「・・・あんたはこれで良いのかい?」
どこか憔悴した様子の中年男=ジョニーの問いに、背を向けて爆弾の配線をいじる女は振り返りもしない。
ただ未だに艶がある髪を揺らし、面倒そうに応じる。
「ビビッてるならさっさと逃げれば?ミスターJも今はバットちゃんのこと以外どうでも良いだろうから、別に追いかけたりしないと思うわよ?蝙蝠連中もあんた程度なら気にしないでしょうし」
「・・・自分の命が可愛いならジョーカーさんがあの子を引き取った時点で逃げてたさ」
長い付き合いにもかかわらず、非常に素っ気ない言葉に、ジョニーは肩をすくめる。
もう何度目になるか忘れた爆破の準備。
今回は建物そのものの倒壊より、飛散したガラスによる被害を目的としたものだ。
明日の通勤ラッシュは血で染まるだろう。
きちんと接続された爆弾を丁寧に蓋で覆い、女はようやくジョニーを見た。
その綺麗な顔は道化王子と同じく時を忘れたように変化が感じられない。
以前そう口にしたら『努力の結果だ』と怒られた。
褒めたつもりだったが、女心は本当に難しい。
ニッパーなどの工具を道具箱にしまい、女=ハーレイはどこか呆れたような声で聞いた。
「で、今はあの子が可愛いって?」
「・・・それだけじゃない」
ジョニーが好きなのはブルースだけでなく、父としてのジョーカーもだ。
あの親子は幸せに過ごしてほしかった。
これからも休みにキャンプに行ったり、息子の試合や発表を見に行ったりしてほしかった。
たとえ仮初でも、優しい中小企業社長として地域の尊敬を集め続けてほしかった。
15年以上彼らの穏やかな生活を見守ってきた身としては、現状は本当に辛い。
あの親子が殺し合うなど見たくない。
ハーレイは全てを見透かしたように釘を刺す。
「・・・余計な事考えてるならやめなさいよ。流石に彼も黙ってないわ」
「わかってる。だがこのままはもっとまずい。今なら間に合う」
「手遅れよ、全部」
「!」
ハーレイはあっさりとそう告げると、話は終わったとばかりに立ち上がる。
作業は終わった。
ここにはもう用はない。
「たとえばあの子に『お前の父さんは生きてて、実はジョーカーなんだよ。ついでにお前は初代バットマン本人なんだよ』って教えたとして、それで綺麗さっぱり元通りってなると思う?なるわけないじゃない。尚更あの子混乱するわよ。『罪なき人々を殺した憎き敵』と『自分を今まで愛情たっぷりに育ててくれた大切な父』が同一人物なんて。しかもあの子に出来ることは変わらない。殺すかアーカムに入れるかくらいでしょ。もう元の生活になんて戻れない。それにバッツの時の記憶がないんだから、バットファミリーとの関係でも悩むはめになるでしょうし。なら最初から変なこと教えない方がマシよ」
「でも最悪あの子がジョーカーさん殺すことになるんだぞ。もうあの二人は親子だ。見ていられない」
ジョーカーが死ぬことについても思うところはある。
ジョニーはかの道化王子を恐れつつもずっと慕い続けていた。
彼の会社の従業員になるために整形したほどだ。
ジョーカーにもブルースにも死んでほしくない。
今までも今だって殺しに加担しておいて勝手な話であることはわかっていたが、今更善人ぶるつもりもなかった。
ここまできたら望みたいように望み、やりたいようにやるだけだ。
ハーレイは形の良い鼻を鳴らした。
「今更どうしようもないでしょ。むしろ父さんの仇を討ってやったってすっきりさせてあげた方が良いと思うわ」
「でもあの子は・・・」
「でもでもだってってダメ男と別れられない女じゃあるまいし、いい加減割り切りなさいよ。大体殺すか殺さないかはその場の勢いやらがあるだろうしどうなるかはわからないわ」
「・・・あんたはいい女だからジョーカーさんと別れたのか?」
思わず皮肉な口調になってしまった。
別れたからジョーカーがあの子に殺される可能性を受容出来るのだろうか。
逆だってありえるだろうに。
その問いに、整った鼻梁の上に不機嫌な皺が寄った。
「彼はダメ男とかそういう次元じゃないわ。混沌の化身よ。私は単純に自分以外を愛してる男を想うのをやめただけ」
「だったらあんたこそジョーカーさんのとこから去るべきだっただろう。なんでずっとあの人の会社で事務やってたんだ?」
