それでも風は吹く   作:SunGenuin(佐藤)

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『月刊「優駿たち」1月号 ── 連載:名馬の影に思いを馳せて』
執筆:遠山寛次郎
競馬史に残る偉大なる名馬たちの、その輝かしいレースの影に佇む馬に焦点を合わせ、その足跡を辿るドキュメンタリー風小説を7ヶ月に渡ってお送りします。
1月号でお送りする名馬の影は『ユメシンパイスルナ』

あなたは、この馬のことを覚えていますか?



ユメシンパイスルナ ── 1980年〜1986年
〇姉と弟


華々しい名馬の陰に、そっと佇んでいる馬がいる。

 

戦後初の五冠馬・シンザンの稽古相手を務め、美しいままに散った素質馬・ウタワカ。

スタミナ満点の名ステイヤー・タケホープの僚馬ライブアゲインは、虚弱の欠点を持ちながらも堅実に走り続けた悲運のマイラー。

 

そして今回紹介する馬は、『姉のために戦い続けた弟』であり、そして、『弟分を育て上げた兄』だった。

 

 

 

 

 

 

2021年12月。

千葉県富里(とみさと)市。

年明けの準備に追われる牧場に私はいた。

掻き出される寝藁を手押し車に乗せて厩舎を出ると、白銀の向こう側から女性が走ってくる。

 

「本当にすみません!手伝ってもらっちゃって……」

 

彼女の名前は沖上(おきがみ)(ゆめ)さん。

ここ富里市に家族経営の小牧場『ゆめの牧場』を開いている。

もともとはご両親が経営していた『沖上(さとる)牧場』が基で、一度閉鎖された牧場跡地を買い戻して再び始めた。

今はお子さんと旦那さん、そしてアルバイトの青年たちと切り盛りしている。

開場してから約8年。

基本的には庭先取引で、今年は4頭の1歳馬が馬主に引き取られ育成牧場に旅立った。

過去に売買した馬の多くは船橋競馬場を主戦場としているそうだ。

沖上さんは『中央競馬の重賞レースを制する馬が作れたらうれしい』と語る。

そんな彼女は、結婚して子供ができてから牧場の開場を目指した。

どのようにして開場に至ったのか、それに関しては追々説明していこう。

 

まずは頭を下げ続ける彼女を止め、むしろこんな忙しい時期に訪ねてしまったことを詫びる。

12月といえば、牧場にとっては翌年の出産や繁殖に備えた大事な時期だ。

そんな飛び切り忙しい時期に無理を言ってお邪魔しているのだから、手伝いのひとつやふたつ、どうということはない。

とはいえ、普段はディスプレイを凝視しキーボードを叩いている私では、情けないことに簡単な手伝いをやらせていただくだけで手いっぱいだった。

手押し車を手放した後、生まれたての馬でももう少しまともだろう足を引きずって、すたすたと歩く沖上さんの背を追う。

着いた先は、牧場の事務所兼自宅となっている場所だった。

 

「ねえママ、宿題の音読!」

「ママ──!?あたしのワンピースどこぉ!?」

「明日3千円、集金だって」

 

部屋の中は子供たちの声で満ちていた。

子供たちに一斉に話しかけられた沖上さんは、頭痛をこらえるようにこめかみを抑えると、子供たちを各自の部屋に戻していく。

数分ほど待っていると、疲れ切った表情で戻ってきた。

 

「騒がしくて申し訳ないです」

「いやいや、賑やかでいいですね。三人兄妹ですか?」

「ええ。長男と長女と次女。上はどっちも中学生で、下が小学生。長男は来年度には競馬学校ですよ」

「騎手になるんですか!」

「本人はそのつもりみたいですね」

 

つい最近まで初耳でした、と困ったように頬を掻いた沖上さんは、それでもうれしそうな表情を浮かべた。

 

「それにしてもまさか、あの馬について訪ねてくださる方がいるとは思いませんでした」

 

沖上さんはそう言いながら分厚いアルバムを取り出して広げる。

そしてパラパラとアルバムをめくると、1枚の写真を指さして、私に見せてくれた。

 

「あった、これですね。2歳── 今だと1歳の秋に取った写真です。年明けに美浦の平野調教師に預けられる予定でした」

 

角刈りの男性と、髪を一本結びにした女性の間に、1頭の馬が立っている。

その馬の背に、あどけない表情の少女がまたがっていた。

右手で馬の片耳をつかみ、もう片方の手は鬣をつかんでいる。

でも馬は暴れる様子もなく、涼しい表情を写真の中に残していた。

少し褪せたその写真に、懐かしいにおいを感じた。

 

 

 

写真が撮られたのはは1981年。

若者の間でマリンスタイルファッションが流行り、アイスのガリガリ君や雪見だいふくがヒットしていた当時。

世間的にも欧米の空気がなじんできたそのころ、競馬界にも新しい風が吹いていた。

天皇賞の出走資格改定── 従来の「勝ち抜け制度」が廃止され、1度天皇賞を勝った馬でも再度出走できるようになった。

この改定の7年後。タマモクロスが史上初の『天皇賞・春/秋連覇』の偉業を達成する。

そして今や世界のレースレーティングでも上位に食い込む、我が国の国際招待競走『ジャパンカップ』。

第1回が開催されたのも、1981年だった。

この時の初代優勝者はアメリカのメアジードーツ。

日本馬がこれを制したのは、開催の3年後、第4回ジャパンカップ。

同年のG1・宝塚記念を制したカツラギエースが、後続に1馬身と2分の1をつけて勝利した。

それまで競馬後進国だといわれていた日本の馬が、世界の馬を相手に戦えることを証明したのだ。

 

