現在住んでいる家ではなく、昔長く使っていたセーフハウスがある。
現役時代は他の家よりも頻繁に出入りしていた色々エピソードがある場所だ。
一応不定期に掃除はしていたが、やはり少し埃っぽい。
ひとまず使うグラスだけを洗い乾かしておく。
リドラーがそこを訪れたのは大した意味はない。
あの道化の訃報を聞くのはこのあたりが良いのではないかと思っただけだ。
ジョーカーのように明確な引退という形式をとったわけではないが、リドラーは初代バットマンが消えて以降目立った悪事を働かなかった。
目障りな障害がなくなって、急に張り合いがなくなったとでも言おうか。
今だってアーカムから脱獄しているわけではなく、(色々手を回したが)正式に退院している。
金を稼ぐ方法も株の売り買いなどが主で至ってクリーンなものだ。
昔の同業と完全に縁が切れたわけではないが、かつてのような狂おしいまでの承認欲求などは落ち着いていた。
ジョーカーからの依頼は例外である。
「訪れる時は亀の如く、すれ違う時は隼の如く、過ぎ去ってからは石の如く。私は誰?」
答えは時間だ。
時間は大きな力を持つ。
多くを変質させる。
老いもそのひとつだ。
この戦いが終わった時、ジョーカーは生きていないだろう。
漠然とではあるが、半ば確信している。
それが奴の思惑通りの愛しの我が子によってもたらされた死なのか、別なものなのかはわからない。
自分もそうだが、奴だってもう無理がきく年齢ではないだろう。
正確な年齢は本人すらもわかっていないだろうが、おそらくリドラーより年下ということはないはずだ。
いくら見た目に変化がなくとも、確実に衰えている。
それに比べてブルースは経験こそ浅いが十七歳の若い体があるし、他のファミリーの助けもあるだろう。
何よりジョーカー本人も以前のように長く戦い続けられないことはわかっているはずだ。
以前のようにアーカムに入れられて何度も脱走してということはせず、短期決戦で全てを終わらせることだろう。
今回で終わるのか。
次回なのか。
少なくとも遠くはない。
きっとすぐだ。
ジョーカーとリドラーは友人ではないし、ましてや仲間などというものでもない。
昔から散々振り回されてばかりで辟易したものだ。
だが、死ねばせいせいするかと言えばそんなこともない。
見ればかまってやっていた野良猫くらいの位置だ。
愛着とでも言えば良いのだろうか。
多少感傷的になる程度の気持ちはある。
どうせ自分の祈りなどあってもなくとも勝手に笑って死んでいくような奴ではあるが。
リドラーが静かに目を閉じていると、ばたばたとせわしない足音が近づいてきた。
これには聞き覚えがある。
どうやら今回は生き延びたらしい。
無遠慮に_そもそもこいつは遠慮などしたことがない_開かれたドアから不機嫌な白い顔が覗いた。
どうやらデートが上手くいかなかったらしい。
胸元の黒バラがしょげていた。
「ああ?エディいたのかよ」
「知っていたか?ここは俺の家だ」
「半分は俺の家みたいなもんだろ?そこの壁綺麗に修理したの俺だぜ」
「お前が壊したとこだろうが」
あまりにも昔のままだった。
こいつはいつでも勝手で、好きに自由に走りまわる。
その視線の先には常にあの蝙蝠がいた。
ずっとそうだ。
だがそれももうすぐ終わる。
終わってしまう。
「あー。とりあえず一杯飲んだら、リベンジでも行こうかね。一回の邪魔で俺の意気込みが萎えると思ったら大間違いだ」
許可を得るという発想すらなく、ジョーカーは慣れた様子で酒とグラスを持ってくる。
グラスはさっきリドラーが洗ったものだ。
リドラーの分も手渡された。
思わず苦笑する。
「・・・寂しくなるな」
「ん?なんか言ったか?」
「楽しそうで何よりだと言ったのさ。あ、その酒高いんだからがぶ飲みするなよ」
「ケチケチするなよ、これくらい」
家主は益々笑って空いたグラスに酒を注ぎ、無言で乾杯した。
何を祈ったのかは口にはしなかった。
「・・・そうですか。やっぱりぼっちゃんまだ具合悪いんですね」
「・・・ええ。今もお休みになられていて」
ブルースの見舞いにやってきたブルース父の会社の社員達に、アルフレッドはそう言葉を濁した。
この言葉は嘘だ。
ブルースはディックやダミアンがジョーカーと対している間にこの屋敷から抜け出してしまっていた。
すでにふたりを含めた皆が追跡しているのでほどなくして見つかるだろうとは思うが、まだ楽観は出来ない。
傷ついた彼が自棄にならないとも限らないからだ。
しかし、サポートの前線から退いた自分は今やるべき別な事がある。
