「………はっ!ね、寝てない寝てない!?」
電車内の二人掛けの座席(通路側)でいつの間にかうたた寝をしていたらしい真名人。慌てて姿勢良く座り直すと、その隣の窓側の座席からクスクスと小さな笑い声が聞こえてきた。その人物は言わずもがな…。
「うふふっ、寝ちゃっても大丈夫ですよ。乗り過ごさないようにちゃんと私が起きてますから」
「や、山田先生…そういうわけにはいきませんよ。わざわざ休日のところを誘ったのにその当人が早速居眠りだなんて…寝たのが分かってたのなら、遠慮なく起こして下さいよ」
「すみません。あまりにも気持ち良さそうに眠っていたので起こすのが可哀想だと思いまして…でもすっごく可愛い寝顔でしたよ♪」
「は、恥ずかしい…!?山田先生って意外と意地悪なんですね」
気恥ずかしさからプイッと顔を背ける真名人とそれを見て温かい気持ちになる真耶。普段は教室以外で言葉を交わす機会が殆どないからこそ、教師と生徒という目線以外の…言うなれば他の人間は知らないプライベートな一面を垣間見ることが出来て役得という感覚なのだろう。
「むっ…それは聞き捨てなりませんね。上月君が私の肩に頭を乗せたまま寝ちゃったので、無理に起こすのも悪いと思ってトイレにも行けなかったんですよ?普段ISに追われる日々で疲れていると思って気を遣ったのに。うぅ…」
「あっ、それは…すみませんでした。だからって、泣かないで下さいよ…「えいっ!」んっ!?な、何ですかこれ…甘いっ」
嫌味を言われて今にも泣き出しそうに俯く真耶。すぐに言い過ぎたと真耶を心配する真名人だったが突然彼女によって口の中に何かを入れられた。訳もわからず口の中に放り込まれたそれを味わうと、その正体が明らかになる…笑顔の真耶と共に。
「えへへっ、チョコレートです!上月君が疲れてると思ってさっき買っておいたんです。本当は苦い方が疲労回復の効果があるらしいんですけど、私は甘い方が好きなので。それにさっきのも実は冗談で、そんな恋人みたいな甘々な出来事は全くありませ…あれ?上月君、どうかしました「じゃあ、これお返しですっ」…へっ?んむぅ!?あ、甘〜い…♡」
意気揚々と説明する真耶だったがすぐに全く同じことをされて報復を受ける羽目に。だが本日二度目のSっ気たっぷりな真名人を目の当たりにし、報復というよりもある意味“ご褒美”とも言えるのかもしれない…個人的な感想だが。
「疲れてるのは山田先生も同じでしょう?僕が寝てしまった分…とまではいかないですけど降りる駅までまだありますし、それまでは少しでも休んで下さい」
「上月君…はい、ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて…あの、今から変なこと言いますけど、笑わないで下さいね?」
「?えぇ、分かりましたけど…」
そう言って急に態度を改める真耶。その顔は既に真っ赤に染まっていて、彼女自身も体温の上昇や鼓動の高鳴りを感じているに違いない。しかし、もう彼女を止める術は無かった。
「えっと……私が寝付くまで手を握ってもらっても良いですか…?」
「…あっ、はい。別に構いませんけど」スッ
それに対して圧倒的なまでの温度差。彼女のピンクな妄想を打ち砕くには充分過ぎるパンチだった。真耶が感じていた異性へのトキメキは真名人には全く伝わっていなかったらしい。特に恥ずかしがることもすんなり真耶の右手を握る真名人に思わず泣きながら苦言を呈する真耶だった。
「ヒャア!?こ、こここ上月君!?い、いきなりは駄目ですぅ!!まずは心の準備が必要で…って、何で私ばっかりこんなに焦ってるんですかぁ!?うわぁああん!?私の方がお姉さんなのにぃ〜!?」
「ちょ、山田先生…一応公共の場なんですから騒がないで下さいよ!?ほら、落ち着いて…ゆっくり目を閉じて…そのまま深呼吸しましょうね〜」
「は、はいぃ……すぅ……むぅ…」
真名人が必死で騒ぐ真耶をあやして落ち着かせる。すると、次第に落ち着きを取り戻すように真耶の意識が夢の中へフライアウェイしていき、いつしかすっかり寝息を立てていた。何とか宥めた真名人だったが、普段の真耶が心労絶えない日々を送っていることはなんとなく予想がついた為、この時間だけは彼女の疲れを癒してあげたいと心から願った。それがこの結果である。