そんな記念すべき1984年より前、1980年の4月1日。

この世に生を受けたのが、今回紹介する馬である。

 

どんな馬なのかについて紹介する前に、まずはその血統を見てみよう。

 

父はシャトーゲイ。

1963年にケンタッキーダービーとベルモントステークスを制しているアメリカの競走馬だ。

引退後は現地で種牡馬として供用された後、日本に輸出された。

故郷であるアメリカでは種牡馬成績は芳しくなく、代表産駒はサバーバンハンデキャップ勝ち馬のトゥルーナイト。

来日してからは11頭の重賞勝ち馬を輩出し、朝日杯3歳ステークス勝ち馬で同年の最優秀3歳牡馬(現・2歳牡馬)に選出されたホクトフラッグが日本での代表産駒となる。

直仔にはクラシック級の産駒を輩出できなかったシャトーゲイだが、母の父としては絶大な影響力をもたらした。

イギリスダービー馬のヘンビット、イギリスオークス馬のフェアサラリアがその筆頭だ。

日本ではダービー馬のメリーナイス、前述した天皇賞馬・タマモクロス、エリザベス女王杯勝ち馬のミヤマポピーが特に有名だろうか。

ターフに力強い軌跡を残した名馬を多く輩出した。

 

次は母のシラフブキについて。

彼女は3代母にシラオキを持つ牝馬で、未勝利のまま競走馬を引退。

生産牧場で繁殖牝馬として仔を生した。

数頭出した後、シャトーゲイが種付けされた状態でセリ市に出され、沖上さんの父・聡氏によって購入された。

母の父バウンドレスはニュージーランド生産馬。

日本では馴染みの薄い種牡馬だが、地方重賞勝ち馬・ハカタオーカンを輩出している。

 

所謂『主流の血統』からははずれるが、クロスなしのアウトブリードを持つ牝馬を期待しての配合だったとされているので、もし牝馬であれば相手を選ばない使いやすい血統なのかもしれない。

結果として牡馬だったため、良い戦績を収めない限り、その血統を残すことは非常に難しくなってしまった。

それでも聡氏は、一縷の望みをかけて馬を中央競馬に送り出した。

 

「デビューしたのは1982年の7月の新馬戦です。ここを前目につけて追うと、残り200メートルで抜け出して勝ちました」

 

2枚目に見せてもらった写真には、鹿毛の馬体を持ち、額に環星(かんせい)を持つ馬が移っていた。

新馬戦で勝った時の写真のようだ。

聡氏の腕に抱かれた幼い沖上さんが、笑顔で馬の手綱を握っている。

よく見ると、写真の端のほうに文字が刻まれていた。

 

『1982年7月 ユメシンパイスルナ号 初勝利』

 

文字は少し滲んで、それでもしっかりとそこにあった。

 

「おかしな名前でしょう」

 

文字をなぞりながら沖上さんがそう言う。

でもその馬の名を、誰よりも彼女が愛していることが、その声色から伝わった。

 

「馬の名前はね、私があんまりにも泣くからこうなったんです」

 

幼少期、沖上さんは身体が弱かったのだという。

心臓に欠陥があって、適切な治療がなければ大人になれないだろうと言われるほど。

そんな彼女が外出することはほとんどなく、あっても病院にいく時くらいだったと語った。

遊び相手と言えば、父・聡氏が営む『沖上聡牧場』で生産された仔馬たち。

その中でもよく遊んでいたのが、額に環星を持つ馬だった。

 

「当時、父が所有していた繁殖牝馬は1頭だけでした。それがシン── ユメシンパイスルナの母馬・シラフブキです。それ以外はほぼすべてが預託馬。仔馬たちはいつかそれぞれの母の所有者に引き渡される都合上、気軽には遊べない。好きに遊んでいい、と言われたのは、シンだけでした」

 

馬名が決まる前から、沖上さんは馬を『シン』という名前で呼んでいたそうだ。

『もし自分に弟ができたら、こんな名前が良い』

そうずっと考えていた名前を、弟だと思って可愛がった馬に与えたのだ。

 

そんなシンをはじめ、沖上聡牧場で生産された仔馬たちが入っていた厩舎は、自宅から目と鼻の先にあった。

 

「家にいる間はもっぱらその馬が遊び相手でした。保育園には通えてなかったので友達といえる同世代の子もいなくて。馬相手におままごとなんてしたりね」

 

シンは最初はそっけなく、沖上さんには無反応だったそうだ。

それでも毎日のようにシンのもとに通い、その手綱を引き、1人と1頭で牧場を歩いた。

そうしているうちに沖上さんに慣れたシンは、やがておままごとにも付き合ってくれるようになった。

料理と称して泥団子を前に置くと、食べるふりをしたり、青草を抜いて沖上さんの前に置いたりもした。

1人と1頭は、そうやって『姉弟』になっていったのだ。

 

