こんな役は自分には向いていない。
自分は慰めや宥めは得意ではないのだ。
だが来てしまった以上、放り出すわけにもいかない。
現バットマン=ダミアンは目の前の少年を見つめながら今更ながらそう思う。
生活感がある暖かい雰囲気のリビング。
二人用には大き目のテーブル。
以前は備え付けの椅子が二脚あったようだが、今は一脚しかない。
残りのひとつに、家主となった少年が無言で座っている。
その顔立ちはダミアンの父によく似ていたが、虚無をまとった幼さが残る表情は彼が別人であることを示していた。
少年=ブルース・カーの養父ジョセフは椅子に縛り付けられ、リボンがデコレートされた不燃布にくるまれた状態で布の中で焼き殺されていた。
遺体は炭になっており、見た目は人間というよりただの黒い塊だった。
おそらくジョーカーはリボンやバースデーカードが燃えないように、さらに言うなら発見者がブルースになるように、炎が家自体に延焼しない形で焼いたのだろう。
遺体には生体反応があった。
焼かれた時彼は生きていたということだ。
ジョーカーは相も変わらず悪趣味な下種野郎だ。
一縷の望みをかけて、もしかしたら本当のブルースの養父はどこかに攫われていて遺体は別人である可能性も探ったが、ゴッサム市警の鑑識の調べではジョセフ本人に間違いないという。
「・・・」
痛いほど静まり返った家の中に、声にもならない掠れきった吐息が聞こえる。
視線をやるとここ一週間ですっかり落ちくぼんだ眼窩から青い目がダミアンを見上げてきていた。
ブルースは養父が死んだ日以来ほとんど何も食べていなかった。
本人はなんとか食事をとろうと努力しているのだが、体が受け付けずに戻してしまうのだ。
見かねたバーバラ達の提案で、今はウェイン・マナーに泊めて点滴などをしてやっている。
今日はどうしてもブルースが自宅に荷物を取りに戻りたいというので一時帰宅だ。
彼はひとりで戻れるとの主張だったが、当人の意向は無視してダミアンが付きそうことに決まった。
亡き養父との思い出が残る自宅にひとりにしたら、衝動的に後追いをしかねないとの判断だ。
今ダミアンはその判断は正しかったと確信している。
ブルースは緩慢に荷物をまとめている時も、椅子に腰かけて休んでからも時折どこか遠くを見つめていた。
おそらくその視線の先には彼の最愛の家族が微笑んでいるのだろう。
「・・・なんだよ。もう戻るか?」
「・・・いいえ。もう少し」
ブルースはゆっくり首を振って、ふらつきながら立ち上がる。
そしてダイニングまで歩くと先ほど整理した冷蔵庫を開けた。
冷凍の食材をいくつか引っ張り出してオーブンレンジに放り込む。
どうやらそれは市販品ではなく、作り置きのようだ。
ここでも彼はなんとか食べる努力をするらしい。
慣れた養父の味なら食べられるかもしれないと考えているのだろう。
その気概は認めてやりたいが、とても褒めてやる気にはならない。
ただただ痛々しいだけだ。
この子は何も悪くない。
正義を行うことを志し、人を救うために努力をし、今回のおとなしくしているようにという指示もきちんと守っていた。
自分がティーンの時なら絶対に守っていなかっただろう。
独自に動いて父に叱られていたに違いない。
なのに真面目に警告に従った彼が家族を失うことになるとは惨い話だ。
自分達がジョーカーかジョーカーもどきをさっさと捕まえていればこんなことにはならなかっただろう。
ダミアンは身を焼くような罪悪感に知らず拳に力を籠める。
この子=ブルース・カーはおそらくダミアンの父であるブルース・ウェインの隠し子だ。
もしそうならディックとダミアンの年の離れた弟にあたる。
