とあるトレーナー室で、一人のしがないトレーナーが、眉を寄せて誰よりも真剣な眼差しで一点を見つめていた。
見つめる先はトレーナー自身が手に握り締めるタブレット端末の画面。そこに映し出される動画に目線を向けている。
仕事の一環か、と問われればこのトレーナーは真顔かつ即答で「仕事の一環だ」と答える。彼は動画を見て唸りながら、その視線を動かす素振りすらしない。
ただ一点集中、真剣な眼差しで見つめる。
彼の名は──
そこへ、一人のウマ娘が飛び込んで来た。
「クレナイトレーナー! ボクのトレーナーからお届け物だよー!」
ポニーテールを揺らしながら、元気良く飛び込んで来たのはトウカイテイオー。その手に束になった書類を持って、飛び込むと同時に視線を渚へと向け、
「──ってなに怒ってるの!?」
テイオーは驚愕して一歩後ろに下がる。
眉間に皺を寄せている渚を見れば、テイオーでもそう思うのは仕方ない。誰から見ても、今の渚は憤慨しているのだと思うはずだ。
「いえ、今クレナイさんは先日のウイニングライブを視聴しています」
「あ、そうなんだ……ってうわ!!」
足音もなく隣に現れ、テイオーは全身を強張らせて飛び退く。そこにいたのはトレセン学園の制服に身を包み、赤み
「ブルボン!?」
ブルボンと呼ばれたウマ娘は「はい」と単調な様子で返事をする。
ミホノブルボン──無敗の三冠を目前まで迫ったウマ娘。徹底したトレーニングと機械の如き正確な逃げは、あらゆるウマ娘の追随も許さない。
その走りから様々なウマ娘にも注目され、一時は世間の話題がミホノブルボンで埋め尽くされるほど。
なぜミホノブルボンが渚のトレーナー室にいるのか、想像もしてなかった。
ライスシャワーとミホノブルボンはライバルのような関係でもあり、天皇賞に出る事を拒んだライスを支え、そして背中を押した大切な
だがそれはあくまでもライスとの面識があるのみ。渚とブルボンの面識はそれほどない。
「なんでここにいるの?」
「クレナイさんに呼ばれましたが、今は待機モードに移行しています」
淡々と答えるブルボンは、渚に視線を向ける。
渚は依然としてタブレット端末の画面を注視している。その表情は、まるでなにかに苛立っているように見えた。
「そうなんだ……それで、誰のウイニングライブ……って一人しかいないか……」
「はい、ライスのウイニングライブです」
「だよねー……」
テイオーの脳裏に過るのは《ライスシャワー》の文字が入れられた
「あはは……」
テイオーが苦笑と同時に空笑いをした。
その笑いが渚に聞こえることはなく、ミホノブルボンもテイオーの空笑いには反応を示さず、一切微動だにせず渚を見つめている。
「なんでそんなに目付き悪くなってるの?」
「コンタクトを忘れたとのことです」
「だから……」
何度も頷きながら納得していると、唐突に渚が立ち上がって「来るぞブルボン!」と声を荒げる。その声を聞いたブルボンは「はい、直ちに」と冷静に答えて渚の横まで歩み寄った。
「え、なになに?」
並ぶ渚とブルボンの後ろから覗き見るようにして、テイオーは少し背伸びをしながら渚の持つタブレット端末を見つめる。そこに映し出されるのは、ブルボンが言っていたライスのウイニングライブ。
渚がタブレット端末に付けていたイヤホンを取れば、音声がトレーナー室に響き渡り始めた。
《泣かないで! 拭くんぢゃねー!》
鳴り響く音楽──『うまぴょい伝説』を踊るのは、センターに立つライスシャワーと背後の二人。
《あかちん塗ってもなおらないっ!》
渚が音量を最大まで上げ、廊下にも響き渡る。
ライスシャワーの美しくも儚い囁くような歌声。渚はもちろんのこと、テイオーやブルボンもその歌声に魅了され、思わず聞き入ってしまっていた。
《今日の勝利の女神は──》
「──来るっ!」
渚が構えた瞬間──画面の中のライスシャワーが両手を口元に当てた。
この次にある歌詞とダンスの振り付けは、テイオーだけでなくブルボンも知っている。しかし渚が何に構えているのかは理解できなかった。そして──、
《あたしだけにチュゥする》
七色に彩られるステージの中。ライスシャワーの頬がほんのりと赤に染められ、口元に当てた手を前に突き出す──それはまさに『投げキッス』。
