ポケットモンスター・パールストーリー   作:ましゅ

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第90話   ナタネの贈り物

 

 ハクタイシティに辿り着いたパールは、真っ直ぐハクタイジムへと駆け込んだ。

 森を駆け抜けてきて、街の入り口に到達した時点で、汗びっしょりの息絶え絶え。それだけ、必死に、最速でここまで来た。

 

 ナタネが不在のハクタイジムは、当然現在は休業中である。

 挑戦者を受け入れられず、ナタネも不在では進入希望のジム生がいたとしても決められず、好奇心から事件について知りたがる野次馬など当然門前払い。

 流石にこれほどの大事件、ジムに取材を申し込んだ記者などもいたのも自然なことであったが、それらもハクタイジムは丁重にお断りしている。

 事実上、今のハクタイジムは現在のジム生を除く、関係者以外立ち入り禁止に近い状態ですらあった。

 

 そんなハクタイジムに真っ青な顔で姿を見せたパールを、はじめ受付の女性もお引き取り願うことを意識したものだ。

 だが、そんな受付に待ったをかけ、パールをジムの奥へと歓迎してくれた大人の女性が一人いる。

 ナタネよりも一つ年上ながら、彼女と最も親しい友人の一人である"ヨウコ"は、ジム生の中では年長者にあたるそう。

 ナタネが不在の今、彼女がジム生達を指導する第一人者であり、対外的な対応の責任者をも担っているらしい。

 公式的な肩書きではないが、ハクタイジムにおいては師範代のような、副ジムリーダーのような立場にある女性である。

 

 ジム生としてのみではなく、プライベートでもナタネと親しいヨウコは、パールのこともよく聞かされているのだ。

 毎晩パールと電話していたナタネだ。昨日あの子ったら――と、楽しそうにパールの話をするナタネとお茶したことは、ヨウコにとって一度や二度ではない。

 新しいジムバッジを獲得するたび、それを電話で聞かせて貰えるほど懐いてくれるパールと、ナタネの親交の深さは彼女も知るところである。

 ただの興味本位や好奇心でなく、心の底からナタネのことが心配で心配で駆けつけたパールの想いは、ヨウコにも元より知れていたことなのだ。

 

 事情を知りたがるパールを、彼女と共に姿を見せたプラチナを、ジムの休憩所へと案内したヨウコ。

 知りたい二人の想いに応えるために。ともすれば、残酷な現実を突きつけることになることに、既に胸を痛め始めつつあって。

 ヨウコはパールとプラチナに、事件発生から現在までの顛末を、少しずつ順を追って明かしてくれたのだった。

 

 

 

 ナタネは昨日、ハクタイジムのガーデンに植える花の種の買うために、夕頃の街を歩いていた。

 彼女と共に歩いていたヨウコは、事件の全てを最も近くで目にしている。

 ナタネを傷つけた"通り魔"というのが、人ではなく、一匹のマニューラであったこともだ。

 

 マニューラが発していた濃厚な殺気めいたものは、ふとした瞬間にヨウコも背筋がぞわっとしたものである。

 まさにそんな悪寒を感じた瞬間、ナタネがはっとして振り返ったその先から、抜き身刀の如し爪を光らせたマニューラが、矢のような速度で迫ってきた。

 被害者でもないヨウコですら第六感がはたらいたかのような殺気だ。

 それを向けられた当事者のナタネを襲った戦慄は、きっとそれ以上のものだったのだろう。

 殺意に一瞬早く気付くことが出来たことは、後から思えば、この事件において唯一の救いであったと言えるかもしれない。

 

 咄嗟に身を捻ったナタネの横腹を、マニューラの鋭い爪が、深く抉り裂いた。

 衝撃的な出来事を唐突に目の前にした時、人は目の前の光景がスローモーションのように見えることがあるという。

 ヨウコはその時、爪を振り抜いたマニューラの爪先が、攫ったナタネの身体の元一部を、地面にべちゃりと投げ捨てる光景をはっきりと見た。

 それにぞっとする間もなく、ナタネの切り裂かれたへその横から、ぶしっと血が噴き出た光景もだ。

 あまりに非日常的な一幕に頭が真っ白になったヨウコだったが、傷付けられたナタネはすぐさま、腰元のボールを叩いていた。

 それと同時に再びナタネに襲いかかったマニューラは、とどめの一撃とばかりに振り上げた両手の爪をナタネに迫らせていた。

 

