それは、トレーニングが無い休日の日に起こった。
休日の日だというのに、渚はトレーナー室に籠り、ライスシャワーの明日のトレーニングメニューや、その他の残ったトレーナー業務をこなしている。
机の上には少し古びたパソコン、数十枚にも昇る
そしてその右手には税込み258円の菓子パン。安さとボリュームが信頼の渚の大好物。
「これが最高のコスパ」
青汁を混ぜながら、そんなことを呟く。
いつも食べる昼食はこれだ。
栄養も取れて美味い物にもあり付ける。一石二鳥とはこのことを言う──
なぜ休日にも関わらず仕事をこなしているのか?
答えは簡単。単に渚が仕事をサボっていたから。
この前こっぴどく
「嗚呼、暇だ……」
ライスは今日いない。
なぜか? 流石にそこまでは知らない。彼女の私生活まで知り尽くしているなど、それはトレーナーでなく、ただのストーカーでしかない。
「かぁ〜っ!」
机を蔓延る紙の束をぶちまけ、何もかもが嫌になって背もたれに寄りかかる。
ライスシャワーは休日の日に、トレーナー室で過ごしていることが多い。ただ静かに絵本を読んだり、渚の仕事を手伝ったり、そして渚のくだらない戯言を聞いたりと、そんなことばかり。
「ウルトラ寂しいぜ」
ライスは決して喧しいタイプではない。誰かを罵ったり、どこぞの
ただ静かに時を過ごす。少しの会話、ただその場にいるだけ。だからこそ楽しい一時になる。
そして最後に一言付け足す。
ライスは可愛い──これ常識ね。テストにも出るので、しっかりとメモを残すように。
「…………」
つまらなくて捨てようとしていた雑誌の一冊を広げ、顔に被せたまま瞳を閉じる。
何も考えず、何も見ず、そのまま眠りに付こうとするが、遠くから一つのか細い声が聞こえた。
それは何度も聞いて、聞き慣れた美しい音色。
「お、お兄さま……?」
ガバッと起き上がり、顔を覆っていた雑誌が机の紙を撒き散らして落下する。
視界が開け、渚の瞳に映ったのは青いバラ。
その持ち主はただ一人。渚は彼女の姿に困惑して、思わずその名を呟くしかなかった。
「あえ、ライス?」
「うん、ライスだよ」
笑顔で応えるライスと、呆然とする渚。
互いに見つめ合う無言の時間が過ぎ、困惑する中で渚が口を開いた。
「今日って、どっか出掛けるんじゃなかった?」
「ゴールドシップさんとマックイーンさんとね、映画を観に行ってたの」
「おー、映画か……楽しかった?」
「うん……っ!」
満面の笑みで頷くライスに、渚もまた釣られて笑みを浮かべた。
ライスが自分を責めることなく真っ先に『楽しかった』と頷けるなら、良い思い出の方が大きかったことになる。それもゴールドシップとメジロマックイーンの二人のおかげだ。
後で礼を言っとかないと──そんなことを思考の隅で考えながら、ライスを見つめる。
「どんな映画観たの?」
「えっとね……病気になっちゃった恋人を助ける話だよ! 病気の彼女さんの為に、彼氏さんがやりたいことを一緒にやってあげるの!」
よほど楽しかったのか、ライスは笑顔で映画の感想を熱弁する。
最近になって、ライスが笑顔でいることが多くなった気がする。トレーナーになった当初は何かと自分を責め、泣いてしまう事も多かった。
だが最近は笑顔でいることの方が多い。それも良い傾向だと感じる。
「そんなに面白かったのなら、今度俺も観に行ってみようかな……」
「……! うんっ! 面白くて感動もするから!」
しかし、観に行くにあたって問題が一つある。
それは『恋愛映画』という事実。渚自身は映画のジャンルに好き嫌い隔てることなく色々観ている。けれど、男が『恋愛映画』を一人で観に行くのは、少し気が引ける。
別に男が観てもいいじゃないか、それはそうなんだが──やはり、僅かながら恥ずかしさがあった。