ライブ中は仕方ないにしろ、改めて見ればテイオーですら恥ずかしく思ってしまった。
だがしかしそんなことよりも、ライスシャワーの《あたしだけにチュゥする》と鳴り響いた転瞬、椅子に座っていた渚の身体が後ろに倒れる。
「わ!」
危険なことに気が付いたテイオーは、慌てて横に飛び退く。そして────ブルボンが蹌踉めき、渚は椅子ごと倒れ、ガタンという擬音が聞こえるような音を鳴り響かせては、盛大に床へと倒れ込む。
「クレナイトレーナー!? ブルボンも!?」
あまりのことに驚きながら、テイオーは渚とブルボンの身体に怪我が無いかを心配して起こす。
「く、やっぱりライスの《チュゥ》は威力が高いぜ」
「心拍数の上昇を確認。ステータス『高揚』を確認」
超新星爆発にも負けないな、と呟きつつ起こされた渚はテイオーに軽く礼を言って椅子に座り直す。
「さっきからなにしてるの?」
「仕事」
スクリーンショットを取りながらキッパリと言い張る渚に、変わらず真顔のミホノブルボンと苦笑するトウカイテイオー。
「クレナイトレーナーさ……こんなところライスに見られたら、マズイんじゃない?」
「ん、ライスに?」
「ライスならそこに──」
ミホノブルボンが向けた視線の先──トレーナー室の隅っこに、頭を抱えて縮こまっているウマ娘の姿があった。
「え! ライスいたの!?」
「はい、私が来る前からいました」
「全然気付かなかった……なにがあったの?」
「恥ずかしさのあまり、悶絶しているようです」
テイオーはゆっくりとライスの背後に忍び寄り、肩に手を置いて声を掛けた。
「ライス?」
「て、テイオーさん……」
振り返ったライスの顔は真っ赤に染まっている。それを見たテイオーは背中を擦りながら「大丈夫?」と声を掛けた。
「だ、大丈夫、だよ……」
「全然大丈夫じゃなさそうだけど……嫌ならちゃんと言わないとだよ?」
「ううん……違うの……」
よく見れば、ライスの表情は苦い顔でも不機嫌な顔をしている訳でもない。どこか嬉しがっているような、半ば笑みを殺し切れていない表情。
まさか、とテイオーは目を細めた。
「もしかして、嬉しいの?」
「え! ち、違うよ……!」
「え〜、ホントに〜?」
意地悪な笑みで見つめるテイオー。これは逃れられないと、諦めたライスは「うぅ」と観念して答える。
「た、たしかに恥ずかしいけど……お兄さまは喜んでくれてるから……」
まんざらでもない様子。むしろ「えへへ……」と恥ずかしがりながらも喜びを隠しきれていないかった。
「なーんだ、心配して損したよ」
「えへへ、ごめんなさい……」
でもまあ、テイオーは渚に視線を移す。
「ボクのトレーナーもあんな感じだけどネ」
ライスの気持ちも分からなくはない、と微かにも思ってしまった自分がいる。トレーナーの担当ウマ娘に対する情熱は、誰よりも熱くファンを超える──トレーナーの殆どがそうだ。
「ブルボンのトレーナーはどうなの?」
「私のマスターは……」
いつもは淡々とすぐに答えるブルボンが、珍しく頭を悩ませる。そして視線を逸らして直ぐに向き直り、
「……いえ、なんでもありません」
「えー! なに今の間! 気になるじゃん!」
「いえ」
「ちょっと教えてよォー!」
気になるテイオーと、頑なに拒否するブルボンのやり取りを尻目に、ライスは渚の近くまで歩み寄った。
「お、お兄さま……」
「ん?」
呼び掛けても、渚は視線を逸らすことなく、ひたすらにウイニングライブの映像を見ている。映像の中ではライスシャワーが、振り付けや歌詞を間違えることなく自信を持って踊っていた。
ライスは自分の動画を一瞥して、恥ずかしさに埋もれながらも渚の腕を掴んだ。
「え?」
振り向いた時に見えたライスの顔はほんのりと赤く、目線もどこか違うところへと向けている。そして舞い散る羽のような、すぐにでも消えてしまいそうな声で囁いた。
「動画じゃなくても……ライスが、いるよ?」
「…………っ!?」
この時の渚の顔と言えば、驚きを隠せない異形の顔。まさかライスシャワーからそんな言葉が聞けるとは思わず、そのまま固まってしまった。
付けていたイヤホンがポロッと取れ、口をポカンと開けて、間抜けな表情を浮かべている。
