「んっ……うぅ……ハァ……んっ……ふっ…あぁ、……ダメ、ダメ! 先輩、んっ……」
四谷みこは魘されるように息を荒げる。
夢を見ている。
うっすらと目を開けば、自分を覆う被さる影を見る。
「──ッ」
スゥッと呼気が漏れるが、反射的に上げそうになった悲鳴を堪える。
結界師の庇護下にある家とはいえ、ヤバイ奴らをシカトし続けた自己防衛だった。
「……」
何事もなかったようにみこはカーテンを開いて、陽光が私室に入る。影は弟の恭介だった。
「おはよう、姉ちゃん」
「へ……変な起こし方しないでよ。心臓止まるかと思った」
「なんか寝言を言っていたけど。やらしい夢でも見てたの? 先輩~って」
「なっ!」
みこの頬が、内部に太陽をもつかのように紅潮している。とっさに枕を投げつけようと掲げるうちに恭介は退室していた。
「うぅ……。寝言……なんかヤバい夢見てたのかな? 先輩のことも呟いてたのか」
みこは枕を下して抱きしめる。どんな夢を見ていたのか、彼女は覚えていなかった。だが、寝言(それも先輩を呼ぶという内容)を聴かれていたことに恥ずかしさを感じていた。
四谷みこは普通の人には見えないものが見えていた。その存在に怯えながらも立ち向かわずに精一杯平常心を装い、見えないふりをしてやり過ごしていた。
誰にも相談できない悩みとして抱えていたのだが、悩みを話せる人と会うことが出来た。
結界師の墨村景守。みこが先輩と呼ぶ男である。
景守は数百年続く結界師の家に生まれた異能者。
くせのある髪で黒に近いダークブラウン。端正な顔立ちの年上の少年。燦燦たる切れ長の眼がみこを案ずるような眼差しで、いつも彼女の言葉に耳を傾けてくれる。そして、自分がどうすればよいのか答えてくれた。
「あ、そうだ。取引の日だ」
スマホの画面で日付を確認したみこが呟く。取引の日とはみこが勝手につけた名前だ。景守の仕事を手伝うため日のことだ。
寝間着を脱いで制服に着替えて、前日に用意していた紙袋を持って退室した。
「さっきのコンビニにいたあれは、消費税が三%の時代の人だったのかな」
「一〇三円です、と言っていたからな。……それにしても、死んでも働き続けるとは物悲しさを感じる」
みこと景守は放課後に会って、景守はみこから紙袋を受け取った。そのあとに寄ったコンビニで見た妖異について話していた。妖異そのものは景守が既に滅している。
妖異をシカトするためみこが咄嗟に購入したおでんを二人で食べるため、近くの公園に移動した。なぜシカトをすることでおでんを買うことになったのかと言えば、みこが妖異から目をそらした理由としておでんのチラシを見ていたということにしたからだ。
「君の学校にいる奴らは今日対処するつもりだ。借りたこれを使ってね」
景守が掲げているのはみこから貰った紙袋だ。みこは紙袋に胡乱げな視線を向けている。
「それ……何の役に立つんですか?」
「ちょっとした
「呪い……。結界師って、結界以外にもそういうことができるんですね」
「まあね、そこまで凄いものを使うわけじゃないが。ああ、仕事があるからといっても何かあれば遠慮なく連絡してくれていいから」
その後、景守とみこはそれぞれ家路についた。みこは弟の恭介とともに心霊番組を観ていたが、テレビに映るおぞましい存在が映り、それに恐れて景守に連絡した後番組を観る意欲も湧かないので、そのまま眠りについた。
◇◆◇
「……先輩?」
「! 君は……。なぜ?」
夜、みこは自分が通う高校で景守と会っていた。まさか夜の学校で会うとは思わなかったのだろう。景守はみこを見て驚いていた。
「こんなところに来るなんて」
「私でも協力できることがあるのなら、手伝わせてください」
この学校は自分やハナが通う場所。他人事とは思えなかった。
「手伝わせてやればいいじゃないか。いつまでもうだうだするのも時間の無駄だよ」
景守に声をかけてきたのは虚空を漂い現れた一頭の犬。白銀の毛並みで尾だけが斑の模様がある。
「い、犬が喋った!? というか、浮いている?」
みこは驚愕して思わず、口を押えた。おぞましい姿の怪異、あるいは清廉な気配を漂わせる守護霊などは見たことがあるが、眼前の犬のような例はなかった。
「大丈夫だよ。彼は
「仕えるだってぇ、バカをお言いでないよ! わたしの主人は間時守様ただお一人! 墨村にゃ義理で付き合ってやってるだけなんだ! じゃなきゃ、誰があんたみたいな青二才のお守りするもんかね」