 腕全体で顔と頭を庇うようにしながら、自ら後ろに尻餅ついて転ぶように退いたナタネを、マニューラの両爪は容赦なく引き裂いた。

 顔や首といった致命的な場所こそ傷つけられなかったものの、ナタネの腕に幾筋もの赤い線が刻み付けられた光景が、呆然としていたヨウコを目覚めさせた。

 彼女の悲鳴が響き渡ったのと、ナタネの窮地にボールからロズレイドが飛び出してきたのが全くの同時である。

 地上に降り立つや否や、マニューラに向けてマジカルリーフを放ったロズレイドと、それを躱したマニューラの戦いの幕開けか。

 いや、戦いになどなろうはずもなかった。飛び出してきたのはロズレイドだけではなかったのだから。

 ナタネが連れ歩いていた他のポケモン、チェリムやドダイトスまで飛び出してきて、矢継ぎ早にマニューラを攻撃し始めたのだから。

 

 事例が少ないため一般にはあまり周知されていないことだが、心からトレーナーに懐いているポケモンが、トレーナーを傷つけられた時の怒りは底知れない。

 晴れてもいないのに開花したチェリム、吠えたけるドダイトス、そして我を忘れてマニューラに襲いかかったロズレイド。

 血走った眼の三匹のポケモン達は、たとえ刺し違えてでもマニューラを八つ裂きにしてやるという凄まじい覇気を放っていたものだ。

 悪賢いのかマニューラは一手早く逃げを選んでおり、三匹の猛攻に僅か傷つけられながら、どうにか逃げおおしていた。

 チェリムのソーラービーム。

 ドダイトスの地震。

 ロズレイドのリーフストーム。

 我を失ってマニューラを強襲した三匹の放つ技の余波や流れ弾により、破壊された建物や公共物もあったほど。

 結果的に日中堂々の凄惨な通り魔事件は、周知されて大きな騒ぎになるのも非常に早かった。

 

 ヨウコをはじめ、居合わせた街の人がすぐさま病院に電話したことで、ナタネが医療機関へと繋がるまでの時間は、想定し得る限りの最短だった。

 だが、傷付けられたナタネの姿を最も近くで目の当たりにしたヨウコは、その場で目を潤ませずにはいられなかったほど。

 深く抉られたお腹からはどくどくと血が流れ出て、おびただしいほどの血が滴り落ちる地面に大きな沁みを作り。

 上半身を庇って引き裂かれた腕は、溢れる血で塗り潰したかのように真っ赤。

 ドラマで見た殺人事件の演出ですら、血糊こそ使えども人の身体をここまで赤く染めきりはしまい。お茶の間に流せる範疇を超えてしまう。

 生涯初めて見る、全身血みどろの、それも友人の姿を前にして、助かる未来より最悪の悲劇を想定する想像力は、不謹慎でも何でもない。

 激痛と失血で、既に顔色が青ざめ始めているナタネが、脂汗まみれの顔で、にへらと笑って発した短い言葉が、ヨウコは今も脳裏に焼き付いている。

 

 大丈夫だよ、きっと、って、血みどろの身体で口にしたナタネの胸中にあった想いなんて、きっと当人にもはっきり定義できないものなのだ。

 きっと助かるからそんな顔しないで、と友人を気遣ったのだとも。

 まだ死にたくないよという想いを、希望的観測で口にしたのだとも。

 あるいは単に、あまりにも想定していなかった出来事に、頭が現実に追い付いていなかっただけであるとも。

 どうとだって解釈できる。ただ、その言葉がヨウコと、そして彼女のポケモン達の気持ちを、一つにさせたのは確かである。

 マニューラを追い払ったポケモン達がナタネを取り囲み、ドダイトスが大きな声で吠えて。

 そんなドダイトスと全く同じ意図で、誰か早く、早く来てと必死に叫ぶヨウコの姿が、痛ましい事件の真ん中にあった。

 

 救急車がようやく現場に到着したその時、疲弊と失血と苦痛が限界に達していたナタネは、既に気を失っていた。

 もう死んでしまったのかとさえ見えるナタネを抱きしめるヨウコの腕から、ナタネを預かった救急隊員が、彼女を乗せて病院に急いでくれた。

 きっと、救急車の中でも入念な応急処置を重ねてくれていたはずだ。

 そうでなければ、今日の今頃彼女の訃報が、ハクタイシティに報じられているはずである。

 

