【2095年4月1日(月)8:40 達郎マンション自宅】
暖かな春の日の続く朝。今日の天気予報は午前中は快晴、夕方から少し曇り出すようだった。月日は瞬く間に過ぎ、今日から
達郎と結生は、五年前に手狭だったアパートを引き払い、駅近くの八階建て賃貸マンションの六階に引越していた。
3LDKの間取りの新たな住居は、結生の部屋と凜子用の客間を用意するに、十分余裕のある広さを備えていた。
特に凜子用の客間の用意は、当時の達郎にとって喫緊の課題であった。
結生が小学校に入学してからというもの、凜子は大体月に一度のペースで訪れては、駅近くのホテルに度々宿泊しており、それを申し訳なく感じていたからだ。
それにしても…凜子が家に訪れる頻度は、達郎から見ても度を越えていると言わざるを得なかった。誕生日や正月、クリスマスといった、節目やイベントの日には必ず現れるのだ。
挙げ句の果てに、凜子自身の誕生日には、達郎から声を掛けねば凜子の方が拗ねてしまう始末だ。
二年程前からは電車の時刻表に縛られるのを嫌がってか、車を運転して来ることも多い。長距離運転は事故が心配なので、できれば止めて欲しい達郎だった。
そして今回、昨夜遅くに達郎宅を訪れ前泊した凜子が、結生の晴れ舞台に持ち込んだ服装は……何と着物だった。
薄紫の生地に施された草花の刺繍は上品で落ち着きがあり、凜子の女性らしさを更に際立たせていた。
他方、今日の主役の結生は、紺系のブレザーにチェックのプリーツスカート、胸元には小振りな赤いリボンが愛らしい学生服姿だ。
陶器のように白い肌に、艶やかな栗毛色のストレートロングヘア。年々、ゆきかぜに似る勝ち気ながらも茶目っ気のあるその顔つきは、親の
十時開始の入学式までにはまだ少し時間がある。準備を終えた三人は出発までの間、各々くつろぐことに決めた。
スーツ姿の達郎はコーヒーを片手にリビングのソファに腰を下ろし、結生は持ち物の確認のため自室に戻って行った。着物姿の凜子は、キッチンの換気扇の下で煙草に火を付けようとしている。
小学校に入学してからの結生は、同級生や凜子の影響もあって、以前の遠慮がちで控え目だった性格から、物怖じしない朗らかな子へと徐々に変わっていった。
とりわけ凜子が来た時は、近くにべったりで本当に離れない。凜子の話を聞く限り、最近は少年時代の達郎のことをしきりに聞きたがるようだ。
ちなみに、結生には凜子が対魔忍であることは明かしていない。守秘義務ゆえに詳細は教えられないが、刑事の真似事のような仕事をしているとだけ伝えてある。
幸いにも、凜子の大ファンである結生にとっては、それすらも高評価の材料にしかならなかったようだが。
「そういえば達郎。話し忘れていたが、実は後方勤務への異動願いを出していてな。今はまだ抱えている任務があるので、すぐには無理だが…希望が叶えば、今よりも頻繁にこっちに顔が出せると思う」
(…え、今ですら月に一度のペースで来てるのに…もしかして、隔週とかになっちゃうの?)
達郎はキッチンカウンター越しに話しかけてきた凜子に、慌てて返事を返した。
「いやいや、姉さんは今も重要な主戦力だろうに。俺や結生のために何もそこまでしなくても…」
「何を言っている達郎、中学生にもなった年頃の女の子に、男親一人では結生も心許なかろう。私がより手厚く面倒をみなくてどうするのだ」
「あ、はい…」
「それに、私もそろそろ良い年齢だ。忍びの技に衰えの見えぬ内に、前線を退き後進の指導に当たるのも悪くなかろう」
「年齢って…姉さんは老け込むにはまだ早いでしょうが」
「む、随分と盾突くではないか…大体だな、達郎にしっかり者の嫁でもいれば、私がまめに顔を出す必要もないのだぞ。そう言う意味では達郎のせいでもあるな」
「いや、それを言うなら姉さんの方でしょ。今日だってそんなに綺麗なんだから、さっさと行き遅れない内にだな…ぁ」
「ほう…今、私を綺麗だと言ったな?さて、それは果たしてどのくらいだ?」
「…う、どのくらいって言われても」
「……」
「それは…今までで…一番…多分…」
