あなたは、覚えていますか。
あの馬のことを──。
「先生、原稿はどうですか」
「……意地悪しないでくれよ、見たらわかるじゃないか」
散らかった室内で、先生と呼ばれた男── 遠山寛次郎は頬を掻いた。
遠山の職業は作家で、ふだんは若年層向けの作品、所謂ライトノベルを執筆している。
中学生の頃、ネット小説で一発大当たりしたものの、それが打ち切りになってからは鳴かず飛ばず。
連載作の1冊目を出しても立ちゆかず、すぐ打ち切りになってしまう。
そんな生活をもう10年近く送っていた。
それでもなんとか食いつなぐことができているのは、偏に担当編集である川野辺のおかげだろうと、遠山は内心で息を吐いた。
「やっぱりさ、書けないよ、競馬ものなんて」
「そうおっしゃらず!先生の戦闘シーンはバツグンなんですから!」
「お前ね、戦闘とレースは別物だろうよ」
遠山が趣味で書いていたネット小説を拾い上げ、本にまでして見せたのはこの川野辺である。
何度も打ち切りになりながらも、遠山の作品を推しつつづけてくれる川野辺に、遠山は頭が上がらなかった。
この川野辺という編集者がいなければ、遠山はとっくのとうに物書きをやめ、毎日死んだように、ごく普通の企業戦士として働き続けていたに違いないのだから。
「だいたいなんで競馬なんだよ」
「私が競馬好きだからです!」
にっこりと笑った川野辺は、髪の毛を耳の上までパッツリと揃えた女だ。
遠山よりも10も年上だとは思えない若々しさを保ちながら、その笑顔には妙な迫力があった。
「ギャンブルなんてしてたっけ」
「先生、競馬は単なるギャンブルじゃありませんよ!」
「あー……感動あり、笑いありのスポーツだったな」
「そうです!競馬は感動できるし笑えるんです!それに今は競馬を題材にしたメディアミックス作品が大ブームですから、競馬モノはあたる兆しが──」
まるで好きなドラマでも語るような熱量で、川野辺は拳を作って見せた。
その様子を、遠山は頬杖をつきながら眺める。
── 感動できるって言ったって、馬の何が面白いんだか
遠山は競馬にも、ボートレースにも競輪にも、賭け事と呼ばれるものにはとんと縁の無い生活を送ってきた。
返ってくる見込みのないものに金を使うなんて馬鹿げていると、そう口にすれば川野辺からすかさず反論が返ってくるだろうとわかっていたので、遠山は口をつぐんだ。
「あ、先生、渡した資料は御覧になりましたか」
「一応な。……まだ全部は見てないけど」
ちらりと視線を移した先には、積み上げられた紙の束やDVDのパッケージがあった。
すべて川野辺が揃えた、競馬に関する資料だ。
最近のレースはもちろん、古くは戦時中にまでその情報は多岐にわたる。
── よくもまあ、ここまで揃えられたもんだよ
遠山が何か熱量を感じたとするならば、それは競馬そのものというよりは、この川野辺の熱だろう。
「それで、それで!」
「それで、って?」
「ですから、資料の中で何か気になるところはありましたか!?」
気になるところ。
はて、何かあったかと、遠山は流し読みしただけの資料の内容を思い出そうとした。
古い年代から見た方が話の筋が読みやすいだろう、と最初に手を付けたのは1920年代頃の資料だった。
確か、そう、外国からの馬── 下総御料牧場の輸入基礎牝馬についてだ。
そこから読み進め、やがて優秀な軍馬選別のための検定としてレースが開かれるようになった年代の、その後。
国内初の三冠馬となったセントライトから23年の時を経て、戦後初の三冠馬となったシンザンの資料を見て浮かんだ疑問を、遠山はここで思い出した。
「なあ、この馬の資料はないのか?」
遠山は資料の山からシンザンの束を引っ張り出した。
その紙には数えてわずか6回だけしか登場しない馬の名前が、遠山の中で小さくも残っていたのだ。
「この馬は──」
その馬の名は、紙の中に、ネットの海に、かすれたレース映像の中に。
だけども人々の記憶の片隅に追いやられ、今日まで埃を被っていた。
川野辺の語りを聞きながら、遠山は無意識のうちに、紙面に残る名前をなぞる。
「──……と、まあ、今から60年近くも前の馬ですし、資料が少ないですからね。GⅠのようなビッグレースにも勝っていないので、なおのこと知ってるひとが少ないというか……」
「川野辺」
「は、はい」
遠山はまだ、競馬についてピンと来ていない。
だが、そんな遠山だからこそ知ろうと思えた。
華々しい戦績はなく、途切れ途切れの情報しかない存在を拾い上げる。
「決めたぞ川野辺!」
遠山はシンザンの資料を手に取り、それを高々と天に掲げながら川野辺に告げた。
「こいつの小説を書く!」
少しだけ皺の入った資料の、その親指がなぞる名前は── ウタワカ、とあった。