次回最終回予定です。
息子からの一言に、ジョーカーは思わず固まった。
何故バレたのだろう。
昔のバットマンにはノーメイクというだけで(髪色変えたりはしたが)年単位でバレなかったというか、こちらが申告するまで気付かなかったのに。
愛しの蝙蝠は悪人を殴り倒すことには熱心で有能だったが妙にわきが甘く、そこが付け入ることの出来る隙だったし愛すべきところだった。
なのにこの経験不足なバットちゃんが一目で見破るとは。
うちの子の優秀さをなめていたらしい。
しかし今あっさり種明かしもつまらない。
ここは一度白を切ろう。
「HAHAHA。坊や。お父さんが恋しいのはわかるが、人違いだ。やっぱり黒焦げじゃ実感が湧かないかい?いやぁ、失敗したなぁ。もっとわかりやすい演出の方がインパクトがあったかね?」
「ただ見るんじゃなくて『観察する』具体的な方法を教えてくれたのは父さんだ。あのひき逃げ犯を捕まえた時『お前は世界一の名探偵になれる』って言ってくれたでしょ?」
ぐすぐすと涙声であげられたその事件をジョーカーも覚えていた。
当時の自宅近所に住んでいた青年が車に撥ねられて死亡したのだ。
遺族である弟がブルースの友達だったため、頼りにならない警察代わりに犯人を捜しだした。
もちろんジョーカーはやる気などなかったが、『バットマン』教育のために見本を見せたのだ。
自慢して言うが、蝙蝠王に仕える宮廷道化師はえげつないまでのストーキング能力がある。
やる気になれば対象のジュニアハイスクール時代の黒歴史から、その日食べた間食のラインナップまで探り出せるほどだ。
この時も、かつて何人ものノイローゼ患者を生み出した技術をいかんなく発揮し、犯人を捕まえて警察に突き出した。
父子でひき逃げ野郎を散々脅かしたのは良い思い出である。
まさかその時教えた変装の見分け方やらをここでしっかり活かしてくるとは。
誤算ではあるが、息子の成長が素直に誇らしい。
流石可愛い可愛いジョーカーだけのバットちゃんである。
なんていい男に育てちまったんだ。
となれば、こちらは柔軟なプラン変更が必要である。
最愛の養父を奪われた可哀そうな少年から、優しい養父を装っていた極悪人に騙されていた可哀そうな少年になってもらうとしよう。
優しい子なので火付きが悪いかもしれないが、『父』の本性を知ればすぐに考えが変わるはずだ。
ジョーカーは溜息をついて、未だに父の胸に顔を埋めている息子の頭を以前のように優しく撫でた。
泣き声が少しずつ落ち着いていく。
「よしよし。そうかぁ。そうだよな。お前は本当に頭がいい子だ。良い頃合いだったものだからはしゃいで細かいとこで手を抜いたのが駄目だったか」
今更言っても遅いが、この子を育てる段階で整形でもしておけば良かった。
まだリカバリはききそうなのが救いである。
左手ではカウルを穏やかになぞりながら、右手は別な生き物のように独立して動く。
久しぶりの父の鼓動を聞き、少年は理屈抜きで安らぎながらも当然の問いを投げる。
「父さん。なんでジョーカーのフリなんてしてるの?何があったの?」
「ん~。それはだな」
もったいぶっている間に右手が確かな感触を掴みだし、容赦なく息子の背に振り下ろす。
「俺が最初からジョーカーだからさ」
鮮血と苦鳴が路地に散った。
念のためブルースのバットスーツに発信機をつけておいたのに、それらは外されて適当な車に付け替えられていた。
それでもオラクル=バーバラが監視カメラの映像から、ブルースの行き先をリアルタイムでディック達に伝えたため、ゴッサム中をやみくもに走り回るようなことはせずに済んだ。
ナイトウィングと三代目バットマンがその裏路地にたどり着いた時、幼い蝙蝠は血まみれだった。
すぐそばには血濡れのナイフを持った多少よれた紫色のスーツの男が立っている。