「ふぅ……義姉さんの真似だけど、結構上手くいったかな?山田先生、こんなになるまで疲れてたんだよなぁ…じゃなきゃ、いきなり手握ってくれなんて言うわけないもんな。それにしても……眠って早々トイレに行きたくなってきた…!しかも思いのほか握り返してくる力が強くて離れられない!?こ、これってもしかして…ピンチって奴かもしれない!」
「な、なななななな何ですのぉ!?あのいかにも仲睦まじい付き合いたてのカップルのようなやりとりの応酬は!?こ、公衆の面前でなんて破廉恥な…ギルティですわ!!今すぐ止めて差し上げなくてはいけませんの!!」
「ち、ちょっとセシリアさん!?そんなに騒いだら他の人に迷惑だし、何より見つかっちゃうからぁ!?お願いだから落ち着いてよ〜っ!!」
真名人達の座席よりも少し後列の座席(お互いの席からは死角になっているが身を乗り出せばなんとなく見える)からその様子を伺っている英・仏監視チーム。最初はかなり真面目に監視を続けていたセシリアだったがのめり込んでいく内にどんどんヒートアップしていき、今では車両内で一番の馬鹿騒ぎ状態となっていた。同行させられているシャルルにとっても初めの内は好都合だと思っていたが、事態が進むごとにまさかこんなに面倒な状況になるとはついさっきまで思っても見なかっただろう。主にセシリアに関しての話だが。とりあえずこのまま騒がれても状況は悪くなる一方なので、急いでセシリアの口を手で塞ぐシャルル…その手際は非常に良いものだった。
「んーっ!?んんんっ、んんーんん〜っ!!」
「だ、駄目だってば!そんなに興奮しないでよっ!僕達は二人がその…エ、エッチなことをしないように…その、例えば…ごにょごにょ…みたいなこととか……うわぁああっ!?ぼ、僕ってば何言っちゃってるんだろぉ〜!?」
「んんーっ!?んんんん〜!んんん、んんん〜んん!んっ!?んんん……」
「でもでも、さっきみたいな食べさせ合いっこも良いなぁ〜♡特に普段おとなしい子がちょっとだけ強引にあ〜んとかしてきたらもう…最高だよぉ♡それに肩に頭を乗せて寝ちゃうのもまたグッドだよ!いつもは厳しそうな顔で中々隙を見せない子がふとした瞬間に見せる無防備な寝顔なんてもう堪らないなぁ♡僕にだけ見せてくれる特別な一面…なんて甘美な響き!えへへ、えへへへっ…おっと興奮し過ぎてよだれが…じゅるり。って、セシリアさん?さっきから黙ってるけど、どうかしたの?」
もはやセシリアを宥めるという目的を忘れて一人妄想の旅に出掛けていたシャルルだったが、ふと手の中で騒ぎ立てていたセシリアがすっかり大人しくなっていることに気づく。目的は達成されて何よりだが、それにしても急に静かになったので少し怪訝に思い顔を覗き込む。
「………」←必要以上に押さえつけられて気絶しているセシリア
「ヒィ!?セ、セシリアさんが気絶してる!?しまった、黙らせ過ぎた!起きてよ〜っ!?」
そんなこんなで一時的な幽体離脱を体験させられたセシリアが再び意識を取り戻したのは数駅分電車が過ぎ去った頃だった。
「全くもう!危うくシャルルさんに殺されるところでしたわ!!私だって一回注意されれば理解致しますのっ」
「ご、ごめんね…!何かセシリアさんって思い込んだら一直線みたいなイメージがあったからつい…。でも、どのタイミングから気絶してたの?」
「えっと、確か…あっ、そうそう“僕ってば何言っちゃってるんだろぉ〜”辺りでしたわね。そこからの記憶が一切ありませんの…はっ!あれからお二人の様子は!?」
セシリアがシャルルに催促すると、眠っていたいた間の出来事を報告してくれた…ものすご〜くわかりやすいくらいに恍惚の笑みを浮かべながら。
「んーっ、特に何も無いかな?あっ、やっぱ一個だけあった。あのね、上月君…さっきからずっとモジモジしてるんだ。多分だけどアレはトイレに行きたいんじゃないかな。でも寝てる山田先生を起こすわけにいかないから、必死で我慢してるんだと思う…あぁ〜、身悶えて苦悶してるあの顔…良いなぁ♡」