沖上さんがこんな話をしてくれた。

ある日、いつも通りシンと遊んでいると、沖上さんは発作に襲われた。

その際に飲み薬を泥水に落としてしまい、パニックになった沖上さんはその場に倒れてしまう。

するといつもは静かなシンが、ひときわ大きく鳴き始めた。

その声を聞いて駆け付けた牧場のスタッフによって、沖上さんはすぐに手当てをされ、事なきを得た。

 

「馬だけど、私にとっては単なる馬じゃないんですよ。生産者の贔屓目抜きに、あの仔はすっごく頭がよくて、思いやりもあった」

 

一人っ子だった沖上さんが一番欲しかったのは、話し相手、遊び相手になる弟妹。

その代わりを── いや、そのものになってくれたのが、シンと名付けた馬だったのだ。

 

「今思えば、ろくに走って遊んでやれない自称・姉なんかより、同世代の仔馬たちと遊びたかったはずです。でもあの仔は本当にやさしくて、私が会いに行くと抵抗せずに相手になってくれました」

 

遠くを見るように細められた目には、何が映っているのだろうか。

きっとそれは、幼い彼女の視界いっぱいに広がった鹿毛の馬。

人間の姉と戯れる、馬の弟の姿が、私の脳裏にもじんわりと浮かんだ。

 

幼い頃の沖上さんは、その馬とずっと一緒にいれるものだと思っていた。

しかし1982年。

馬は競走馬としての一歩を踏み出すために、美浦トレーニングセンターに入厩することになる。

 

「私が、シンがいなくなってしまう寂しさで『私と離れて大丈夫かしら』『まだ3歳の赤ちゃんなのよ』なんて繰り返し言うもんだから、呆れた父があんな名前にしたんです。最初は『もっとかわいい名前をつけてよ』なんて文句を言ったんですけどね」

 

馬の3歳、現齢・2歳といえば、人間にすると5歳、6歳ほどだ。

当時の沖上さんとそう年齢は変わらなかっただろうが、幼い少女にとって、馬の3歳は人間の3歳とそう変わらない感覚だったのだろう。

顔をほころばせ思い出を語る沖上さんに、私も思わず笑みを浮かべた。

そして3枚目に渡された写真の裏を見ると、少しかすれた文字で何かが書かれていることに気づいた。

それをじっくりと見つめると、文字が思い浮かぶ。

 

『夢姉ちゃん、心配するな。 シンより』

 

美浦へ旅立つ直前に撮られた写真だと言う。

『俺は美浦でもやっていける』そんな副音声が聞こえそうな、力強い名前を携えて、シンは生まれ故郷から巣立った。

 

シン── ユメシンパイスルナの管理調教師は、スピードシンボリで凱旋門賞に出走した平野裕三元騎手だった。

いきなり飛び出た大物の名前に、私は思わず身を乗り出した。

沖上さんはおかしそうに笑った後、実はね、と秘密の話をするように話を始める。

 

「実は母とは従兄妹同士で、その縁あって預かってくれることになったんです。平野裕三さんといったら、あのシンボリ冠の和久さんでしょう。当時も多くのシンボリ冠の期待馬がいる中で、うちの馬がぽつんと紛れていたんです」

 

前述したように、ユメシンパイスルナがデビューしたのは3歳── 現・2歳の夏。

危なっかしい脚運びではあったものの、前目につけて抜け出したその脚の鋭さは本物だった。

この新馬戦を突破したユメシンパイスルナは、同年は400万下条件戦、800万下条件戦を続けて撃破し3連勝。

デビュー年を完勝で終える。

ここまで聞くと『日陰の馬』とはなんなのか、と思われそうだが、この馬の試練は年明けから始まった。

 

明けて1983年のクラシックシーズン。

後方から一気の追い込みを掛けて昇ってくるその流星の名を、ミスターシービーと言った。

その世代の紛れもない『寵児』であるミスターシービーは、4歳の初戦を共同通信杯4歳ステークスから始動し、ここで重賞初制覇を果たす。

そこから勢いそのままに弥生賞を快勝すると、同世代のトップとして東西問わず持て囃された。

ユメシンパイスルナがミスターシービーと初対決となったのはクラシックの一冠目・皐月賞。

追い込み馬不利とされる不良馬場で、常識を覆すシンガリイッキを決めたミスターシービーの遥か後方、ブービーに敗れたのがこの馬だった。

重い馬場だったことと、競走中の落鉄が敗因になったとされている。

ブービー後、ユメシンパイスルナはダービー出走を目指してトライアルに挑むも、惜しくも出走権を逃し、4歳以上のOP戦を中心に賞金を加算した。

 

「コーナーを回るのが上手な馬でした。器用だったんですね。乾いた良馬場だと、その柔らかい脚運びが目立ちました。中団のやや前で控える先行策を得意とし、前の好位置をとれた時の勝率は、60パーセント近くあったはずです」

 

しかし重賞勝ちには恵まれず、念願叶って出走できた菊花賞では7着に敗れた。

それでもユメシンパイスルナは走り続けた。

芝でもダートでも、短距離でも中距離でも長距離でも。

馬場、距離不問の適性の広さだけは、当時の競馬雑誌の小さなコラムに取り上げられるほどだった。

 