「父さん!目を覚ましてよ!俺だよ!?ブルースだよ!?」
「知ってるさ、俺の可愛いブルーシー。安心しな。全部わかってやってる。ほらほら。ちゃんと避けないと死ぬぜ?」
鋭く踏み込んで幼いバットマンを斬りつける。
研がれた切っ先が今度はブルースの太い首を浅く裂いた。
混乱と傷もあって動きがひどく鈍い。
「ジョーカー!!」
そう叫んだのはダミアンだ。
ナイトウィングは声を出すよりも先に、道化に殴りかかっている。
老いているはずの男はまるで踊るようにそれを避けて大げさに顔をしかめた。
「あ!お邪魔虫!もう来たのかよ。・・・あ、そうでもねぇか。なぁ、お前らもこの子に説明してやってくれよ。俺がどんな悪い奴か。善意でガキを育てるわけないってさ」
「・・・ん?」
ジョーカーの言葉に、ナイトウィングも三代目も一瞬思考が止まる。
ブルースの怪我ばかりに目がいって会話の内容を適当に聞き流していたが、そういえば先ほど道化は『父さん』と呼ばれていなかったか。
ふたりはジョセフ・カーに直接会ったことはない。
ブルースに散々キャンプや遊園地でとった写真を見せられたのと、彼がバットマンとして活動する際に『うちの子をよろしくお願いいたします』と電話で頼まれたくらいだ。
単純にお互い多忙だったせいもあるし、なんとなくタイミングが合わなかったことや、変に交流を持って巻き込みたくなかったせいもある。
あの誕生日会当日に初顔合わせの予定だった。
これが初代の時代ならブルースの養父がジョーカーに洗脳されて自分はジョーカーだと思い込んでいるという可能性もあった。
実際にそういう事件もあった。
しかしさすがに何年も直接対決をしてきたナイトウィングはあのジョーカーを見誤るようなことはない。
そして同じように十五年以上共に生活してきた息子が、父を見誤るようなこともないだろう。
となれば答えはひとつしかない。
ジョセフ・カー=ジョーカーということになる。
ジョーカーは犯罪をやめて、引き取った男の子を長期に渡って愛情深く育てていたということだ。
何故そんなことをしたのか?
奴が言うようにジョーカーは本来子供を殺すことはしても、子供を育てられるような男ではない。
しかし現実にブルースは非常にまともな良い子に育っている。
数時間前の道化の弁によれば、ブルースは『理想のバットマン』らしい。
単純に受け取るならば理想のバットマンとして育てるためにブルースを引き取ったということだろうか。
随分気が長い話である。
パスタを食べるのに小麦から育てるようなものだ。
ジョーカーのバットマンに対する異常な執着ぶりを考えれば一応納得は出来るのだが、奴の洗脳技術のことを考えるともっと育った人間を引き取っていくらでも短縮できそうなものである。
わざわざ赤子から育てる必要はないはずだ。
・・・あの子でなければならなかった理由があるということだろうか。
一瞬でそのように様々な思考を巡らせながら、ふたりは傷ついたバットマンとジョーカーの間に割り込んだ。
今この場で考えても仕方がない。
道化本人の口から直接吐かせるのが手っ取り早いだろう。
とにかく今はブルースの体が心配だ。
変な毒でも盛られていなければ良いが。
ダミアンが急いで未だ混乱している少年を支える。
しかし傷ついた彼の視線は道化に向いたままだ。
そのカウルごしの青い双眸には、未だに父への明確な思慕と信頼がある。
「父さん!」
「あ~もう呼ぶなよ。鬱陶しい。ちゃんと与えられた情報を読みとれ。感情はなくしたら駄目だが、思考と切り離さないとって話しただろう。大局を見ることも忘れるなって話もさ。おっと、いけねぇ。アドバイスはもうしない方が良いな。俺はお前をずっと騙していたのさ。お前を理想のバットマンにするためにな。お前を育てたのはお前のためじゃない」