「シ、シャルルさん…貴方、お顔に似合わず怖いこと仰るのですね…あっ、身支度を始めましたわ!どうやら次の駅でお降りになるようですわね」
「そうみたいだね。よしっ、じゃあ僕達も行こっか!」
そうこうしている間に真名人達が降車する準備を始めた為に置いていかれないように少し後ろをついていく。電車が駅のホームに到着すると、かなり急ぎ足で降りると何やら真耶に断りを入れた真名人はすぐさま何処かへ駆けて行った。恐らくもう本当に限界だったのだろう…。
「はぁ、はぁ…意外と、人混みの中を通り抜けるのは…疲れますわね…あら?シャルルさんの姿が見えませんわ…」
「おーい、セシリアさ〜ん。こっちこっち〜!」
セシリアが声のする方向に視線を向けると、その場でピョンピョン飛び跳ねているシャルルの姿があった。尾行中にも関わらずあまりにも目立つ行為をするシャルルに危機感を覚えたセシリアは急いで駆け寄る。
「シ、シャルルさん!?貴方、一体何を考えてますの!?そんなに騒いだら真名人さん達に見つかってしまいますわ!!」
「あはは…ごめんごめん。でも上月君はトイレみたいだし、それに良いもの見つけたんだ。ジャジャーンッ!」
いつの間にかシャルルの手には中身の入った袋が。セシリアがその中身を恐る恐る確認してみる。
「これは…お弁当、ですか?」
「うん、そうだよ!ずっと楽しみにしてたんだよね〜“日本の駅弁”。やっぱりその土地ならではの食材とか料理ってだけで食欲をそそられちゃうなぁ…あっ、セシリアさんも良かったらお弁当食べる?」
「い、いえ…私は朝食を済ませてありますので、遠慮しますわ。それより今は真名人さん達のことですの!お弁当に現を抜かすのも良いですが、しっかりと責務を全うして下さいましっ」
「は〜い…お昼まで待っててね、僕の駅弁♪焼き鳥、シウマイ、チキン、ステーキ、釜飯、幕の内…はぁ〜!選べないよぉ〜♪」
セシリアに注意されるもすっかり駅弁に心奪われつつあるシャルルだった。というかセシリアが人混みに四苦八苦している僅かな時間でここまで買い込むとは…侮れない。
「はぁ…これじゃ先が思いやられますわ。あっ!真名人さん達が移動なさるみたいですわっ。シャルルさん、行きますわよ!」
「へっ?うわぁああっ!?だから引っ張らないでぇ〜!!」
強引なセシリアに連行されズルズルと引きずられていくシャルル。その手の中にはしっかりと購入した駅弁達が抱えられていた。そんなシャルルの抵抗も虚しく真名人の追跡は駅から街へそして郊外へと続き、やがて町外れにひっそりと佇むとある施設の前へと辿り着いた。なんの気無しについてきたその場所こそが真名人にとって最も因縁深く、そしてかけがえのない場所であると知る由もなく…。
「……よし、これで上手く調整できたはず。データ上でシミュレーションしてみよう」
同時刻、学園内の整備室で普段と変わらず専用機の調整を続けている女生徒。今は新しく組み上げたプログラムのテスト中のようだ…しかし、今回も思うように行かずまた失敗に終わってしまったことが彼女の浮かない表情から見て取れる。
「…駄目だ、期待してたよりも反応が遅過ぎる。これじゃミサイル全弾の照準が合う前に私が撃墜されちゃう。かと言って、連装ミサイルポッドをメイン武装として採用してるISなんて中々無いし……そういえば上月君のISにもミサイルポッドが搭載されてたっけ?今度会った時に少しだけ見せてほしいってお願いしてみよう、かな…」
「か〜んちゃん♪わっ!!」
どうにかして現状を打開出来ないものかと思考を巡らせていると、突然背後から抱きつかれる女生徒。しかし、特に驚くような素振りもなくどちらかと言えば若干呆れた様子でその相手を出迎える。
「…はぁ、一体どうしたの?そんなことされても今更驚いたりしないよ、本音」
「ぶぅ〜、“かんちゃん”ノリが悪いよぉ!そんな薄いリアクションじゃ、芸能界のピラミッドの頂点なんて夢のまた夢だよ〜!」
「いや、別にそこ目指してないし…えっ、本音今お笑いにハマってるの?」
