ポケットモンスター・パールストーリー   作:ましゅ

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最終話    誰も想像できなかったその先へ

 

 

 ついに、その日は訪れた。

 あるいは、誰も、当人ですら、本当にこんな日が訪れるだなんて、心の底では信じられないような日。

 幼くしてフタバタウンを旅立った少女が、一年も経たずして並み居る強豪を打ち破ってきた末、シンオウ地方の最高峰に挑まんとするその時だ。

 間もなく運命の試合が始まるというまさに今、彼女がどのような心境であるかなど、きっと彼女自身にしか計り知れぬものであろう。

 

「緊張してる?」

「流石に、ちょっと……

 でも、自分が思ってたよりは緊張してない気がする」

「うん、なんだかそう見えるよ。

 パールのことだから、もっとガチガチになってないかって心配だったんだけど」

「うるさいぞー」

 

 数分後のチャンピオンとの試合を控える、挑戦者の控室。

 本日の主役の一人であるパールと、その関係者だけが入れる部屋だ。

 もっとも、関係者とは何ぞやと言えば、パールが事前に名を挙げておいた人であればいいというだけ。

 だから、プラチナは今この部屋にいる。パールと二人きりだ。

 小さな丸椅子に座り、膝の上に鞄を乗せたパールの前に、しゃがむようにしたプラチナが彼女を見上げる形を作っている。

 

「試合前にお母さんと少し話したりしなくていいの?

 なんだったら、まだ時間はあるし呼んでくるよ?」

「ううん、大丈夫。

 それにお母さん、もうとっくに観客席にいるみたいだし。

 私の晴れ姿を観るんだから、一番いい席から一歩も動きたくないって言ってくれたしさ」

「……そっか。

 いいお母さんだね」

「うん、ずっとそう思ってる」

 

 大舞台を控えた愛娘に、直前で触れ合い、かけたい言葉があってもいいものだ。

 だけど、パールの舞台はパールのもの。すべて、彼女が勝ち取ってきたものの果てにある聖域だ。

 一度里帰りしてくれたパールと、話したいことは既に沢山話してきている。

 身内として普通のことのようでありながら、人によっては案外難しいことのはずだ。

 今やほんの僅かも邪魔にならないよう、きちんとそれを選んでくれている母の心遣いを、パールはしっかり理解できているようだ。

 

「プラッチ、応援してくれるよね」

「おかしなこと聞くねぇ。

 当たり前だよ、って答えるに決まってるじゃんか」

「どれぐらい応援してくれる?」

「え? うーん、そうだな……

 今までで一番、なのは間違いないんだけど……」

「もっともっと!

 それよりもっと、凄く応援するよって言葉ちょうだい」

「難しいこと聞いてくるなぁ……

 んん~……」

 

 面倒なことを強いてくる親友だが、考え得る限りの最高のエールを、というのが求められている自分、という状況だから全然悪い気はしない。

 むしろ、やはり隠せない緊張感で強張りを含む表情の中、ぜひぜひとプラチナに勇気を求めるパールの眼差しが、少年を頑張らせてくれる。

 格好つけてあげたくなるじゃないか。大好きな親友のために。

 

「……今までで一番、じゃないな。

 これからの人生もずっと含めて、僕の人生の中で、一番、誰かを応援する気持ちを全部今日振り絞るよ。

 勝ってくれなきゃ嫌だよ?」

「プレッシャーかけてきた!

 それって私が求めるものじゃない! ひどいっ!」

「負けても別に何かを失うわけじゃないんだよ?

 たとえ負けたって、また挑めばいいんだ。

 パールだったら、必ず二度目のチャンスだって掴めるはずだよ」

「むぅ~、それはそうだけどさ~……」

 

「でも、今日が一番勝ちたい日でしょ?

 次があったとしても、その次の時に必ず勝てるとしても。

 ダイヤから勝ち取った挑戦権で、あのシロナさんに勝って、フタバタウンの私達はこんなに凄いんだってパールはみんなに見せつけたいはずだよ」

「……あれ、ちょっとびっくりした。

 私がこっそり思ってたこと、なんでプラッチわかるかな」

「自分が負けたら、ダイヤまでシロナさんに負けたような気がして嫌なんでしょ?

 わかるよ、パールはダイヤのことも、よく喧嘩するけど結構尊敬してるよね。

 自分が勝つことで、ダイヤだって凄かったんだぞって証明したがってる。でしょ?」

「絶対ダイヤには内緒だよ。

 あいつ調子乗るから」

「わかってるよ、そんなことになったらまたパールが怪獣になっちゃうし」

「誰がまたギャラドスかっ!」

 

 気付けば、いつものような気兼ねない会話に。

 チャンピオンに初めて挑むという、人生一度の大舞台を前にして、それには似つかわしくないほどの普通の時間。

 それが急に可笑しくなって、パールは丸めた手で口元を隠してくすくす笑わずにいられなかった。

 不思議、あんなに内心ではかちこちだったのに、プラッチとお話ししているだけで、堅くなっていた身体も心も融けていくようで。

 何度も、何度も助けてくれた親友が、今もまだこうして支えでいてくれることに、パールの胸はじんわりと熱くなるばかりだ。

 

