「ジョーカーさん。・・・本当にやるんですか?」
男の声は囁くように小さいのに、込められた感情は大きい。
年相応に皺の刻まれた顔は苦渋に満ちていた。
そんな古株の部下の念押しに頓着することなく、悪の道化師はピエロメイクに彩られた年齢不詳の顔を笑み崩した。
「おいおい、ジョニージョニー。その年でもうボケたか?何度同じこと聞けば気が済むんだ?こうなるのはずっと前からわかってたことじゃねぇか?何年経とうと俺の『王』への愛は不滅さ」
恍惚と語るジョーカーの緑瞳には迷いはない。
ただただそこにあるのは、言葉通りの歪みながらも純粋な愛だ。
ジョニーは相手に聞こえないようにそっと溜息をつく。
ジョーカーは変わらない。
20年近くの年月が流れても、ずっと彼は彼のままだ。
天才ブルース・カーの父であるジョセフ・カーは世間一般には非常に腕のいい便利屋であり、小さな会社の社長として知られている。
頼めば家のリフォームから浮気の証拠集めまでなんでもこなす。
明るく博識で面倒見が良いと評判の人物で、彼の正体を知らない人々は彼を心から信頼していた。
表の仕事は本当に裏などなくクリーンなものである。
実際裏の仕事からは大体足を洗っており、せいぜい昔からの顔なじみの仕事に多少手を貸す程度だ。
こっそりその裏の仕事を回す人間も『ジョーカーは子供を引き取ってからすっかり毒気が消えた』と判断している人間が多数だった。
今だって現状を詳しく知っているのはジョニーとハーレイくらいなものだろう。
最初はジョニーも彼はバットマンとの対決をいずれ諦めるだろうと思っていた。
ジョーカーはブルースと名付けた赤子をしっかりと愛情を注いで育てていたからだ。
その愛情に応えて、ブルースは心身共に健やかな成長を遂げた。
打算で与えた愛情もどきではあれほど利発で聡明な少年に育つはずはない。
ジョーカーの息子への愛は間違いなく本物だ。
きっとこのままジョーカーが語る対決の計画は有耶無耶になり、あの子はバットマンなどにはならず、そのうち気立てが良いどこかの娘と結婚して、ジョーカーは祖父になるのだろうとぼんやりと予想していたのだ。
しかしジョーカーは迷いなく長年温めていた計画を進めた。
最後のトリガーも決まり、後は実行に移すだけの段階まできている。
だからこそジョニーは無駄と悟りつつも止めたかった。
何故せっかく手に入れた幸せを自ら壊そうとするのか。
何故このままでは駄目なのか。
あれほど愛情をかけた子を地獄に堕とすことなど出来るのか。
「あの子は本当の姿に戻るだけさ。カエルや獣が王子に戻るようにバットマンに戻る。そっちの方が自然だろ?さ、無駄話は終わりだ。久しぶりに楽しもうじゃねぇか。派手に行こうぜ。まずは本番前のつかみってやつだ」
最古参の部下の憂慮を流し、道化王子は嗤い、手元のスイッチを押した。
轟音と共に、近くのビルで大爆発が起きた。
全ては順調だった。
父にはバットマンになることを認めてもらえた。
最初こそ心配されて反対されたが、いくつかの条件をのむことで許してもらえたのだ。
ひとつは大学はきちんと卒業して、もし卒業後もヒーローを続ける場合は就職すること。
正義の味方は職業ではないので、きちんと食べていく手段を確保しないといけないと言われた。
もっともだと思った。
大富豪とかが趣味でやっているならまだしも、ヒーローが毎日のご飯や寝床で困っていたら他を助けられない。
ふたつは絶対に自分の命をかけないこと。
自分の命を粗末にするような奴は他の人も大切に出来ない。
そんなことをする奴は自己陶酔と自殺願望に他人を巻き込んでいる迷惑な奴だと言われた。
これももっともだと思った。
以前言われた自分の命だけは絶対に持ち帰ってこいの延長だ。
他にもいくつも大切な約束をして、父は息子をバットマンにする覚悟をしてくれた。