女生徒を背後から脅かしたのは真名人のクラスメイトである布仏 本音だった。何故彼女が此処にいるのか、彼女達の会話からその関係性を紐解いていこう。
「にゃはは〜、まぁそれは置いといて…それより!もうずっと何日もまともに寝てないでしょ?かんちゃんってばやり始めたら止まらなくなっちゃう性格だから心配なんだよ〜。ねぇねぇ、本当に手伝わなくて良いのぉ?」
「うん…これだけは本音でも譲れない。お姉ちゃんは一人で専用機を組み上げた。だから私も同じ条件じゃないと……また比較される。お姉ちゃんと違って無能だって…」
「かんちゃん…」
かんちゃんと呼ばれた女生徒(長いので以後、かんちゃんに統一します)は俯きながらそう口にする。その顔にほんの少し影が落ちているのが彼女の心に宿る深い悲しみを表していた。流石に本音もかんちゃんを茶化すことはせず、黙ってかんちゃんの言葉に耳を傾ける他なかった。しかしこの後、本音の心配は思わぬ形でほんの少しだけ解消されつつあることに気づかされることになる。
「…それにね、実は少しだけ好きになったんだよ?前は専用機の開発を中止された腹いせで一人で組むなんて言ったけど、最近は少しずつだけど上手く調整出来るようになってきたし…何よりISに触るのが“楽しい”って思うようになったんだ」
「…それってもしかして“誰かさん”の影響、受けてる?」
「べ、別にそんなんじゃ…ない。確かに時々一緒に作業してる時はすごく楽しそうに整備してるけど、だからって上月君の影響なんて……あっ」
かんちゃんが何かに気づくと途端に焦りだす。それは妙に冷ややかな親友の視線に全ての原因があった。
「ふーん、そうなんだそうなんだ〜。かんちゃんとこーちんって一緒に作業するくらい仲良しさんなんだ〜?あれれ〜、でもかんちゃんは四組でぇ〜、こーちんは一組だよね〜。どうしてそんな二人が仲良しなのかな〜?私、知りたいなぁ…」
「い、いや…違っ、そういう…のじゃなくて!偶に一緒になるだけっ、仲良しとかそんなじゃなくて…本当だよ!?」
「うんうん、そんなに必死にならなくても分かってるよ〜。でもぉ…私、“誰かさん”って言っただけで“こーちん“なんて一言も言ってないよ〜。つまりはぁ…そういうことだよね〜?」
「ほ、本音〜っ!?」
本音にカマをかけられたことに遅れて気づいたかんちゃんは、込み上げてくる気恥ずかしさに耐えかねて本音を咎めるべく長い袖をヒラヒラさせながら軽やかに逃げ回る本音を追いかける。しかし意外にも本音の身体能力が高く、かんちゃんがゼェゼェ息を切らすまで追いかけ回しても捕まらない上に息一つ切らさずにのほほんとしていた。
「ハァ、ハァ…ほ、本音…体力、あり過ぎ…もう、動けない…」
「にゃはは〜♪お主もまだまだじゃのぉ〜。そんなんじゃいつまで経っても師匠であるワシを越えられないぞ〜、フォッフォッフォ〜」
「な、なんで私が弟子の設定なの?それに本音…何かいつもよりちょっとだけ意地悪っ」
「うっ…そ、そんなことないよ〜?私の知らないところでかんちゃんとこーちんが仲良くしてたって、別に何とも思わないもん……何とも…」
かんちゃんに言及されて何故か狼狽し出す本音。その反応を見受けたかんちゃんはさっきの仕返しにカマをかけることにした。
「もしかして本音……好きなの?上月君のこと」
「………ふぇ!?しょんなわけないじょあにょわぁ!?」
普段の本音からは考えられないほど動揺する様子を見て、恋愛に疎いかんちゃんでも流石に察した。いや、幼い頃からずっと一緒だった親友の乙女な姿を垣間見れば誰でも分かるのかもしれない。昔から甘い物と可愛い物には目が無かった本音が男の子のことで夢中になる日が来るなんて…と感慨深い気持ちになるかんちゃん。ダボダボの袖をブンブン振って誤魔化している可愛い親友に助言をするようだ。
「ふふふっ♪別に隠さなくてもいいのに。よくは知らないけど悪い人じゃないと思うよ、彼」
「…そんなの、分かってるよぉ。ずっと隣で見てたんだから…」