「信じてみなよ、パールのそばで、一番近くで、ずっとずっと寄り添い続けてくれたみんなのこと。

 僕、本気でピョコのこと、パッチのこと、ニルルやミーナやララやプーカのこと、世界で一番強い6ぴ……6人だと思ってるよ」

「……プラッチは、いつだって私にとって、一番嬉しい言葉をくれるよね」

「だって、僕は一番近くで見てきたよ。

 そばで見ることが出来なかったことも含めたらもっとだ。

 パールが望んだ勝利を、本当に叶えることが困難な成功を、何度も、何度だってもたらしきてくれたはずだよ。

 それを、パールが一番よく知ってるはずなんだから」

 

 大人達とのポケモンバトルに何度も勝ってきた。

 加減があったとはいえ、強い強いジムリーダーにも八度も勝ってきた。

 そして何より、プラチナの目の前ではない所でこそ、本当にパールのポケモン達は一番強かった。

 大好きなパールの命が、あるいはこの世界すら危ぶまれるそんな境地の中で、その血と魂を懸けて戦い抜いてくれた親友達。

 みんながそばにいてくれたからこそ、パールは今ここにいる。使い古されたその言い回しが、誇張無く、過言無く、迫真だ。

 

「ジムリーダーにも負けない。ギンガ団にも負けない。

 きっと、チャンピオンにだって負けないさ。

 ポケモンバトルの主役は、トレーナーじゃなくてポケモン達だ。

 パールは勝てるよ、みんながいるんだから。

 世界中の人がチャンピオンの方が強そうだって言っても、僕だけパールが、みんなが勝つって心から信じられるよ」

「…………あはっ、あはははっ……!

 そうだね……! 私の友達は、世界最強だもんね!」

「負けないさ。

 たとえ、シロナさんやそのポケモン達が相手でもね」

 

 みんなの入ったボールが眠る、鞄をぎゅっと両腕で抱きしめるパールは、プラチナの言葉をするりと信じた。

 パールのポケモン達は世界最強。たとえそれが事実でなくたって、今のパールにはそれを信じるに値する根拠が、記憶が、思い出がいくつもある。

 もう駄目だって何度思っただろう。心の底から死を覚悟したことだってある。

 その暗雲を、何度も打ち破ってくれたみんなのことを、ここに来て信じられない私だなんてそんなの絶対に嫌。

 

 いったい誰が、あんなに強いギンガ団幹部との、命を懸けた戦いで勝利を掴み取れる?

 いったい誰が、エムリットが奇跡を起こしてくれなかったら本当に命を落としていたほど、死さえ覚悟し誰かを守るためだけに戦い抜ける?

 いったい誰が、悲願のために本気を出したアカギに勝利することが出来る?

 いったい誰が、神の力にさえも抗う赤い鎖を手にしたアカギに、傷だらけの体でなお立ち向かうことが出来る?

 成し遂げてきた多くのことを、パールは自らの果たした快挙だと誇ったことなど一度も無い。

 果たしてくれたのは仲間達だ。出会えたことそのものが、私の人生で最大の幸福であったと、時が経つにつれてより強く想う一方となるであろう最高の友達。

 勝ちたいけれど、勝てるだろうか。当然誰もが大舞台の前で襲われるその不安はもう、仲間達の勇姿を回想したパールの心から晴らされている。

 

「見届けさせてよ、シンオウ地方史上最年少のチャンピオンの姿。

 間もなくそれが叶うんだ。僕、楽しみでしょうがないんだからさ」

「うん……!

 みんなとだもの、絶対に叶えてみせるからね!」

 

 立ち上がり、鞄の紐を肩にかけたパールが、共に立ち上がったプラチナの前に両手を差し出す。

 プラチナも両手を差し出して、彼女の二つの手を握るようにする。

 柔らかい、女の子の繊細な手。思春期の少年が、同い年の異性の手を握ることで感じる胸の鼓動も、今はこの場で全くの無縁。

 ぎゅっと手を握り返すようにしてくれるパールの手は、単なる女の子のそれではなく、ここまで辿り着いたポケモントレーナーの手だ。

 勝利を決意し、込めた手の力から伝わってくるものは、その柔らかさを意識させぬほど強い。

 勇気をもたらしてくれたプラチナに、感謝の感情が溢れ出んばかりの笑顔を向けてくるその表情にすら、ときめくよりも照れ臭さが勝つ。

 

 まったく別の意味で胸が高鳴るじゃないか。

 僕は、こんなにも強くって、これからもっと偉大な地位へと上り詰めていくであろう人と、今もう親友でいられるのだ。

 プラチナもまたこんな彼女と親友でいられる幸せを、今はただただ噛み締める。

 パールはピョコ達と友達でいられることが幸せだといつだって言うだろうけど、僕だって君に対してはそうなんだよっていつか伝えたいぐらいだ。

 大舞台を前にした親友に、自分の都合であるその言葉をぐっと呑み、プラチナは心から彼女の勝利を願う笑顔をただ浮かべるのみに努めていた。

 

「もしもし、ちょっといいかな」

 

「あれ? もうそんな時間……ちょっと、プラッチ何それ」

「いや別に」

 