「……それで、その映画なんだけどさ。ライスも一緒に観に行かない?」
「え……ライスと……?」
「あ、二回目が嫌ならいいんだけど。一人で観るのは、ちょっと恥ずかしいかなって……」
あはは、と空笑い。
目線を斜め上に向け、ライスからの軽蔑の眼差しが飛んでくるのを覚悟したが、返ってきたのは予想外の言葉。
「ライスも、行っていいの……?」
「うん、寧ろついてきてほしい」
一人は恥ずかしいから、そんな言葉は押し留める。するとなぜかライスは少し頬を赤く染めながら、
「えへへ、じゃあライスも行こうかな……」
「え、マジで? 二回目でもいいの?」
「映画面白かったから……それに……」
ライスがその言葉を最後に口ごもる。
自分の両腕の指を絡め、モジモジとしながら、ライスは少しニヤニヤして俯いていた。
「どうしたの?」
「ご、ごめんなさい……! え、えっとね……お兄さまとなら、映画行きたいなって……」
思わぬ了承に渚も「ありがとう」と笑顔で感謝を述べる。そしてライスは何かを思い出したように「あ!」と声を上げ、肩に掛けていたカバンから一枚のDVDを取り出した。
「お兄さまあのね……えっと、面白いって言われて、映画を借りてきたの……だからね……」
段々と声が小さくなり、自信が無くなっていくライスだったが、そんなこと気にせず、渚は部屋の隅からDVDプレーヤーを取り出した。
「え……?」
「どっかにお菓子とかあったかな……」
「お兄さま……?」
あったあった、と棚の一番下からいくつかのお菓子を取り出し、渚は立ちすくんでいるライスに首を少し傾げた。
「ん、それ見るんじゃないの?」
「……! うんっ! ライスもね、お菓子持ってきたんだ!」
「あ、お菓子食べまくるのは今日だけだぞ」
パアッと顔を明るくさせたライスに注意を促すと、彼女は笑顔で頷いた。
DVDプレーヤーにライスが借りてきたDVDをセット。機械音と共にDVDが回転し、プレーヤーの中から擦れる音が響く。
「部屋が汚いのは許して。まあ、そこら辺に散らばってる紙は踏んづけても
「え……お兄さまが困らないなら、誰か困るの?」
「たづなさんとか?」
「ダメだよ……!」
そこで、渚がふいに思った疑問をライスに向ける。
「ありがと、ところで──どんな映画なの?」
「夏休みに、二人のカップルが旅行に行く映画なんだって」
「タイトルは?」
「シャイニングって、書いてあったよ……」
「あー……え?」
どこかで聞いたことのある名前。恋愛映画をあまり見ない渚が知る由もないはずだが、頭の隅で不安に似た何かが訴えていた。
しかしそんなことは対して気にもせず、ソファに腰を下ろす。隣にライスも座り、ようやくテレビに映像が映し出された。
ライスシャワーと
やがて映画が始まり、渚の不安は明確なものへと変わって行った。
数十分か、数分か、それとも数十秒か──あまり長くはない時間が過ぎて、渚はこの映画に対して一つの確信をした。
隣にはライスがいる。クッションを抱き締め、目に大粒の涙を浮かべてはふるふると震えている。
「ライス、大丈夫?」
その涙は、決して感動から来るものではない。
その震えは、決して感激しているからではない。
テレビから響き渡る悲鳴が響く度に、ライスは顔をクッションで覆い、その尻尾がピンと伸びた。
「……っ! ひゃぁっ!」
訝しんでいた渚だけでなく、楽しみにしていたライスも、今ではその事実に気が付いた──この映画が恋愛映画などではなく、
「ライス? もう止めようか?」
あまりにも怖がっているので、渚は映画を止めようとリモコンを手にするが、ライスは涙を浮かべながら首を振った。
「……だ、大丈夫……ぐす……だから……」
「……無理しない方がいいよ」
首を振る。
心配げな目でライスを見つめた。