沖上さんは、ユメシンパイスルナが出るレースは、テレビ中継されていればそれを食い入るように見ていたという。

なければラジオを抱えて、アナウンサーが口にするちょっと小難しい用語に耳を澄ませて、ユメシンパイスルナの走りを想像した。

それは体調が悪化し、入院するようになってからも変わらなかったと沖上さんは続けた。

 

「絵本や、リボンや、当時流行りのアニメの話も聞かずに、ラジオから流れてくるユメシンパイスルナの名前を待ちました。手術をする前は録音した実況を再生するんです。勝った時のレースをね。『ユメシンパイスルナ上がってきた、ユメシンパイスルナ、ユメシンパイスルナ!』……まるで自分が応援されているかのような、そしてシン本人から『夢姉ちゃん、心配せずにがんばれ』と言われているような気になれて、これを聞くと手術も怖くなかった」

 

1984年、ユメシンパイスルナは5歳になった。

いまだ重賞勝ちはないものの、オープン戦ではよくいる顔ぶれの1頭になり、重賞レースでも掲示板に乗ることも少なくはない。

絵に描いたような堅実な走りで、ユメシンパイスルナは賞金を積み重ねた。

そしてその健気に走る姿に、いつしか根強いファンも増えた。

時々生産牧場にファンレターも届いたという。

どこから知ったのか、『ユメシンパイスルナ号、ユメちゃん、ふたりともがんばって』とメッセージが添えられることもあった。

外界とほとんど接触のない沖上さんにとって、それらのメッセージは『頑張って走っている弟が運んでくれた縁』そのものだったという。

 

続けて沖上さんは語る。

彼女が受けてきた多くの治療や手術、その代金のほとんどは、ユメシンパイスルナが稼いだ賞金だった、と。

 

「私がそれを知ったのは、結構大きくなってからでした。小さい頃は知らなかった。自分にどれくらいお金がかかってるのかなんて、想像もできていなかった。でも受けた手術の回数を思えば、小さな牧場を細々と経営していた両親の、その貯蓄だけではとても賄えません。ユメシンパイスルナが、文字通り私を支えていました」

 

出走手当金はもちろん、掲示板に乗ればそれなりの賞金もある。

重いオッズの時に勝てば、馬券もかなりの額になった。

聡氏は所有馬の馬券を握るタイプのオーナーだったようで、必ずユメシンパイスルナの馬券を買っていたから、低人気の時に馬券に絡むと大きな払い戻しを得られたという。

 

「いつだったか父が言ってました。『シンのやつは新聞が読めるに違いない』って。低人気の時は、いつもより3割増しくらいで頑張って走るから。実際にシンの勝率、低人気の時のほうが高いんです」

 

悪戯っぽく笑った沖上さんが、そっと視線を落とした。

 

「シンは相変わらず重賞だけは勝てませんでしたが、それでも、その走りは誰かの光になるものです」

 

5歳になったユメシンパイスルナの主戦場は変わらずオープン戦だったが、この頃になるともうひとつ戦場が増える。

それが、同厩舎の期待馬・シンボリルドルフとの併せ馬だ。

 

ユメシンパイスルナからすると1歳下にあたるシンボリルドルフは、3歳のデビュー時から無敗のままクラシックシーズンを迎えた。

そんな彼の細かい調整役を任されたのが、コーナリングが上手く、様々な馬場、レースに出走してきたユメシンパイスルナ。

求められたのは、シンボリルドルフの完成度を上げることだった。

 

「シンボリルドルフは頭の良い馬です。一を知れば十を知るような。そんな彼にとって、ユメシンパイスルナはいいお手本だったのかもしれません。私にとってはいつまでも可愛い弟でしたが、彼にとってはシンボリルドルフをはじめとしたシンボリ冠の馬は、弟分だったのかもしれませんね」

 

シンボリ牧場で調整されてから平野厩舎に入厩することがほとんどだったシンボリルドルフだが、ここ大一番の調教では必ずユメシンパイスルナが併せ馬の相手に選ばれた。

共に無敗だったビゼンニシキと激突する弥生賞前も。

一冠目となる皐月賞前も。

無敗ダービー馬の称号がかかった東京優駿前も。

ジャパンカップか菊花賞か、オーナーが出走を悩んでいた秋も。

 

「シンはほんと、他馬にとんと関心のない馬だったので、例えばほかの馬が暴れていても気にすることなく調教に挑めるんです。そういう、精神的にどっしりしたところもシンボリルドルフにあっていたみたいですね。厩舎では気が荒い、とされていたシンボリルドルフの隣の馬房に移されても、疝痛もなんのストレスにもならずにいられたのは、シンだけだったそうです」

 

パートナーを務めたシンボリルドルフが成果を出すと、その馬主である和久オーナーはユメシンパイスルナの能力に強く関心を寄せるようになったという。

6歳になると、他厩舎ではあるが、シンボリルドルフの一件から親密になった和久オーナーの要望に応える形で、その年にクラシックを控えるシリウスシンボリや、他のシンボリ冠の馬たちの練習相手も務めた。