 不意に控室の扉がノックされる。

 その瞬間、しゅばっとやたら素早くパールの手を放して一歩退がるプラチナ。

 誰か来た。具体的には四天王ゴヨウさんの声。

 想い人の手を握っていたプラチナは、この大事な戦前にイチャついていると、まかり間違っても誤解されたくなくて慌てたようである。

 そんな男の子の内心を知らぬパールは、やたら離れられてむっとするのだが。

 鈍感というより、流石にそこまで友人の垣根を越えた情念を抱かれているとは、今の彼女のメンタルコンディションで驕れないということなのだろう。

 

「少し早いが、そろそろ舞台に向かってみてくれないかな。

 準備が出来ていれば、でいいんだが」

「まだ時間がありそうですけど……何か、変わったことありました?」

「いや、まあ、ちょっとね。

 ゆっくりさせてあげるのが本来の筋だが、きっと後悔はしないと思うよ」

 

 基本的に、大舞台を前にした選手なんて、規定された時間以外に縛られるべきものなど何もない。

 それを踏まえた上で、ゴヨウはパールにお節介を焼いてくれているのが、なんとなくパールにもプラチナにも伝わった。

 真意はわからなくたって、人格者と信頼される大人の言うことには、二人はけっこう素直である。

 

「じゃあ、行こっかプラッチ。

 私はもう準備万端だよ。プラッチのおかげ!」

「そっか。じゃあ、行こう!」

 

 何かはわからずとも気を利かせてくれた気がするゴヨウに軽く会釈して、二人は控室から出発する。

 見送ったゴヨウは、やることも無いので控室の御片付けで暇を潰す。

 まあ、別に片付けるほどのこともないが。椅子を元の場所に戻したり、パールが食べていたお菓子の袋をゴミ箱に捨てる程度。

 僕も昔、当時のチャンピオンに挑む直前は、緊張で殆ど何もしなかったから控室が散らかるはずもなかったな、ということを思い出す。

 

「熱いね、あの二人。

 ……これは、本当にひょっとするかもしれないな」

 

 どうとでも解釈できる"熱い"だが、ゴヨウはその言葉を、予想だにしない何かが起こる直前の熱さという意図で発した。

 挑戦者となるほどの実力者であるパール。そして、きっと彼がいたからこそ、今はあれほど硬さの抜けた姿でいることも含めて。

 二人の関係をよく知らぬゴヨウでさえ、なんとなくわかる。

 あの二人は、二人で一つだ。子供は未熟、どうしても洗練された大人のトレーナーと比較して、何かが勝っても何かで劣りやすい。

 だが、今のパールの胸を張った後ろ姿は、まるでそのキャリアとは似ても似つかぬほど、堂々とした歴戦のトレーナーと見紛うほどのものがあった。

 幼いゆえにその精神は、仮に追い詰められてはその未熟さが際立つこともあろう。大舞台を前にした緊張、なんてのもその窮地を招くきっかけの一つ。

 彼女をそうさせたのがあの少年なのだとしたら、さながらパールは二人で一緒にバトルフィールドに立つかのような、並々ならぬアドバンテージが既にある。

 ゴヨウが感じる劇的瞬間の予感は、まさにそれが所以であると言っていい。

 

 もしもパールがシロナに勝てば、シンオウ史上最年少のチャンピオンの誕生だ。

 リアルタイムで、目の前で、そんな歴史的瞬間を見届けられることを、はじめから期待できる人は決してそう多くない。希望は出来てもだ。

 それが、期待できてしまう。シロナの強さを最もよく知る四天王であるからこそ、こんな想いを自分が抱くなんて、それこそ予想だにしなかったこと。

 本当に、世の中いつ、何が起こるものだかわからないものだ。

 試合の結末など無関係に、ゴヨウはそれを既に痛感するばかりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「パール!」

「えっ、スズナさん……!? ナタネさん……!」

「えへへ、来ちゃった!

 今日はジムもお休み! 観に来ないなんてあり得ないから!」

 

 敬礼するような手つきで冗談じみた仕草を見せつつ、参じた想いを発するナタネに、パールはいてもたってもいられず駆け寄って抱きついた。

 半ば飛び込む体当たり、それでもナタネは一歩もたじろがず、胸で受け止めて抱きしめ返す。

 この人草ポケモン好きでフィールドワークも結構してそうだし、何気に結構足腰強いなぁとプラチナは感じている。どうでもいいことだとわかりつつ。

 

「控室に来てくれてもよかったのに~。

 私、ナタネさんとスズナさんなら来てくれてもいいようちゃんと伝えてたんですよ~?」

「わざわざそんなとこまで行って、長々と伝えることなんてないわ。

 どうしても一回、顔だけは合わせたかったから待ってたけどね」

「まあ、簡単に言えば"がんばれ~"ってだけだけど」

 

 ナタネとスズナを前にして、パールはすっかり後輩の顔になっている。

 今だけチャンピオンシップ前であることさえ忘れてそう。大好きな人を急に目の前にしたらすぐこれだから。

 熱戦前の最後の安らぎと見え、プラチナも口を挟まない。

 ちらっちらっとプラチナの方を見てくるナタネとスズナ、あなた達二人きりの時間を邪魔する気はなかったのよ~、という目線にはわざわざ返事しない。

 あの二人、本当に尊敬できる人達なのはわかってるけど、あのいたずらっぽさだけはちょっとあしらうのが面倒というのがプラチナの私見である。

 

「え~っと……………………

 そうね! がんばれ! パール、勝っておいで!」

「ちょっとナタネ、もうちょっといい言葉用意してきてたんじゃないの?