「青二才……」
「ああ……もう時守様のような男には二度と出会えないだろうねぇ……」
困惑する景守を無視して愁いを帯びた呟きとともに嘆息する斑尾。みこはここまで情味豊かなこの世のものでない存在は、父親を除けば初めて見た。
「まあ、このようにプライドが高いけど忠犬なんだ」
忠義は景守ではなく開祖のほうに向いてはいるが。
「よし、それじゃあ君にも手伝ってもらおうかな。やり方はます斑尾に奴らの潜む場所を探してもらう。奴らが君の気配に反応したら君は奴らをシカトせずに見て欲しい。そして奴らが君に気を取られた隙に俺が滅する。人はみこだけだと油断させるために、俺は
「おんぎょう?」
「姿や気配を認識できなくなる術のことだ。これも絶対じゃないし、もし異能者とバレたら警戒されて逃げるかもしれないから、俺は隠れて奴らを滅して回る。好戦的な奴らなら、むしろ好都合だが臆病な手合いなだと逃げられて困るからな」
「つまり、青二才にとっての囮ってことさ」
「囮……わかりました。やります」
景守から説明を受けてみこはやや強張りながら頷いた。景守と組んでいなければ絶対に拒否していた役割だ。
みこたちは校舎を周り始めたが懐中電灯を使いながら歩く夜の校舎は不気味で、景守がいなかったらみこは散策しようと思わなかっただろう。
そして、斑尾が奴らのにおいを感知して、二人の人間を誘導する。
「ここだね」
「ここですか」
「見え……てる……?」
「ひっ」
「見えぇぇぇ」
自らを認知するみこに近づこうとする禍々しき存在は、自身を囲む結界に阻まれる。
「滅!」
景守が結界で悪霊を圧砕した。砕け散り、残滓となったものは虚空に溶けるように消えた。
結界師の隠形は見事なもので、みこですら少しでも意識から外れたら、近くにいることに気づけないほどだった。これではみこに気を取れている霊たちは結界師に気づくことはできないのも当然だった。
こうした斑尾の探索、みこの囮、景守の滅却という作業を続けつつ彼らは散策を続けた。
みこに歩幅を合わせているらしく、長身で脚も長い景守に彼女は難なくついていけている。
みこは隣を歩く景守の顔を見上げた。自分の頭より上にある肩、更に高いところにある顔。
いつもみこに向けてくれる穏やかな雰囲気とは異なり、静謐で冷たい様子だった。怒っているとか、緊張しているのとは違う。落ち着いていて真剣さが伝わってくる。
(これが先輩の仕事の顔……)
思いの外、見つめ過ぎていたらしい。景守がちらっと一瞥した。見ていたことが恥ずかしくなり、景守から慌てて目をそらした。
「どうした?」
「ああ、こうしてお仕事をしているところを見るのが新鮮だったので、つい」
「そうかな? 何度かこうして結界術を使っていたと思うけど」
「そうなんですけど、だいたいは困っているときにささっと助けてくれますから、こうやってお仕事を間近で見るのは初めてだなと思いました」
夜の校舎を懐中電灯だけを光源にして歩いているから、気を紛らわせたいという思いもあってみこは饒舌にな。景守はいつもより口数が少なく斑尾はみこに無関心だ。
「こうして仕事について来させるのは初めてだったな。本当は君を妖魔とは関わらせたくないから、これは特別だ」
「特別……」
「妖魔とは契約してはいけないよ。関わるのもダメだ。君は意思疎通が取れるものとは遭遇していないんだったな」
景守は斑尾を見る。
「……斑尾以外」
「ええ、お父さんとも話していません」
「それでいい。妖魔との契約は
何度か、父の亡霊に話しかけたくなったことがあるみことしては、まるで自分の心中を見透かされているように感じだ。
「はい……。わかりました」
「あと君なら、ぱっと見可愛いと思ったからと関わってしまうこともないように」
「可愛い……えっと、小さなおじさんとか?」
「……小さなおじさんが可愛いとは思わないけど、まあ、そうだ。気を付けて。あと小さなおじさんの近くには本体となる大きなおじさんがいるよ」
「そうなんですか!」
「ああ。口は君の半身を食いちぎるくらい大きいから可愛げなんてないぞ。飴あげるといわれても、おじさんにはついて行くな」
「あの、先輩……私、そこまで子どもじゃないです……」
いつも通りに会話ができたためか、みこの緊張もだいぶ和らいだ。
景守が警戒するほどの魔性は校舎にも体育館にもいなかったようで、退治は問題なく進みもう少しで終わりそうになる。