昔から住んでいるアパートではこっそり出入りするのが不便だろうからと、大学から比較的近い場所に家を買って引っ越すことになったのだ。
住み慣れた場所から離れるのは少し寂しかったが、それ以上に高揚が強かった。
父が味方をしてくれるとわかっただけで、抱いていた不安は全部吹き飛んでいる。
この時は世界が敵に回っても何も怖くないとすら思えた。
その後バットマンファミリーと合流することにも成功した。
彼らはブルースのことでびっくりしたり初代と本当に関係ないのかと疑われたりしたが、なんとか納得してもらえたようだ。
一緒に活動させてくれるという。
行方不明になった初代のことはあえて聞かなかった。
父から何度も聞かされた無敵の英雄像を守りたかったからだ。
バットマンの中身を聞いても父との思い出は色あせたりしないが、そこは気分というものがある。
ディズニーランドのミッキーに中の人などいない。
そういうことだ。
ヒーローとしての活動が一年近くなり、ブルースは順調に経験を積んでいった。
かつてはゴッサムのヴィランは凄く凶悪だったらしいのだが、今は別段そうでもないという。
確かに古い資料に出てきたような個性の塊のような連中はいない。
主に悪さをするのはマフィアやらゴッサムに流れ着いた悪党達だ。
以前読んだ本で、ホームズにモリアーティ教授が必要なように、正義のヒーローには凶悪なヴィランが必要という旨の内容があった。
不謹慎ではあるが、確かにちょっと物足りなさはある。
いや、想像だけならともかく実際にそんなのに出てこられたら困る。
特にあのジョーカーとかいうヴィランは最悪だ。
勉強した犯罪心理学などに全く当てはまらず、何をするのか本当にわからない。
犯行の予測が出来ないだけでも厄介なのに、さらに頭がとてつもなく切れるという。
オリジナルの毒なども操り、さらには人を悪に堕とす話術もあるという恐ろしい男だ。
初代バットマン失踪と近い時期に消えたそうで、噂ではバットマンが命と引き換えに倒したのではないかと言われている。
真実はわからないがありえそうだと感じた。
ある日の夜バットマンファミリーから招集連絡がきたのでバットマンの衣装を着て向かうと、彼らは酷く深刻な顔をしていた。
「・・・何があったんです?」
ただならぬ気配に思わず尋ねると、ナイトウィング=二代目バットマンが背後のモニターを指し示す。
そこには破壊されて火の手が上がるビルと、大量に舞うトランプのジョーカーが映し出されていた。
「・・・これは」
「30分前の映像だ。先月オープンしたゴッサムセントラルショッピングモールが爆破された」
そう答えたのは現バットマン=三代目だ。
「ディナーで一番混み合う時間帯だからかなりの死傷者が出てる」
重々しくそう告げたのはオラクル。
後方支援を専門とする女性である。
「・・・今更になってジョーカーなんて」
「・・・模倣犯じゃないんですか?」
呻くオラクルにブルースは思わずそう口に出した。
16年近くの潜伏期間は犯罪では長すぎる。
ジョーカーの犯罪を昔の資料で見た誰かが、今になって真似たと考える方が自然ではないだろうか。
オラクルは首を振った。
「・・・少なくともトランプの図案は以前と全く同じよ」
「模倣犯だったとしても、これだけの規模の爆破が出来る伝手がある奴だ。しかもあのジョーカーを真似ようっていうならまともなはずがない」
「早く捕まえなければいけませんね」
ブルースは内心の微かな高揚を押し潰しながら頷く。
まさかよりにもよってあのジョーカーが蘇るとは。
最悪ではあるが、こちらの方が人数もいるしすぐに捕まえられるだろう。
そう楽観視していたのだが、次のナイトウィングの言葉に固まる。
「カー。お前はしばらく学業に専念してくれ。奴は俺達で捕まえる。今日はそう釘を刺すために呼んだんだ」