かんちゃんの言葉に少しむくれながら返す本音。それがよほど面白かったのと同時に一つの疑問が彼女の中で生じた。普段の本音ならその特徴的なのほほんとした癒し系の雰囲気や素直に甘えたり好意を伝えるくらい訳ないはずだ。それなのに今の反応からはそれが出来ていないっぽい。
「でもちょっと意外だったな。本音が気になってる男の子相手だと奥手になっちゃうなんて…いつもみたいに素直に甘えればいいのに」
「それが出来たら苦労しないの〜っ!かんちゃんは良いよ?美人だし頭も良いし落ち着いてるし。こーちんが口説いちゃうのも納得だよぉ…」
「…口説く?上月君が、私を?そんなこと、されてないよ」
「……へっ?いや、だって少し前に此処でこーちんに口説かれてたじゃん!嬉しいとか感謝してるとか言われてたでしょ!?だから私… かんちゃんがこーちんに迫られてると思って…」
本音に問いかけられて少し考えて思い出そうとするかんちゃん。しかし彼女の記憶の中にはそんな甘い思い出は存在せず、寧ろちょっと反応が面白かったな〜くらいの薄らとした記憶しか無かった。
「………いや、多分無いかも。それに上月君はそんな軽薄なこと、しないと思う」
「う、嘘…全部私の勘違い…だったの?じゃあ、私がしてたことって……!?わ、私…こーちんに謝ってくる!!」
かんちゃんの言葉を受けて本音は今までの真名人に対して大きな誤解をしていたことに気づくと、感情が全身に迸る衝動に駆られ何かに突き動かされるように走り出した。そこには普段の余裕は微塵も感じられず、ただただ自分に対して情けなさや苛立ちの感情だけが彼女を支配していた。
「山田先生、着きましたよ。此処が僕の行きたかった場所です…大丈夫ですか?」
「ハァ、ハァ…す、すみません……少し歩き疲れただけで……日頃の運動不足が、祟っただけですので…」
電車を乗り継ぎ街を抜け郊外へとほぼ休み無しで歩き続けた結果、堪らず音を上げる真耶。彼女もかなり若い部類には入るのだが、それでも現役の高校生である真名人とは体力的に差があったようだ。
「僕は手続きをしてきますので、それまで休んでいて下さい」
「は、はい…そうさせてもらいますぅ…」
真名人は真耶を休ませるべく手早く施設の門の前の受付で気怠そうに欠伸をしながら警備に当たっている男性に声を掛ける。
「すみません。おじさんに会いに来たのですが、手続きをお願いします」
「ふあ〜…あぁ、面会か?なら前もってアポ取ってくれ……って、おいおいコイツは驚いたなぁ!誰かと思ったら真名人じゃねぇかよ!おら、元気してたか?」
「フグッ…あ、あの首絞まって苦しい、です…!」
初めこそ適当に遇らう素振りを見せていた警備員だが、訪ねて来たのが真名人だと分かると態度を改めて再会を祝してヘッドロックを決めてくる。そしてふと木陰で休んでいる真耶を視線に捉えると、妙に含みのあるいやらしい笑みを真名人に向けた。
「ほっほぉ〜、真名人も随分やるようになったじゃねぇか!あんな上玉どこで引っ掛けたんだぁ?うりうり〜、素直にゲロっちまえよぉ」
「違いますって、そんなんじゃありませんよっ。あの人は僕が通ってる学園の先生でお願いして付き添ってもらったんです」
「ほーん…じゃあフリーなんだな、彼女」
「…多分。まさかナンパするつもりですか?」
「人聞きの悪いこと言うなよ。お茶に誘うだけだよ…まぁ見てな。あぁいうタイプの攻め方は熟知してらぁ」
そう言って真耶のもとへ行き早速声を掛ける警備員。しかし、真耶にとってはいきなり見知らぬ男性に迫られて恐怖以外なにものでもなかった為、すぐに視線で真名人に助けを求める始末だ。
「はいはい、もうその辺にしておいて下さいね。じゃないと奥さんに不倫してるって喋っちゃいますよ〜」
「んなっ!?真名人、それやめろって!?シャレにならねぇから!?」
真名人に注意されてすぐさま真耶と距離をとる警備員。それを踏まえてすぐに真名人に駆け寄る真耶だった。
「うわぁあああん!?怖かったですよぉ〜!?」
「お、落ち着いて下さい…あの人も巫山戯ただけですし、既婚者なのでそこまで大それたことは絶対にしませんしさせませんから」
「うぅ…はい…あのっ!もうこんなことしちゃダメですからね!」