相変わらず重賞勝ちは達成できないまま、ユメシンパイスルナは1986年、アメリカ遠征に旅立つシンボリルドルフの帯同馬になる。

遠征費はすべて和久オーナーが持つことになったが、そうしてでもシンボリルドルフに帯同させるだけの価値があると判断されたのだ。

ユメシンパイスルナはサンルイレイハンデキャップの同日に行われるオープン戦に出走が決まった。

その頃、沖上さんもまた手術のために渡米していた。

 

「日本では小児心臓病の手術をしてくれるドクターが見つからなくて、アメリカでやってもらうことになったんです。これも和久オーナーが手を尽くしてくれて……これに関しては感謝してもしきれないですよ」

 

和久オーナーは『いつものお礼』と言って、知り合いの伝手を使って沖上さんに合う病院を探し当てた。

そこで沖上さんは長年抱えていた心臓の病を克服するための手術に挑む。

奇しくもその日は、ユメシンパイスルナが出走する当日だった。

 

「1986年の3月29日。私の手術の開始時刻と、シンのレース開始時刻はほとんど同じでした。母が病院に残ってくれて、父は競馬場へ。別れる前に言われたんです。『夢、シンも頑張って走る。お前も頑張れるか』って。だから言い返したんですよ。『お姉ちゃんだもの。弟が頑張るなら、私も頑張るわ』って」

 

シンボリルドルフが出走するサンルイレイハンデキャップと同じサンタニアニタパーク競馬場。

直前の平野調教師とシンボリ冠の和久オーナーの対立により、シンボリルドルフは和久オーナー主導で管理されることになった。

和久オーナーの支援で遠征することになったユメシンパイスルナもまた、和久オーナーが用意した現地の調教師によって調整された。

3月29日。

サンルイレイハンデキャップの開催当日に開催されるダートのオープン戦に、ユメシンパイスルナは挑んだ。

そして──……。

 

 

 

 

 

 

「私が日本に戻ったのは1987年の夏。リハビリを経て、完治の診断を受けました。両親が泣いて喜んでくれたことを覚えていますよ」

 

そう言って沖上さんが目を閉じる。

その手には、緑色のお守りが握られていた。

 

「『元気になったらシンに会いに行きたい』それが当時の私の口癖でした。そしてそのたびに父が言うんです。『元気になれたらな』って」

 

しかし沖上さんがユメシンパイスルナと再会することはなかった。

帰国した沖上さんは何度も両親に再会を熱望した。

その度に両親はあの手この手で言い訳をする。

 

『シンはアメリカのレースで勝ったから、向こうから帰ってこない』

 

そう言われて、沖上さんはしばらくの間会うのは断念することにした。

それでもあきらめたわけではない。

自分でお金をためて、それでいつか、自分の力で会いに行く。

そう決めて、通いだした学校でも真面目に過ごし、高校生になるとすぐにアルバイトをした。

沖上さんが中学生になるころには、両親は経営難から牧場を手放し、小さな雑貨店をオープン。

ユメシンパイスルナをイメージしたマスコットグッズを自作しては、それを店頭に並べてもらった。

アルバイトもグッズ作りもコツコツと続け、気づけば手術をした日から10年が経っていた。

小さな少女だった沖上さんも、卒業を間近に控える高校3年生。

午前中で授業が終わり、たまたま両親よりも先に帰宅していた、ある日のことだった。

ポストに手紙が入っていることに気づいた。

薄緑色の封筒に、馬の横顔が描かれている。

沖上さんにはそれが誰から届いたものなのかすぐにピンときた。

ユメシンパイスルナが日本で走っていた頃、熱心にファンレターを書いてくれていた人だ。

いつも同じ色の封筒に、同じ馬の横顔が描かれていたのを、沖上さんは覚えていた。

 

「勝手に開けちゃいけない、と思いつつも、その時の私は懐かしさのあまり封を切り、中身を取り出しました」

 

『拝啓、沖上聡牧場様へ』

その書き出しは、幼かった沖上さんの耳にも残っていた。

やわらかい母の声で再生される。

 

 

 

 拝啓、沖上聡牧場様へ

 

 桜のつぼみがゆっくりと花開く、そんな季節が近づいてまいりました。

 わたくしの住んでいる場所は未だ冬です。

 千葉は暖かいと聞きましたが、お元気ですか。

 牧場が閉場されたこと、遅ればせながら最近知りました。

 オーナー様のご心痛を考えれば、仕方ないことと存じます。

 わたくしも、あの日のことを思い出すと胸が締め付けられる思いです。

 こうしてお手紙をお送りするのに、十年という月日をかけてしまったのは、ひとえに、馬のことを思い出すとさみしい気持ちになるからでした。

 しかし、十年という節目に、どうしてもオーナー様に御礼申し上げたく、こうして筆を執らせていただいた次第です。

 

