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イギリス植民地時代の1600年代に始まったアメリカ競馬は、今日では世界有数の大レースを開催する偉大なる発展を遂げた。
その広大な土地には多くの競馬場が存在する。
例えば、全米のみならず、世界中から注目を浴びるケンタッキーダービー&オークス。
その舞台となるチャーチルダウンズ競馬場を有するのはケンタッキー州。
クラシック第2戦、プリークネスステークスが開かれるピリコム競馬場は、メリーランド州に。
最後の一冠、クラシック戦最長の12ハロンで行われるベルモントステークスは、同名のベルモント競馬場が開催地で、ニューヨーク州に存在する。
ほかにも挙げればキリがないほど、アメリカは競馬が盛んだ。
そして今回私が向かったのは、ケンタッキー州でもなく、メリーランド州でもなく、ニューヨーク州でもない。
場所は西海岸・カリフォルニア州。
そこには主に4つの競馬場が存在する。
10あるG1レースのうち半数が芝で行われるデルマー競馬場。
ここは西海岸の芝馬にとって目指すべき場所のひとつと言えるだろう。
主なG1競走として夏季は『パシフィッククラシック』、秋季は『ハリウッドダービー』が開かれる。
上述したケンタッキーダービー&オークスの前哨戦、『サンタアニタダービー&オークス』が開催されるのはサンタアニタ競馬場。
合計23のG1レースの舞台でもあるこの競馬場には、毎年、国内外問わず多くの競馬ファンが訪れる。
先に紹介した2つの競馬場に比べると、ロスアラミトス競馬場は日本人には知名度が低いだろうか。
2歳牝馬限定G1・スターレットステークスが開かれるこの競馬場は、遡ればその始まりは1947年と古く歴史がある。
惜しくも2013年に閉場したハリウッドパーク競馬場── シーザリオが制したアメリカンオークスの舞台でもあったこの競馬場から、いくつかのレースを受け継ぎ、
そして最後に紹介するのはゴールデンゲートフィールズ競馬場。
北カリフォルニア最大の競馬場であり、主にG3競走の舞台となる。
同競馬場からデビューしたスターホース・シルキーサリヴァン、エクリプス賞最優秀短距離馬に選出された名スプリンター・ロストインザフォグらの遺灰が埋葬されている。
今も地元住民に深く愛される場所だ。
私はその4つの競馬場を順に巡りながら、最後にある牧場に立ち寄った。
立ち寄った、といっても、これが本来の目的だった。
競馬場を巡ったのは、ここに向かうまでの覚悟を作るために必要なことだったのだ。
私は牧場の入り口に立ちながら、その奥に広がる広大な草原を見つめた。
そうしながら、頭の中では、今日のために詰め込んだアメリカ競馬の知識が、ひとつ、またひとつと浮かんできていた。
『アメリカの馬産地は』と言えば、多くの人がケンタッキー州を挙げるだろう。
その愛称はブルーグラス── 青草。
肥沃な土壌を持つこの州で、数多くの名馬が産声を上げた。
同国が誇る最上の種牡馬・ミスタープロスペクターもそのうちの1頭だ。
ケンタッキー州・スベンドスリフトファームで生産された同馬は、その生涯戦績14戦7勝。
特出した戦績ではない。
しかしミスタープロスペクターの真価は、種牡馬になってから現れた。
コンキスタドールシェロ、アフリート、フォーティナイナー、ガルチ。
国内外に多数のチャンピオンホースを輩出したのだ。
その父系の勢いは止まることなく、直仔のキングマンボはエルコンドルパサーやキングカメハメハの父となり、そのキングカメハメハからはルーラーシップ、ロードカナロア、ドゥラメンテら一級の馬が生まれ、日本競馬にも枝を広げた。
そんなミスタープロスペクターも寄る年波には逆らえない。
30歳と、馬としてはなかなかの長生きをして、繋養先のクレイボーンファームでスタッフたちに看取られ静かに眠る。
開場して100年以上の歴史を持つクレイボーンファーム。
ミスタープロスペクター以外にも、ここで数々の名馬がその命を繋ぎ、託し、そして眠っていった。
セクレタリアト、ニジンスキー、そしてマジェスティックライト。
桜花賞馬・ニシノフラワーの父だ。
思い出しても思い出しても尽きることのない名馬たちの血脈が、ブルーグラスから流れている。
しかし、何もケンタッキー州だけがその命の源ではない。
カリフォルニア州もまた、アメリカ競馬史に爪痕を残した名馬を輩出している。
近年で特に有名なのは、2014年、カリフォルニア州生産馬として52年ぶりのケンタッキーダービー馬に輝いた、同州の名前を冠した『カリフォルニアクローム』だろう。
地元のサンタアニタダービーを制してチャーチルダウンズに乗り込んだ彼は、その力を示すように勝ち切って見せた。
続くプリークネスステークスを勝利し二冠馬になると、2014年、2016年の2度もエクリプス賞年度代表馬に選出される。
まさにカリフォルニア州の英雄的存在だ。
そんな英雄も、2017年に現役を引退した後は同国で種牡馬入りしている。
2020年からは日本の新ひだか町で繋養され、産駒のデビューは2023年を予定しているそうだ。
「おいおい、アポなしは勘弁してくれよ。暇人だからいいけどな」
少ししわがれた男性の声に、私は遠くを見ていた目を瞬かせ、彼に一礼した。
Omi&Elly── オミとエリー、日本人オーナーの
沖上夢さんを通して、かつてユメシンパイスルナの厩務員だった伊角さんを訪ねたのは、偏にあの馬の横顔を知りたいと思ったからだ。