 あたし、あなたの名演説聞きたかったんだけど」

「パールを目の前にしたら全部忘れちゃった!

 いいよね、パール! ここまで来たら多くはいらないもんね!」

「……はいっ!

 精一杯、頑張ってきます!」

 

「あたしも応援してるわよ!

 あたし達、シロナのことも好きだから、最初は複雑なとこもあったんだけどさ!

 それでも、やっぱりパールのこと応援するから!

 シロナには悪いけど、あなたの方が好きだもんね!」

「えへへっ、ありがとうごさいます、スズナさん!

 いいとこ見せられるよう頑張りますからね!」

 

 右手を差し出したスズナ、その手を両手でぎゅっと握るパール。

 三秒近く、ぐっと力を入れた握手を続けた後、離せばパールはナタネに体ごと向き直る。

 もう一言を欲しがる可愛い後輩の姿に、ナタネは表情をくしゃっとさせながら。

 

「勝っても、負けても、あなたはあたしの大切な、可愛くって素敵な友達。

 悔いなく、全力で戦い抜いてきなさい。一生に一度の大舞台よ」

「はい、っ……!」

 

 差し出した右手をパールの両手に握られた矢先、ナタネはぐっとパールを引き寄せ、左手でぽんぽんとパールの背中を撫でた。

 身を預けるパールは、ナタネの手を両手で離さぬまま、胸いっぱいの想いをぎゅうっと握る力で以っていっぱいに伝えんとする。

 パールの恵まれた縁とは、プラチナや、ピョコをはじめとする生涯の友となる6人のポケモン達のみには限るまい。

 たくさんの素敵な出会いに、尊ぶべき人々に満ち溢れたシンオウ地方の出会いの数々が、彼女をここまで押し上げてくれたのだ。

 後ろの親友に、鞄の中の友達に、胸を重ね合わせる尊敬する先人に、そして彼女が今はそこまで想い至れぬ、この温かきシンオウの地に。

 感謝すべきものは、この世界に溢れている。

 

 観客席へと向かって行ったナタネやスズナと別れ、パールはチャンピオンシップの舞台への道を進んでいく。

 長い長い旅路の果て、その百分の一にも満たぬ長さにして、今ここを歩む者には長く長く感じる、真の意味でのチャンピオンロード。

 ごく限られた何人ものトレーナー達が、この道を歩む中、いずれもどれほど己の旅程に想いを馳せたことだろう。

 パールもまたその例に漏れず、振り返らず、前を向いて歩いていく中、その内心ではいくつものことを思い出している。

 

 すべてが、勇気をもたらしてくれる思い出だ。

 私の友達は、本当に強い。あれほど尽くしてくれたみんなに、今ここで応えたい。

 あなた達は、チャンピオンにだって勝てる凄いみんななんだって、世界中の人に結果を以ってして伝えたい。

 自慢の友達なのだ。私には勿体ないぐらい、なんて言ったら怒られるだろうか。

 かつて、命の恩人である誰かにその想いを伝えるために、シンオウいちの有名人となることを目指して夢見た、チャンピオン。

 その夢はもう、形を残していない。そして今、新たにある新しき夢。

 それはかつて幼心に抱いた夢への渇望よりも、ずっとずっと強い想いで以って追いかけられる、親愛なる友を自慢したいという純心だ。

 

 そんな道を行く中で、パールの前には一人の少年が待っていた。

 それを目の前にした時、一度パールの足が止まったけれど。

 いつでも元気いっぱいで、パールの姿を見たら大声でその名を呼び、駆け寄ってくることが常だったもう一人の親友であり幼馴染。

 そんな彼が、じっとその場で立って待っていた姿を前にすれば、パールの一度止まった足が再び前に進み始めるのも早い。

 

 騒がしい彼が、目の前でパールが立ち止まっても、何の声も発さなかった。

 ただ、握り拳を前に突き出して。それが、何を求めているのかは本来すぐには察しにくい。

 だけど、パールもなんとなく拳を突き出して、こつんとそれに合わせることが出来た。

 自分よりも少しだけ背の高い幼馴染の顔を、やわに見上げて、互いに拳を降ろして。

 笑顔を浮かべ、言葉無く心で通じ合えていることをはにかむようにする彼を前に、パールもまた気恥ずかしげに笑うのみ。

 

「……頑張れよ、パール!

 負けたら、罰金100万円な!」

「へへっ、言われなくたって!

 勝ったら、あんたが罰金100万円だからね!」

 

 最後に一度、ハイタッチのように互いの掌を鳴らした二人。

 ダイヤの目線がプラチナの方を向けば、言葉はいらないとばかりにプラチナもまた頷いて。

 二人は観客席の方へと向かっていく。その中で、二人の名を呼んだパールに、振り返れば。

 ぐっと握りしめた無言で拳を振り上げて、絶対に勝つよと笑顔で訴えるパールの姿がそこにあった。

 ダイヤは、握り拳で自分の胸を二度叩き、その拳をパールに向けて突き出すことでエールを贈り。

 プラチナもまた、帽子を脱いでパールに拳を突き出す形で、偉大なる道を征く友に敬意と無言の声援を贈るのだ。

 