「嘘だ!」
「嘘じゃねぇさ。俺は元々すごく悪なんだ。今までいっぱいいっぱい殺してきた。これからだってたくさん殺すぜ?お前が俺を止めない限りな。ちなみに俺は殺さない限り止まらない」
道化は自身の首に手をかけ、おどけた所作で舌を出す。
「まあ、安心しな。愛より憎しみの方が増殖は速い。嫌でもお前のやる気が出るような催しはもう準備してあるんだ。世界的ニュースになるようなでかい催しだ。俺を止めてくれよ、バットマン」
「・・・父さん」
「・・・何をやる気だ?」
「おいおいおい。本当に無粋な野郎だな、駒鳥坊や。ネタを披露する前にオチ説明するわけねぇだろ」
悲痛な呼びかけを無視して、ジョーカーは禍々しいほど美しく笑う。
「まぁ、ゴッサムのどこにいても見学出来るだろうが、一応開演時間は教えといてやるよ。明日になると同時さ。じゃあ、俺は仕上げがあるから引っ込むぜ!また後でな、坊や達」
「何度も同じ手に乗るかよ!!」
また何かのボタンを押そうとするジョーカーの手を蹴りつけ、ダミアンは紫のスーツの襟を掴むがすぐにすり抜けられる。
同時に路地にバイクが突っ込んできた。
どうやら近くでタイミングを計っていたらしい。
ヘルメットをかぶったライダーの促しの前に、ピエロは一瞬で後ろに飛び乗り、バイクが発進した。
数秒で視界から消え去る。
気持ちがいいほど見事な逃走だった。
今から普通に追いかけてもまず追いつけない。
追跡はひとまずバーバラ達に任せた方が良いだろう。
「・・・お父さん」
少年は地面にへたり込み、呆然としている様子だ。
その顔色が優れないのは出血のせいではないだろう。
ふたりは無言で彼の手当を始める。
診たところ全体的に見た目が派手なだけの浅い傷ばかりで、本当ならバットケイブに運んでからやっても問題ないものだ。
あえてこの場でやったのには理由がある。
その間に、この子にどのように説明するか考えるためだ。
「ナイスタイミングだったぜ、ジョニー。やれば出来るじゃねぇか」
「・・・」
ゴッサム中に張り巡らされた監視カメラの死角をいくつも抜けて完全に撒いた後、ジョーカーは珍しく古参に労いの言葉をかけた。
ゴミだらけの複雑な路地を通いなれた道のように歩きながら、鼻歌を歌っている。
計画が予想外の方向転換を必要としたにもかかわらず、彼は上機嫌だ。
元来サプライズが好きな男なので楽しんでいるのだろう。
だがヘルメットを外したジョニーの顔はひどく暗い。
いつもなら畏怖の対象から褒められれば喜んでいたのにだ。
ジョーカーはこの最後の花火が成功すれば、バットマンが自身を憎まざるえないと信じているように見える。
今までの爆破はその準備と目くらましに過ぎない。
このゴッサムが壊滅しかねない規模での仕掛けだ。
今までビルをいくつも爆破したのは適当にやっていたわけではない。
むしろそれ自体は目くらましだ。
本命は吹き飛ばされた下水管の補修後の仕掛けにある。
ジョーカーは自身の信奉者を使って、ビル爆破の復旧のどさくさにまぎれて各地のガソリンスタンドと製油所のパイプを下水道に連結を完了していた。
今は蓋が閉じているので何も起きないが、日付が切り替わると同時に開き、火をつける。
シンプルだが効果的な方法だ。
グアダラハラで実際に爆発事故が起きている。
あれは数百人程度が死んだが、今回流す量はあれの比じゃない。
ゴッサムは件の都市よりも遥かに下水管の密度が高く、使用するガソリン量も比ではないのだ。
下手をすれば万単位の死者が出る。
それを優しかった父がやったと理解せねばならないブルースはどうなるだろう。
かつてのバットマンなら化け物じみた精神力だったので問題なかったが、あの子は頭が良いだけの優しい子だ。