伊角さんは日本を離れて長く、30年以上をアメリカで過ごしている。
沖上さんも最後に顔を合わせたのは10年近くも前だというから、長らく帰国していないのだろう。
それでも文通が途絶えることはなく、伊角さんのご子息も含め、家族ぐるみの付き合いなのだそうだ。
私は沖上さんを通じて、伊角さんのご子息とアポイントメントをとることに成功した。
幸いにもご子息は日本語が堪能で、とんとん拍子に渡米することが決まった。
編集部からは海を渡っての取材に難色を出されたが、私の有能な編集者がどうにかアメリカ行きのチケットをもぎ取ってくれたおかげ、こうして伊角さんに会うことができている。
この場を借りて、編集者に厚く御礼申し上げる。
締め切りも伸ばしてくれてありがとう。
「ご覧のとおり隠居の身で大したもてなしはできねえ。ま、そこらへんに座っておいてくれよ」
青々と茂る草原を抜け、牧場敷地内に存在する伊角さんの自宅まで入れていただいた。
グラスを持つ手は太く、点在する小さな傷跡に、牧場経営の苦労を感じる。
しかし伊角さんは今年で83歳になるとは思えないほど若々しく、腰も曲がらず背筋をピンと伸ばしていた。
グレーの髪を後ろに撫で付け、黒いセーターを着込み、眉間に皺を寄せる姿には少しだけ気難しい性格を想像させる。
だが話口とは異なり、室内は整然と美しく整えられていた。
伊角さんに促されて椅子に座る。
ソファにもたれた伊角さんに、ご子息にアポイントメントを取ったことを伝えると、眉間の皺をより深くして首を傾げた。
「あの野郎、俺には何も言わなかったぜ。知っていりゃ地酒くらいは出したのによ」
にやりと笑った伊角さんは、それで、と私を促す。
どのような用でアメリカまで来たのか。
私は促されるまま、沖上さんと知り合いであること、彼女の紹介で伊角さんを知ったこと、そして伊角さんに尋ねたいことがあってここまで来たことを伝えた。
「伊角さんは平野元調教師の元で厩務員をしていたそうですね」
鷹揚と頷いて、伊角さんはそれを肯定した。
「この世界に入ったのは17の時だが、手伝い込みなら10の頃からだな。憎たらしいことに15歳離れていた姉貴が調教師に嫁いだんで、ほぼ小間使いみたいなもんよ」
美浦も栗東もなかった頃の話だ。
伊角さんは自身の姉と、その姉の夫である調教師と共に京都競馬場に詰めていた。
元々は関西の出だという伊角さん。
栗東トレーニングセンターが完成した後、数年遅れて美浦トレーニングセンターが完成すると、それを視察するよう義兄に頼まれて上京したのが、美浦入りのきっかけだったと言う。
「俺はとにかく姉夫婦から離れたかった。義兄さんは悪いやつじゃなかったけど、姉貴の人使いの荒さは最悪だったから。早くこいつから自立してえと思って、てめえの荷物全部カバンに詰めてよ、義兄さんから貰った列車の切符を引っ掴んで飛び出した」
『思えば義兄は最初から自分を美浦入りさせるつもりだったのだろう』
伊角さんはかつての義兄とのやりとりをそう振り返った。
悪い人ではなかった。
ただ少し気が弱く、流されやすく、馬を愛しすぎていた。
そんな義兄を姉と2人っきり残していくのは心配だったというが、それでもこれが渡りに船。
伊角さんは義兄に別れを告げ、荷物にひっそりと紛れていた紹介状を手に、平野厩舎の門を叩いたのだ。
「他の職業は考えなかったのかって?馬鹿言うんじゃねえよ、これ以外の選択肢があったのかってんだ。ガキの頃からこれしかやってこなかったんだぜ、俺はよ」
美浦トレーニングセンターが開場したのは1978年。
第1次オイルショックの影響は未だ根深く、狂乱物価の言葉はまだ消えなかった時代。
今さら新しい職業に就く、ということすら考えられず、伊角さんは厩務員としての新しい職場を求めるほか選択肢がなかったという。
「あんたさ、職業軍人って言葉知ってる?義憤に駆られてお国のために兵士、なんて奴じゃなくてさ、元々職業として試験やら何やらを経て軍人になる奴ら。そいつらの中に愛国心がないとは言わねえが、あくまで職業な訳だ。仕事さ、仕事。俺もそれと一緒。職業厩務員」
伊角さんは語る。
今も昔も『馬が好きだから』でこの仕事── 厩務員等の馬に関わる仕事を選んだ人もいるだろう。
だが、伊角さんはあくまで『これが手に馴染むから』それを職業にしたに過ぎない。
馬が嫌いなわけではないが、執着するほど好いているわけでもなかった。
あくまで仕事であること。
それを強調しながら、伊角さんは話の途中で水を飲むと、小さく息を吐いた。
「最初に断っておくぜ。俺は『競馬』というものに対して、一定の思想を持っている。それを曲げるつもりはねえし、誰かに諭されてもそうそう変わることはない」
そう前置きをつけると、伊角さんはまくしたてるように話し始めた。
「最近は馬のバックグラウンドが先行して人気になるケースもあるよな。父が、母が、兄が、姉が勝てなかったこの舞台で、とか。期待と夢想ばかりが先に来て、その馬が持つ『実力』から乖離している。……血統のロマンは昔からの流行りだが、最近のはそれとはまた違う。あのみょうちくりんな雰囲気はどうも好きになれねえ」
『競馬はスポーツだ、賭け事なんかじゃない』
「そう綺麗事をくっちゃべる奴もいるけど、その本質はギャンブルであることに変わりはねえよ。そもそもだ。馬は人間の都合で走ってるに過ぎない。それを忘れてるやつが最近は多すぎるんだよ」
グラスに残った水を一気に呷って、伊角さんは小さな声でつぶやく。