それがずっと臥せっている(ことになっていた)ブルースの見舞いにきた彼らへの対応だ。
ジョセフ・カーの会社は現在副社長だった人物に引き継がれて運営されている。
社員達にはきちんとジョセフが亡くなった際に支払われる少なくはない退職金が事前に用意されていたそうだが、誰も受け取らず会社に残ったそうだ。
社長令息だったブルースのことも皆心から心配しており、自分のところに引き取ろうと考えていた社員もいた。
どれだけ前社長が皆に愛されていたのかわかる話である。
彼らは療養先であるウェイン・マナーへ今までも何度も足を運んでくれていたのだが、そのたびにブルース本人から帰ってもらうように言付けをもらっていた。
ブルース曰くは「どんな顔をして会えばいいかわからない」とのことだ。
「・・・ブルースぼっちゃん入院しなくて大丈夫?ずっと寝てないといけないくらい具合悪いなら入院しなきゃ」
「ビッグマイク。ぼっちゃんは今心の怪我を治しているとこなんだよ。・・・ジョ・・・ジョセフ社長が死んじまったことで出来た怪我の」
「心に出来た怪我は放っておくと治るの?ビッグマイクはボスに『大きな怪我したら病院に行かないと死んでしまう』って教えてもらった」
「・・・ビッグマイク」
ビッグマイクと呼ばれた筋骨隆々の大男は悲しそうに俯いている。
皆仕事があるし大人数で押しかけるわけにもいかないので見舞いのメンバーは入れ替わっていたが、いつもこのビッグマイクとジョージは固定だった。
ビッグマイクはどうやら精神的に幼く深く考えることが不得手な性質なようだが、それゆえに純粋に社長の死を悲しみ、その息子の心配をしている。
ジョージももちろん心配しているようだが、それよりもビッグマイクの付き添いで来ている感があった。
泣き出しそうな大男を宥め、箱に入った菓子をアルフレッドに渡してくる。
「・・・また出直します。これ、皆さんで召し上がってください。最近人気らしいんですよ」
言いながら箱入りの菓子と一緒に入っている小さなパンフレットを開いて見せてくる。
それを見た瞬間、アルフレッドの目が見開かれた。
「!・・・ありがとうございます。皆でいただきましょう」
「・・・よろしくお願いいたします。ほら、ビッグマイク。帰ろう。ぼっちゃん具合が良い時にまた来ようぜ」
「それはいつ?」
「・・・多分そんなに先ではねぇよ。ほら、行こう?帰りにボスの墓参りもしていこうぜ」
「・・・うん」
執事は去っていくふたりのやりとりはほとんど聞いていなかった。
その双眸は受け取ったカードの文字にだけ注がれている。
印刷された菓子の説明の上に赤い手書きでこう書かれていた。
『初代バットマンとブルース・カーの遺伝子情報を比べてくれ』
ウェイン・マナーの与えられた部屋を抜け出したブルースは、屋敷から可能な限り離れてぼんやりと自分の手を見つめていた。
別に観察しているわけではない。
まだ心に力が入らないだけだ。
どういう経緯で自分があのベッドに寝かされていたのかは覚えている。
でも殴ってしまった彼に謝ろうとは思わない。
自分が間違っているとは思えないからだ。
理屈上はディックの言うことが正しいことはわかっている。
以前なら素直に頷けただろう。
しかし本当の憎しみと怒りを知ったブルースには綺麗ごとにしか聞こえなかった。
父はブルースという若木の根だった。
彼がしっかりと支えてくれていたから、自分はのびのび大きくなることが出来た。
父はブルースの帰る場所だった。
いつどこにいても、帰りを待っていてくれる大切な家族だった。
父はブルースの教科書で、羅針盤だった。
たくさんの大切なことを教えてくれて、行きたい場所へ行くための後押しだった。
遺してくれたものは無数にある。
でも肝心な本人はいない。
まだ何も返せていなかったのに。
お嫁さんや孫を見せてあげたかったのに。
なのに父を奪った犯人は生きていて、笑っていて、まだ人を殺している。
奴が正気か否かなど関係あるものか。
たとえやむを得ない事情があったとしても、だからなんだと言うのだ。
許せない。
絶対に絶対に許さない。
心の中が焼け焦げて痛かった。
それなのに妙に頭は冴えている。
復讐を成し遂げるには、ファミリーの隙をついて動く必要があった。
自分の装備がどこに隠されているのかも知っていたので持ち出して現在バットマンの衣装でこうしている。
ジョーカーの居場所についてはおそらく探すまでもない。
向こうは父さんを殺すという最悪のことをしてまでブルースを挑発してきた。