きっと正常ではいられない。
「ジョニー、ジョニーよ。どうしたそんなしかめ面して?あんなガキどもにビビッてたのか?」
部下の不審な様子に気付いたジョーカーが笑う。
ジョニーは顔を上げ、ぎらぎら輝く緑瞳を見つめた。
「・・・・・・ジョーカーさん。もう良いじゃないですか。久しぶりに遊べて楽しかったで終わりにしましょうよ。今はふたりとも生きてるんだ。まだ間に合う」
もう遅い。
ハーレイの言葉が頭に響く。
ああ、その通り。
きっともう遅いのだろう。
小物であるジョニーはジョーカーを止められる力も、知恵もない。
流されるままにここまできてしまった。
おそらくバットマン達につながりがある人間に、ブルースが初代バットマンであることは伝えたが、それだってどれだけ意味があったのかわからない。
今ジョーカーにかけた言葉だって無意味かもしれない。
それでもじっとしていられなかったのだ。
ジョニーには大昔に別れた妻と子供がふたりいる。
もう何年も会っていない。
自分はチンピラのろくでなしだったし、家族を幸せに出来なかったことに言い訳をするつもりはない。
きっとここまでこの父子に感情移入してこだわる理由も、手に入れられなかったものへの憧れや自身の投影なのだろう。
自己満足と言われればそれまでだ。
だが、どうせろくでもない人生なのだから、自己満足に捧げても問題ないはずだ。
ジョニーの言葉に、ジョーカーは心底呆れた様子だった。
滑稽なほど大仰な身振りで肩をすくめる。
「・・・お前も本当にしつこい野郎だな。お前は今まで俺にくだらねぇことで絡んできた連中の中で一番長生きしてるぜ」
「くだらなくなんてありません。あんた達親子の話だ。あの子はあんたが求めてるバットマンじゃない。あんたが大切に育てた可愛いブルースです」
「・・・」
「あんたももうわかってるでしょう。いくらかつてのバットマンとあんたの理想を掛け合わせたって、あの子はブルースなんですよ。バットマンじゃない」
「・・・」
「これから仕掛けを動かして何万人殺しても、あの子にとってあんたは大好きな父のままだ。ジョーカーだなんて思えないでしょう。憎めやしない。まして殺したりなんて出来ない」
「俺をジョーカーとは思えない、か。そいつは困るな」
意外なことに部下の言葉を遮ることなく聞いていた道化は、どこか納得したように細い顎に指をやる。
ようやく言葉が届いたのだろうか。
ジョニーは微かな希望に縋るように頷いた。
「思えるはずないですよ。あんたらは形だけじゃなく、ちゃんとした親子なんだから」
「あの子が大好きなジョージおじさんを殺してもか?」
「え」
不意に轟音と、腹部に衝撃が走る。
一瞬遅れてやってきたのは神経にやすりをかけたような激痛だ。
撃たれた。
まあ、当然だろう。
痛みの中で妙にはっきりした意識の中、ひとり納得する。
むしろ今までよく生かされていたとすら思う。
かつては余計なことを言わなくても殺された同僚も多かった。
そう考えると自分はかなり重用されていたように思う。
立っていられなくなり、荒れたアスファルトに膝をつき、うつ伏せに倒れる。
視界の端を名前も知らない虫が人間のことなどどうでも良いと這い回っていた。
朦朧としながら、なんとか視線を動かすと大口径の銃が見えた。
「うーん。本当は派手にデコレートしてやりたいんだが、仕上げまで時間ないからシンプルにいくぜ。安心しな、ジョニー。今までついてこれたご褒美に地獄でもこき使ってやるさ。先に行って下見しといてくれ」
隣に膝をついて、長年の部下の震える肩を優しいと言っていい手つきで叩き、ジョーカーは無邪気な笑顔を見せた。
まるで部下と新規事業について話し合っているかのような明るさだ。
ジョニーは痛みを忘れて見入る。
そして苦笑した。
