ユメシンパイスルナ(競走馬)
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ユメシンパイスルナ(1980年4月1日 - 1986年3月29日)は、日本の競走馬。
ユメシンパイスルナ
競走成績
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| 品種 | サラブレッド |
|---|---|
| 性別 | 牡 |
| 毛色 | 鹿毛 |
| 誕生 | 1980年4月1日 |
| 死没 | 1986年3月29日 |
| 父 | シャトーゲイ |
| 母 | シラフブキ |
| 母の父 | バウンドレス |
| 生国 | 日本(千葉富里市) |
| 生産者 | 沖上聡牧場 |
| 馬主 | 沖上聡 |
| 調教師 | 平野裕三(美浦) |
| 厩務員 | 伊角宗臣 |
| 生涯成績 | 33戦14勝 |
|---|---|
| 獲得賞金 | 9,752万円 |
| 勝ち鞍 | |
OP戦(ダ:1986年3月29日:米) 札幌日経賞(ダ:1985年6月9日:日) 北九州単距離S(芝:1984年8月18日:日) | |
概要
父・シャトーゲイ、母・シラフブキ(母の父・バウンドレス)という血統。
アメリカの競走馬でケンタッキーダービー馬であるシャトーゲイから砂地への耐性、名繁殖牝馬シラオキを3代母に持つシラフブキからは忍耐強さを受け継いだ。
血統論からみて優れた配合ではないが、もし牝馬であればどの種牡馬ともローリスクで配合できる強みを持つので、元の目的は繁殖用だったのではないかと思われる。
1980年に千葉県富里市の沖上聡牧場で生産。
生産者である沖上聡氏がオーナーブリーダーとなって同馬を所有した。
名前の由来はオーナーの一人娘の名前+『心配するな』。
今でいう『オレハマッテルゼ』『アイアムハヤスギル』などに通じる、所謂珍名馬。
1982年に美浦トレーニングセンター・平野厩舎に入厩。
デビュー年を3戦3勝の完勝でスタートするも、クラシック本戦ではミスターシービーの勢いに押され敗戦。
しかし芝・ダート、良・重、短・中・長を問わず走破できる多彩な走りを見せ、主にオープン特別で活躍した。
シンボリルドルフの帯同馬として向かったアメリカでレース後に故障。
予後不良と診断され、1986年3月29日に死亡。
同地・カリフォルニア州のある牧場に埋葬されている。
生涯
1980年4月1日誕生。
3歳(現齢・2歳)まで沖上聡牧場で育成されたのち、美穂・平野厩舎に入厩。
ダートの1200メートル戦でデビュー後、同年の芝400万下、700万下を勝ち上がって3戦3勝。
1983年には皐月賞、菊花賞に出走したが、同世代の三冠馬・ミスターシービーの前に敗れる。
古馬になってからはオープン特別を中心に出走。
頑丈な足腰を持ち、あらゆる馬場に適応する同馬は、多くて月に2回出走する等、4年の競走馬生活で33戦もこなしている。
33戦のうち14勝(新馬戦、条件戦含む)を挙げており、2桁着順となったのはブービーに敗れた皐月賞のみ。
それ以外は掲示板(5着以内)に載ったり、落ちてもほぼタイム差なしなど堅実な走りを見せた。
重賞レースでは勝鞍を上げられず、上述した皐月賞、菊花賞の他に、阪神大賞典(G2)、ウインターステークス(G3、現G2・東海ステークス)などにも挑戦しているが、いずれも掲示板を落としている。
だがオープン特別(出走条件無し)では主だったところで、仁川ステークス(ダ・1600m)、北九州短距離ステークス(芝・1200m)などで勝利を挙げた。
管理する平野調教師は同馬を「技巧派」と評し、派手さはないもののコーナリングの上手さや適応性の高さは重賞馬クラスと表現した。
落ち着いた性格で無駄吠えもなく、他馬の影響をものともしないそのメンタリティを買われ、厩舎内の若馬たちの調教パートナーを多く務めた。
同厩舎で1歳年下の七冠馬・シンボリルドルフもユメシンパイスルナをパートナーとし、馬房も隣同士だったとされる。
シンボリルドルフが無敗の三冠馬になると、その調整能力を高く評価され、シンボリ冠の和久オーナーが所有するほぼすべての馬の調整役を熟した。