「せ、先生っ!!何か調子乗ってナンパとかしてすいませんでしたァア!!」
すっかり先生モードになった真耶に道で正座させられて大人の謝罪の様子をまざまざと見せつけられる真名人。このおちゃらけた警備員の相変わらずといった様子にげんなりしつつも何処か懐かしさを感じて感慨深くなる真名人だったが、今日はそれだけが目的ではないので話を進めることにした。
「山田先生、お説教はそれくらいで…それより僕達、もう中に入ってもいいですよね?」
「うぇ?あー、それなら俺が手続きしとくから気にしなくていいぞ。危ない物とか持ってきてないだろ?」
「勿論ですよ。強いて言うならISくらいですかね」
「うっは〜!怖ぇ怖ぇ。良かったら後でおチビ共に見せてやってくれや。アイツらテレビに齧り付いてはISだ、ISだ〜って夢中だから喜ぶと思うぜ?あっ、施設長には真名人が来たこと知らせておくからよ…久しぶりに元気な姿、見せてやれよ?」
「ふふっ、分かりました。じゃあ山田先生、行きましょうか」
イケイケな警備員に許可を得て真名人は真耶と共に施設内に歩みを進める。そんな中、ずっと疑問に思っていたことを遂に口にする真耶。
「あの、上月君。もしかして此処は上月君が…?」
「…はい、山田先生が考えている通りの場所です。僕はこの施設で育ちました…所謂“孤児”ってやつです」
真名人は少しだけ俯きながら自分の出生を語る。その表情には何処か達観したような若干の笑みが浮かべられていた。
「でも、だからって自分が不幸だなんて思ってませんよ。そりゃあ人より辛いことは沢山ありましたけど、それと同じくらい此処の人達や引き取ってくれた義姉さんに大切にしてもらいましたから」
「上月君…」
そう言ってぎこちなく笑いかける真名人の姿を見た真耶は一つだけ確信した。真名人は口では平気なフリをしているが、心の奥底で必死に自分を押し殺しているんだと。普段のあの不自然なまでの周りへの配慮もその心情の表れであり、ある意味SOSだったのかもしれないと…。
「おや、懐かしい声が聞こえてくると思ったら…真名人君でしたか」
そんな二人のもとに突然初老の男性が声を掛ける。その男性の姿を見た途端、真名人は一目散にその男性に向かって駆け寄る。
「おじさんっ!お久しぶりですっ…それと、来るのが遅れてすみません」
「謝らなくても良いですよ。真面目な君のことです、ずっと連絡を寄越さなかったのも何かやむを得ない事情があったのでしょう?それで…今日はお義姉さんは一緒ではないようですねぇ」
初老の男性が真名人の付き添いが普段とは違う真耶であることに気づくと、慌てて名乗り始める真耶。
「は、初めましてっ!私、上月君のクラスの副担任を務めております山田 真耶と申します!今日は上月君の付き添いという形で同行させていただきました」
「そうなのですか。まぁ積もる話もあるでしょう、これからお昼なのですが是非ご一緒しませんか?真名人君も久しぶりに此処での食事を楽しみたいでしょうし」
「わ、私は上月君がしたいようにさせてあげられれば…上月君はどうですか?」
「山田先生さえ良ければ是非ご一緒したいです!」
妙に目をキラキラさせて食い気味に返答する真名人。一瞬勘違いしそうになる真耶だったが、真名人からしてみれば故郷に帰ってきている感覚なのだから当然の反応であることを考え心を落ち着かせる。そして、そんな邪な考えを抱いては駄目だと静かに喝を入れる。
「ではこちらへどうぞ。すぐにお二人の分も用意しますので…あぁ、そうでした。真名人君、来て早々申し訳ないのですが
「奏音の奴…またおじさんに迷惑かけてるのか。分かりました、でもちょっとだけお仕置きしておきますからね?」
「はははっ、彼女なりの愛情表現なので気にしてませんよ。なのでお手柔らかに…食堂に連れて来て下さい。美味しい食事が待っていますよ」
「分かりました!じゃあ山田先生、また後ほどっ」
そう言って軽やかな足取りで何処かへ向かう真名人。呆気にとられる真耶に初老の男性が含みのある笑いを込めて言葉を投げ掛ける。
「ふふっ、意外だったでしょう?あんな風にキラキラとした真名人君を見ることになるなんて」