「え!?な、なんで!?」
まさかこの段階で仲間はずれにされるとは思わず、声に非難の色を強めてしまった。
危険だという指摘は今更だ。
今までの悪党だって銃を持っていた。
素直にそう言えば、ナイトウィングは静かに首を振る。
「ジョーカーはその辺の奴とは違う。やめておけ」
「・・・理由をちゃんと説明してください」
子供じみているとわかっていても拗ねを隠せない。
この一年近く自分だって遊んでいたわけではないのだ。
実力だって間違いなくついてきた。
ナイトウィングは仮面越しの瞳で真っすぐにブルースを見つめる。
「・・・お前には親父さんがいるだろ」
「え」
「親父さんの命が惜しいならやめておけ。奴はやる。本当にやる」
だから今回だけは手を引け。
その言葉は酷く重く、静かだった。
脅しではない。
声を荒げられなくともすぐにそう伝わった。
父を人質に取られる。
考えたこともなかった。
正体を隠していれば、父は無関係でいられると思いこんでいたのだ。
改めてモニターの中の惨状を見つめる。
あの中に父がいたとしたら。
そう考えると、とても食い下がる気にはなれなかった。
悔しくはあったが、しっかりと首を縦に振った。
さらに少し時が経ちブルースは17になる。
まだジョーカーは捕まっていない。
あれから何度か爆破事件を起こしているが、全く姿を現さないためバットファミリーも模倣犯か否か判断しかねているらしい。
父にそれとなく相談したところ、『どんなスポーツ選手や格闘家だっていきなり試合に挑むわけじゃない。練習や休養の期間を疎かにしちゃなんねぇぜ』と慰められた。
父の言う通りだ。
ヒーロー活動は少し休むことになっているが、それでやる気がなくなったわけではない。
今だって体は鍛えているし、色々なことを勉強して知識を増やしている。
ただやはり父のためとは言え自分だけ参加出来ていないという無力感は大きい。
息子の鬱屈とした気持ちを察したのだろう。
父が少し規模の大きな誕生日パーティーを企画してくれた。
自宅から少し離れた広い場所を借りた今までにないものだ。
本当は家の庭でやろうと考えていたらしいが、せっかくだからたくさんの人を招くことにしたらしい。
おそらく父はいろんな人と話して新しい知見を得ることが、息子の悩みの解決を助けるのではないかと考えているのだろう。
確かに小さな頃から『自分で考えるというのは、誰の意見も聞かないという意味ではなく、色んな人の話を聞いたり調べたりしてから自分で結論を出すということだ』と教わってきた。
ここは素直に父の気遣いを受けよう。
ブルースはそう決めて、友人達に招待状を書き始めた。
『ごめん!ちゃんと埋め合わせはするからよ!』
「いいよ。父さん忙しいの知ってるし。なんか言い訳が彼氏みたいになってるよ?」
誕生日パーティー当日。
ブルースを祝うために集まった人々の中に父はいなかった。
どうしたのかと心配していると、直後に本人から電話があった。
どうやら強引な客が無理矢理仕事をねじ込んできたらしい。
最初は断ったようだが、その客がなかなか地位がある人間らしく、暗に会社の評判を落とすと脅してきたため断り切れなくなったそうだ。
大企業だったら突っぱねる案件だろうが、父の会社はいくら固定客がたくさんいるとはいっても小さな会社だ。
ひとりでやっているならまだしも、今回のパーティーにも参加してくれている社員達を路頭に迷わせるわけにはいかない。
父の選択は正しい。
残念だが、父には朝おめでとうを言ってもらったし、プレゼントだって後で家でもらえば良い。
むしろ慌てて仕事をして怪我でもしたら大変だ。
「俺のことは良いから父さん無理しないでね?俺は父さんが用意してくれたパーティーを満喫するよ」
『そうしてくれ』