みこは深夜の学校巡りを惜しんだ。きっと景守と夜に会う理由がなくなるからだ。しかし、仕事と使命のため真摯に動いてくれる景守に、そんなことを思うのは失礼なようで心苦しい。
夜も三時を回ってきた。
「もう終わりでいいか」
「そうだねぇ、あらかた見つけ出したと思うよ」
景守と斑尾が相談しているところを、みこは話し合いの決着がつくの見守っている。
話し合いは五分もかからなかった。
「さて、みこ。今日の仕事は終わりだ。この学校に憑いているモノは除去した。まあ、時間が経てばまた集まってくるかもしれないが、そのときはまた俺が滅しよう」
「先輩、ありがとうございます」
「君も帰るんだ」
「はい、そうですね、流石にもうバスは使えませんが……」
みこはそこで思考が止まった。何か、違和感を感じたからだ。
(私は、どうやって
景守と会ったときだって既に深夜だった。バスは出てないし、母親に車で送迎してもらったわけではない。自転車だって使っていなかった。徒歩で移動するには遠すぎる。
「君はもう帰りなさい」
「あ、あの、でも、先輩!」
「ほら、落ち着いて、よく思い出して。自分が何か」
「わたしが……?」
私の名前は四谷みこ。それが以外に名前などない……。
ほら、と景守が見せてきたスマホ。それはカメラ機能が起動していて画面に映るのは──
(え──?)
ボトッと廊下に落ちたのは一体の人形だった。
◇◆◇
「あぁっ!?」
みこは目覚めるとともに跳ねるように起き上がった。自分の顔や身体を触って、自分が人形ではないと納得すると嘆息した。ようやく安心できた。
枕元でアラームを鳴らし続けているスマホのアラームを止めてから、景守に電話した。現座の時間は朝の七時。それでも景守はすぐに電話に出た。
「おはよう、みこ」
「お、おはようございます。先輩! あのですね」
景守は鷹揚に挨拶してきたが、みこは焦りながら挨拶もそこそこに相談し始めた。
「ああ、それはみこの夢じゃないよ。俺と一緒に夜の校舎を歩いたのは本当のことだ。ただ、君自身は家にいたわけだが、意識が抜け出したようだ。そして、君から預かっていた人形に宿って、一緒に校舎を巡った。俺にもちゃんとみこと見えるくらいしっかりみこが人形に定着していたな」
「そ、そんなことが……」
みこは絶句した。おかしなものが見えるだけでなく、遠い場所に意識を飛ばすだなんてことができるとは想像もしていなかった。
「なんで、そんなことが、という質問したいかもだが、むしろ俺が驚いたぞ。人形に術はかけてはいたが、あのようなことになるとはね。そういうことができる者もいるが……。君が寝る前に俺と話していたから俺のもとへ来れたのかな? それにしても、普通なら起こらないんだがな」
「へ、へぇ。そうなんですか」
「まあね、心だけでも遠くへ飛ばすのは強い思いが必要だからね。そう簡単にはできないよ」
思い、そういわれてみこはドキッとした。昨日はテレビで恐ろしいものを見てたまらず景守に見たことや弱音や愚痴なども話して、通話を終えたときに彼の様子を気になったまま就寝したのだ。
(気になると言っても普通はそんな強い思いになるの? これが先輩以外でも同じことになってた? いや、それはないかな……。も、もしかして……、そうなのかな? ああ、そんなことよりも! 仕事の邪魔をしちゃった……)
みこの困惑と悲嘆など知らない景守は話を続ける。
「珍しいことだがこれで何か悪いことが起きるというわけでもないから、まあ気にするな」
(すみません、気にするなというのは無理です……)
「昨日は助かったよ」
「え?」
「本当は囮はみこの気配が強く残った人形を使うつもりだった」
紙袋に入れて渡した人形は、みこが長年持っていたものだった。景守はその人形に術をかけて妖魔をおびき寄せる式にするつもりだった。慮外の事態ではあるが、みこの化身となったことで、景守の想定以上の効果があった。
「みこがあの場にいて俺も仕事が捗ったし、思ったよりも効果があった。ありがとう」
ちゃんと役に立てたんだ。
反則、と口の中で呟いて、みこは顔の火照りが収まるまで俯いたまま顔を上げられなかった。
ついに『結界師』から原作キャラが登場しました!斑尾姐さん(雄)!
鋼夜や無道も出してみたいな……。
「ちんちくりん」は良守と被るので、景守は「青二才」と呼んでもらいました。
余談:どうでもいい話ですが夜の校舎で景守は彼女のことは名前で呼んでませんでした。