『馬が好き好んで走っているわけがない』
『手綱を引かれて、鞭で叩かれているから走ってるに過ぎない』
「何もスポーツとして観戦するな、と言ってるわけじゃないんだぜ。ただ、レースが開けるのも、その裏側にいる人間を養えてるのも、勝ち馬の花道を飾る馬券の紙吹雪があるからこそ、な訳だ。そいつが賭けずにスポーツとして楽しめてるのもな」
『賭ける賭けないは個人の自由』
それが前提だとしながらも、伊角さんは止まることなく話をつづけた。
「俺は、賭けて罵声飛ばすやつの方がまだ『競馬ファン』として信じられるね。たった100円だったとしてもそいつは馬に金を落としてンだから。それに、人間は耳栓してりゃ罵声なんで通じないし、その100円が回り回って馬の餌代に変わるんなら堪えられる。それに比べて、賭けもしないくせに賭けてるやつを貶してるのはどうしようもねえや。てめえに賭けられねえ都合があるのかもしれねえけどよ、結局は金。金がなきゃ馬をどうすることもできない現状じゃ、やっぱ賭けてるやつの方が俺はマシに思えんだよ」
ユメシンパイスルナの現役時代、彼が低人気のまま勝ち切ると、人気馬を買っていた人間から顰蹙を買うことも多かった。
逆に人気だった時に着順を落とすと、彼の馬券を買っていた者たちからの恨み節が響いた。
聞くに堪えない罵詈雑言を、その手綱を握ってパドックを回った伊角さんは、今でもはっきりと思い出せるという。
それでもやっぱり、馬券を買ってくれているだけマシだった、と語る。
もちろん、罵声にしろ応援にしろ、馬に向かって大声をあげることはご法度だ。
けれど、せめて馬券さえ買ってくれていたら。
耳を汚すそれらすべてが、巡り巡ってユメシンパイスルナを養う金に代わるのだと思って耐えられる。
そう伊角さんは信じ、無心で職務に励んだ。
私は、伊角さんが口にした『結局は金』というキーワードに思いをはせる。
それと同時に、決して断ち切ることのできない『馬の支援』というワードが、脳裏を掠めた。
2022年現在、引退馬を支援する方法はいくつか存在する。
引退馬を支援する事業を行っている企業等を通じた寄付。
または、都度行われる引退馬支援に関するクラウドファンティングへの参加や、馬の里親となって継続支援するフォスターペアレント制度など、近年その活動は活発になってきている。
昨今、競走馬をモチーフとしたソーシャルゲームがブームになっていることもあり、そういった時世が支援の後押しに繋がっているのだろう。
だが、現役の競走馬を支援したい場合、その方法はごくごく限られたものになる。
現金での直接の支援はできず、所属厩舎に飼料等の現物支援を行うこともできない。
かつてはターフィーショップで『競走馬応援ギフト』として現役の競走馬に牧草、にんじんなどの飼料を贈ることもできたそうだが、現在はその支援を利用することもできないのだ。
では、どのような形での支援なら行えるのか。
一つ例として挙げられるのは、競走馬へのファンレターだ。
JRAは公式のホームページに競走馬や騎手、厩舎へのファンレター送付先を明記している。
もちろん馬は人間の文字など読めないが、世話をしている厩務員や厩舎、関係者にその馬を応援している存在がいることを知らせることはできるのだ。
そしてもう一つは勝馬投票券── 馬券の購入である。
ここで馬券の売上の内訳を見てみよう。
例えば100円馬券を買ったとして、内訳は以下の通りとなる。
75パーセント:75円 = 払戻金。
10パーセント:10円 = 国庫納付金。
15パーセント:15円 = 運営費などに使用。
これだと金額が小さく見えるが、G1レースともなれば馬券の売上は億単位に上るため、結果的に莫大な額となるのだ。
近年だと、2021年有馬記念の売上は約490億円。
この額は上述の通り、運営費などに使用されるわけだが、では『運営費』には何が該当するだろう。
主だったところで、例えば美浦や栗東のトレーニングセンター、騎手や厩務員などの人材を育成する競馬学校など、JRAが運営している多様な施設の維持、発展に用いられる。
目に見える形で応援している馬への直接の支援にはならないが、馬券を買うこともまた、巡り巡って応援している馬へのサポートに繋がることだけは確かだろう。
「馬券を買わない別の方法で馬を養育できるってんなら、そうして欲しいけどね。できるんならもう俺は何も言わねえよ。……あ、今の世の中じゃこういう発言はまずいんだっけ?都合悪いならカットしてもいいぜ。でも、これが俺の考え方だ」
私を見つめる伊角さんの視線は試しているようだった。
ここでどう答えるか、どう反応するか。
それによってこれからの対応が決まるのだろう。
伊角さんには申し訳ないが、私はごくごく普通の男で、この連載を始めるまでとんと競馬に無縁の人生を送ってきた。
そんな私が返せる言葉は少ない。
でもその分だけ、混じり気のない本音になる。
「カットはしません。今の言葉まるまる全部、そっくりそのまま載せますよ」
「……おお、いいのか?」
「何も問題ないので。取材を申し込んでおいてなんですが、私にはこれといった競馬論はありません。そして競馬論について語りたいのではなく、ある1頭の馬について知りたいだけなのです」
競馬雑誌で連載を組ませてもらっていながら、読者諸兄に読んでもらっていながら、しかし私には『競馬とはかくあるべき』という思想がない。
競馬歴が浅いのはもちろん、この連載の前提が『この馬はどのような馬であり、どのように生き、どのように死んだのだろうか?』と言う疑問から始まるからだ。