ブルース・ウェイン本人がいないので存在を知っていたのか知らなかったのか細かな事情は確認しようがないが、このゴッサムシティで顔立ちがそっくりで名前がブルースなれば赤の他人とは考えづらい。
さらに頭脳明晰でスポーツ万能なところもそっくりだ。
だが特に遺伝子鑑定などはしていない。
最初はしようとしたのだが、ブルースの父親代わりだったアルフレッドが反対したのだ。
ブルースジュニアが本当にブルース・ウェインの息子だったとしても、今の彼が養父と仲睦まじく暮らしていることは本人からの申告と軽い調査でわかっていた。
ならばわざわざ自分達がしゃしゃり出ても混乱するだけだろう。
今のまま暖かく見守るのが一番良いのではないかと。
その言葉にバットファミリーの皆は賛同した。
元々血の繋がりがあろうとなかろうと、これから一緒に戦っていく以上は家族と変わらない。
だからブルース・ウェインとブルース・カーそれぞれを分けて尊重しようというのだ。
だがダミアンはどうしても会うたび父とブルースを比較せずにいられなかった。
ダミアンが父と過ごせた時間はあまり長くない。
合算しても数年程度だ。
突然行方不明になった時はショックだったし、今だって父を待ち続けている。
ブルース・カーとブルース・ウェインは容姿と能力以外あまり似ていない。
頑固で人に悩みを打ち明けるのが苦手だったブルース・ウェインと違い、ブルース・カーは非常に素直で困りごとがあったら適切な相手に相談出来る子だ。
ダミアンも何度か戦い方などについて相談を受けたことがある。
だが年齢も性格も全く違うのに、何故か時々ふたりのブルースは重なって見えた。
全く別な場所で育って、養父とずっと一緒にいられたのにこんなに実父に似ることが出来るのかと、少し嫉妬もした。
しかし今はその嫉妬を心から恥じている。
その嫉妬のせいで、自身が無意識にジョーカーの調査で手を抜いたのではないかと思ったからだ。
もちろんそんなつもりはなかったが、彼の養父が殺されてしまった今ではただの言い訳にしかならないだろう。
ブルースがおぼつかない足取りで温めた食事を運んでくる。
テーブルの上に並べるのを手伝うと、それが手作りのオニオンスープとケークサレであることがわかった。
どうやら二人分あるようだ。
「・・・俺も食べて良いのか?」
おそらくは彼の養父作であろうこれはある意味形見のはずだ。
養父本人に会ったこともないのに自分が食べて良いものだろうか。
ブルース少年は削げた顔をゆっくり縦に振った。
「はい。味が落ちないうちに食べてあげた方が良いと思います。どうぞ」
促されて、恐る恐る口をつける。
素朴で暖かい手作りの味がした。
美味いと素直に言えば、ブルースは弱々しく笑って話題を変えた。
「・・・今日は着替えもそうですけど、どうしても取りに来たいものがあったんです」
スプーンで慎重に掬ったスープを比喩ではなく舐めながら、ブルースは囁く。
ケークサレもなんとかして食べようとしているらしく、細かくちぎってスープで食べやすくしていた。
「・・・何を取りに来たんだ?」
話の続きを促すと、すっと長い脚がテーブルの下から伸ばされた。
サイズの合った真新しい革靴がなめらかな光沢を放っている。
ダミアンは靴に詳しくないが、高そうに見えるし凝ったデザインなので、おそらく市販品ではなく、オーダーメイドの品のようだと感じた。
「・・・父からの最後の誕生日プレゼントです。あの時ここに置いてあった」
「・・・」
なんと答えれば良いかわからず、沈黙を返す。
あの時その場にいたが、言われてみれば確かにテーブルの上にプレゼントボックスがあった。
ブルースは半ばひとりごちるように言葉を紡ぐ。