達郎はベランダの方に目を向けつつ、焦りながらも何とか片言の返事を凜子に返した。達郎は見ていなかったが、凜子の方もまた、顔を耳まで真っ赤にして恥入っていた。
「はい、達郎も凜子さんもそこまでーっ!」
結生が自室のドアを勢いよく開きリビングに飛び込んできた。そのセリフとタイミングは、間違いなく二人の会話に聞き耳を立てていたに違いなかった。
「よくもまぁ、毎回二人とも飽きもせず甘々な展開を…凜子さんも達郎を困らせるのはやめてくださいっ!」
(何たる失態。達郎と凜子さんを二人きりにするなんて。どうやら、入学式だからって気が緩んでいたようね…)
「ま、待て結生、お前は何か勘違いを…」
「達郎は黙ってて!」
「は、はいっ」
「そもそも、凜子さんは達郎のお姉さんなんですよね?どんなに好き合ってても結婚は無理ですから。ま、その点、私にとって達郎はあくまで里親で、血縁関係もありませんから。そう…私と達郎に法的な障害は一切ありません!ついでに言えば、年の差も全く気にしてませんので心配無用ですっ!!」
一気にまくし立てた結生に対し、凜子は腹を抱え笑いを抑えようと必死だ。
「くっ、くく…」
「何がおかしいんですか、凜子さん?」
「あぁ、いや済まない。結生があまりにも可愛らしくてな。けどいいのか結生。その履いている靴下…小学生の頃のやつじゃないのか?」
「……えっ…嘘」
結生は自分の過ちに気付くと、顔を真っ赤にして脱兎の如く自室へと消えた。思わず顔を見合わせて笑う達郎と凜子。おそらく、考えたことは同じに違いない。
『『まるで、ゆきかぜと一緒にいるみたいだ』』
「…今幸せか、達郎?」
(分かってて聞いてくる…姉さんも本当に人が悪い)
「勿論だよ。姉さんと結生がいてくれるなら、この先ももう…きっと幸せしかない」
凜子は達郎の返事に満足そうな表情を浮かべると、二本目の煙草に火を付けた。そしてまた達郎も、片手に持っていたコーヒーを口にしたのだった。
【2095年4月10日(日)13:20 ゆきかぜ自宅】
同級生の彼と結婚した後、郊外に新居を構えたゆきかぜは、4歳になる長男の通う幼稚園のママ友さん達を自宅に招き、ささやかなホームパーティを開いていた。
モノトーンを基調とした2階建てのデザイナーズ住宅の庭を、元気に走り回る年中クラスの子供達と、それを横目に1階のリビングで昼食後のお茶を楽しむママ友さん達。
キッチンで昼食の後片付けをしているゆきかぜは、ホワイトのシャツにデニムのワイドパンツという動きやすいカジュアルな装いだ。
今のゆきかぜは、ボーイッシュなショートヘアも相まって、快活な印象と母親相応の柔らかな雰囲気の両方を合わせ持っていた。その容姿から幼稚園での人気もとても高いのだが、本人自身はそのことを多少億劫にも感じていた。
結婚後も最前線で活躍を続けるゆきかぜ夫婦は、任務のために家を留守にすることが多く、長男を彼の実家に預けることも少なくなかった。
三日前に任務を終えて彼より一足先に帰宅したゆきかぜは、週末は長男と二人でゆっくり過ごすつもりだったのだが…押しの強いママ友さん達の勢いに負けた結果がこの有り様だった。
(まぁ、いっか。あの子も楽しそうだし)
ゆきかぜの長男は、四歳にして既に風遁使いの片鱗を見せていた。将来、対魔忍となるならば前線での任務は荷が重いかもしれない。
任務での疲れが溜まっていたのか、何とはなしに手元から視線を外したゆきかぜは、うっかり手を滑らせ皿を床に落としてしまった。
皿の割れる音に驚くママ友さん達に、ゆきかぜは大丈夫と一声掛け、割れた皿の破片を一つずつ拾い集め始めた。
「ママ、大丈夫?」
庭で遊んでいた長男が母を心配したのか、ゆきかぜの近くに寄って来た。
「大丈夫、心配ないわ。ちょっと手が滑っちゃっただけだから」
それでも心配を拭えなかった長男は、何とか母を元気付けようと父との約束を語り出した。
「ママのことは、僕の風遁で守ってあげるからね。そのためにも、パパと強くなるって約束したんだ!」
「…ぐはっ!」
瞬間、ゆきかぜは後頭部をハンマーで思い切り叩かれたような激痛を感じ、右手で頭を押さえた。
(風遁…私を…守る?)