10頭の馬がいれば、その馬に携わった人間が少なくとも10人はいる。
十人十色。
その中に1から100まで同一の思想は存在しない。
これまで取材してきた人々を思い出せば、それは確かなことだと思える。
完成された四肢と美しい黒鹿毛を持ちながら、脚部不安と戦い、最期までその真価を見せることなく散ったウタワカ。
彼の厩務員であった森重春一さんは『馬は人生』と語った。
生まれつきの虚弱体質を抱え、不運に襲われ、それでも砂地を力強く駆け抜けた悲運のマイラー・ライブアゲイン。
最期の瞬間まで寄り添った厩務員の神林太一さんは、彼を『私だけの名馬』と呼んだ。
そして今回。
ユメシンパイスルナの厩務員である伊角さんは、厩務員の仕事はあくまで『職業』であり、馬に特別の執着はないと言う。
だがその語り口はしっかりとしていて、競馬に対する職人としての矜持が見え隠れしているようだった。
「あんた物好きだな。大抵の記者はここらへんで下がってくれるんだけどよ。少なくとも、競馬かぶれの記者よりは、なんぼか話しやすそうだ」
空になったグラスを傾けて、伊角さんは私に尋ねた。
どの馬の話が聞きたいのか。
「ま、沖上さんの紹介なんだからどいつかは分かってるんだけどよ」
沖上さんの言葉を肯定するように、私はユメシンパイスルナの名前を挙げた。
「……アイツ、か。また懐かしい名前を聞いたな。何年前だ?」
「36年前です」
「そうか。……そうか。そりゃ、俺も歳をとるわけだ」
伊角さんは一瞬だけ思案するように瞼を閉じた。
だがすぐ開くと、
「アイツのことなんかとんと思い出さなかったよ」
「でも、沖上さんとは今も親交があると聞いていますが」
「ああ、確かにあんたの言う通り、沖上さんとは今も付き合いが続いてるよ。あん時のチビのお嬢ちゃんがあんな肝っ玉母ちゃんになるったあ、本当に長い年月が過ぎたもんだぜ。……でもな、俺たちの間であの馬の名前が出たことはほとんどねえ」
私は意外だった。
なぜなら、私が沖上さんに電話した時、彼女はユメシンパイスルナの名前が出たことにとても喜んでいたからだ。
令和の今でもその名を知っている人がいること。
話題にし、思い出を語り合い、過去に思いを馳せる瞬間を、あれほど喜んでいた沖上さんが、あの馬の名前を出さなかった。
それは一体何故なのか。
私は伊角さんに迷わず尋ねた。
すると、自嘲を込めるように、伊角さんは言葉を吐き出す。
「理由?そんなの一つに決まってる。沖上さんはな、許せないのさ」
「許せない?」
「そう、許せない。アイツを── ユメシンパイスルナを殺した俺をな」
私の脳裏には、緑のお守りを大事に握りしめる沖上さんの姿が、ふわりと浮かんでいた。
「結局よ、聞きてえのはサンタアニタ競馬場でのことだろ?」
空になったグラスに水を注ぎながら、伊角さんは語り始めた。
「あの時のことを思い出すのは簡単だぜ。何せ、アイツの墓はこの敷地内にあって毎日のように目にするからな。それでもアイツのことを、ユメシンパイスルナを思い出すことはほとんどない。……いや、思い出さないようにしてきた。アイツを思い出す時は、俺はいつも後悔する。こんな馬を担当に持っちまった自分の不運を呪う。そんで……アイツ自身を呪う」
伊角さんがご家族で営むこの牧場に、ユメシンパイスルナの墓があることはご子息に事前に聞いていた。
そして毎日、その墓掃除を伊角さんが行なっていることもまた、ご子息から聞いていたのだ。
だが私はそれを指摘することなく、ただ伊角さんの言葉に集中した。
「何を期待してるかわからねえが、先にっておくぜ。俺は、あの馬が嫌いだ。思い出したくないほど」
そう言葉にして、しかし、伊角さんの目は揺れていた。
それが無意識のものだとしても、名前を呼ぶ声はやわらかく、思い出に満ちた音色が私の鼓膜を刺激した。
── 1982年。
沖上聡牧場から美浦の平野厩舎に入厩したユメシンパイスルナは、当時在厩して全ての馬の中で最も静かで聞き分けの良い馬だったという。
恐ろしいほどまったく手のかからないこの馬を、当初、担当厩務員である伊角さんは気に入っていた。
何せ楽なのだ。
他の厩務員からは『愛想がなくて可愛げがない』と不評だったが、蹴り癖のある馬や、謂わゆる気性難と呼ばれる馬たちに比べれば、その何倍も扱いやすい。
「俺が職業厩務員なら、あいつは職業競走馬。それくらいストイックで、実直で、飾り気がなかった」
自分の仕事が走ることだと理解していた、と伊角さんは言う。
無駄に頭を振ることもなければ、他馬に興奮することも、影響されることもない。
ただ調教場に連れ出せば調教師が望んだ通りに走り、競馬場に連れ出せば掲示板まできっちり走った。
「大レースを勝つような能力なんざなかったから、俺に振り分けられる金は微々たるもんだ。でも無いよりはよっぽど良いし、掲示板に乗った際の進上金はまあまあ良い。コンスタントに走ってくれたから収入も安定してた。おかげさまで貯金までできちまう始末。多分俺だけだぜ?あの厩舎で貯金できてたのは」
俺が無趣味だったのもあるかも知れねえけど、と伊角さんは付け加えた。
しかし、それを抜きにしてもユメシンパイスルナの安定感は凄まじく、伊角さんは彼を担当した4年間、1度も金に困らなかったと話した。
「今は、馬をたくさん走らせることに対して『馬が可哀想だ』って言うやつもいるだろ?でもよ、オーナーが金を必要としてて、馬の脚も丈夫で、そんでテキも問題ないって言ってるなら何も問題ねえんだよ。走れる馬を走らせているだけなんだから」