治安が悪いところでこちらが多少目立つように動けばむしろ向こうからやってくることだろう。
今までは邪魔をされてひとりで外に出ることも出来なかったのだ。
もちろん急がないとファミリーの皆にも見つかってしまうので時間との勝負である。
ブルースは自分が負けるとは考えていなかった。
資料によるとジョーカーは特殊能力を何も持たない常人だったし、もう老年と言っていい年齢のはずだ。
身体能力は圧倒的にブルースが上だし、経験にしても向こうは十五年以上のブランクがある。
もし資料通りに毒だなんだと使ってきたとしても逃がさない。
最低でも道連れには持ち込んでみせる。
酷く昏い決意の後、善は急げとばかりに駆け出した。
急激に血が巡ってクラクラするが関係ない。
目も眩むような黄昏の中、漆黒のケープが翼のように広がる。
多くの建物を飛び越え、風の如く走る走る。
ゴッサムのスラムのひとつにたどりついた時には、もうすっかりあたりは暗かった。
ここに来たのも久しぶりだ。
元々は高級住宅街だったのだが、住んでいる人間の高齢化と建物の老朽化から人口が減り、今はギャングやら貧困家庭が空き家に勝手に住み着いてしまっている場所である。
ただでさえ治安が悪いゴッサムの中でも指折りの治安の悪さで、金目の物を持っていない人間が歩いたら、服と靴をとられて下着で逃げてきたというのはよく聞くエピソードだ。
暗くなれば堅気の人間はまず出歩けない。
戦いになっても民間人を巻き込む危険性が低いのはこの場合利点である。
パトロールに来るたびに毎回事件に遭遇するため、その都度疲労困憊で帰ったことが今は少し懐かしい。
最後に来てからまだ数ヶ月程度なのにずっと前のような気分だ。
きっとここならジョーカーにもすぐわかるはずだ。
耳を澄ませるまでもなく、路地裏からの殴打音と苦鳴、怒声や悲鳴があちこちで聞こえる。
とりあえず片っ端からいこう。
怒りからくる破壊衝動を故意に抑えずに突き進む。
レイプ魔の股間に全力のかかと落としを食らわせ、強盗を絞め落とし、バットマンは大暴れした。
しかし予想に反してなかなかジョーカーが来ない。
ファミリーの面々が来る前に場所を変えようかと考えていると、近くの塀の上から猫をあやすような溶けた声がした。
「おいおいおい。随分荒れてるね、坊や。どうしたんだい?おじさんに話してごらん」
聞いた途端、ブルースの思考が停止した。
とてもとても驚いたからだ。
それは怒りで我を忘れたなどという話ではない。
もちろん突然声をかけられたからでもない。
塀の上の男は年齢にそぐわないほど身軽な動きでなんなく地面に着地する。
男は目が覚めるような緑のウェーブヘアに、分厚くピエロメイクをしていて、レトロなスタイルの紫のスーツを着ていた。
胸元には瑞々しい黒バラが生けてある。
しかしブルースにはその毒々しいほど鮮やかな色彩など目に入っていなかった。
ピエロメイクというのは本来顔の造形が非常にわかりづらい。
だが顔そのものの形が変わっているわけではない。
服の上から読み取れる筋肉の付き方や骨格だってそうだ。
これはどういうことなのだろう。
どうなっているのだろう。
どうして。
なんで。
ようやく動き出した頭の中が揺さぶられ過ぎて軋んでいるように感じる。
無数の疑問符の濁流の中、それでも一番大きく激しく湧きあがったのは喜びだった。
ぼろぼろと涙が零れる。
「ん~。どうした、バットちゃん。俺にもらったプレゼントを思い出して泣いちゃったのか?いい焼き加減だっただろ?よしよし。本当に可愛い子だ。そんなにこのジョーカー様に逢えて嬉しいのか?そんなに喜んでもらえると俺まで嬉しくなっちまうね」
キャッキャッと笑いながら紡がれる言葉は本来ならば非常に効果的な挑発となっただろう。
しかしそれどころではないブルースにはほとんど聞こえていなかった。
予備動作なしにがばりとジョーカーに抱き着く。
あまりに勢いがあったため、双方地面に倒れこんだほどだ。
「きゃーっ!今日は激しいのね、ダーリン!久しぶりだしいっぱい愛し合おうぜ!」
「・・・」
ブルースは何も答えずがっちりとジョーカーを抱きしめて動かない。
ちなみにまだ号泣している。
最初ははしゃいだ様子だったものの、一向に攻撃してくる気配がないバットマンにジョーカーも戸惑い始めた。
「え・・・どうしたよ」
「・・・」
「おーい」
「・・・良かった」
「ん?」
「生きてて良かった。良かった」
「ん、んん?」
「とりあえず場所変えよう。何があったのか教えて」
涙で溢れた青い双眸が道化を真っすぐ見つめる。
「お父さん」