【2089年3月27日(日)8:50 達郎アパート宅】
春らしい暖かな日差しを感じる休日の朝。達郎と
達郎は同居を始めてすぐ、保育園に結生を途中入園させた。消防士という職業柄、休日が一定せず、また夜勤で丸一日家を留守にすることも多い。なるべく、結生を一人で家にいさせないようにと考えてのことだった。
それでも、保育園にのみ頼るわけにもいかず、結局は養護施設に一時預りをお願いしたり、過干渉気味の大家さんにたまに面倒をみてもらったり…終いには一緒に消防署で寝泊まりしたこともあった。
来月からは小学生だが、基本的な生活はこれまでとあまり変わらない。下校時には家には直接戻らず、公共の児童施設に夜遅くまで預かってもらう手続きを済ませている。
そんな、不自由な片親との同居にも関わらず、結生は文句の一つも言わずに達郎のそばにいてくれた。達郎もまた寸暇を惜しまず、結生から片時も離れないようにと心がけてきた。
スーパーに行くにも、公園に行くにも、家事をするにも…何事においても二人は一緒にいる時間を大切にした。
もうすぐ七歳の誕生日を向かえる結生は、以前に比べて感情を
来月、達郎は消防副士長に昇進する。そうなれば、結生と一緒にいられる時間も、もう少し増えるのではとも期待していた。
「達郎、そろそろ出発の時間」
結生が着替えを終えて、洗面所から達郎のいる居間に戻ってきた。
「あぁ、そうだな」
前髪多めのショートボブの髪型に、落ち着きある紺色のセーラーワンピースとキュロットを合わせた、子供らしさを残したフォーマルな服装だ。
「とても良く似合ってるよ、結生」
「達郎、親バカ?」
悪態をつくも顔を赤らめ恥ずかしがる結生。
(親バカなんて、何処でそんな言葉を…)
慣れないスーツに着心地の悪さを感じつつ、何とかネクタイを締め終えた達郎。今日の達郎は、差し詰めお姫さまをエスコートする冴えない執事といったところだろう。
「ピンポーン…」
室内に響く玄関のチャイム。休日の朝、それも卒園式の当日に来客とは。心の中で悪態を吐きながら鍵を解除しドアを開けると…そこには見慣れない女性が立っていた。
「……元気そうだな、達郎」
「ぇ…姉…さん?」
達郎は一見して凜子だとすぐには分からなかった。凜子の姿は、ホワイトのタートルネックセーターに、ネイビーウォッシュのスキニーデニムのボトム。その上にグレーべージュのトレンチコートを着崩して羽織っていた。
達郎の知るかつての凜子とは、あまりにかけ離れた都会的な装いだ。
そして何より…あれほど長く綺麗だったロングヘアが、コンパクトなシルエットのショートヘアに変わっていた。
達郎は、歳を経てその美しさに凄みが増しただけでなく、何処となく影のある雰囲気が加わり、ミステリアスで神秘的にも感じられる凜子の姿にしばし言葉を失った。
「前々から、紫殿に住所は聞いてはいたのだが…六年振りになるか。済まない、会いに来るまで随分と時間が掛かってしまった」
「姉さんは何も…俺の方が勝手に里を飛び出したんだから…」
そうしてまた黙り込み、時間を無為に費やす二人に業を煮やしたのか、結生が達郎の背中から顔を出し不満の声を漏らした。
「達郎、時間…」
達郎が腕時計を確認すると、時刻は既に九時を回っていた。
「う、確かにそろそろ出発しないとまずいな」
「あぁ、出掛ける用事があったのか。ならば改めて出直そう。私のことは気にせず、先に用事を済ませてくるといい」
達郎は少し考え込んだかと思うと、凜子にある提案を告げた。
「姉さん、今日はこれからこの子の卒園式でね。積もる話もあるし、できれば一緒に付いて来てくれると助かるんだけど」
「…え、私が…卒園式に?」
「そう、迷惑じゃなければ」
「ぁ…ぁあ、そうだな…」
実のところ、凜子もまた達郎と会うのにかなりの勇気と緊張を強いられていた。ゆえに凜子は、予想だにしなかったこの展開には流石に戸惑いを隠しきれず、曖昧な返事を返す他なかったのだった。
【同日 9:15 保育園道中】