「父さんがいきなり足のサイズ細かく測りたがったから、なんだろうって思ったんだ。どうせまだ大きくなるからオーダーメイドなんてもったいないって俺言ったのに。近々プロムだから良いの作ろうって・・・言って・・・て」
「・・・」
警察と一緒に通話履歴などを調べた結果、殺害当日ジョセフに仕事などきていなかったことがわかっている。
最後の電話は息子にかけた一本。
死亡推定時刻は電話の時間と重なっている。
彼が息子に仕事が入ったと嘘をついた理由はひとつだろう。
最愛の我が子に最期の言葉を贈った時点で、彼はジョーカーの手の内にいたのだ。
彼がジョーカーに哀願したのか、ジョーカーが気まぐれを起こしたのかはわからない。
ただジョセフは最期に息子と話すことを許された。
ブルースはスプーンを置いて、顔を覆った。
「・・・父さん。最期どんな気持ちだったんだろう。なんで俺にあの時『助けて』って言ってくれなかったんだろう」
「・・・」
言っても間に合わなかったからではないだろう。
それよりもずっと伝えたいことがあったからだ。
「俺のせいだから?俺がバットマンになりたいなんて言わなかったら父さんは殺されずに済んだのに。俺が何かヘマしてジョーカーに目をつけられたから。そもそも俺なんて引き取ったから」
「違う!」
思わず大きな声が出た。
ジョセフとダミアンは面識は全くなかったが、違うと断言出来た。
この夜の闇より陽の光が似合う少年を育てた人間がそんなことを思うはずはない。
死を前にして限られた時間の中で、我が子に愛情を伝えたかっただけだ。
それはブルース自身もよくわかっているのだろう。
しかし怒りや悲しみが上手く処理出来ず、自ら傷を抉ることで痛みに救いを求めているのだ。
ダミアンは椅子から立ち上がると、ブルースの頭を抱きしめた。
ぱさついた髪を撫でてやり、小さな子供をあやすように薄くなった背を軽く叩く。
ブルースの青い両目から涙がぼろぼろと零れていた。
泣き声を抑えて潤んだ吐息が痛々しい。
よしよしと慰めるようにしてやりながら、ダミアンは父を強く思い出していた。
自分は可愛げのない子供だったので父に甘えたり泣きついたりということはあまりしなかった。
だが父もよくこうして優しく抱きしめてくれた。
それだけで全てがなんとかなると思えるほど安心したものだ。
今は色々あってバットマンは引き継いだが、自分も少しは父のようになれているのだろうか?
この傷ついて泣いている子供の力になってやれるだろうか?
ジョーカーを捕まえるだけでなく、内面も助けてやりたい。
『兄』として力になってやりたかった。
しばらくそうしてやっていると、ようやく落ち着いてきたのか身振りで大丈夫だと示してダミアンの胸から離れた。
小さく礼を言い、涙を拭っている。
「・・・もう良いのか?」
「はい。すいません。情けなくて」
「何が情けないもんか。お前は勇敢だよ」
今だって投げ出さず、必死に生きようとしている。
ブルースは頷くと、スープをカップから直接飲もうとする。
なかなか嚥下出来ないようだが、時間をかけてなんとか飲み込むことに成功した。
少年の瞳に火が灯る。
どうやら彼はひとつ山を越えたらしい。
表情に彼本来の明るさが戻りつつあるようだ。
ダミアンが安堵していると、ブルースはいきなり話題を変えた。
「『良い靴は素敵な場所へ連れて行ってくれる』これを取りに来た理由はそれなんです」
おそらく彼の養父の受け売りなのだろう。
良い言葉だと思うが、急にどうしたのか。
ポジティブになるのは良いが、先程まで酷く落ち込んでいたために何か不穏さを感じた。
そもそもこの場合の素敵な場所とはなんだ?