裏切られたとは思わなかった。
むしろ裏切ったのは自分だろう。
不思議なまでに恨みがない。
心残りはこの親子のことだけだ。
ジョーカーは変わらない。
滅茶苦茶で、恐ろしく、麻薬めいた魅力があった。
破滅に至るとわかっていても魅入られてしまう。
彼についてきたことに何も後悔はない。
でもジョーカーにも確かに変わった部分がある。
急に祈りたくなって、少しの間目を閉じる。
神やら死後の世界やらは全く信じていないし、ジョーカーもそうだろう。
しかしこんな時は神頼みくらいしか出来ることがない。
自身の唯一の主人が立ち上がって軽い足取りで歩き去ったことがわかったが、その背を視線で追うことはしなかった。
ただ血まみれの手で携帯端末を取り出し、メッセージをうつ。
震える指でなんとか送信ボタンを押すと、急速に意識が遠のく。
最後に湧きあがった漠然とした満足感に、ジョニーは小さく笑った。
案外悪くない人生だったかもしれない。
父が生きていた。
そしてジョーカーだった。
ブルースはようやく落ち着いて、少し整理できた脳内で何度も同じ内容を反芻する。
バットケイブに来てから、周囲から説明されたことが嘘だとは思わない。
証拠を色々見せられたし、父=ジョーカーというのは事実なのだろう。
だが優しく頼りがいがあった父と大量殺人者が同一人物と言われても、正直ピンと来ない。
ジョーカーが今まで何度も酷い事件を起こしてきたとわかっていても、やっぱり父が生きていてくれてとても嬉しい。
今でも彼はブルースにとって最愛の父のままだ。
それに父がずっとブルースを騙していたというのは違うと思う。
ブルースは一度も父から『自分はジョーカーではない』とは言われていないし、『お前をバットマンにするために育てていない』とも言われていない。
屁理屈だと言われればそれまでだが、とにかく違うと思っている。
ブルースは父の教育方針で今までいろんなアルバイトを経験した。
物事を違う角度から見ることの大切さを学ぶためと説明されたし、実際その判断は正しかったと思う。
ベビーシッターの仕事で子育ての大変さを体感出来たからだ。
何をしでかすかわからない子供の世話は常に気が抜けなかったし、ひとりで面倒を見るのは過酷でしかなかった。
あれでは愛情があったとしても、周りの助けがなければ病んでしまう。
愛情がなければ育児放棄をしたり、虐待したりするのは自然な流れだろう。
子供というのは親が育てたとおりに育つ。
本当に父の愛情が偽物で、自身の都合のためにブルースを養育していたというなら、自分はもっと歪んだ人間になっているはずである。
いや、よく考えたら宿敵である初代バットマンを再現しようとしたというのが本当でも、それはバットマンへの愛情からきているわけで、バットマン=ブルースというなら愛されていることにならないか。
騙されていたとはやっぱり思わないし、どちらにしても愛されていることは確定している。
問題はその愛情に報いる手段として父の殺害を要求されていることだ。
前に資料で見たが、どうやらジョーカーは昔から初代バットマンに殺されたいと考えていたらしい。
初代バットマンが不殺主義だったから挑発していたと証言する人間もいれば、彼は自身の狂気に苦しみそれを終わらせてくれる人間としてバットマンを選んだという話もある。
どれが真実なのかはわからないが、今はブルースに殺されたがっているのは間違いないようだ。
もちろんいくら父の望みでも絶対そんなことはしない。
すぐには無理でもいつかまた家族として一緒に暮らしたいのだ。
父がこれからゴッサムで起こすという大量殺人も絶対に止めねばならない。
父にこれ以上罪を重ねてほしくないし、もう犠牲者を出すわけにはいかない。
ブルースはこの街が好きだ。