私の目をじっと見つめながら、伊角さんはそう言葉にした。
しかしその言葉には、きっと賛否両論があるだろう。
『理由はなんであれ走らせるべきではない』
そう否定する者も。
『走れるなら走れば良い』
そう肯定する者も。
どちらも間違っていないと私は思う。
もし脚元が弱い馬ならば、私も『走らせるのは無理があるのではないか』と口にするだろうし、そうで無いならオーナーの判断に委ねる他ない。
忘れてはいけないのは、競走馬はあくまでオーナーの所有の下に存在し、ファンである我々にはその出走に口をはさむ権利がないこと。
そして、競走馬というものは基本、走らねば生きていけない、と言うことだ。
それは物理的な意味合いではなく、彼らがその脚で得た賞金で暮らしていると言う事実から目を背けることができないから。
思いを巡らせよう。
重賞の勝ち鞍もなく走らなくなった馬はどこへ行くだろうだろうか、どこへたどり着くだろうか。
全ての馬を救う手立てがない現状、彼らはひっそりとその馬生を終える他ない。
安易に『走らせるのをやめろ』と言えない現実が、残酷だとしても、確かにそこにあるのだ。
2022年の今でさえ、馬の幸福とは何か、どのように支援をしていくべきか、どのようにその余生、その生活を守るべきかの議論は絶え間なく続き、結論は出せないでいる。
それより36年も前の1980年代ともなれば、今以上に難しく、そして今以上にその存在は脆く、薄く張った氷の上に立つようなものだったかもしれない。
伊角さんの言葉一つをとっても、その背景に滲むものを理解するのは容易ではないだろう。
「アイツだっていろんな重賞に出てたぜ。4歳のころに皐月賞、菊花賞、古馬になってからは阪神大賞典、ウインターステークス──……勝てたことはないけどな。それでも掲示板にはちゃっかりと乗って、賞金抱えてまた次のレースへ。定量戦はいいんだけど、OPは賞金によって負担重量が違ったりもするから、重賞未勝利なのに負担ばっかりでかくなったり。それでもアイツは走ったし、なんだかんだで賞金も掴んでくる。馬主孝行、調教師孝行、厩務員孝行ってな」
ユメシンパイスルナの世代は、ミスターシービーがシンザンに次ぐ3頭目の三冠馬として君臨し、その影響力はとても大きかった。
同世代の全ての馬がミスターシービーの影を追い、しかし捉えることもできないままでいた。
だがその光は、ある1頭の馬によって塗り替えられる。
日本競馬史上初の無敗の三冠馬・シンボリルドルフの登場だ。
同じ平野厩舎に所属する2頭は、その戦績を見ると全くの逆だと言える。
皐月賞ブービー、日本ダービー未出走、菊花賞も敗退。
そんなユメシンパイスルナだったが、彼は彼にしかない特別な能力があった。
「どの競馬場のどの馬場、どの長さ、どんな天候の時でも走れる。場所は関係ねえ。どこだろうと走り切ることができた。極め付けにコーナリングが上手い。コーナリングだけだったら重賞馬クラスだった。……だがな、コーナリングがどんなに上手くても、それだけじゃ勝てないのが勝負の世界だ。でも、それでも、アイツのコーナリングは三冠に届いた」
シンボリルドルフのコーナリングの上手さは、令和の今でも語り草になるほど素晴らしい。
それはシンボリルドルフ自身の才能もさることながら、その並走相手を務めたユメシンパイスルナの能力の高さを証明することにも繋がる。
「シンボリルドルフは左利きだった。だから脚を組み替える時に変な癖があったんだけどな、それの矯正と、それから見本のための併せ馬に選ばれたのがアイツだった」
「当時の平野厩舎には他にも有力馬がいたかと思います。その中でユメシンパイスルナが選ばれたのは、コーナリングの上手さ以外にもあるのでしょうか」
私の質問に、伊角さんは口角を上げて答えた。
「ユメシンパイスルナも左利きだったからだよ」
だが当時、それに気づいていたのは厩務員である伊角さんだけだった。
乗り役の調教助手も、平野調教師も気づいていなかったその脚捌き。
脚を組み替える時の動きがあまりにもスムーズだったことで、常日頃からそばにいた伊角さん以外気づけなかったそれは、他でもないシンボリルドルフの主戦・岡林騎手によって再発見された。
『この馬の脚捌きはルドルフの見本になります』
そういって、シンボリルドルフの併せ馬の相手にユメシンパイスルナを推薦した。
最初は半信半疑だった平野調教師も、併せ馬を重ねるごとに脚運びが滑らかになるシンボリルドルフを見て、以降相手はユメシンパイスルナに固定したという。
通常はシンボリ牧場で調整されていたシンボリルドルフだったが、大レースの前は必ずユメシンパイスルナと併せ、そして結果を出してきた。
「2頭の相性が良かったんですね」
「併せ馬の相手としては、そうだな。だが馬が合うか、と言ったら合わねえ方だろうよ。ルドルフは馬房ではやたらうるさくてわがままなやつでな。一部では『ライオン』なんて言われてやがった。それとは逆に、アイツは仏像みたいなやつで、隣の馬房に入ってるルドルフが何をしようと微動だにしない。調教中もよくルドルフにちょっかいかけられてはガン無視だったな。そう言うところが、ザ・職業競走馬って感じで俺的には楽だったけど」
他の厩務員、特にルドルフの厩務員からは『無愛想だ』って嫌われてた。
そう続けた伊角さんは、昔を懐かしむように目を細めた。