 ユメシンパイスルナ号は、わたくしにとって応援歌のような存在でした。

 オープン戦、重賞、どこであっても健気に走る姿は、わたくしに明日への希望を強く信じさせてくれたものです。

 あの子ほど、わたくしに勇気を与えてくれた馬はいません。

 アメリカに遠征すると聞いたときは、それがシンボリルドルフ号の帯同馬としてでも、素晴らしいことのように思えました。

 どこが戦場であっても、誰が相手でも果敢に走り抜けてくれた馬です。

 アメリカの大地で力強く駆け抜け、そしてまた日本の競馬場でその疾走を目にできるものと信じてました。

 それがまさか、あのような最期になってしまうとは、わたくしはもちろん、オーナー様にとっても青天の霹靂でしょう。

 実を言いますと、いまだに信じられぬ思いです。

 しかし、過ぎ去った時が戻らぬように、ユメシンパイスルナ号が戻ってこないこともまた真実です。

 

 オーナー様のご心痛が癒えない中でありながら、ファンであるわたくしたちに送ってくださったお手紙の数々、そしてあの時、お手紙に同封してくださった鬣、今もお守りとして大切に持ち歩いております。

 十周忌となる今年、こうしてお手紙をお送りしましたのは、わたくしのような人間に、ユメシンパイスルナ号という素晴らしい馬を巡り合わせてくださった、オーナー様への感謝、そして何よりユメシンパイスルナ号へのいつまでも尽きぬ情熱をお伝えするためです。

 彼は間違いなく、わたくしにとってのヒーローであり、そして、戦い続ける名馬であります。

 わたくしが彼を忘れることは、未来永劫ないでしょう。

 それほどと思える馬を送り出してくださったこと、本当に、心から、感謝申し上げます。

 ありがとうございました。

 

 ユメシンパイスルナ号の冥福をお祈り申し上げると共に、オーナー様が今、心穏やかに過ごされていることをお祈りし、この手紙の締めとさせていただきます。

 

 敬具

拝啓、沖上聡牧場様へ

 

桜のつぼみがゆっくりと花開く、そんな季節が近づいてまいりました。

わたくしの住んでいる場所は未だ冬です。

千葉は暖かいと聞きましたが、お元気ですか。

牧場が閉場されたこと、遅ればせながら最近知りました。

オーナー様のご心痛を考えれば、仕方ないことと存じます。

わたくしも、あの日のことを思い出すと胸が締め付けられる思いです。

こうしてお手紙をお送りするのに、十年という月日をかけてしまったのは、

ひとえに、馬のことを思い出すとさみしい気持ちになるからでした。

しかし、十年という節目に、どうしてもオーナー様に御礼申し上げたく、

こうして筆を執らせていただいた次第です。

 

ユメシンパイスルナ号は、わたくしにとって応援歌のような存在でした。

オープン戦、重賞、どこであっても健気に走る姿は、

わたくしに明日への希望を強く信じさせてくれたものです。

あの子ほど、わたくしに勇気を与えてくれた馬はいません。

アメリカに遠征すると聞いたときは、

それがシンボリルドルフ号の帯同馬としてでも、

素晴らしいことのように思えました。

どこが戦場であっても、誰が相手でも果敢に走り抜けてくれた馬です。

アメリカの大地で力強く駆け抜け、

そしてまた日本の競馬場でその疾走を目にできるものと信じてました。

それがまさか、あのような最期になってしまうとは、

わたくしはもちろん、オーナー様にとっても青天の霹靂でしょう。

実を言いますと、いまだに信じられぬ思いです。

しかし、過ぎ去った時が戻らぬように、

ユメシンパイスルナ号が戻ってこないこともまた真実です。

 

オーナー様のご心痛が癒えない中でありながら、

ファンであるわたくしたちに送ってくださったお手紙の数々、

そしてあの時、お手紙に同封してくださった鬣、

今もお守りとして大切に持ち歩いております。

十周忌となる今年、こうしてお手紙をお送りしましたのは、

わたくしのような人間に、

ユメシンパイスルナ号という素晴らしい馬を巡り合わせてくださった、

オーナー様への感謝、そして何よりユメシンパイスルナ号への

いつまでも尽きぬ情熱をお伝えするためです。

彼は間違いなく、わたくしにとってのヒーローであり、

そして、戦い続ける名馬であります。

わたくしが彼を忘れることは、未来永劫ないでしょう。

それほどと思える馬を送り出してくださったこと、

本当に、心から、感謝申し上げます。

ありがとうございました。

 

ユメシンパイスルナ号の冥福をお祈り申し上げると共に、

オーナー様が今、心穏やかに過ごされていることをお祈りし、

この手紙の締めとさせていただきます。

 

敬具

 

 

 

流れるような美しい文字で、2枚の便箋にわたって綴られた文章は、その文字量だけで言えば決して多くはない。

けれど、そのひとつひとつの言葉に込められた熱量が、手紙を見るだけでグっと湧き上がってくるのだ。

ユメシンパイスルナ号を文字だけでしか知らない私でさえこうなのだから、『姉』である沖上さんがどのような思いを抱いたかは想像するしかない。

感動に涙したか、熱い思いに打たれたか。

しかし沖上さんの口から出たのは、ショック、という言葉だった。

 

「ショック。ショックですよ、そりゃあ。だって私は、その手紙を読んではじめて、シンがこの世のどこにもいないと知ったのですから」

 