今の状態は絶不調そのもの。顔も青ざめ、耳は萎れ、もう映画を観ていることすらままならなかった。
瞬間──テレビから悲鳴が響く。
「──ひゃぁぁぁぁぁっ!」
「んぐっ」
悲鳴が耳を貫き、ライスは渚の腕にしがみつく。
制御を失ったウマ娘の
「ら、ライス……腕、腕……」
「ご、ごめんなひゃい……!」
慌てて離れたライスだったが、すぐさま渚の隣へ戻る。そして潤んだ瞳で渚を見上げ、ゆっくりと途切れ途切れの声で──、
「……お兄、さま……手、握ってても、いい……?」
「あー、いいけど……」
手を差し出すと、ライスは渚の手を強く握り締めた。
「離さないでね……」
「合点承知」
連鎖する怒号と悲鳴。重なり合う恐怖にライスは怯え、握る手を更に強く締めた。
ライスは恐怖のあまり映画を直視できていなかったが、渚は怯えるライスを宥めながら映画を観た──実際は、ライスが心配で映画どころではなかったが。
時折ライスに「大丈夫?」と声をかけ、頭を撫でたりして、僅かにでもライスの恐怖を和らげる努力をした。
なぜそこまで泣きそうになりながらも映画を観ることをやめないのか、そこを疑問に思う渚だが──お菓子を食べて最後までライスに付き合おうと決めた。
そして約二時間三十分が経ち、ようやく映画は終わりを遂げた。
「やっと終わったね」
やけに長く感じた時間。長時間座っていた所為で凝り固まった身体を伸ばしてから、隣のライスに視線を向けると、渚は眉を上げた。
「あら……」
叫んで、泣いて、その繰り返しをほぼ休むことなく続けたライス。映画が終わった安堵感からか、ライスは眠気に襲われてウトウトしていた。
「寝る前に寮に帰った方が良いよ。送ってあげるから」
優しく微笑むと、ライスは首を振った。
「……怖い、から、もう少し……いさせて……?」
ライスの記憶には恐怖がまだ鮮明に残っている。
まるで幼い子供みたいだな──そんなことを微かに思いながらも、渚は頷いた。
「じゃあ、時間が来るまでね」
「……ありがとう……お兄、さま……」
感謝を囁いたライスの頭が渚の肩に乗る。それと同時に、渚の耳元で寝息が聞こえ始めた。
「ライスにとってはとんだ災難だったな……」
もう既に意識は彼方へと──渚は優しく微笑んでライスの頭を軽く撫でた。
後々聞いて知ったことだが、ライスが恋愛映画だと思って手に取った物の中にはこのシャイニングが入っていた。
店員が入れ間違っていたらしい。つまりは恋愛映画のパッケージにシャイニングが入っていた、という入れ違いが今回の原因だった。
映画が終わり、トレーナー室には静寂だけが残される。テレビから鳴り響く叫びや怒号もなく、渚の隣で響き渡る悲鳴もない。
一転して静まり返れば、虚しさが生まれる。だがかつて一人だったトレーナー室よりも、遥かに
寝息を立てて、無防備に眠るライスを撫でながら渚は呟く。
「非難され、
それは昔の話。
夢に向かって駆け、祝福を願って奔走する。そんな彼女に起こった最悪な出来事。
かつての事を思い出して、渚は溜め息を吐いた。
「……ライスだって、一人の女の子だ」
その事実を、みんな忘れた。
なぜそんな簡単なことにも気付けないのか、渚には理解できなかった。
今では違うが、かつての周りの在り方には呆れる。
夢を見て、恋を知り、努力する。たとえウマ娘であろうと、女の子である事実は変わらない。
「……頑張ったね、ライス」
ライスの瞳に掛かる髪を梳いて、渚は囁いた。
すると、僅かに身体を動かしたライスの口から「お兄さま……」と溢れ、微かに微笑んだように見えた。
「今日は災難だったからね。明日にでも映画に連れて行ってあげよう……」
財布の中身を確認して、そう呟いた渚だった。
因みに、財布の中──所持金は1403円。
明日、お金を下ろすか。