達郎と凜子は前を歩く結生の背中を眺めつつ、保育園へと歩みを進めていた。
「紫殿から達郎が里親になったと聞いていたが…ではあの子がその?」
「あぁ、名前は結生。二年ちょっと前に起きた火災に巻き込まれてね。身寄りがなかったから、俺が引き取ることにしたんだ」
達郎は静流のことを敢えて言う必要はないと判断し、当り障りのない内容を凜子に語った。
「最初に話しを聞いた時は驚き心配もしたが、そうか…どうやら良い親代りのようだな、達郎は」
「どうだろうね…仕事で家を留守にすることも多いから、結生には寂しい思いをさせてばかりだよ」
(達郎は里を出てから、精一杯頑張ってきたのだろうな)
一般人にしては精悍な顔付きと、スーツの上からでも分かる引き締まった身体は、消防士として命懸けの現場で日々働いているからだろうか。
他の対魔忍と比べても遜色のないその成長振りに、凜子は達郎に気取られぬよう俯くと、満足そうに一人微笑んだ。
しかし、喜んでばかりもいられない。凜子がここに来たのは、達郎に用向きがあってのことだ。凜子は気持ちを切替えると達郎に語りかけた。
「ところでな、達郎。その……ゆきかぜが結婚するそうでな」
達郎は驚き立ち止まるも、呼吸を整えるとすぐに落ち着いた様子を見せた。
「そうか…で、式はいつ頃?」
「再来月だ。達郎の分の招待状も屋敷に届いていたのでな。今の達郎なら或いはと思って直接渡しに来たのだ」
(こんな理由にでもかこつけなければ、お前に会いになど…来れはしなかったがな)
達郎は凜子から手渡された招待状を開き中身を確認した。新郎の名は、達郎も良く知るかつての同級生だった。
(気配り上手なあいつのことだ。大方、ゆきかぜを説得して俺の分も用意してくれたのだろう…でも、済まない。気持ちだけ有り難く頂戴するよ)
達郎は招待状をスーツの内ポケットに仕舞うと、前を行く結生に追いつくべく再び歩き始めた。
「気を使ってくれてありがとう、姉さん。けれど式は遠慮しておくよ。俺には二人を祝う資格がないし、謝罪するにも遅過ぎた。今もゆきかぜの幸せを誰よりも願っているつもりだけど、それはもう…伝える必要のないことだから」
「…分かった。達郎がそう決めたのなら、私からはこれ以上何も言うまい」
(だって、そうだろう達郎。かつてお前を見捨てた私に、今更何が言えるというのだ…)
凜子は、内心ではこれを機会に、達郎がゆきかぜと和解し里に戻ってくることを期待していた。
だが、それがどれほど浅はかな夢だったことか…凜子はその事実を改めて今、思い知らされたのだった。
【同日 10:50 保育園・園庭】
十時から始まった卒園式は一時間程で終わる予定だったが、来賓席のスペースが手狭だったこともあり、凜子は達郎より一足先に外に出て、今は園庭の端に用意された喫煙スペースの前にいた。
吸い終わった一本目を吸い殻入れに捨て、二本目の煙草に火を付けると、こちらに向かってくる達郎の姿が目に入った。どうやら式が終わったようだ。
「まさか、あの真面目な姉さんが煙草を吸うなんて…全く想像してなかったよ」
煙草を吸うようになったきっかけは…何となくとしか言えない凜子であった。
(達郎がいなくなり、ゆきかぜも任務のない日は彼と過ごすことが多くなって、一人で過ごす時間が増えたからかもしれないが…まぁ、吸い始めなんてそんなものだろう)
「それに、髪型もすっかり変わってるのには驚いた。正直、すぐに姉さんだとは気付かなかったよ」
(髪型だって、数年前に長い髪が鬱陶しく感じるようになって…それからはずっとこんなものだ)
達郎が里を離れてからというもの、姉として気丈に振舞う必要のなくなった凜子は、その後も過酷な任務を遂行し続けた。
心身疲れ果て家路に着こうとも、屋敷に大切に思っていた家人の姿はなく、心から癒やされることのない日々。
そうした状況の変化が、以前の規律を重んじる清廉潔白な凜子の性格に、少なからず影響を与えていた。
「まぁ、私にも色々あったのさ」