1986年から1996年までの10年間。

あのレース前に分かれてからこんにちまで、沖上さんはユメシンパイスルナがアメリカで生きていると疑いもしなかった。

父も、母も、あの当時いたスタッフの誰も、ユメシンパイスルナが死んだとは言わなかったからだ。

いつ会えるかと聞いて、アメリカにいるから、と言われてきた。

沖上さんは、両親に騙されていたのだと、その時は思ったそうだ。

ずっと黙っていた、ずっと隠していた。

ユメシンパイスルナがいるだろうアメリカに向かうため、コツコツとアルバイトにいそしんでいた自分を両親はどう思っていたのか。

そんな、無意味なことをなぜずっとさせていたのか。

あふれ出た涙は、でも、騙されていたことへの怒りではなく、ユメシンパイスルナがこの世にいない事実を知らずに生きてきた、自分への怒りから流れていた。

 

「知ろうと思えばもっと早く知れたんですよ。血統についてほんのちょっとの知識があれば、大レースでもなんでもないオープン戦に勝って、シンがあっちに残れる理由はないし、良血だったわけでもないですから。それでも信じていた。生きていると。……もしかしたら、信じていたかっただけなのかもしれません」

 

沖上さんは帰宅した両親に手紙のことを問い詰めた。

どうして今まで教えてくれなかったのかと、自分が知ろうとしなかったことへの怒りも込めた、半ば八つ当たりに近い言葉を吐き捨てたと、彼女は言う。

泣き崩れた沖上さんに、両親は真実を話し出した。

 

1986年3月29日。

ユメシンパイスルナは予定通り、シンボリルドルフが出走するサンルイレイハンデキャップの前レースに出走。

鞍上にはシンボリルドルフの主戦、岡林騎手を迎えた。

騎手にとっても、シンボリルドルフ騎乗前にコースレイアウトを確かめる試乗も兼ねていたのだろう。

中団でじっくりと周りを見ながら進んだ後、ラスト1ハロンで伸び始めると、地元のオープン馬を相手に競り合い、クビ差で制した。

当日の注目はやはり、シンボリルドルフが出走するサンルイレイハンデキャップ。

だからか、日本から来ていたマスコミはユメシンパイスルナそっちのけで、ただシンボリルドルフを追っていた。

ユメシンパイスルナがただの調整相手だと思われていたからかもしれない。

それでもその勝利は、間違いなくユメシンパイスルナが勝ち取ったものだった。

このレースの後、ユメシンパイスルナはほかの馬とともに馬房に戻される。

そこで馬体を検査受けた際、右前球節部分に熱感と浮腫が確認され、捻挫と診断された。

アメリカのダートは日本のダートとはわけが違う。

そして日本ほど整備されていないこともあり、レース中に脚替えのタイミングで捻ったのだろうと思われた。

氷嚢を当てられ、馬房内で暴れないよう固定されたユメシンパイスルナは、しかしその1時間後、予後不良と診断されることになる。

 

「捻挫だったのではなく、折れていたのだそうです。でも傍目からみたら捻挫にしか見えない。熟練の獣医でも判断が難しい箇所が折れていたといいます。馬自身があからさまな症状を見せていなかったことも、誤診された要因だとされました。……でも、本来なら予後不良とまではいかない、と父は言ってましたね。ただ、すべてが遅かった、と」

 

サンルイレイハンデキャップでシンボリルドルフは7頭中6着に敗れる。

それまで1度も掲示板から落ちたことがなかったシンボリルドルフの、生涯唯一の大敗だった。

ここで左前脚繋靭帯炎だと診断されたシンボリルドルフは、すぐさま獣医によるケアを受けることになる。

その時点でただ1頭の無敗の三冠馬。

そして七冠を制した日本の名馬・シンボリルドルフの存在は、他のどの馬よりも優先されるべきだった。

適切なケアが施され、万全の状態で帰国の準備が進められていく。

そのさなかで、帯同馬として隣の馬房にいたユメシンパイスルナの様子に関係者が気づいたのは、ずいぶん後だった。

様子を見に来た岡林騎手によって、脚を挙げたまま固まっているユメシンパイスルナが発見される。

ひどく汗を掻いていて、その目は充血していた。

明らかに『捻挫』の馬が見せる状態ではなかった。

シンボリルドルフのケアが済んでいたこともあり、手の空いた獣医たちがその様子を確認し、議論の末に骨折と再診断。

手術は困難とされ、予後不良とされた。

おそらく放置されていた間、痛みに耐えかねて脚を動かした結果扉にぶつかり、骨折はよりひどい状態になったのだと思われる。

 

「父がその知らせを受けたのは、私の手術が成功したと聞いた、そのすぐ後だったそうです。……晩年に言ってましたよ。『娘は助かったが息子は死んだ』って」

 

当時の防疫の観点から、海外で死亡した競走馬は帰国することができない。

ユメシンパイスルナは鬣のみが形見として聡氏に渡され、知り合いもいない異国の大地に、荼毘に付された。

 

「私は元気になったらシンに会いたい、シンと遊びたいって、毎日のように言ってました。シンに会うことを目標に、術後の痛みにも耐えたんです。それを父は知っていたから、いつまでもシンのことを言えなかった。完治して、初めて学校に通い始めて、馴染めずつらかった時も、ただシンに会うために休みませんでした。シンが私の支えだったから、その存在の大きさを知っていたから、父も、母も……」