 ナタネの身体から溢れ出た血に、自らの服と肌を濡らしたヨウコが、子供のように大きな声をあげて泣いていた姿を、誰もが胸を痛めて見ていたはずだ。

 友人が目の前でずたずたに切り裂かれ、もう二度と話すことも、笑い合うことも出来なくなってしまったかもしれない絶望と恐怖。

 通り魔事件。たったそれだけの短い言葉で語られる事件の悲劇性は、その程度の言葉で語り尽くせるはずもない。

 

 

 

「――ナタネは、一命を取り留めてくれたわ。

 だけど今も、意識は回復していない。

 失った血が多すぎて、必ず目を覚ますはずだって病院の人達も断言できない状態なの。

 もしも意識を取り戻しても、大きな後遺症が残るかもしれない、とさえ言われてるわ」

 

 一夜明け、ある程度の冷静さを取り戻しているヨウコは、パール達に大人の顔と言葉ですべてを話してくれた。

 想像を遥かに上回っていた現状に、パールもプラチナも言葉一つ出てこない。

 いや、あるいは今なお、そんなことに現実に起こったなどとは、心が認めたがらずにいるのかもしれない。

 ヨウコの表情を前にしつつ、目の焦点が合っていないパールが茫然と、相槌のみ打ち続けるかのようにしばしば頷く姿に、プラチナが気付いて揺さぶるほど。

 それではっとしたパールだが、耳に入って頭に残っている言葉の数々を反芻し、やがては両膝に置いて握った手ががたがたと震え始める。

 

 二度とナタネさんには会えないかもしれない。声も聞けないかもしれない。

 心を黒く塗り潰すこの恐怖は、いま死の淵にいる彼女と親しければ親しいほどに大きい。

 陰惨な事件に胸を痛めつつ、凶行への憎しみを抱くプラチナなど、パールに比べれば心にぎりぎりの余裕が残っている方である。

 思考能力をまるまる失い、ただただナタネが生き延びてくれることしか祈れないパールこそ、真に親しい人を斯様な形で傷つけられた少女の様相そのものだ。

 

「警察は、野生のマニューラの仕業じゃないって断定してる。

 だけど、あのマニューラの持ち主らしき存在の痕跡は、事件現場にも、このハクタイシティ全域に渡っても未だ発見されてない。

 必ず突き止める、って警察の人達は言ってくれてるけどね」

「……やっぱり、野生のはずがないですよね」

「私だってそう思ってる」

 

 野生のマニューラがナタネを襲った。そんな仮説を立てる者がいたら鼻で笑われるだろう。

 ハクタイジムのジムリーダーという、社会的に重要な立ち位置にいる人物一人を狙い撃ちにした強襲。

 野生のポケモンが基本的に人里に乗り込んでくること自体、極めて稀有なことだと言うのに、狙ったターゲットがそれという時点で話が出来過ぎている。

 何らかの動機でナタネを亡き者にしようとした何者かが、マニューラをナタネに差し向けたと考えるべき。

 そのマニューラの持ち主の痕跡が、現在まったく発見されていない現状にありながらだ。

 

 ポケモンを使役しての殺人未遂事件。

 たとえ今後もハクタイシティ内で、マニューラの主たる存在を匂わせる痕跡一つ発見されなかったとて、この捜査本線は絶対に揺るがない。

 余程賢いマニューラに、ハクタイシティの外から指示を出した何者かが、ナタネを亡き者にしようとした。そんな可能性さえも絶対に捨てない。

 万死に値する極悪人が、このシンオウ地方のどこかに潜んでいる可能性を提唱し、人々の猜疑心を煽ることも警察は厭わない。

 これは、それほどの凶悪事件なのだ。

 

「……ナタネ、あなたのことよく私に話してくれたわ。

 最近、ミオジムで勝ったんですってね。嬉しかった?」

「あっ…………は、はい……」

「ナタネの喜びようったら、すごかったんだから。

 まるで自分のことのように嬉しそうに、その日はあなたのことばっかり。

 たまにあなたからの電話が無かった日なんて、心配でそわそわして色々だらしなかったりすることもあったのよ。

 本当に、あなたとナタネって、すごく仲が良いんだなって誰でもわかるぐらい」

 

 駄目、それはやめて、そんな話を聞きたくない。

 まるで遠い過去のように話されたら、続きを作ることの出来ない思い出話のようにも聞こえてくるじゃないか。

 生死の境を彷徨うナタネを差し置いてそんな話をし始めたヨウコの、昨晩は憔悴したであろう疲れた表情が、今になって急にはっきりとわかる。

 

