春の始まり、冬の終わりが近い。
落ちる日光は暖かくも、吹き抜ける風は極寒。防寒着をも突き抜けて肌に触れ、その度に身体が硬直する。最も辛いのは、なにより布団から出る時だ。
「あ、ああ……」
声が上手く出ない。喉が乾燥して痛い。
頭の奥で痛みが響き、身体の気怠げな感覚が抜けない。目蓋が重いだけでなく、意識自体に重さを感じていた。
「失敗しら……」
枕元に置いていた水筒を手に取り、喉を麗してからぼんやりと呟く。
身体が重く、気怠いのも、恐らくは夜遅くまで仕事などをしていた所為かもしれない。もとより、日にちを跨ぐなんてことは毎日のこと。
いずれ訪れるライスシャワーの祝福。
万雷の喝采と、歓喜の祈り、咲き誇る笑顔。ライスシャワーが望む景色を、渚自身も見たい。
どれだけ遠く果てしない未来なのだとしても、渚が諦めないのは、ライスシャワーが諦めない故だ。
「…………」
昨日に至っては、レース映像を見ていたらいつの間にか朝の四時。睡眠時間は一時間未満。疲労が取れていないのも無理はない。
明日寝ればいい──そんな考えが永遠と続いた末、この体調不良に至る。
喉の奥に潜む気持ちの悪さを、なんとか喉で麗しながら各部の体調申告を聞く。頭、頭痛が激しい。顔、目付き悪い。腕、動く。腹、空いた。足、痺れてる。
「これは、
起き上がる事すらが困難になり、寝返りを打って天井を見上げる。ぼんやりとした視界と、朧気な意識の中で、なんとか力を入れて起き上がった。
ふわっとゆらゆら揺れる。
雲のような気分を味わいながらも、吐き気は収まらない。立ち上がろうとして、ぐるぐると回る意識に耐え切れず、壁にもたれかかった。
「嗚呼……まら……」
呂律が回らない。だが、これしきのことで倒れる訳には行かない。ここで倒れればライスが悲しみ、心配をかけることになる。
トレーニングの時間を失うのは、ライスと自分の夢が遠退く。薬さえ飲めば、あとは何とかなる。
壁を頼りに、ふらふらとした足取りのまま薬を見つける。ぼんやりする視界の中、手に取った物は確かに瓶。目を擦りながら、瓶の蓋を取った。
「うわくっさ!」
顔から遠ざけ、手に取った瓶を見つめる。それはアグネスタキオンから渡された謎の薬品。これを飲めば、身体が縮んで子供になるらしい。
「誰が飲むんらよほれ……コナミ……ん?」
否、言いたかったのは『コナン』である。
頭も回らない──それはいつものこと。薬がどこにあるのかさえも、もう既に考えられない。
久々な感覚を忘れ、気付くのに遅れた。
ふらっとした直後に、渚は直感で「まずい」と感じる。だがそれも一瞬の出来事──視界は明滅して暗転。意識が暗黒の中へと誘われて、
そしてその報告がライスシャワーへと向かったのは、昼食の最中に起こった出来事。
「へ……?」
突然放たれた言葉に、ライスシャワーの箸で持ったタコさんウィンナーが彩られた皿の上に落ちる。
開いた口が閉じず、ライスシャワーはきょとんとした顔で、その言葉を伝えた女性を見つめていた。
昼食を済ませていたライスシャワーを見つけ、一人の女性トレーナーが彼女のもとに駆け寄り、渚の身に起こった事を説明した。
そして────今に至る。
「い、いま、なんて……」
箸が震え、ライスシャワーは上手く言葉を口にできない。脳裏に過った過去の天皇賞で起こった最悪。
その目で見た──だからこそ、ライスシャワーはいても立ってもいられず、箸を置いて女性トレーナーに迫り寄った。
「い、いま、お兄さまは……!?」
「ちょ、ちょっと落ち着いてライスシャワーさん。
「か、ぜ……?」
その報告を聞いたライスは、ホッと胸を撫で下ろす。だがそれも一瞬で、渚が風邪で寝込み、辛いのではないかと心配で仕方がない。
それを察した女性トレーナーは、ライスを落ち着かせるように声をかける。
「今は薬を飲んで寝ているみたい。だから大丈夫よ」
「そう……なんですか……」
ライスは視線を下に向けて俯く。
たとえ他人に大丈夫と言われても、身体の奥底にある霞が取れるわけではない。目の前にある昼食に目を向け、力強く頷いた。
「ら、ライスシャワーさん?」
女性トレーナーの心配げな表情を他所に、ライスは一気に昼食を食べる。何かに焦っているように、急いで──いつもは味をじっくりと味わって食べるライスが、今は水で掻き込んで食べた。
食べ終えた皿を手に持って、トレーの返却台に戻す。そして食堂から走り抜けようとし、ライスは一度帰って来た。