「ルドルフが結果を出すと、同じ厩舎の他のシンボリ冠の馬にまで付けられるようになった。で、その馬たちも結果を出すと、翌年には別厩舎のシンボリ冠にまで付けられて……テキはご立腹だったな。『同厩舎ならともかく、どうして別の厩舎に預けた馬にまで』って」
シンボリルドルフが三冠馬になった翌年、日本ダービーを制したシリウスシンボリもまた、ユメシンパイスルナが併せ馬を務めたうちの1頭だ。
この勝利によって、シンボリ冠の和久オーナーはユメシンパイスルナの能力に対する信頼を確固たるものにしたのだろう、と伊角さんは言う。
「シンボリ冠の馬もそうだし、そうじゃなくてもシンボリ牧場の生産馬のほとんどと併せ馬をしたんじゃねえか?アイツはやたらどっしり構えてたから、その余裕さが他馬にウケるのか、いつも絡まれてたっけな。どんなにテキトーにあしらわれても、構ってくれと言わんばかりに追いかけ回されたり」
「まるで兄弟みたいですね」
「そうだな……今思えば、そうだったのかも知れねえ。アイツが兄貴分で、シンボリ冠の奴らは弟って感じで。成績は全くといっていいほど弟たちに敵わなかったけどな!弟より弱い兄貴なんてどうかしてると思うが、でも……ああ、言われてみりゃ納得だ。追い比べで抜かされても、無口を引っ張られても、いつも落ち着いていて……確かにアイツは、兄貴って感じだったかも知れねえ」
その瞼の裏にどんな光景が浮かんでいるかはわからない。
でも、伊角さんは穏やかな表情で何度も頷いていた。
私は彼がこぼした数少ないキーワードを拾い上げ、夢想する。
堂々と構える兄の傍らに集まり、しきりに話しかける弟たち。
私自身、これまで『弟』と言うポジションで生きてきたからか、その光景がとてもリアルに想像できた。
例え返事がなくても、兄の視界に入るだけで嬉しかった記憶。
もし馬にも誰かを恋しく、慕わしく思う気持ちがあるとしたら、それは私が感じた暖かさに似ているかも知れないと、ふと思った。
「だが、うちのテキとの間には亀裂が入り始めていた。それまでも度々和久さんとテキの意見は対立してたんだけどよ、決め手になったのはルドルフの遠征と、その帯同馬にユメシンパイスルナを持っていくと和久さんが言い出したことだろうな」
真剣な表情をした伊角さんが言葉を重ねる。
1986年のアメリカ遠征。
ここを叩き台に、秋にはヨーロッパ遠征を計画していた和久オーナーと、春を全休して秋のヨーロッパ遠征を目指していた平野調教師。
シンボリルドルフの使い方で対立した2人は、和久オーナーが押し切る形で遠征を決めたことで決別状態にまで陥った。
その際、沖上さん── 娘である夢さんの手術を控えていた沖上聡氏は、遠征費を全額和久オーナーが負担すること、そして夢さんの手術を後押ししてくれた御礼としてユメシンパイスルナを貸し出すことに決めていた。
「テキとしては沖上さん側の事情は仕方ねえって思ってたんだろう。沖上さん側から電話が入った時もむしろ巻き込んで申し訳ないって言ってたからな。……和久さんだって、手術を盾にアイツをアメリカに連れてった訳じゃねえ。ただ、結果としてそうなっちまった。俺も、あの人も、あの場にいた全員が、ユメシンパイスルナという馬を、蔑ろにした事実は消えねえからな」
アメリカ遠征で、平野調教師はシンボリルドルフの調教に携わることができなかった。
和久オーナーとの対立から、オーナーは平野厩舎の厩務員を誰1人伴わず、自身で用意したチームで調整を行うことにしたからだ。
「表向きはな」
実際には伊角さんがサポートメンバーとして同行している。
どうしてなのかと尋ねると、伊角さんは短く『大人の都合』と表現した。
「まあぶっちゃけて言えば、アイツの分の現地スタッフにまで手が回らなかったんだよ。向こうのスタッフだって無限に湧くわけじゃねえし、ルドルフの方が優先度は高いからな。関係者やファンにとっては悔しいことかも知れねえけど、三冠馬と無冠のOP馬じゃ扱いが違うのは……こればかりは仕方ねえんだ」
私はこくりと頷き、続きを求めた。
「かといって誰もつかないわけにはいかない。調整役としてつれていくアイツが体調を崩したんじゃ意味がねえ。和久さんはシンボリ牧場のスタッフをつけようとしてたみてえだけど、テキがそれに気づいてな。外野をアイツにつけるくらいなら伊角を連れてけ、って言って俺をねじ込んできた。和久さん側もルドルフの遠征計画で無理を言ってる分、少しでも衝突を減らしたい気持ちもあったのか、ここはすんなり決まって、当日は一緒にアメリカに行った」
アメリカについてからもユメシンパイスルナは変わらなかった。
いつも通りの堂々とした立ち姿でシンボリルドルフの併せ馬を務めた。
馬房内では不遜だが、一歩外に出れば従順だったシンボリルドルフは、この馬がいる場所では態度を変えなかった。
「ルドルフにとってアイツは、気ままに振舞っても許してくれる存在だったんだろう。多少甘えてじゃれたって、アイツは山のように動かねえ。ほかのシンボリ冠の馬も似たようなもんだな。……ま、ただ舐められてたってだけの話だよ」
それでも自身も同日に開催されるダートのOP戦に出走するために準備を重ねる日々。
シンボリルドルフの休憩時間に現地のスタッフが乗り運動を行った時の感想は、『問題なし』の一言のみ。
特に不調を訴えることもないまま、いよいよレース当日を迎えた。
「なんも変わんねえよ。いつも通りの淡々とした様子でサンタアニタ競馬場に入っていった。直前の馬体検査でも問題なし。岡林さんが背中に跨った時も、日本にいた時と変わらず飄々としててな。場の空気に流されないところも、俺がアイツを職業競走馬なんて呼ぶ所以だ」