全体的に治安が悪いし、自警団が発達するくらい警察も頼りにならない。
でも優しい人もたくさんいるし、美味しいレストランがたくさんあるし、見るだけで楽しい専門店も多い。
それにここにはブルースの家族や友達、仲間がいるのだ。
個人で出来ることなどたかが知れているかもしれないが、出来るだけのことはしたい。
せめて手の届く範囲だけでも守ってみせる。
ブルースの内側で何かが軋む音が聞こえた。
不思議に思うが、不快な感触はしない。
むしろずっと喉に引っかかっている魚の骨がようやくとれるような感じだ。
だから特に意識を向けることなく思考を続ける。
皆は父が躊躇なく人を殺しているのは狂っているからだと言う。
治療することは不可能であると。
しかしブルースは父が狂人だとは思わない。
治療が出来ないとも思わない。
父には子供を健全に育てるだけの理性がある。
愛がある。
愛を知る人ならばきっと救えるはずだ。
いや、救ってみせる。
内側の何かがひび割れた。
ブルースは顔を上げ、少し離れた顔で深刻な顔で声を潜めて、ジョーカーの居場所やこれから起こす騒動の内容について話し合っている皆に歩み寄る。
姿勢も良く、足取りはしっかりとしていた。
「・・・カー?」
「俺はもう大丈夫です。ご迷惑おかけしました」
声をかけてきたダミアンに微笑む。
久しぶりの笑顔だった。
しかし対照的に皆の顔は強張っている。
おそらく複雑な立場にいるブルースを気遣っているのだろう。
若いバットマンは彼本来のはきはきとした物言いで言った。
「もう腹は決まっています。父を止めて、アーカムに連れていって治療を受けさせます。父を救いたいんです。お願いします。協力してください」
青い目は迷いのない光を湛えている。
その光の中に何かを見出したのだろう。
ディックの双眸が眩し気に細められた。
隣に居たダミアンがしばらく何かを言いあぐねるように口を何度も開閉させたが、結局はっきり言うことにしたらしい。
大きく頷いて
「もちろん協力はする。あの野郎にこのまま好きにさせてたまるかよ。・・・あの・・・それとは別・・・あ、いや別ではないんだけど・・・ジョーカーをアーカム送りにしたら聞いてほしいことがある」
後半は少し視線をそらしていた。
なんだろう。
ブルースは不思議に思って尋ねる。
「え、今でも大丈夫ですよ。今更何を明かされてもジョーカーの息子だったということ以上のインパクトないでしょうし」
「・・・俺とお前が親子だって言ったらどうする?」
おそらく黙っているつもりだったことが思わず零れてしまったのだろう。
ダミアンより周囲にいるアルフレッドやバーバラの方が『なんでこのタイミングで言ったんだ』という顔をしている。
ディックはあちゃ~という顔で額に手を当てていた。
皆で何かこそこそしていると思っていたが、それを調べて結果に驚いていたのか。
なんとなく実の父はディックくらいの年齢かなと思っていたが、まさかダミアンがそうだとは思わなかった。
真実を知らない幼いバットマンは、問いの意味を誤解した形で受け取ると首を傾げるような仕草をする。
「別にどうもしませんけど・・・ダミアンさん一応まだギリギリ二十代でしたよね?俺いくつの時作った子なんですか?」
もちろん計算すれば結果は出る。
ブルースは十七になったばかりだからそこに一を足して、ダミアンの年齢から引けば良い。
ティーンにすらなってない段階で作ったとかどういう状況だったのだろう。
遺伝子上の父発覚の衝撃よりもそちらの方が気になった。
母親のことは意識にも上がらない。
「いや・・・そうじゃなくて・・・」