「えっ!?そ、そんなことは…でも、確かに学園での上月君とは違って年相応というか等身大というか…何て言ったら良いのかな…」
上手く言葉に言い表せない真耶の心情を汲み取った初老の男性は、歩みを進めながら真名人の境遇について語りだす。
「真名人君のことを深く知らない大抵の人間はあの変わり様には驚くものです。普段は礼儀正しく誰からも反感を買わないように振る舞いながら、けれどもその心に壁を作って他人が自分の心層に立ち入らせないようにしている。まるで自分以外の人間を信用していないかのように…そうなんじゃありませんか?」
「は、はぁ…それは私には何とも」
意外にも真耶の返答は淡白としたもので、思わず呆気にとられる男性。しかし、すぐに何処か納得した様子で調子を取り戻す。
「はははっ、どうやら貴女は根っからの正直者らしいですなぁ。普通の教師ならば体裁を取り繕う為にまず真っ先に否定するでしょうに…真名人君が貴女を同行の相手に選んだのも頷ける」
「それは偶々というか…それより上月君のこと、もっと教えて下さいよぉ!」
勿体ぶる男性に食い下がる真耶。あまり情報が出回らず素性を知らない生徒のことを知るまたとないチャンス、逃すわけにはいかなかった。
「失礼失礼…しかし、既に私は答えていますよ?真名人君は基本的に周りの人間を信用していません。ですが、彼を責めないであげてほしいのです。全てはまだ幼かった彼を捨てた母親にあるのですよ」
「えぇ!?す、捨てたって…じゃあ、上月君のご両親は?」
真耶に続きを迫られ、男性は一拍置いて新たに言葉を口にする。
「未だに音信不通です。真名人君にはまだ話していないのですが、以前母親の方は一度だけ姿を見せたことがありますがそれでも十年も前の話です。その時の印象では子どもを捨てるような方とは思えなかったのですが、この仕事を続けているとどうしても理解してしまうんですよ…ある程度の年月を過ぎても迎えに来ない親かどうか」
「で、でも…もしかしたらやむを得ない事情があるのかも…しれません」
「事情ですか…まぁそれもあるかもしれませんねぇ。平気で施設の前に子どもを放置していく親や虐待をする親など様々な種類の人間がいますが、最も許されないのがどんな親か分かりますか?」
突然男性に問いかけられて、言葉に詰まる真耶。しかし、男性は急かす素振りは見せず諭すようにその答えを告げた。
「それは“嘘を吐く親”です。子どもにとって親の言うことは絶対です。どんなに間違ってると思っていても一度親が正しいと言ってしまえば、その子どもにとっては正しいことにすり替えられてしまうのですよ。どんなに口では別れるのが辛い、必ず迎えに来ると言っていても平気で子どもを裏切る。残された子どもに未来はありません…真名人君もかつてはそういった子どもでした。長年の共同生活の効果もあって今は何とか前を向いて頑張ってくれていますが、人間の根幹はそうそう変わるものじゃありません。特に人間の心を蝕むような負の感情は…山田先生、どうかこれだけは約束して頂きたいのです。あの子にだけは正直に接してあげて下さい…どうか、お願いします」
初老の男性が真耶に深々と頭を下げて懇願する。彼の真名人を案ずる気持ちは本物だとすぐに分かったが、そんな彼でも真名人の奥底に燻っているネガティブな心情という名の結氷を融解させることは出来なかった。ならばたった三年間しか面倒を見ることが出来ない、ましてや今年から教師になったばかりの真耶に何が出来るのかと自問したくなる気持ちを抑え、真耶は僅かながらの決意を胸に秘めてその申し出を受けることにした。
「…私に、どこまでのことが出来るかは分かりませんけど、上月君…いいえ、真名人君が笑っていられるように出来ることは何でもするつもりです!だって私は…真名人君の副担任ですからっ!」
そう言葉にする真耶の表情には何処か晴々とした笑顔が溢れていた。例え自分だけは真名人の味方でいてあげようという気概が見え隠れしていたそうな…まぁ後日談になるのだが。
本日の一言
「私が施設長です」
by 施設長のおじさん(初老の男性)