「あ、あの……! 教えていただき、ありがとうございました……!」
ただ渚の状態を教えてくれた女性トレーナーに感謝を告げる為だけに、慌てて戻って来る。目一杯に頭を下げて、感謝を伝えたライスはそのまま食堂を駆け抜けた。
やがて、時刻は過ぎて行き、学園の座学は終了。殆どのウマ娘たちは、照り付ける太陽の下で、トレーニングの為にターフへと向かっていた。
だが、そこへ向かわないウマ娘も中にはいる。
ライスシャワーは早急に片付けを終え、予め送られて来た渚のトレーニングメニューに目を向けた。
「うぅ……どうしよう……」
トレーニングを終わらせるべきか、それともトレーニングはやらずに渚のもとに行くべきか──トレーニングをやらなければ、後で渚に怒られる可能性がある。かといってトレーニングを続ければ、渚が辛い思いをすることになる。
ライスにとってトレーニングも大事だが、それ以上に渚の存在も大事なのだ。
「よし……!」
そこで、ライスは閃いた。
課せられたトレーニングメニューを急いで終わらせ、何よりもはやくに渚のもとへ向かえばいい。
ライスが気掛かりなのは、渚が風邪で倒れたという事実。完治したとはいえ、ただでさえ病弱の渚が倒れた。それがどれほど重大な事か、ライスは分かっていた。
「はやく行かなくちゃ……」
足早にトレーニング室へ向かい、ライスはジャージへと着替える。そして渚から送られて来たトレーニングメニューを、丁寧かつ迅速に全て終わらせて渚の部屋へと向かった。
闇の世界。暗黒の暗闇。
いつだってここは黒く、暗く、
ただ寝るだけで此処に来ることはない。身体の調子が壊滅的に悪く、意識が絶望的に離れているこの時だけ、此処に来る。
────もう此処には、
光も、感覚も、意識も、全てが虚無へ。
そのはずなのに──声だけは、聞こえた。
囁くような、儚い、それでいてこの暗闇に席巻する精悍な声。聞き慣れたその声は鼓膜を震わせて、歪な意識を掴み取る。
「お兄さま……」
ゆっくりと浮上して、燦然と輝く
聞こえる声に誘われ、渚の意識がゆっくりと覚醒。カーテンの隙間から差し込む
それによって渚は光から顔を逸らしながら、瞬きを繰り返して意識を安定させる。
「ああ……」
徐々に蘇ってきた意識のもとで、額に冷たく柔らかい物が乗っているのに気が付く。取ってみればそれは、水で濡らされて綺麗に畳まれたタオルだった。
「あれ、なんで……」
考えても、自分でやった記憶がない。
思考能力が低下しているのだとしても、自分のやったことを忘れるほどではないはず。それに、感じた違和感はそれだけではない。
軽い金属同士のぶつかり合う高く響く音。 その中で緩やかな鼻歌が聞こえて来た。
思わず眠くなるような『ささやかな祈り』の鼻歌。渚はそれを歌っているのが誰なのか、頭を横に向けて視界を移した。
その先は音の鳴るキッチンへ。
そこに立っているのは、小柄な体型で漆黒の髪と手入れの施された尻尾を揺らす一人のウマ娘。
歪んだ視界の中でも、それが誰なのか一瞬で理解できる。渚は枕元に置かれた眼鏡を掛けて、その正体を疑問から確信へと変えた。
「え、なんでライスが……?」
「あ……! お兄さま……!」
震える声を聞いた渚の担当ウマ娘──ライスシャワーが、慌てた様子で渚の横で座り込む。
「嗚呼、とうとう俺は……夢の中でもライスに、会いたいと、思うようになったのか……」
「お兄さま、大丈夫? どこか辛い所とか……」
渚の身体を観察したり、タオルを取って額に手を乗せることで、ライスは心配げな表情で体温を測る。そして「まだ熱い……」と呟き、手に持ったタオルを水で濡らす。しっかりと絞った後に渚の額に乗せた。
「ちょっと待っててね、お兄さま」
渚の疑問を知る由もなく、ライスは立ち上がってキッチンへと駆け足で戻る。
ライスがなぜ部屋にいるのか、そしてライスがなにをしているのか、今の渚には考えるどころか思考能力そのものが無かった。
「ああ……
「お兄さま……! 大丈夫!?」
頭痛に頭を抱えると、慌てた様子でライスが駆け寄る。どうやら夢ではなく、現実の出来事らしい。しかしなぜ担当ウマ娘のライスシャワーがいるのかは、相変わらず理解できていない。
「まだ寝てて……いま、おかゆ持ってくるね」
「なんで、ライスが……?」
するとライスは振り返って、心配げな表情のまま渚を見つめる。向けられた瞳は、僅かに涙で濡れて潤んでいた。
「お兄さまが、倒れたって……」
「え、あー……そういえば……」