「あ、責めるつもりは全くないです。父に虐待とかされてたなら恨んだかもしれませんが、ご存じの通りおもいきり幸せに暮らしてたので気にしないでください。遺産分配とかもいらないです。俺は今まで通りの関係を希望します。これからも先輩として接してほしいです。確かに長くなりそうだから、詳しいことは父さんをアーカムに連れて行ってから話し合いましょう」
戸惑うダミアンに、ブルースはやや早口で告げると、話は終わったとばかりにすぐバットコンピューターに向き合った。
ジョーカーの予告時間まで猶予がない。
素早く今回ジョーカーが起こした爆破事件の資料を呼び出して、改めて整理していく。
見たところ爆破対象や規模には法則性がない。
「だが無意味ではないはずだ。おそらくこれは目くらましだ」
昔からそうだった。
奴は何も考えていないようで、深く考えて動いている時が多い。
何かこの裏で大規模な破壊を考えているに違いない。
ブルースは自身の思考の流れがおかしいことに気付かず、さらに仮説を組み上げていく。
そしてある結論にたどり着く。
なるほど。
ジョーカーらしい方法だ。
かつて奴はゴッサムの水道に毒を盛ろうとしたことがあったが、あれのガソリン版か。
「ジョーカーのやろうとしていることがわかったぞ」
そう半ばひとりごちるように呟くと、ブルースの態度の急変に驚いている周囲にジョーカーの企みを全て説明する。
「今から手分けして奴の古いアジトをしらみつぶしにしよう。奴の居場所の手がかりがあるかもしれない。アルフレッド、奴から予告状の類はきてないか?」
「え、い、いえ」
「なら仕方ない。急ぐぞ。時間がない」
やはりおかしかった。
ブルース・カーはアルフレッドを呼び捨てにしない。
心なしか表情の動きも違うように見える。
その話し方や厳しい顔つきはまるで
「・・・ブルース?」
「どうしましたか、ディックさん」
呼びかけると、幼さが残る顔に戻った。
本人はどうやらまだ変化に気付いていない。
最初は遺伝子情報が一致したため、ブルース・カーはブルース・ウェインのクローンか何かなのかと思っていたが、もしや本人なのか?
ならば何故現在五十路近いはずの男がティーンになっているのだ。
バットファミリーは誰もがそのあたりのことを知りたかったが、今はそれより優先しなければならないことがある。
皆が一斉に動き出した時、ブルースの携帯端末がメッセージの着信を告げた。
ジョーカー=父ならば当然ブルースの連絡先を知っている。
素早く確認すると、予想外な相手からのメッセージだった。
「・・・ジョージさんからだ」
てっきりブルースの体調を気遣ったものが届いたのかと思ったが、内容は全く違うものだった。
『彼は工場にいる』
それだけだ。
傍から見れば意味がわからないだろう。
だが、ブルースはすぐに理解した。
これはジョーカーの居場所だ。
そして指し示す工場にも心当たりがある。
あそこしかない。
バットマンは皆にメッセージの内容を説明する時間も省いて、当然のようにバットモービルのロックを外して乗り込み、走り去る。
あまりの展開の速さに皆驚いていると、バーバラが呆然と呟いた。
「・・・あの子いつから車運転出来たの?」
ブルースはまだ車もバイクも免許をとっていない。
年齢的には可能だったが、本人は自転車が好きだったし、乗せてくれる友人知人がたくさんいたから不便を感じていなかったのだ。
アルバイトでお金を貯めて免許をとって車を買い、一番に父をドライブに連れていくと話してくれたのがもう遠い昔のように思える。
真面目な彼は無免許運転などするはずはないから、車の運転は初めてのはずだが、彼は当たり前のようにあの化け物のような車を乗りこなしていった。
「・・・オラクル。追跡頼む。俺達も追う。いつになっても無茶苦茶な人だよ、本当に」
走り去った彼が誰なのか半ば確信しながら零れた愚痴めいた台詞に、皆は苦笑しつつ自分の任務についた。