平野厩舎以外の所有馬にも用いられ、とくに有名なのは1985年のダービー馬・シリウスシンボリ。
1986年、7歳(現齢・6歳)となったユメシンパイスルナは、アメリカ遠征が決まったシンボリルドルフの帯同馬として共に渡米することになった。
当時、オーナーの沖上氏は遠征に乗り気ではなかったが、シンボリルドルフの遠征を成功させたい和久オーナーの説得と、遠征費全額を和久オーナー側が負担することで話が付き、3月中旬に渡米、カリフォルニア州のサンタアニタ競馬場に入った。
メインレースとなるサンルイレイハンデキャップの前走となるオープン戦(ダート)に出走。
地元オープン馬を相手にクビ差交わすと勝利を挙げた。
ゴール後の馬体検査で球節部分に熱と腫れが確認され、一度捻挫と診断される。
悪化を防ぐために行動範囲を狭め、球節部分を冷やす等の手当てが施されたが、それから1時間後に状態が悪化。
最終的に骨折と診断され、治療の手立てがないことから予後不良とされた。
一旦捻挫となった後に骨折と判明した件について、当時、メインであるシンボリルドルフの故障が発生した余波でユメシンパイスルナの状態の観察、確認が遅れた結果、悪化に繋がったという見方が有力。
収納されていた馬房の前扉に蹴り跡が発見されており、これは痛みに耐えかねた同馬が故障個所を打ち付けたものだと思われる。
当時の防疫の観点から、同馬の遺体を持ち帰ることができず、カリフォルニア州にて埋葬された。
現在は同州のOmi&Eliy牧場にてその墓が管理されている。
1周忌となる1987年3月、和久オーナー側から沖上氏にシンボリルドルフの優先種付け権譲渡の話が持ち上がったが、沖上氏側がこれを辞退。
以降、二者間の交流は途絶えていたが、1990年に沖上聡牧場の閉場が決まった際、残された7頭の繁殖牝馬と5頭の仔馬を和久オーナーが引き取っている。
2014年、沖上聡牧場跡地を、沖上氏の長女・夢氏が買い取り、新たに『ゆめの牧場』を開場した。
競走成績
主だったオープン特別の勝鞍のみ記載※当時のレース名、格付け、情報にて表記
| 仁川S | 阪神 | ダ | 1800m | 1984年3月18日 | 1着 |
| 北九州短距離S | 小倉 | 芝 | 1200m | 1984年8月18日 | 1着 |
| 吾妻小富士S | 小倉 | 芝 | 1800m | 1985年4月28日 | 1着 |
| 札幌日経賞 | 札幌 | ダ | 1800m | 1985年6月9日 | 1着 |
| オープン戦 | 米 | ダ | 1600m | 1986年3月29日 | 1着 |
エピソード
・おそらく真夜中に生まれたとされる
→朝に沖上氏が様子を見に行った際、馬房の隅のほうで寝藁に埋もれている姿が発見された
・基本的に物静かで干渉されることを嫌ったが、沖上氏の娘・夢氏には寄り添う姿を見せた
→幼駒時代は夢氏が引き運動をしていた
→夢氏が手を伸ばすと、自ら顔を近づけた
・馬名は同馬が入厩する前、離れるのを寂しがった夢氏を励ますためにつけたものだ、と沖上氏は語っている
→おそらく『夢、心配するな』という意味
・シンボリルドルフの隣の馬房に入ってストレスにならなかったのは同馬だけ(平野調教師談)
・左利きだったが、それとわからないほどきれいに脚の組み換えができたため、岡林騎手から「ルドルフの見本になれる」と評価された
・シンボリルドルフに懐かれていたため、美浦で引き運動を行うときなどは必ず2頭セットだった
→ユメシンパイスルナ自体は1頭でいることを好む傾向にあったとされるが、シンボリルドルフを威嚇したり攻撃することもなく、常に穏やかだったと言われている
・蹴り癖のあったシリウスシンボリは、同馬の前だけ非常に大人しく、和久オーナーはシリウスシンボリの海外遠征時にユメシンパイスルナの帯同を熱望していた
→沖上氏が辞退したため、シリウスシンボリの遠征には帯同していない
・持ち帰ることが許可されたユメシンパイスルナの鬣のうち、一部は同馬の熱心なファンに形見分けされた
→和久オーナーにも一部形見分けされ、種牡馬入りしたシンボリルドルフの馬房にお守りにいれられて飾られていた他、シンボリルドルフ亡き後はシリウスシンボリに、そこからさらにシンボリクリスエスらに引き継がれた