「お兄さま……?」
「ぶ、ぶぶぶぶぶ、ブル、ブルボン!」
「はい、なんでしょう」
声を震わせ、壊れたブリキのように振り返りながら「いまの、聞いた?」とブルボンに問い掛ければ、彼女は「はい」と頷いた。
「確かにライスは、今「動画じゃなくて、自分がいる」と言っていました」
「恥ずかしいから言わないでぇ……!」
改めて言われ、ライスは顔を真っ赤にして勢い良く横に振る。そのやり取りを見ていたテイオーは、僅かに苦笑していた。
「よし、今度のトレーニングはダンスレッスン。というより今後のトレーニングはずっとダンスレッスンにしよう」
「お兄さま……っ!?」
するとテイオーが満面の笑顔で間に入って来た。
「イイねそれ! ボクも混ぜてよ! ブルボンも来るでしょ?」
「はい、私も参加します」
「テイオーさん……! ブルボンさんも!?」
どこからともなくサイリウムを取り出した渚が、一気に立ち上がる。なにやらガッツポーズすら浮かべ、眼に闘志を沸き上がらせながら拳を握った。
「よし、俺は今日中にカメラを設置しとこう」
「そこまで準備する必要あるの?」
走りもダンスも好きなテイオーですら、渚の対応には疑問を浮かべる。だが渚は即答で断言した。
「──ある!! もしかしなくても、ライスの《チュゥする》が見れるんだぞ!? 360度全方位から見なければ……」
「それは最早変態の域だよネ」
「──んなっ!?」
テイオーは目を細めて渚を見つめ、ライスに「どう思う?」と問い掛ける。ライスは何度か目を泳がせ、少し悩んでから答えた。
「えっと……それは、流石に……」
流石に否定された渚は、それはもうまさに絶望の表情。目が点になり、手に持っていたサイリウムが床に転げ落ちた。
「お、お兄さま……? だ、大丈夫?」
「ライスは悪くないよ。悪いのはクレナイトレーナーだから」
「クレナイさんの動きが完全に停止しています」
固まる渚を心配するライスだが、テイオーはライスの肩を優しく叩いて、大丈夫だと頷く。
おかしな空気になるトレーナー室で、テイオーはこの状況を打開するべく預かってきた資料を渚に見せた。
「今更なんだけど、これボクのトレーナーがクレナイトレーナーにって」
「俺……うん、分かった……」
「えー……そんなにショックだったの?」
極端に声が小さくなり、震える手でテイオーから資料を受け取る。あまりにも大き過ぎたショックに、渚はただ天井を見上げていた。
そんな渚の手に、ライスが自分の手を添える。
「で、でも……お兄さまの為だったら、ライス……頑張るから」
「…………うぅ……ライスぅ……ありがとう……」
「う、うん……」
ようやく思考が戻り、震えながら椅子に座った渚は、テイオーから受け取った資料に視線を移す。その内容に、目を細めた。
「え、ナニコレ」
「どうしたの?」
「何かの催し物のようですが……」
全員が徐々に視線を紙の下へと向けて行き、大きく書かれた文字をライスが呟く。
「トレセン学園トレーナー対抗レース……」
「優勝者から三位までのトレーナーは、
更に下には参加の否応とサイン──が既に全て書かれた状態だった。
「クレナイトレーナーやる気だね!」
「え?」
「頑張って下さい」
「え?」
「お兄さま、頑張ってね……!」
「え!?」
あまりにも驚く渚。そのことに疑問を感じたブルボンが「どうかなされたのですか?」と、一言問い掛けた。
すると渚は驚きを隠せない様子で──、
「俺、これサインしてない……」
「「「…………え?」」」
「そういえば、ボクがこれを預かる前、トレーナーが何か書いてたような……」
強制参加させられた渚だった。
後日行われたトレーナー対抗レースでは、渚だけでなくほぼ全てのトレーナーが『敗北』を目指して走り抜け、あまりの泥試合の末に勝ち残ってしまったのは渚だった。
一位
「お兄さま……!!」
サイリウムを振って、珍しくテンションが高いライスシャワーの姿。そんなライスの期待を裏切る訳にはいかず、渚は腹を括るしかなかった。
この後──トレーナー人生で、最も最悪な黒歴史を生み出してしまった渚だった。
《あたしだけにチュゥする》
渚のチュゥにて、ライスシャワーの悲鳴が聞こえたとか、聞こえなかったとか。