そしてユメシンパイスルナはサンタアニタのダートを駆け抜けた。
当日は最低人気。
当然だ、と伊角さんは語る。
「重賞勝ちのない外国馬の人気なんてそんなもんだ。ましてや、ルドルフの調整役として連れてきたとあればな」
だがユメシンパイスルナは勝利した。
地元のオープン馬を相手に、日本の砂地ほど整理されていない異国の大地で一花咲かせた。
惜しいことがあるとすれば、当日の注目の全てがシンボリルドルフに向いていたこと。
それゆえにユメシンパイスルナの活躍が映像に残ることはなく、ただひっそりと、沖上聡氏と伊角さん、そして鞍上の岡林騎手の記憶の中に眠る。
「アイツに異変が起きたのはゴールしてからしばらく。馬房に戻る直前の馬体検査の時だった。やたら前脚を気にしてたから、すぐに手の空いている獣医に見せた。すると『捻挫』だという。アメリカのダートは日本のそれとは違う。走っている最中に小石を踏んだかして捻ってしまったのだろう、とな」
馬が捻挫した場合、そのほとんどが競争能力に影響しない軽症だとされる。
だから取るべき対応としては、多くの場合はあまり走らせず安静にさせるなどで、骨折や他の怪我のように手術を行うことはない。
その時は球節部分に熱が確認できたため、念のため氷嚢で冷やしながら、患部をそれ以上刺激してしまわないようにユメシンパイスルナの行動範囲を制限する、と言う、一般的な対応を取ったのだ、と伊角さんは続けた。
「それまで怪我という怪我をしてこなかったやつだから、俺は驚いた。こいつでも怪我をすることがあるのか、とな。でも大丈夫。こいつはすぐ回復する。だって今までもそうだった。こいつは冷静に堪え、痛みを克服し、そしてまた走るだろうと、俺は、思っていた」
丈夫な馬だった。
これまで熱発もなく、怪我もなく。
調教を休んだことはなかった。
中1週でも連闘でも、疲れ知らずの体力は調教師を驚かせ、そしてオーナーを助けた。
そんな馬だったから。
「そんな馬だったからこそ、念入りにケアするべきだった。俺は職業厩務員を語っておきながら、チェックを怠った。ケアを怠った。慢心した。どうしようもないほど、自惚れていた。競馬に絶対なんか存在しねえのに」
ユメシンパイスルナは骨折だった。
それも発見の難しい箇所の骨折。
熟練の獣医でさえそれを判断するのは難しく、傍目からは捻挫にしか見えなかった。
また、骨折箇所によっては馬自身が痛みを知覚するまで時間がかかるケースもあるらしい。
場合によっては跛行── 歩行の異常を現すまでに数時間かかる馬もいるという。
この時のユメシンパイスルナは、最悪なことにこのケースに当てはまっていた。
捻挫と診断されてから骨折の痛みが発現するまで約1時間。
四肢をしっかりと大地につけ、ユメシンパイスルナは首も下げずに伊角さんを見送った。
これから七冠馬・シンボリルドルフのレースを見に行く彼を、冷静な目で送り出したのだ。
「ルドルフがレースで故障したことで獣医のほとんどがそっちにかかりっきりになった。そらそうだ。七冠馬様だからな。俺が獣医でもそうするよ。その間に俺はマスコミにとっつかまってルドルフの様子を聞かれたり、それを撒いて逃げたり。……アイツの様子がおかしいと知ったのは、ルドルフの様子を見にいった岡林さんが帰ってきた時だ」
『ユメシンパイスルナは本当に捻挫なんですか?ものすごく汗を掻いていて、目も充血してるんです。もう1度獣医に見せた方が良いと思います』
「その言葉を聞いて馬房に戻った時には、もう、手遅れだった。岡林さんがいう通り、異常なほど汗を掻いて、その目は赤く染まってた。明らかに限界を迎えてるって目だ。俺は、そんなアイツを見たのは初めてだった」
和久オーナーは手の空いた獣医をかき集め、急ぎユメシンパイスルナの再診察を行わせた。
その結果、捻挫だと思われていた箇所は骨折だったことが判明。
馬房の前扉の一部に蹴り跡があることから、痛みに耐えきれず脚を動かした際に、さらに骨折部位を痛めたのだろう、と思われた。
「もし俺がアイツにつきっきりでそばにいたら。側にいてちゃんと見ていたら。……全てがタラレバでしかねえけど、きっと結果は変わってただろうよ。少なくとも予後不良よりマシな結果になってたはずだ」
しかし、過去は変えられない。
ユメシンパイスルナは予後不良の診断がくだり、競馬場内で娘・夢さんの手術成功を聞いたばかりの沖上聡氏は、今度は愛馬の死を看取ることになった。
「あんた、大の大人が泣いて土下座する姿を見たことがあるか?あれはな……プライドも何もねえ。ただ、ただ……誰もが苦しかった」
頭を下げ続ける和久オーナーに、沖上聡氏は何を思っただろうか。
今は亡き彼が抱いた感情を、もう知る術はない。
ただ思う。
愛馬を、息子のように思えてきたその馬を失った彼の、混濁した心を思う。
「オーナーは、沖上さんはなんも言わなかった。ただ安楽死の処置が施されるアイツの横顔を撫で、静かに泣いていた。……俺は初めて、罵声のない地獄ってやつを知った。いっそのこと罵倒された方がマシなんだな。罪を責められることも救いだったなんて、知りたくなかった」
伊角さんは語る。
担当馬が安楽死処分になるのは初めてではないこと。
脚が壊れたら生きていけない競走馬が、その時点で処置を施されるのは仕方ないと受け止めていたこと。
もう慣れてしまっていたこと。
馬に執着心なんて持っていなかったこと。
「でもな、人生で初めて……厩務員になって初めてだったんだ」