 言葉はいらぬ間柄? いや、言いたいことが多すぎるからこそ、子供達には紡げない言葉もある。

 人生で何度、こんなに胸いっぱいの瞬間があるだろうか。それも、11歳の未熟な心でだ。

 きっと三人は、向こう何十年生きたって、この瞬間の感無量を表す言葉は導き出せまい。

 再びバトルフィールドに向かって歩み出すパールは、自ずと溢れたものを拭うように、ぐしっと目尻を指先で撫でずにはいられなかった。

 

 そして、ついにその時は訪れた。

 長きバトルフィールドへの道のりの果て、丁字路のように道が左右に分かれた突き当たり。

 そこに、パールがこの日栄光を賭けて争う相手が待っている。

 

「お待たせ、パール」

「え……いや、待たせたのは私の方……」

「いいえ、お待たせしたのは私の方よ」

 

 ポケモンリーグのバトルフィールド、東は下座、西は上座。

 遥かなる大海が広がるシンオウ西部になぞらえ、チャンピオンが挑戦者を迎え撃つべく立つのはバトルフィールドの西側だ。

 左に進めば上座へ向かい、右に進めば下座に向かう、そんな分かれ道でパールを迎えたシロナは、決戦を前にした最後の対話に臨んでいる。

 思わぬシロナの第一声にパールが戸惑うも、シロナは想いの丈を伝えるに徹するのみだ。

 

「あなたの試合、感動したわ。あたし、泣いちゃった。

 素晴らしいバトルだったけど、それ以上に、数々の認められべからざる戦いを経て、あれほどの"試合"が繰り広げられたこと、そのものに。

 あたし、あなたに本当に感謝してる。

 悪しき野望に立ち向かい、闇を晴らし、この世界を喪わせずにいさせてくれた、あなたのこと。

 ありがとう、パール。……そして、本当にごめんなさい。

 人々の心を震わせる、純真なるポケモンバトルというものが存在する、この世界を守り切れなかった大人として。

 そして、血生臭い戦いをあなたに強いざるを得なかった大人として、本当にあなたには申し訳なく思ってる」

 

 恭しい眼差しと表情で語るシロナに、パールは呑まれたように何も言葉を発せない。

 同時に、自分が待たせた側だと言うシロナの真意は、パールにもうっすらと感じ取ることが出来た。

 そんなこと、と謝罪を控えて貰うための言葉をパールが紡げないのは、それほどまでにシロナの眼差しが真剣だからだ。

 

「あたしは今まで、何人もの挑戦者と対峙して、初対面である彼ら彼女らには常に敬意を抱いてきた。

 たとえこれまでの道のりを見ていなくたって、その人はそれだけの努力をしてきたから、ここまで辿り着いてきた。

 あたしとは違う、あたしには想像もつかない別の形で、強さを手にしてきた人生がどんな挑戦者にもある。

 だから、どんな挑戦者にも敬意は抱けたし、それは形だけじゃなく心から感じられたこと。

 ……だけど、あなたは特別よ。

 あなたは、あたしの愛するもの全てを守り抜いてくれた。

 大事な女の子の体で、何度も何度も傷ついて、あたしだけじゃない、この世界に生きるすべての人々の、大切なものをこの世に残してくれた。

 あたしには、あなたと同じ歳の時に同じことは絶対に出来なかった。

 そんなあなたと、これほどの舞台でポケモンバトルが出来ることを、心から幸せに、嬉しく思う。

 始める前から、胸がいっぱいで泣きそうなの。

 ……チャンピオンとして、このシンオウ地方を代表する第一人者として、あなたに心から伝えたいことがあるの。

 本当に、ありがとう。そして、ごめんなさい。

 あなたがここに辿り着くまでの光あるこの世界を、守り抜くことが出来なかった大人として、本当に申し訳なく思う」

 

 誰も命を賭けなくていい、純真な想いで勝敗を競い合う、それが大衆と数々のトレーナーを魅了してきたポケモンバトル。

 それとはかけ離れた、命運と生命を賭けて未来を奪い合う闘争の世界へ、パールが身を投じねばならなかったこと。

 彼女がそうしてくれなかったら、本当に今のこの瞬間は、いや、平穏に明日を待つ世界中の人々の毎日は存在すらしなかったのだ。

 シロナがパールを待たせたというのは、パールが純真な想いでポケモンバトルに臨める、そんな日々を取り返せなかった大人の懺悔。

 先に述べたことを、真意を語った後にもう一度同じ事を言うほどには、それだけシロナにとってこの想いが大きいということだ。

 深々と頭を下げるシロナに対し、パールも言葉が見つからない。

 

「シロナさん……」

 

「……………………ここまでが、チャンピオンとしての私の言葉。

 ここからあたし、シロナとしての個人的な言葉よ」

 

 大人だからわかっている。こんなこと言われても、パールは困ってしまうだろう。

 だからシロナは、深々と長く下げていた頭を上げ、涙目を拭って新たな言葉を紡ぐ。

 伝えるべき言葉を伝えれば、屈託のない普段の表情でパールに向き合い、これから訪れる最高の時へ向けて幕を上げていく。

 

「ねえパール。

 あたし、あなたのこと好きよ。尊敬だってしてる。

 でも、あなたには今日どうしても負けたくないの。

 だって、まだまだチャンピオンでいたいんだもの」

 

 なんだか急に子供っぽいことを言い出すのでパールも面食らったが、別に演じて空気を砕こうとしたのではなく、シロナは普通に喋ると案外こうである。

 大人同士の会話であれば、きちんと言葉を選べるので凛々しいし、公の場での発言が世間には周知されやすいので、クールビューティなイメージも持たれがち。

 かといって、プライベートでも世間が抱くイメージと同じように喋っているかといえば別問題。

 彼女の友人は、テレビでのあなたは本当に別人よねぇと口を揃えて言うそうな。プライベートを知れば知るほどそう思わざるを得ないらしい。

 

「初対面の人のことを理解しようと思えば、あなたはどうする?