当然の指摘に、女は大げさに溜息をついた。
「・・・彼は劇薬過ぎたのよ。もう知る前には戻れない。あんたもそうでしょ?」
「・・・」
「・・・私は彼がどれだけ『あいつ』が帰ってくるのを待っていたのか知ってるの。『あいつ』のことをどれだけ想っていたかも。本当は私が助けてあげたかったけど無理だった。だから・・・せめて叶えてやりたいの。ずっと大好きだったんだから」
ハーレイはそう何かを断ち切るように告げると、迷いない様子で再び背を向けた。
今度は出口へと向かう。
そんな彼女の後をゆっくりとジョニーは無言で続いた。
もうこれ以上の会話は無意味だったからだ。
その皺の浮いた両手は、何かの決意で硬く拳が作られていた。
「・・・あいつ。思い切りやりやがったな」
「大丈夫でございますか?」
「わりと痛い。まあ、仕方ないさ。きっと本人も反省してる。それにあれは心が痛すぎてじっとしていられなかっただけだ。俺を殴ろうと思っていたわけじゃない」
男性的に整った顔についた青あざを鏡で確認しながら、ナイトウィング=ディック・グレイソンはアルフレッドに苦笑して見せた。
ようやく食事が出来て動けるようになったブルースは明らかにおかしかった。
あれほど穏やかで素直な子だったのに、常に割れる寸前の風船のような空気をかもしている。
言動も非常にぴりぴりしており、元々気が強いダミアンやバーバラと頻繁に言い争うようになってしまっていた。
現在ブルースはジョーカーへの殺意を隠していない。
自身の唯一の家族を奪った悪魔を生かしておくものかとジョーカーをひとりで探そうとして阻止されている。
ファミリー内でもめている主な原因はそれだ。
バットファミリーは初代バットマンから不殺を徹底している。
殺してしまえば、ただでさえ法律違反をごまんとしているのに犯罪者との境がなくなってしまうからだ。
どんな事情があろうと、あの子にもそれを遵守させねばならない。
今のところまだ道化はあの子に直接は仕掛けていないが、やはりあの子では真の狂人を相手にするのはあらゆる面で力不足だろう。
ジョーカーと直接対決などしたら、おそらく次はない。
しかしあの子がじっとしていられないのも心情的にわかる。
慕っていた養父があんな惨い殺され方をして、平静でいろと言う方が無理だ。
幸いなことにその養父は息子に『寝たら死ぬという状況じゃない限りはどんなに忙しくても6時間は絶対寝ろ。きついと思ったら8時間寝ろ。もう駄目だと思ったら10時間寝ろ』と教え込んでいたらしく、かつての父=ブルース・ウェインのように徹夜でジョーカーを追うようなことはしていない。
学校は卒業するように言われていたので、ひとまず休学届を出したそうだ。
これだけ聞いていると先を前向きに考えているように感じるがとてもそうは思えない。
遺言を守らねばならないという強迫観念的な義務感で従っているように見える。
自力で眠ることが出来ずに強い睡眠薬を飲んだり、無表情で出された食事を胃に入れているのを何度も見た。
あの調子ではジョーカーを捕まえる前にあの子が壊れてしまう。
最初は自分達に任せてブルースは静養するように言ったのだ。
だがもちろんあの子は従わなかった。
それはそうだろう。
あの子は素直に指示に従ったのに家族を失ったのだ。
さらにまだ自分達は現在もあちこちで事件を起こしているあの道化の居場所を特定出来ずにいる。
良いとこなしというやつだ。
もしかしたらあの子はファミリーの人間を信頼出来なくなってしまっているのかもしれない。
そうは言ってもブルースを自由に行動させるわけにもいかず、ディックは重ねて待機を命じた。
ひとりで動き回るより、ある程度の確証が出てからの方が効率が良いとも説明した。
『皆で捕まえよう。そして今度こそアーカムに一生入れておくんだ』
そうブルースの肩に触れて言った時、少年の体が強張ったのがわかった。
『・・・カー?』
『・・・・・・なんで殺したら駄目なんですか?』
心が摺りつぶされ、そこからにじみ出たような問いだった。
ナイトウィングは何も答えなかった。
初代からの理念をここで語っても無意味だとわかっていたからだ。
ブルースは幽鬼の如く濡れ濡れと輝く双眸で見つめてくる。