 

聡氏は、ユメシンパイスルナの熱心なファンにあてた手紙にこのような一文をつけている。

 

 

『娘は手術中、一時的に危険な状態に陥っていました。時間と照らし合わせると、ちょうどユメシンパイスルナが苦しんでいたタイミングです。そしてユメシンパイスルナが旅立った後に、娘の手術は終わり、すべてが成功しました。私はそれを、ユメシンパイスルナが娘を守ってくれたのだと、弟が姉を守ってくれたのだと思えてなりません。いつも姉思いの馬でした。慣れない馬場で、折れて痛い脚で勝ち切って、最後は痛みからも姉を救ってくれた。どう感謝したらいいのかわかりません。うれしい気持ちと、悲しい気持ちが混ざって、正しい言葉も見つけられません。娘がユメシンパイスルナを弟と呼ぶたび、私の中でも彼は『息子』になっていたのです。息子を失った今、どんな感情を持てばいいのかすらわかりません』

 

 

その葛藤が溢れ出していた。

実の娘への愛。

その娘が弟と呼ぶ、所有馬への愛。

いつの間にか『馬』から『息子』に変わっていた存在は、しかしもう帰ってこない。

弟を待つ娘に真実を告げることもできないまま、聡氏は牧場を手放した。

告げられぬまま、結果として隠すことになってしまった真実を、思いがけないタイミングで娘に知られてしまったとき、聡氏はどのように思っただろうか。

私は、もしかしたら彼はホッとしたのかもしれない、と思った。

もちろん、娘に詰られる痛みを受けた上で、それでもようやく息子の死と向き合えることに、どこか安堵したのではないだろうか。

聡氏は、沖上さんが牧場を開場する1年前に大病を患い、亡くなっている。

 

「最期の言葉は、『合わせる顔がないな』でした」

 

その一言に、聡氏がそれまでに抱き続けた感情のすべてが、籠っているように思えた。

 

 

沖上さんと状況は異なるが、私にも身体の弱い兄がいた。

2つ違いの兄はその時間のほとんどを病院で過ごし、私は彼に会うことを休日の楽しみにしていた。

初めて物語を書いたのは、兄が『続きは読めないかもな』といった物語の、その続きだった。

彼が『面白いよ』と言ってくれたのがうれしくて、毎日物語を書いていた。

 

もはや想像の範囲でしかないが、もしユメシンパイスルナに感情があったとして、本当に沖上さんを姉だと思っていたとして。

私が兄のために物語を書き続けてきたように、彼もまた、姉のために走り続けていたのかもしれない。

 

「そう思いたいですね」

 

私の妄想話に、沖上さんははにかんで頷いた。

 

 

 

 

 

私がユメシンパイスルナという馬を知ったのは、沖上さんのブログを読んだことがきっかけだった。

 

『幼い頃から持たされている緑のお守り。その中身は、弟の遺髪』

 

そんな衝撃的なタイトルがついた記事を見つけたのは、編集部だった。

約3千文字の短文に、追いきれないほどの思いを感じた。

記事に書いてあった『ユメシンパイスルナ』という馬の名前をもとに、その簡単な経歴をネット上で探す。

シンボリルドルフの調教パートナーだと知ったのは、その主戦だった岡林騎手のコラム記事で知った。

古い記事だったが、その文中に踊る一文に目が行った。

 

『ルドルフの兄貴分』

 

あの七冠の皇帝・シンボリルドルフの兄貴分。

いったいどんな馬なのだろう、と調べて出てくる情報はわずかだった。

7歳、現齢・6歳まで走り続けた無冠の馬。

シンボリルドルフと共に海外遠征に向かい、その地で散った。

彼の半生、それまで、死に至る瞬間、何がおきたのか。

それが知りたくて、ブログの記事を書いた沖上さんに連絡を取った。

 

『令和の今、ユメシンパイスルナの名前を聞くことができるなんて』

 

どこかうれしそうな声色でそう言ってくれたことを思い出す。

眼前の彼女は目を閉じ、緑のお守りを握りしめていた。

 

『開場した理由ですか?そうですね……昔を思い出したからです。実は末の娘も身体が弱くて。院内パジャマを初めて着せた時に、シンと過ごした幼少期が鮮明に浮かんできたんですよ。そしたらふっと、やりたい、馬を育てたい、シンみたいな誰かの希望になれる馬を作りたい、って』

 

アポイントメントを取った時、開場理由を尋ねた私にやわらかい声色で答えた沖上さん。

今、その瞼の裏で、どのような思い出が浮かび上がっているのだろうか。

私は聞くこともなく、ただ、彼女の目が再び開くのを待った。

 

 

 

 

 

ユメシンパイスルナ。

夢、心配するな。

 

姉に力強く頷いた弟。

最期まで姉を救った弟。

死してなお、その存在で姉を支え続けた弟。

 

では、兄としての彼は?

 

目を開けた沖上さんは、私に1枚の紙を渡した。

 

「今でも交流があるんですよ」

 

伊角宗臣氏。

ユメシンパイスルナの担当厩務員だった彼は、今、アメリカにいる。

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