「ふ〜ん。けどまぁ、消防士の俺から言わせて貰えば、吸いがらの後始末だけは注意しなよ。特に寝ながらは絶対ダメだから。里の屋敷って木造だし」
「ぶっ、ごほごほっ…あー」
子供を諭すかのように語る達郎に、言い返そうとするも思わず咳き込んでしまった凜子。
「達郎…私はそんなにだらしなくはないぞ」
「本当かな、姉さん変なところで抜けてるから」
そう言うと達郎は、屈託のない笑顔を凜子に向けた。
(あぁ、久しく忘れていた…そう、この空気感だ)
達郎の口調は“凜子姉”から“姉さん”へ変わったようだが、根っこの部分は変わらずにいてくれたようだ。それが凜子には堪らなく嬉しく感じられた。
凜子が二本目の煙草を吸い終えると、二人は園庭の中央で他の親御さん共々、子供達が外に出てくるのを待った。
しばらくして、凜子が玄関前に出てきた子供達の集団の中に結生の姿を見つけると、隣りにいた達郎が呟いた。
「ゆ……なんだ」
「ん、どうした達郎。よく聞こえなかったぞ」
「結生は……ゆきかぜの子なんだ、姉さん」
「…っ!?」
凜子が驚き左側に立つ達郎の方を向くと、その両目には大量の涙が溢れていた。
つい今しがたまでは、達郎も凜子に結生の出自を明かすつもりなど毛頭無かった。
だが、結生の姿を目にした途端、胸に込み上げてきた思いと溢れる涙を抑えられなかった。
後悔の果てに辿り着いたこの場所で…今一度誓いを立てる自分を凜子に知って欲しかった。
「でも…勘違いしないで欲しいんだ、姉さん」
「結生がいたから頑張れた…笑えるようになれた」
「結生は俺に…もう一度チャンスをくれたんだ」
「俺は、今度こそ結生を守れる強い男になるよ」
その言葉を聞いた瞬間、凜子の脳裏に在りし日の達郎の姿と誓いが蘇る。
『…俺は、ゆきかぜを守れる強い男になるんだ』
(ようやく、ここから…また始められるんだな達郎)
(まったく、世話の焼ける泣き虫な弟だ…)
凜子は左手で達郎の右手をそっと包むと、達郎と同じく結生の方に顔を向け呟いた。
「その達郎の誓い、私にも手伝わせてくれないか」
「……ぅ…ぅう…」
達郎は凜子の言葉に感じ入り俯くと、凜子の手を強く握り返しそれに答えた。
(私はもう二度とこの手を離さない…絶対にだ)
こちらに気付き駆け寄ってくる結生。その顔に卒園の喜びは見えず、達郎の様子に気付いたのか、心配そうな表情を浮かべていた。
(なんだ、やっぱり良い親代りだったんじゃないか)
凜子は達郎と繋いだ手は離さずに、半歩前に出ると膝を曲げ前屈みになり、笑顔で結生を出迎えたのだった。
【2089年3月28日(月)19:40 対魔忍基地・ブリーフィングルーム】
今夜の任務の説明を聞き終えると、凜子は部屋を出ようしていたゆきかぜを呼び止めた。
凜子は達郎に会えたこと、それと達郎は結婚式を欠席する
「そっか残念。だけどまぁ、生きててくれて安心したわ。正直、酷い別れ方をしたから後味が悪かったんだけど…おかげで少し気が晴れたかも。ありがとう凜子先輩」
それほど動揺した様子もなく、凜子の話に淡々と返事を返したゆきかぜは、余程興味が無いのか特に達郎のことを尋ねることもなく部屋を後にした。
片や凜子の方は、その背中を静かに見送るも、ゆきかぜの余りにも薄情な仕打ちに、両拳を強く握り
(これが、達郎がゆきかぜの幸せを願い選んだ道…)
(私にはとても耐えられそうにない…)
それから数週間後、凜子はゆきかぜにコンビの解消を告げた。再三に渡りゆきかぜに理由を尋ねられた凜子であったが、その意思は固く、またその本心を決して語ることもなかった。
凜子が出てくると、通常の三倍増しくらい執筆が進みます。本当に書いてて楽しくて仕方がないといった感じです(髪の毛は短くなり、煙草まで吸っちゃってますけど…)
達郎がまた笑えるようになった理由については、後日別枠でお話しようかなと思います。
【年齢補足】
2089年03月27日(日)《本編-第2話開始時》
秋山 達郎:23歳
水城 ゆきかぜ:23歳
秋山 凜子:25歳
森田 結生:6歳