『父さんは殺された。他にもたくさん殺された人がいる。なのになんで奴は生きる権利が保障されるんですか?』
『・・・カー』
『もう綺麗ごとはたくさんだ!!それで何が救われるっていうんですか!?初代は初代でしょう!?要するに貴方達は自分の手を汚したくないだけじゃないですか!?』
『カー!!』
あまりに目に余る言葉に、思わず少年の両肩を強く掴む。
しかしブルースの絶叫は止まらない。
『俺は汚れるのなんて怖くない!!皆がやらないなら俺がやる!!どんなことしてでも道化を父さんと同じ目にあわせてやる!!』
『やめろ!!そんなことお前の親父さんが望んでいるわけないだろ!?』
どんな言葉をかければブルースを止められるのかわからなかった。
こんな『何か言ってやりたいが、何を言えばわからない』という時のためにおそらく定型句というものはあるのだろう。
だがそれを言ったところでこの少年を楽にしてやることは出来なかった。
『あんたが父さんを語るな!!父さんはいつだって俺の味方だったんだ!!』
形は怒声だが、悲鳴にしか聞こえなかった。
ディックがブルースをひとまず落ち着かせようとすると、彼はその手を払いのけて駆け出した。
それを止めるためにもみ合いとなる。
最初に手を出したのはブルースだ。
本当はそこでやり返さずにいた方が良かったのだろうが、ブルースは真面目に鍛えていたので弱っていても無傷で無力化というのは難しかった。
なんだかんだで乱闘に近くなり、最終的には絞め落とすはめになってしまったのだ。
「・・・本当にどうするかな。まだ寝てるんだよね、あの子?やりたくないけど、事態が終息するまでずっと閉じ込めておくのが良いかも」
実を言うとディックにも、ブルース少年の復讐を完遂させてやりたい気持ちもある。
ジョーカーは悪そのものだ。
アーカムに入れずに、消してしまえばもう犠牲者は出ない。
だがもしあの子がやり遂げてしまったら、あの子はもう二度と幸せになれないだろう。
殺しをして平然と生きるにはブルース・カーは優しく育ち過ぎだ。
ジョーカーのためにこれ以上あの子を犠牲には出来ない。
「・・・私が少しお話をさせていただいても良いでしょうか?」
悩むディックの顔の痣にコラーゲンシールを貼り付けた後、アルフレッドはそう静かに尋ねた。
ウェイン・マナーをずっと守り続けている彼の言葉に、ディックはやや戸惑いながら首を傾ぐ。
「え、もちろん。俺の許可なんて必要ないけど・・・」
二代目バットマンが不思議に思ったのは、アルフレッドがブルースと話したがったことだ。
アルフレッドは特にブルース・カー少年を避けたことはない。
いつものように完璧な執事として世話をしていた。
だがいつも深入りしないように一歩引いた印象があったのも事実だ。
他のブルース・ウェインの家族のように、かつての主人と混同してしまわぬよう自身を律していたのだろう。
「・・・本当はこんな年寄りが出しゃばるのもどうかと思っていましたが、彼が苦しんでいるのをこれ以上黙って見ていることも出来ません。殺人を思いとどまるよう出来る限り説得をしてみます」
「お願いするよ。俺達も一刻も早くジョーカーを捕まえる」
「そうなさってください。彼もあやつが野放しという状況が変われば、少しは落ち着いてくれるでしょう」
話はまとまった。
ふたりが各々の目的地に移動しようと腰を上げた時、まるでそれを待っていたかのように屋敷メイドのひとりが手紙を持って、屋敷への来客を伝えてきた。
手紙は可愛らしいピエロが描かれていた。
「・・・なんでお前らしかいないんだよ」
手紙の地図に書かれた場所にいた道化は、やってきたナイトウィングと三代目バットマンに対し、不機嫌の見本のような声で出迎えた。
かつては羽振りが良かったが、不況による客のニーズの変化に対応出来ず潰れたホテルの廃墟。
パーティ会場として使われていた場所の、広く弧を描いた階段の上にジョーカーは立っていた。
年齢を感じさせない靱やかな長身で鮮やかな紫色のスーツを小粋に着こなし、胸元には大輪の黒い薔薇が飾られている。
緑の髪も、ピエロのメイクも以前と何も変わらない。
忌々しいまでにかつて初代バットマンと対峙した時のままである。