思い返して見れば、確かに一度倒れたような記憶がある。それから、這いつくばってベッドまで戻った。
その後の記憶はない。
「はい、お兄さま」
ライスはお椀を持って渚の近くまで寄る。温かな香りと、白い湯気が棚引いて渚の鼻孔をくすぐり、渚は朝から何も食べていない事を思い出した。
渡されたお椀を手に取り、渚はゆっくりとお粥をスプーンで運ぶ。それは溶き卵と鰹節を薄口醤油や塩で混ぜたお粥だった。
棚引く湯気が見えて、そっと息を吹いてから口に運んだ。
「あちっ」
口の中に疾走った熱による刺激。刺されたような痛みが口内に駆け、渚は苦痛に一瞬顔を引き攣らせた。
「お兄さま! だ、大丈夫……!?」
ライスが慌てる。
思考能力も低下して、逆に感覚だけは研ぎ澄まされている所為か、いつもは平気な熱さであっても、今は致命傷になりかねない。
日頃の癖にまでなりつつある適当な熱さも危険。渚は頭を抑えて「誤算だった」と呟くしかなかった。
慌てた様子で、落ち着かないライスは涙すら浮かべながら、
「ご、ごめんね……うぅ……熱かったよね……ら、ライスが冷ますから、ちょっと待ってて……!」
渚の持っていたお粥を手に取り、一口分をスプーンでよそったライスは目を閉じた状態で息を吸った。
ライスがなにをするのか検討も付かない。だが次の瞬間、渚の耳に聞こえたのは「ふーっ」という息を吹き掛ける音。
「え……」
視線を向けた先に──ライスシャワーが懸命に息を吹き掛けて、お粥を冷ましていた。
「ふーっ、ふーっ、ふーっ」
何度か息を吹き掛けたライスは「食べられる……?」と、自信のない声色のままスプーンを渚に突き出した。
ただ突き出されたのではない。ライスの口から「あーん」などという擬音のような声が聞こえる。
注意して見れば、ライスが顔を赤くしてスプーンを渚に向けていた。
いつもの渚であるなら、ここは首を横に振って自分で食べようと藻掻く。だがしかし──今の渚にそんな思考能力がある訳ない。
ただ、そのまま口を開いて────、
「あ……」
「あーん」
パクリ──なんて擬音は付かないが、スプーンで掬い取られたお粥を、渚は何の抵抗も無く食べた。
恥ずかしがるべき渚の思考は宇宙の彼方。身体の怠さや頭痛による疲労で、目蓋は半分閉じられて口も半開き。
一方ライスは渚にお粥を食べさせながら、唐突な罪悪感に苛まれて「うぅ……ライス、悪い子だ……」と訥々とした声で呟いた。
「ありがとう、ライス……」
数分の長くも短く感じられた幸福の時間。
お椀のお粥を全て食べ終え、ライスから与えられた薬を飲み干した渚は、布団を被って横になった。
この薬もライスが態々買って来てくれたもの。ライスは薬を買う際に、どれを買ったら良いか分からず、大量に買って来ていた。
「お兄さま、大丈夫……?」
「大分、楽になったよ」
今では頭痛も収まり、身体の怠さも抜けてきて、ある程度の思考も取り戻している。
渚のベッドの横に椅子を持ってきて座るライス。水で濡らしたタオルを渚の額に乗せ、ライスは横で「良かった……」と思わず声を漏らしていた。
「絵本とか読む……?」
どこから取り出したのか、懐から絵本を取り出したライスは読む気満々でいる。そんな彼女を見た渚はライスの読み聞かせも悪くないと感じ、そして同時に──懐かしくも思っていた。
「……前にも、こんなことがあったね」
「……うん。お兄さまが、たくさん辛い思いをして、ライスの為に頑張ってくれてたね……」
「確かに辛かったけど、後悔してはないよ。それに、あの時はライスが一番頑張ってたさ」
微かに微笑んだ渚に、ライスも笑みを浮かべる。
「ライスが頑張れたのは……お兄さまとブルボンさんが、最後までいてくれたからだよ?」
「ブルボンにも、感謝しないとね」
「うん……!」
ライスシャワーが非難され、
二人にとって最悪な出来事でありながら、夢に向かって確実に一歩を前進させた出来事でもあった。
「…………ライス、今日はありがとう」
流れていた沈黙。その中で、渚はライスを見つめて伝える。するとライスは目線を泳がせてから、力強く「うん」と頷いた。
飲み干した薬の副作用の所為か、渚は唐突に睡魔に襲われ、目蓋を開くことさえも困難になってきている。
それを察したライスは最後に淡く微笑んで、
「おやすみ、お兄さま」
「うん……おやすみ……」
そして、ナギサの意識はまた闇の中へと消える。
それは────。
ライスは見せてないだけで家事とか一通りはできそう