃったような気がするね。
きっと、元に戻っただけなのに」
パールの抽象的な言葉に、ピョコは明確な共感を以って頷いた。
分かり合え過ぎる二人である。世のポケモン博士がこの辺りのエピソードを聞けば、人とポケモンがそこまで理解し合えるものなのかと研究課題にさえしそう。
出会って一年にも満たぬ関係だというのに、二人とも無自覚でそうなんだからたいしたものである。きっと、ポケモン達が凄いのだ。
「でも……ピョコやみんなと私の関係は、ずっとずっと変わらないよね?
私、わからないこと沢山あるけど、これだけは何故か信じられるんだ」
「――――♪」
「えへへ……嬉しいな。
一緒にいられるだけで幸せって、ほんとに幸せだよね」
世界は一度、神の顕現とその力の猛威により、崩壊への道筋を辿りかけた。
あの日、テンガン山で戦い抜いた少女と、彼女を守らんと戦い抜いた6つの光が、壊れかけた世界が元の形へと戻る新たな未来を導いた。
その日まだパールのボールに収まっていなかったフワンテだって例外ではない。彼もまた、山の半ばでパールの命を救っている。
そうした経緯を経て、今のあるべき形を取り戻した世界は、決して作り変えられた新世界ではなく、あくまで元の形に戻っただけに過ぎない。確かにそう。
変わったものがあるとすれば、それはパールの心情の方だ。
失いかけた世界の貴さを、あの世界的な危機の中で誰よりも痛感した彼女だからこそ、変わらぬはずの美しきこの世界がいっそう輝かしく映る。
世界は決して変わっていない。どう捉えるか、その者の目次第でしかない。
この世界が美しいと思う者には煌めいて見えるであろうし、穢れたこの世界に変わって欲しいと望む者には、失望と共にいっそう淀んで見えよう。
一度壊れたものは、どんなに手を加えて完璧に元の形に戻しても、完全に元と同じものに戻ったとは決して言い難いものだ。
世界は再生されたのではなく再誕したのだと、理屈ではなく感覚で感じ取るパールとピョコの所感はきっと、時が経つにつれ深まっていくことだろう。
憧れの人を追うための旅から、そんなことよりもずっと大切になっていた、掛け替えのない友達と歩む旅そのものを望む前進。
数奇な縁がテンガン山で収束した、パールの心境の変化の契機とも言えよう出来事が、世界が滅びるかどうかの転機で訪れたことによる影響は否定できない。
幼い少女が哲学じみた、世界再誕という真理を感じ取らずにはいられない今に至るまでに、それだけのものがあったのは確かだろう。
縁や出会いがもたらすものの大きさは、元より語るべくもないことだ。
パールとアカギの、パールとプラチナの、そしてパールとピョコ達6人との出会いと繋がりを、引き合いに出すまでもないことである。
「――行こう、ピョコ。
これからも、ずっと一緒だよ」
「――――♪
……………………?」
「はわっ?」
歩み出すためのきっかけの言葉を発し、パールがマサゴタウンへの歩みを始めた矢先。
ピョコがパールのスカートをくわえて引っ張り、パールの足を止めてしまう。
低い位置からそれをされると、スカートが下に引っ張られて脱げそうな感覚に襲われる。パールが思わずお尻を押さえる手の動きは非常に速かった。
誰も周りにいないし誰も見てないとて、それは流石にパールも御免である。
「ど、どしたの?
今のは結構やめて欲しい系なんだけど」
「――――――、――――」
「え、なに…………へあ!?」
「ゔっ……!
くそっ、つくづく邪魔だわあの子……!」
あっちあっち、とピョコが首を動かして、自分が見つけてしまったものをパールに教えた。
パールがそちらを見て目を凝らすと、木陰に隠れた紫色の髪の女性を見つけてしまった。変な声も出た。
そりゃそうだ。ギンガ団幹部のコスチュームを脱ぎ捨てた私服姿とはいえ、あの顔だけは流石に忘れようもない。
指名手配犯のジュピターさんは、パールに見つかるや否や、舌打ちして木々の奥まで隠れてそのまま逃げ去っていった。
「あいつぅ~……!
今度は何を企んでるんだっ……!」
「――――、――――――」
「まあ、確かにそんな悪意のありそうな顔はしてなかったけど……
ちくしょう見つかった的な顔はしてたけど、どちらかといえば気まずそうな感じな顔だったし……」
流石に怨敵を目にすればパールも番犬の目になるが、ピョコが冷静に首をかしげて発する声に、確かにそうだねとばかりに冷静さを取り戻す。
言語もわからないのに普通に会話している風である。どこまでこの二人は。
お母さんもいる故郷フタバタウンのそばに、あの極悪人が出没したことにもっと色々熱くなってもいい場面なのに、ピョコとのやり取り一つでこうなのだから。
ポケッチに指をかけ、警察に連絡すべきだという行動を当然に叶えかけながら、その指が止まる程度にはジュピターの態度を冷静に見極めている。
「……あれ、たぶん悪いことを考えてる顔じゃなかったよね?」
「――――」
「じゃあ、まあ気にしなくていっか」
あれほどぶつかり合った悪人を、こんな場所で見かけて尚、このクールな対応はなかなかのもの。
ピョコと一緒に、何事もなかったかのように、マサゴタウンに向けて前進だ。
良くも悪くも、修羅場をいくつもくぐり抜けて、11歳とは思えないほど肝が太くなってしまっているようである。
幼くて、感情的になるところや子供っぽさは、ごく普通の等身大の子供として残るパールだが、この一点に関してのみは、同い年の誰よりも卓越していそう。
彼女自身、いつ思い返してもあの頃のような日々はもう懲り懲りと言うであろうが、その経験が彼女をここまで大きくしたのは皮肉としか。
世界は変わっていない。元の形を取り戻した。
それでもやはり、あの日以前の全く同じ形ではないのだろう。
なぜなら根本的にパールとて、この世界を彩る一人であり世界の一部なのだから。
一皮も二皮も剥けてしまった今の幼き少女の、大世界の一部での小さな挙動ですら、世界が変わったことへの
故郷は不変ではない。時と共に必ず形を変え、それでいてかつ、なお変わらぬものであり続けるかのように人々の心に残り続ける。
変わっていくのは人の方だ。世界は常に、生まれ変わり続ける。
それが連綿と連なるこの世界が、当たり前のように在り続けていてくれるからこそ、人々は、我々は、思い馳せるという特権を無条件に授けられる。
それだけで、この世界の尊さは語れるというものだ。
「……やっぱ通報はしとこ。
あの人、指名手配犯だし」
しばしマサゴタウンへの道を歩みながら、パールはふとしてポケッチを操作して、フタバタウンの警察へお電話する。
ま、そうだよな、とくつくつ笑うピョコは、何にも追い詰められず、普通のことを普通にやるだけの親友に寄り添い歩けること自体が、何よりも幸せだった。