バットマンサイドとしては、偽物の方が楽だったが、本物で間違いないようだ。
彼らとジョーカーは16年ほど顔を会わせなかったが、お互いに感慨などない。
語り合うこともない。
ふたりは早々にジョーカーを捕縛するため、油断なく周囲を警戒する。
今のところは罠の気配はない。
道化は眼下のかつてのロビン達にギラギラした双眸を細めた。
「あの子はどうしたんだよ?可愛い可愛いバットマンのブルース・カーはどこだ?」
心底イライラした様子で尋ねてくる。
やってきたふたりのことなど眼中に無いとでも言いたげだ。
「・・・これから会わせてやるよ。格子越しだがな」
ダミアンは故意に静かな口調で挑発した。
実際は直接会わせるなど危なくて出来ないだろう。
あの子が何をされるかわかったものじゃない。
ジョーカーは大袈裟な身振りをつけて嘆いた。
「・・・本当にお前ら、昔から俺達の間の邪魔しかしないよな。どうせ無理矢理置いてきたんだろ?いや、むしろ俺のラブレター盗み見して、あの子に見せなかったな?ひでー奴らだぜ、全く。あー・・・・・・もういいや。帰っていいぜ。今回は見逃してやるよ。あの子とのデートは延期だ」
「・・・はぁ!?」
心底面倒そうに手を振って招かれざる客を追い払おうとする道化に、三代目は思わず声をあげる。
当たり前だがこのまま『はい、そうですか』と帰るわけはない。
奴は大量殺人犯だ。
姿を見せた今捕えるに決まっている。
「ふざけるなよ!?お前このまま逃げられると思ってるのか!?」
「逃げる?俺が?なんで?あの子以外に興味ないから出直すだけだよ」
ジョーカーはそんなこともわからないのかと訝しげだ。
バットファミリー達の歯がギリリと噛み締められた。
「何故あいつにこだわる!?あいつはお前が執着していたバットマンとは別人なんだぞ!?」
ナイトウィングが叫んだ。
道化が狂っているのは今に始まった話ではない。
何故今まで15年以上身を潜めていたのか?
何故今になって活動を再開したのか?
何故初代にあれほどこだわっていたのに、最近バットマンになったばかりのあの子に執着し出したのか?
聞いたところで正直に答えるはずはないとわかっていたが、聞かずにはいられなかった。
当然とも言える疑問に返ってきたのは、あっけらかんとした答えだった。
「そらそうだ。あの子は『俺だけの』バットマンだ。お前らのじゃない」
「・・・はあ!?」
意味がわからない。
呆然とするふたりに対し、ジョーカーは物覚えが悪い生徒に言い聞かせるように、言葉を重ねた。
「だーかーらー。あの子は俺のことを一番に考えてくれる俺だけのバットマンだって言ってんだよ。おわかり?」
やはり意味がわからない。
道化王子はくるりと踊るようにステップを踏んだ。
「そりゃあ、バッツのことは今でも愛してるさ。誰よりも何よりも。だが、あいつにとって俺は唯一で特別ではあるが、優先順位一番にはなかなかしてもらえないこともわかってた。最初は我慢して地道にアピールしてたんだぜ?デートでマンネリにならないように色々企画してよ。でもそれって凄い辛いんだよ。連絡するのも俺ばっかりだしさ。俺はこんなに一途にあいつを愛してきたってのに、どんなラブレター出したってバッチィは他のどうでも良い案件にかまけちまう。俺にはあいつしかいないってのに酷ぇ話よ。だったら俺は俺だけのバットマンを作ったって良いじゃねぇか」
どう考えても論理の飛躍だが、ジョーカーの中ではおかしくしない流れなのだろう。
まるで愛しの彼が目の前にいるかのように抱擁の真似事をし、己を抱きしめた。
「俺のことをいつでも考えてくれて、俺だけに殺意を向けてきっと殺してくれる理想のバットマンになって戻ってきてくれるのをずっとずっと待ちわびてたんだ。そしてようやく帰ってきた。その初デートに気合入れてきたってのに、てめぇらは」
不意に声が低められた。
「本当にムカつく連中だ。昔から空気が読めないにもほどがあるだろ。・・・だけど殺さないでおいてやるよ。お前らまで殺したら流石にあの子は痛みに鈍くなっちまうだろうからな」
言いながらどこからか小さなスイッチを取り出し、止める間もなく押し込む。
爆音が響き、ジョーカーは笑い声を残して消えた。