ユメシンパイスルナは人懐こい馬ではなかった。
撫でられることを嫌い、過度に触れ合うことを拒んだ。
厩務員に対して愛想がなく、可愛げなんて皆無と言っても良い。
だが、『姉』である幼い少女にだけ心を開き、彼女に触れられることを好んだ。
『弟』たちに戯れつかれるのを嫌がったが、それでも彼らを拒んだことはなかった。
姉弟の前ではどこまでも穏やかで、強かに振る舞った。
そんな馬の最期。
「アイツは── ユメシンパイスルナは、俺に顔を寄せた。頬を擦り寄せて、それで……」
最初で最期のふれあいだった。
まるで伊角さんを慰めるように頬を擦り寄せ、肩を叩き、そしてユメシンパイスルナは天国へと旅立った。
「この野郎、なんてものを残していきやがった」
心中でそう叫んで、伊角さんは膝をついた。
立っていられなかった。
たった1頭の馬に、走るために生み出され、走らされ続けていた職業競走馬に、深く深く
それはこれまで彼が走り続けたことに対する敬意であり、痛みを抱えたまま迎えた最期に対する謝罪であり、それ以上に、恨みをこめていた。
「知りたくなかった、本当に、知りたくなかった。最期の最期に、失いたくないと思わされるなんて」
馬はどれも同じだと思っていた。
同じように世話をし、同じように見送ってきた。
自分は職業厩務員。
職業として、仕事として馬を世話している。
そこに好悪の感情はなく、ただ淡々と仕事を熟してきたつもりだった。
しかしユメシンパイスルナは、最期の瞬間になって、伊角さんの記憶のど真ん中に部屋を作り、そこに居着いた。
「心底嫌いだ、あんな馬。重賞レース一つ勝てないで。他の厩務員から悪口言われて、俺が悔しくないとでも思ったのかチクショー……相手がルドルフの厩務員じゃなかったら拳の一つや二つでてた。それくらい悔しかった。アイツは戦える素質があったのに、あと一つの押しが足りなくて勝てないでいる。併せ馬の相手として振り回されてる間も、どれだけ腹が立ったか。言われるがまま働き続けるアイツにも、テキになんも言わない俺にも。みんなクソッタレだ。こんな気持ち、一生知りたくなかった、本当に!」
自覚した頃には全てが遅かった。
どんなに後悔しても過去は戻らない。
それをわかっているから、伊角さんはユメシンパイスルナを嫌いだと言うのだろう。
過ぎ去った全てに佇むその馬を、忘れられないでいるから。
「厩務員を辞めたのは、その日だ。テキと和久さんが言い合うど真ん中で土下座して、辞めさせください、ここに残らしてください、ってな」
当時、防疫の観点から異国の地で没した競走馬を帰国させることはできなかった。
だからユメシンパイスルナは、知り合いもいない、馴染みもないアメリカで眠ることになる。
たった1頭で。
「職業厩務員としてあるまじき最後だ。担当馬に情を抱いた挙句、仕事をほっぽり出すことになった。俺にあんなことをさせたアイツが心底憎いよ」
だが彼は、実に36年もの間、その墓を守り続けた。
知り合いもいない異国の地に根を巡らせ、美しい草原を楽園にかえて。
ご子息に連絡を取った時、彼は別れ際にこう言った。
『父は彼の墓掃除を、息子である私たちにすら任せなかった。牧場仕事なんて苦労ばかりだ、と口にするくせに、ひどく暑い日も、雨の日も、雷が落ちても、嵐が来ても。毎日必ず、父が手ずから墓を磨くんだ。その横顔を写真に収めて、目の前に突き付けてやりたかったね。ぶつくさ文句言うくせに、あの瞬間がいちばん、父を輝かせる』
Omi&Eliy牧場が開場したのは、1988年のことだ。
それまでの約2年間、そこは細々と畜産業を営むある老人の所有地で、間借りする形で墓は存在した。
伊角さんは近くの農家で住み込みで働きながら現地の言葉を覚え、1日も欠かすことなく墓参りをした。
その根性に惚れた老人の末娘が、現在の妻であるエリーさんだ。
彼女の熱意に惹かれた伊角さんは、彼女の親族の許しを経てアメリカで結婚。
それと同時に、その土地を譲り受けたのだという。
結婚の知らせを受けた和久オーナーと、沖上聡氏からの支援を受け、伊角さんはサラブレッドの生産牧場を開き、牧場の中心── 青々と美しい放牧地の間に、ユメシンパイスルナの墓を移した。
すべての馬を見渡す最高のポジション。
「騒々しいのは嫌いなやつだった。最期の時、向かい馬房のルドルフに吠えられて、嫌そうに顔を背けていたのを思い出すぜ。『ったく、オレぁ最期までお前の面倒みなきゃいかんのか』ってな。大した兄貴だぜ、ご丁寧に鳴き返して……だからこれは嫌がらせだ」
そう言いながら、伊角さんは笑う。
「せいぜいあの世で、馬たちを見守ってろってんだ!」
その時窓際に吹いた風は、もしかしたら、ユメシンパイスルナの嘶きだったのかもしれない。
『仕方ねえなあ』
と弟をなだめる、兄のように、風は強く吹いていた。
美しく磨き上げられたプレートに触れる。
冷たいはずなのに、そこに確かなぬくもりを感じた。
アメリカ・カリフォルニア州に広がる草原のど真ん中。
そこに眠る1頭の馬の、声なき声が聞こえる。
『心配するな』
ユメシンパイスルナ。
姉を励まし、支え。
弟を育て、鍛えた。
決してレコードに残るような馬ではない。
けれども、いつまでも記憶に残る馬だ。
姉の、弟の、誰かの。
胸の真ん中に部屋を構え、そこで瞬きをする。
気だるそうに息を吐いて、そしてもう1度鳴くのだ。
『心配するな』
ここにいる。
静かにそこに佇む。
可愛げなく、愛想なく。
ただ静かに、凪いでいる──……。