そこで父は一度言葉を切って、静かな、少し涙が滲んだ声で告げた。
『誕生日おめでとう、ブルース。お前がこれからどんな人生を歩むのかわからない。だが、これだけはどうか覚えていてくれ。俺はお前を心から愛している。今までもこれからも、どこにいてもな』
「俺もだよ、父さん。ありがとう」
少し言葉が大仰な気がしたが、誕生日だからだろうと気にしなかった。
互いに少し笑って電話を切った。
パーティーがそろそろ解散という時にはもう夜が更けていた。
あれから父からなんの連絡もない。
気になって電話してみたが、電源が切られているらしい。
仕事柄いつでも連絡を受けられるようにしている父にしては珍しいことだ。
「アルルさん。父さんのスマホ繋がらないんですけど、父の仕事ってもう終わってますか?」
長年父の秘書をしているベテラン事務の女性に尋ねた。
色んな業務入り乱れる職場は社員の予定が一覧出来るスケジュール共有アプリがある。
彼女なら父の仕事が終わったか閲覧出来るはずだ。
尋ねられた社長秘書はすぐに自身の端末でアクセスし、整えられた眉を寄せた。
「あら?社長スケジュール入れるの忘れたのかしら。今日の午後は予定通りオフのままだわ」
「・・・」
これも今までになかったことだ。
父は記憶力が良いので予定自体は自分で覚えていたが、社員に周知するためにスケジュールは必ず入れていた。
そもそも仕事で時間を取られているにしても、息子が途中から来てくれることを期待しているのを知っているのだから、こんなに遅くまで一切連絡がないのもおかしい。
父はどんなに忙しくても仕事が長くかかりそうな時は連絡をくれた。
おかしいがいくつも重なっている。
嫌な予感がした。
無視できないほど強い予感だ。
気付いた時には全力で駆け出していた。
誰かが付いてくるのが視界の端に見えたが、振り返って確認する余裕はない。
直感的に我が家に向かっていた。
見慣れた家は見知らぬ場所のように感じられた。
父と一緒にペンキを塗った壁。
そこには毒々しい蛍光塗料でスマイルのマークが描かれていた。
「・・・ジョーカーのマークだ」
一緒にきた誰かが呻くのが聞こえた。
なんでそんなものがここにあるのだろう。
誰かの悪戯?
だったら犯人を見つけて警察に突き出さないと。
そしてその後また父さんとペンキを塗り直そう。
今度はもっと柔らかい色はどうだろうか。
汚れが目立つかな。
でも最近は汚れづらい塗料も色々売っているはず。
当たってほしくない想像からなんとしてでも逃げようと、ブルースの頭にそんなことを思い浮かべる。
だが現実は非情で、スマイルマークの下に手紙がナイフで止められていることに気付いてしまった。
何かに操られるように近付き、ナイフを抜いて手紙を取る。
無駄に可愛らしいデザインのバースデーカードだった。
【お誕生日おめでとう、ブルース君!ヒーローの活動には慣れたかい?頑張る若人にジョーカーおじさんからプレゼントだ!なんだと思う?ヒント。お前さんの大好きなもののローストだ!ちょっと火が通り過ぎたかもしれないが受け取ってくれ!愛をこめてJOKERより】
文字が笑い狂うようにがくがく揺れた。
違う揺れているのはブルースの手だ。
すぐ横のうっすら開いた玄関。
何故今まで気付かなかったのか。
酷く焦げた臭いがする。
鼻や喉に刺さるようなそれに、唇のべたつく感触。
震えが止まらない。
中にあるものを見たくない。
だが足は自然と家の中へ向かう。
誰かが止めたようだが、なんと言ったのか聞こえなかった。
予想が外れてほしい。
外れてくれるなら何でもする。
これからどんな苦難が待ち受けようと構わない。
父さんがいてくれればそんなのどうということはない。
だからお願いします。
どうか
どうか
心の底からそう祈り、居間のドアを開けた。
祈りは届かなかった。