「…………ちょっと待っててね」

 

 ヨウコはパール達に背を向けて、ジムの奥へと一度去って行った。

 目を拭うような後ろ姿を見せて去る彼女を見て、パールは震えが止まらない。

 本当に、ナタネはもう帰ってこないのだろうか。どんどんそんな結末も現実感を帯びてくる。

 走ってもいないのに、風邪を引いているわけでもないのに、胸がばくばくいって息が荒くなるパールの背中を、プラチナはさすってあげることしか出来ない。

 かける言葉なんて見つからないのだ。

 

 やがて、ヨウコが戻ってくる。

 その手に、綺麗に折りたたまれた服を持ってだ。

 

「あなた、きっとこれからキッサキジムを目指すのよね」

「は、はい……」

「これ、ナタネがあなたのために見繕って買ってたものよ。

 寒い寒いシンオウ地方の北部、キッサキシティにあなたが向かうだろうってね」

 

 あなたにあげる、と手渡されたそれを、パールは思考の追い付かない頭で受け取ることしか出来なかった。

 ナタネが自分のために。そんな簡単な、子供でもわかる内容の一文を、パールはすぐには理解できぬ心境だ。

 

「いつ渡すのよ、って私も聞いてみた。

 ミオシティからキッサキシティを目指すなら、必ずハクタイシティを通って自分に会いにきてくれる、ってナタネは豪語してたわ。

 もし立ち寄ってくれなかったらどうするのよ、って私が言っても、いーやあの子は絶対に会いに来てくれる、って答えたぐらい。

 ……あなたはきっと、こんな事件が無くたって、この街に、ナタネの所に立ち寄ってくれていたわよね」

 

 それだけナタネは、パールと強い繋がりがあると信じてくれていたのだ。

 もしもパールがハクタイシティに寄らず、キッサキシティを目指す道のりを選んでいたら、渡す機会も無くなってしまうというのに。

 決して安くもない、雪も降る寒いキッサキシティを歩くための温かい服を、パールのために先に買っていてくれていたのである。

 

「ナタネ、さんが……」

 

「あの子、自分の手で渡したかったでしょうね。

 私が勝手に、あなたに届けてしまうのは残念だけど……

 どうか、受け取って頂戴。それで、いつかナタネが目を覚ましたら――」

 

 僅かな間を置くヨウコ。

 ナタネが目を覚ましたら。叶うかどうかわからない希望なのだ。

 口にするたび、その逆も脳裏をよぎってしまうほど、希望と絶望は裏表。

 先のことなど誰にもわからない。ただ、祈ることしか出来ない。

 

「またナタネに会いに来て、その服の着心地を話してあげて?

 良い返事でも、良くない返事でも、きっとナタネは喜んでくれるわ。

 あなたが受け取ってくれるならそれだけでも……」

 

「………………っ、ぅ……」

 

 やっと、頭が追い付いてきた。つらく、儚い現実にだ。

 ナタネが自分のために用意してくれていたというものをぎゅっと抱きしめ、とうとう溢れ出るべきものが溢れ出すパール。

 その気持ちに対して心いっぱいの感謝の想いを伝えたい相手さえ、今は手の届く場所にいないのだ。

 

「パール……」

「うぅ~~~っ……ひぐっ、ううぅぅ……」

 

 遺品になんて、ならないで欲しい。

 話せるようになったナタネさんに、電話じゃなくって直接あって、たくさんのお礼を言いたい。

 いま預かった、この服のことだけじゃない。

 成功ひとつひとつを報告してきたあの電話の数々、その都度一緒に喜んでくれたあの人の温かさが、今さらになって何倍も尊く感じる。

 大切なものは失って初めて気付くとよく言われる。はじめから大切だとわかっていたものにさえ、その通説は該当するのだろうか。

 自分が思っていた以上にずっと尊いものだった、と改めて気付くことなんて、こんな時に限らずともありふれている。

 

 チャンピオンになること。思い出の人に会うこと。

 これまでの半生において、パールが何よりも強く願い続け、追い求めてきた夢。

 時にそんな数年越しの夢がすべて叶わなくてもいいから、代わりに叶って欲しい新しいことが、ふと生まれることだってある。

 泣きじゃくってしゃがみこむパールの胸は、ただただあの人が助かって欲しいと強く望む想い、その一色に満ちていた。

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