 まずはお話ししてみて、なんて考えるのが普通じゃない?」

「えぇと……まあ、そうですよ、ね?」

「トレーナー同士には、そんな対話も必要ないのよ。

 バトルしてみれば、なんだってわかるわ。わからずにはいられない。

 どんな風に戦うのか、どんな技を覚えさせているのか、どんな道具を持たせているのか。

 どんな風にポケモン達を育ててきたか、どんな風にポケモン達と接してきたのか。

 その時に言葉はいらない、見ればそれだけで全てが雄弁に語られるのよ。

 ここまで辿り着くまでにどれほど努力を積み重ねてきたか、対峙し、その声とポケモン達の戦う姿を見るだけで、ひしひしと伝わってくる。

 チャンピオンに挑むその姿に、誰一人にして、はじめ抱いた敬意を裏切られることは無かったわ」

 

 熟練のトレーナーであればあるほど、赤裸々にポケモン達の戦い方を解析すれば、過程までもが全て見えてくる。

 友人のポケモンがどんな技を覚えているのか、教えて貰えれば、ははぁなるほどとその意図がわかって面白い、という経験は珍しくもあるまい。

 バトルすれば尚更だ。勝ちたいからこそ、相手のポケモンの挙動や技、如何に育成されたのかに敏感になるから尚更、とも例えられよう。

 実戦以上に、対峙する相手が如何なる育成をここまで積み重ねてきたかを、思索を巡らせ真に迫ろうと出来る機会などあるはずもない。

 

「あたしは昔、チャンピオンという当時の凄い人に憧れ、この地位を目指して今ここにいる。

 そして、一度でも公式戦で敗れればこの地位から降りなくてはならない、そんなプレッシャーに身を重く感じたこともあった。

 それは、やめたくないからなの。

 長い旅路を経て、実力を培ってきた、敬意を払わずにはいられない挑戦者達が、その全力をぶつけてくれる特等席。

 昔と違って、月に一度の防衛戦を基本的な方針とする今、ディフェンディングチャンピオンであり続けるのは大変じゃないか、って何度も聞かれるわ。

 あたしはそれを、苦難だと感じたことは一度も無い。

 月に一度も、敬える相手と、ポケモンバトルという形で最高の対話が出来る今が、あたしにとってはたまらないほど嬉しい。

 あなたのことは大好きだけど、そんなあなたにさえ、この幸せな場所を譲りたくないのはわかって欲しいな~って思っちゃう」

 

 いくつだって、パールには感じ取れるものがあった。

 この人は、地位が惜しいわけじゃないんだ。チャンピオンだからこそ約束された、特別なポケモンバトルの権利をずっと抱きしめたいだけなのだ。

 そしてシロナの言葉は、チャンピオンになることだけを目指していたパールに、新たな世界を示唆するもの。

 チャンピオンになれば、色んな人に賞賛される。それもまた栄光だろう。

 シロナはきっと、チャンピオンになった初めての瞬間よりも、今がそれ以上に幸せなのだ。

 その座を防衛し続けるために、たゆまぬ苦労があることも当然わかる。子供にだってわかることだ。

 

 夢見がちな子供の想像力における最終到達点、チャンピオンになるということ、さらにその先の話。

 シロナの自慢めいた語り口には、パールの勝ちたいという想いを、さらに、その先の世界に触れたいという想いを大きくさせてくれる。

 それは挑戦者を焚きつけるという、防衛したいだけの王者にとってであれば、愚策とさえも断言できる行為。

 勝ちたい想いでいっそうの全力となる、そんなパールとのバトルを望むシロナだからこそ、自分のためにもこうしてパールを囃し立てるのだ。

 

「あなたには、返しきれないほどの恩があると今でも思ってる。

 それでも、この勝負だけは絶対に譲らないからね?

 あたしは、まだまだチャンピオンとして、たくさんのトレーナー達とのバトルに臨みたいんだから」

 

 ナタネと何度も電話で話したパールだから、いっそう痛切にわかるものがある。

 何度、ナタネの口から、ジムリーダーはやめられないという言葉を口にしたことか。

 沢山の責務を担い、名声に比例し苦労もありそうな地位に立つ大人達が、それでもやめられないと口を揃えるその地位とは。

 ジムリーダーも、チャンピオンも、ただその地位にあるだけで多くの人に賞賛される。ナタネが、シロナが、求めているものはそんなものじゃない。

 その地位に立たねばわからない、敬われるよりもずっとずっと貴い何かがそこにあることを、パールは先人から知っているのだ。

 チャンピオンになることが出来れば――知りたいものが、増えていく。

 初めてのポケモンと共に、まだ見ぬ多くのものが待つ世界に、たまらないほどわくわくしながら歩きだしたあの日と同じ、胸が高鳴る高揚感がここにある。

 

「手加減しないわ。勝っても負けても恨みっこなしよ。

 あなたの培ってきたその全身全霊、見せて頂戴ね?」

 

「っ……! はいっ!