この状況でどこかへ気分転換に行くという風には思えない。
訝しむダミアンへブルースは微かに笑って、青い双眸を向ける。
美しい青の世界にぞっとするほど深く昏い亀裂が覗いていた。
「きっとこの靴は奴のところへ俺を連れて行ってくれる。奴が道化からただの死体になる場所へ」
「おかえりなさい♪おかえりなさい♪俺の王様おかえりなさい♪待ってました♪ずっとずっとずっと♪待ってました♪」
ジョーカーの楽し気な歌声が室内に響く。
最初は鼻歌だったのに、途中からきちんとした独唱になっていた。
童謡めいた節はついているが、おそらく童謡ではない。
歌い手の手元ではこれから多量の命を刈り取る予定の爆弾が製造されている。
おそらく表面に貼り付けるらしい不気味なスマイルマーク他装飾も隣に置いてあった。
「楽しそうだな」
リドラーは呆れた様子を隠そうともせず、声をかける。
しかし歌か悪趣味なジョークグッズ作りに夢中になっているジョーカーは声をかけられたこと自体に気付いていないようだ。
溜息をついて、先ほどジョーカーの部下が出した飲み物をかき混ぜる。
今更毒は入っていないだろうが、昔からジョーカーのところで飲み食いする気にはなれない。
子供を引き取ってすっかり日和ったと思っていたのに、本質的に何も変わっていないことがわかったのだから尚更だ。
バットマンが赤子になったことと、それをジョーカーが育てることにしたことは当初から知っていた。
ジョーカーとバットマンの偽造身分証などを作ったのはリドラーだからだ。
最初はいつものジョークかと思ったが、実際に赤子の遺伝子情報を調べたところブルース・ウェインと一致したので信じるしかなかった(ジョーカーにはバットマンの中身を知りたくないと言われたので正体は教えていない)
ちょうどまとまった金が欲しいと思っていたところだったので、ジョーカーからの依頼に基づいて完璧なデータを作ってやった。
ちなみに今回のジョセフ・カー死亡偽装のための警察内データベース改ざんもジョーカーに体格が近い男の調達もリドラーが行った。
当時はどうせ気まぐれで飽きっぽい道化は赤子の世話などすぐに投げ出すだろうと踏んでいたのだが、予想外に彼はバットマンをきちんと育てた。
『ジョセフ・カー』の葬儀で久しぶりに見たが、とても狂気や悪そのものと謳われた男の息子とは思えない聡明そうで体格が良い子供だ。
泣きながらも列席者にしっかりと挨拶をする様子は他人事ながら胸を打たれた。
葬儀の様子を長年秘書に扮していたアルル=ハーレイとリドラーに聞いたジョーカーは泣いて喜んでいた。
これからあの子は怒りを原動力に父の仇を追い始めるだろう。
ようやく待ちに待った追いかけっこが再開出来ると笑う様子は、本当に昔と変わらない。
リドラーは時を重ねたはずなのに、道化は年を取ることすら忘れたようだった。
いや、本当に忘れているのかもしれない。
それとも故意に無視しているのか、思い込んでいるのか。
わかっていて気にしていないということはありえない。
中身が誰でも良いなら代わりはいた。
おそらくジョーカーは一番肝心なことを見ていない。
ブルース・カーはブルース・ウェインではない。
人間をその人たらしめるのは記憶だ。
記憶が同一でない以上、遺伝子が同じでも別人だ。
それをジョーカーは元に戻す方法を探すではなく、自身が育てることで上書きしてしまった。
だからもう彼が再会を渇望したバットマンはどこにも存在しないのである。
「~♪・・・あ?リドラー来てたのかよ?見ろ!今回の爆弾の威力は凄いぜ!あの子と遊ぶ最初だからな。気張っていかねぇとな。あー、何着てこうかな」
「・・・ああ」
ようやくリドラーの存在に気付いたようだが、またすぐに自分の世界に浸る。
本当に相変わらずだ。
いや、ジョーカーも変わった。
これもおそらく本人は気付いていない。
ジョーカーは『バットマン』を『あの子』と呼んでいる。
宿敵ではなく、まだ息子として呼んでいるのだ。
これから始まる戦いは以前のものの延長ではない。
続きをするには互いに変質し過ぎている。
「・・・どうなるやら」
リドラーの頭脳でも戦いがどうなるか予測がつかない。
ただとても酷い事になるという確信はあった。
ダミアンは多分20代後半です。