ゆきかぜは達郎の誓いを忘れていた訳ではなかった。ただ、今となっては他愛のない思い出の一つに過ぎないと、記憶の片隅に捨て置いていた。
だが、長男の言葉を切っ掛けに、意図せず色を帯び蘇ったその思い出は、かつての自分の気持ちを呼び起こすには十分であり…また、記憶の
もはや、ゆきかぜの目に長男の姿は映っていない。今、眼の前に浮かぶのは在りし日の達郎の姿だ。
『…ゆきかぜのことは俺が必ず守るから』
「ぅあ、ぁああ…あぁあああ!」
ゆきかぜは、突如悲鳴を上げ崩れるように倒れ込むと、両手で頭を強く押さえながら苦しみもがき、皿の破片も気にせず床の上を転げ回った。
暗示の解けたゆきかぜの脳内に、聖修学園での陰惨な記憶が怒涛のように襲いかかる。
ゆきかぜの脳裏に浮かぶは、森田専属の淑女として性的快楽を際限なく追い求めた汚らわしい自分。
森田との間に娘まで産んだ痛ましい自分。
対魔忍への復帰を優先し、第二子の中絶を決めた冷酷な自分。
そして…事実を知りもせず、失意の達郎を汚物を見るような目で冷たく突き放した滑稽で哀れな自分。
「…ぁ、あが…ぐふっ、ごふっ…ぎゃああああ!」
脳内の奥底に仕舞い込まれていた数多の真実が、鮮烈な
鼻水と涎にまみれた顔に、虚な目からは際限なく涙が流れ続けている。ゆきかぜは寒さに震えるかのように身体を丸めると、壊れた人形のように意味不明な言葉を呟き出した。
「…ぇ…ぅあ。そんな、やめ…ごめ、ろ…ごめ…な…ぅう…」
誰かに助けを求めようと眼球を動かし周りを探るゆきかぜ。何事かとゆきかぜの周囲に集まったママ友とその子供達は、心配そうな顔つきでゆきかぜのことを見下ろしている。
「っあ…あは…あはは…」
ゆきかぜにすれば、その様子は皆がゴミのような自分を
ゆきかぜにとって、既にここは地獄と何ら変わりがなかった。
【2095年4月10日(日)19:40 対魔忍病院】
その後、病院に緊急搬送されたゆきかぜは、ICU(集中治療室)のベッドで浅い眠りについていた。
鎮静剤の投与により一時的には落ち着いているが、今も医療用の拘束具でベッドに身体を縛り付けられている。
早々に何らかの処置を施さなければ、更にゆきかぜの精神を追いつめることになりかねない状況だった。
ゆきかぜの周りでは、桐生医師を含む複数の医師達が、今後の処置について議論を重ねていた。
報せを聞き病院に駆けつけた凜子は、ゆきかぜには近寄らず室内の壁にもたれかかると腕を組み、医師達の様子を厳しい表情で眺めていた。
今夜の任務に備えていた凜子は、ボディラインの際立つ紫色の対魔忍装束を着用しており、その上に作戦移動用の黒のスラックコートを羽織っていた。
ゆきかぜは記憶のフラッシュバックにより、精神機能がショック状態に陥っていた。脳幹に接続されたマイクロチップ “アーベル” を
暗示により記憶の改竄・忘却を再び行うにしても、今後も些細な切っ掛けで度々解除されるようでは、ゆきかぜの精神的負担は指数関数的に増大するばかりで、遠からず生死に関わるのは明白だった。
ゆえに、先ずは暗示を解除するに至った根本原因を突き止めなければいけないのだが…医師達には、それがどうにも分からない様子だった。
「現場に居合わせた親達の話を聞く限りでは、ゆきかぜの長男との会話が切っ掛けのようだが、こんな他愛のない言葉が一体何故…」
桐生医師達が頭を悩ませていると、それを見かねた凜子が呟いた。
「おそらく、幼少期の達郎と重なったのだろう。昔、達郎はゆきかぜに同じような約束をしていたからな」
「なるほど。では、その約束の記憶を改竄、或いは忘却することができれば、今後のリスクは相当低くなるとみて間違いないな…よし、その方針で進めよう」
「…っ、そんな…」
(何故そうなるっ、他に方法はないのか!?)
凜子は喉まで出掛かった言葉をのみ込んだ。
「ん、何か他に問題でも?」
「……いや…ゆきかぜのこと…よろしく頼む」
「勿論だとも。ありがとう凜子君。君のおかげで、何とかゆきかぜを救うことができそうだ」
「………」
話を終えた凜子は、桐生医師に返事を返すことなくICUを後にすると、大きく一つ息を吐きゆっくりと廊下を歩き始めた。
(ゆきかぜ…あの時、お前は忘れるべきではなかった。達郎と辛い思いを分かち合うべきだったんだ)
ゆきかぜが記憶を改竄・忘却したあの瞬間から、私達の道は2つに分かれたのだろう。
互いの道はどちらも現実には違いないが、今更もう一方に擦り寄ることなど不可能なほど大きく離れてしまっていた。
ならば、せめてこれまで通りに幸せな道を歩むべきだろう…凜子は足を止めるとICUの方を振り向き呟いた。
「それが…達郎の願いでもある」
凜子は病院の玄関口へと再び歩き出す。凜子の固く冷たい靴音の響きが遠ざかるにつれ、その姿もまた廊下の暗がりに紛れ消えていったのだった。
前半は楽しく書けたのですが、後半は思いの外大変でした。凜子推しの私なら、ゆきかぜが痛い目に合う場面なんて幾らでも…なんてことは全然なくて。自分で考えたお話なのに、終始書いてて辛かったです。
次回、最終話となります。この物語の幕引きをしっかりお見せできるよう、最後まで執筆頑張ります。
【年齢補足】
2095年04月01日(金)《本編-第3話開始時》
秋山 達郎:29歳
水城 ゆきかぜ:29歳
秋山 凜子:31歳
森田 結生:12歳
ゆきかぜ長男:4歳