 シロナさん、絶対負けませんよ!

 どれだけシロナさんが強くたって、私の大好きなみんなは、それに負けないほど強いんですから!」

「ええ、期待してる。そして、裏切られないことも確信してる。

 最高の一日にしましょう! お互い、一生忘れられないバトルにしましょうね!」

 

 右手を差し出したシロナに、年上相手に腰の低くなりがちなパールが、右手だけで握手を返した。

 普段の癖で左手も動きそうになったが、それを耐えて、年上相手の片手だけの力強い握手だ。

 シロナのことは尊敬している。最も尊敬する一人ですらある。

 それでも、今は対等に。王者と挑戦者、暫定的な格の差があろうと関係ない。

 それが、最高のポケモンバトルを求めるチャンピオンに対する、挑戦者としての敬意の払い方だと本能的に行動できるのだから、案外パールも大物だ。

 あるいはシロナが、それを子供にも自ずとさせるほど、大きな器の傑物であるという証であるのかもしれない。

 

 ぐっと握り合った手を離し、二人は分かれし道をそれぞれに歩んでいく。

 シロナと握手を交わした手が熱い。腫れたかと思うほどに。

 その手を見下ろし、ぎゅっぎゅっと握るパールは、チャンピオンに挑む事実そのものより、あの人とそんな舞台でぶつかり合えることを本当に嬉しく思う。

 そして、シロナもだ。

 離れて背中を合わせる彼女の、力強い手の力を思い返せば思い返すほど、今日を一生忘れられなくなる予感がしてならない。

 始まる前から、またちょっと涙が溢れそう。これだから、チャンピオンであることはまだまだやめたくない。 

 

 長くて、短い、若く幼く迸るような旅の末に、パールがバトルフィールドに足を踏み入れる。

 超満員の観客、照らされた舞台、誰もが憧れる栄光のステージ。

 右も左もわからなかった頃の彼女が立てば、その雰囲気だけで呑まれ何も出来なくなるほどの磁場がここにはある。

 今のパールは、そんなものには気圧されない。

 彼女の心に今あるのは、対峙する場所に立つあの人に、決して恥ずかしくないバトルの末に、勝利することを目指す一心。

 そして、過去最強の対戦相手を前にしても、それを恐れるべくもないほど、頼もしい6人の友達がそばにいてくれるという事実。ただそれだけだ。

 夢の舞台に立った者は後々、あの時はどんな気分だったかと聞かれがち。

 多くの人が、良く覚えていないと応えたり、語彙力乏しく最高だったとしか言えないことも、その舞台に立たねばわからぬこと。

 

「パール! 始めましょう!

 勝つのはあたしよ! 覆せるなら覆してみせなさい!!」

「いきます! シロナさん!

 絶対、何があっても、勝つのは私の大好きなみんなです!!」

 

 二人の手を離れ、高々と上がるボール。沸き上がる歓声。

 さあ、シンオウ史に深く刻まれ、この先も末永く語り継がれる、歴史的一戦の始まりだ。

 

 

 

 

 

 先のことは誰にもわからない。

 

 数年後に自分がどうなっているかなんて誰もわからないし、明日自分がどんな体調かもわからないし、一時間後に何が起こるかさえ誰にもわからない。

 晴れていると思っていたって、30分後に雨が降ったりもする。

 宝くじを買ったはいいものの、そんな都合のいいこと自分に起こるわけが無いだろうなぁと内心で思っていても、まさかが起こってくれたりもする。

 何もかもが順風満帆に進んでいたと思っていたら、事故に遭ったりもする。

 他人の良き出会いを羨んでいたら、思わぬ形で運命の人に出会えたりもする。

 内心で疎んでいた悪友が、数年経って大人になっても、何だかんだで未だに気心知れて何でも語れる無二の友であってくれたりもする。

 幼い頃に夢見ていた、立派な大人というものになることが、いざその時になれば微塵も叶えられてなどいないことなどざらにある。

 そんな中で、かつて思い描いていた華々しい自分でないにも関わらず、こんな今も案外幸せだと逃げではなく心から思える現在に辿り着くこともある。

 

 未来とは、夢でもなく理想でもなく現実だ。

 無限の可能性という言葉で語られがちな未来とは、その実辿り着けば実在する世知辛い今の延長線上でしかなく、決してそこに栄光は約束されていない。

 苦心に満ちた今と変わらず、明日に待つのも、来年に待つのも、数十年後に待つのもまた、現在が形を変えたものに過ぎないのだ。

 夢を見るのは誰しもの勝手、叶わぬことあろうともそれもまた現実。

 大人も、子供も、自らの進む道の先に何が待ち受けるのか、それが良きものか苦きものかもわからぬまま、長い人生を歩み続けていく。

 ある日の僥倖。あるいは、一寸先は闇。

 誰もが、先の見えぬ迷々とした生涯の旅路を歩み続けることを余儀なくされ、脱落することさえ許されず前に進んでいくしかない。

 生きていくしかないのだ。それぞ何という苦境かと形容する言葉に、反論するに値する言葉など容易に紡げはしまい。

 

 命の恩人との再会を望み、旅に出た少女は果たして、本当にそれを簡単に叶えられると楽観的に考えていただろうか。

 彼女にとって、その望み焦がれた再会とは、彼女が望んだ劇的なものだっただろうか。

 よもや自らが、世界の存続を賭けた決死の死闘に、それも自らの意志で傷付くことも厭わず挑むと、旅立ったその日にかすかでも想像できただろうか。

 そんな数奇で過酷な命運に愛されてしまった少女が、幼馴染との一戦で、チャンピオンへの挑戦権を賭けて争うドラマを実現すると、誰が予測できただろうか。

 まさかこの年、史上最年少のチャンピオンが誕生するかもしれないという一戦を、この目で見られると思っていた人がどれだけいただろうか。

 そんなありふれた日常の中に降って沸いた劇的さえも、彼女が勝ち取った世界の存続によるものだと、誰が少しでも予見できるだろうか。

 

 いま、この時のことを、一年前に予測していた者など、きっと世界中を探しても誰一人いはしまい。

 未来は永遠に霧の中だ。時を操る神でさえ、その力で以ってして未来を視なければ識ることすらも能わぬもの。

 そしてそうして観測した一時の未来でさえ、覆さんと駆けた者達さえいれば、良い方向にも悪しき方向にも変わり得る儚きもの。

 誰もがそうだと知りながら、前に進んでいくことしか出来ず、しかし神が創らずとも自ずと築かれていくもの。

 未来とは不定だ。不定とは不安だ。そして、不定とは希望だ。

 だからこそ人は、未来に夢を見ることを忘れることが出来ず、それがまた、真の意味で人の手で切り拓かれた未来を紡いでいく。

 それが連綿と繰り返されてきた末に今があり、そしてこの瞬間もまた、運命に翻弄され、あるいは愛されし者達が、まだ見ぬ未来を築いていく。

 

 夢見がちな者に都合のいい未来などそうそう叶わない。

 まったく予想だにしなかった望外の幸せに恵まれることもまたある。

 何が起こるか人生はまったくわからない。その知れなさが良いのだという、達観した思想に共感できるものなど決して多い方ではない。

 どんなにそれを論じても意味はない。未来は誰にもわからない。きっと、永遠にその真理は変わらない。

 そうだと嫌でも理解した上で、人は前を向いて歩み続けていくしかない。

 そうして立ち止まらずに生き続けた者達にもたらされる報いが、決して良きものとも悪しきものとも知れずとも。

 それらすべてを受け止めて育った者達が、今ある自らの半生を恥じずして、胸を張る姿にこそ幸福へのヒントが現れているはず。

 抗うことの出来ようはずもないものに、不平を述べるばかりで何もせぬことは、果たして本当に賢明であろうか。

 嘆くことそのものは変えられない。最も変えたいはずであろう、変えるべきであろうはずの己をだ。

 

 誰しも、どんなことがあろうとも、生きていくしかないのだ。

 

 かつての人々にとっての現在が"過去"であり、今の日々とはかつての人々にとっての"未来"。

 私達が幸に喜び、不幸に嘆くこの"今"は、かつての人々が望んだ"未来"であっただろうか。

 満足していない過去の妄念も、想像していなかった幸福に満たされた魂も、常に私達のそばにある。

 そして、やがての人々が経験する"今"の日、現在の自分にとっての"未来"は果たして自らにとって満たされる現在となり得るか。

 何一つ保証されていないその未来を、決して恐れてはならない。厭おうが、逃げたがろうが、必ず訪れ、自らを迎えるもの。

 それに胸を張り、自らの半生と"過去"にもたらされた誇りを持って立ち向かっていくことに、結末がどうあろうとも堂とした自らという一つの幸福がある。

 未来は不定だ。そして、無限だ。誰にも知れず、そして自らの手で紡げる。

 どんなに予想だにしない結末が待っていても、それに立ち向かえる自らがそこにあるなら、怖いものなど何一つ無い。

 

 未来は無限だ。過去の自分にとって、今を含む未来はそうだったはず。歳月を重ねるにつれ、誰しもが重く知る真理。

 そうだと真の意味で知らぬ若き志が、知らぬままにして、純真に、歩み続ける人生の上半期とは、どれほど貴く眩しいものか。

 知らぬままでも構わない。生きれば結果は必ずついてくる。それだけは、今の延長線上たる未来が約束してくれる唯一のもの。

 未来は心ある者をいじめるためだけに存在する残酷なものではない。私達がそこへ辿り着くことを、今か今かと待ち続けてくれるいつかの友。

 辿り着くその時まで、必死に、懸命に、足掻き生き続けてきた者を、両腕を広げて抱きしめてくれる待ち人だ。

 諦観なんて必要ない。必ず、そこにいてくれる。

 

 子供達は、必ず大人になる。そして、その後ろには新しい子供達がいる。

 素敵な大人とは何だろう。立派な大人とは何だろう。本当の意味で胸を張れる自分ってなんだろう。

 それはきっと、先を知ることも叶わぬ未来へ向け、懸命に生きてきた末に大人になった者達だけが知ることが出来るもの。

 

 生きていくしかない。生きていくだけでいい。

 未来を恐れる必要なんてない。人は、いつか必ず大人になる。

 そこに、必ず答えがある。誰にも穢される謂れの無い、誇るべき人生が。

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