それでも風は吹く   作:SunGenuin(佐藤)

18 / 19
『月刊「優駿たち」○月号 ── 連載:名馬の影に思いを馳せて』
執筆:遠山寛次郎
競馬史に残る偉大なる名馬たちの、その輝かしいレースの影に佇む馬に焦点を合わせ、その足跡を辿るドキュメンタリー風小説を7ヶ月に渡ってお送りします。
○月号でお送りする名馬の影は『ディアムーンライト』

あなたは、この馬のことを覚えていますか?


ディアムーンライト ── 2002年~2006年
○雲隠れの月を探して 前編


 

 明日、あなたの愛する競走馬が競馬場にいる保証は、どれほどあるだろうか。

 

 トレセンにいる保証も、第2の馬生が確約されることも、絶対などないと皆、心のどこかで知っている。

 今日、目の前を過ぎた馬。

 そう、たった今、あなたの眼前を駆け抜けたその馬だ。

 なんという名前だっただろう。

 数居る中で、あなたが視認しない中で、偶然にもすれ違った彼等の明日に思いを馳せる時、あなたの物語がまた一歩進む。

 それは辛く、険しく、決して楽な道などで無いけれど。

 向き合いたくないものと対峙するからこそ、あなたはより強く、その馬を愛するようになるのだ。

 数多の記録に流され、世代7000頭とも、8000頭とも言われる群れの中に埋もれていく名前を、忘れたくない人のために書こう。

 

 すべての競走馬が望みうる最高の馬生をまっとうできるとは限らない。

 これは、馬産に関わるすべての人間が決して目を逸らすことのできない現実。

 一歩踏み出せば引き戻せない荒波の中を、そうだと知っていても多くの馬が、人間が、デビューするその日を待ち望む。

 配合を熟考し、重ねあわせ、大事に育てて。

 その裏側で、令和の今も年に5000頭近い競走馬が虹の橋を渡っている。

 そう、数字だけなら、文字でだけなら知っている。

 けれど実情はもっと寂しい。

 四桁の数字だけでは大衆に向けて大して意味を持たないのだ。

 スポットライトの遙か外側にいる彼ら、彼女らは。

 ただひたすらに歴史の1ページにそっと掻き消されるだけと、知っていた。

 

 振り返ろう。

 

 ウタワカ。

 ライブアゲイン。

 ユメシンパイスルナ。

 キミニホレタ。

 

 夢半ばで、あるいはセカンドステージの最中で。

 骨折で、事故で、不運で、病気で。

 両手のうちの、(ふた)桁に満たない馬生を駆け抜けていったこれまでの馬たちが、今日、この紙の上から立ち上がる。

 その無垢な瞳が訴えるだろう。

 

「けれど僕たちは、これで恵まれているのだ」

 

 終わりがあるということ。

 最期を知る者が在るということ。

 たとえ写真1枚、絵画の1枚に果てたとしても、遺っているということ。

 それさえも恵まれていると言えてしまうこと。

 5000頭のうち、名があって、終わりを記す先が在るという事、そのものがどれほどの意味を持つか。

 

 いつの時代の誰が言ったのか、私にはもうわからないが、こんな言葉がある。

 

  ── 人は二度死ぬ。一度目は肉体が滅んだとき。二度目は記憶から消えたときだ。

 

 無機質な机に散らばる、数多の資料に手を伸ばし、私は強く瞳を閉じる。

 恐る恐る伸ばした右手が、所在地不明、の五文字をなぞった。

 

 指を叩けば知りたいものが知れる令和の、その今になっても辿り着けない場所がある。

 こねくり回した文字列は意味もなく検索窓に残って、えも言われぬ悲しさだけが、ただそこに項垂れるようにいた。

 

 

 

 

 

 

 春を感じるにはどこかほの暗さを纏った、時期は2023年 ── 令和5年の3月。

 例年より少しだけ各地の開花宣言が遅れ、3月半ばを迎えても満開の桜は見えてこない、なんとも味気ない小庭園をテラス席から眺めていた。

 こういう何気ない時間が作家には必要だ、というのは私の持論だが、あながち間違いでも無いと思う。

 情報に溢れた昨今、読み手も書き手も常に頭をいっぱいにさせられているのだから、何も無い平穏さの中で頭を休ませるのだって大事なのだ。

 特にこの頃の私と言えば、キミニホレタの原稿修正をようやく終えて一段落。

 2日ばかりの休息をも終えて脳はいくぶんかリラックスしていた。

 小庭園に留まる小鳥を見ては、本業のライトノベルで次回作のペット枠は小鳥にしようかな、等と思いを馳せているわけである。

 もちろん、延々と妄想に耽っていたわけでは無い。

 原稿作業をするのであれば、わざわざこのような ── つまり、美しい小庭園の見えるそこそこ値の張るカフェに滞在しなくてもよいのだから。

 その日の私の本命は本業の原稿ではなく、この連載、つまりは馬に関してのことだった。

 

「やあ、申し訳ない。東京に来慣れないモンでね。目当ての駅を探すのに苦労しましたよ」

「ああ、慣れるまでが大変ですからね。新宿なんて、とてもじゃないですが一発で覚えられないですよね」

「ええ、もう、まったく!」

 

 ウエイターに案内されながら小走りで駆け寄ってきたのは、私の初回記事となってくれたウタワカの担当厩務員、森重春一さんのご子息・敦さんだ。

 初めてお会いしてから1年半以上の月日が経っている。

 こうして直接顔を合わせるのは初対面の2021年時を含めて2回目。

 だが時折季節の便りを送って下さったり、私が馬についての情報を求めていると知ると、春一さんの縁故を辿って紹介してくれたり、何くれと無く世話をしてくれたものだ。

 私としては、正直、春一さんがお亡くなりになった時にご縁が細くなってしまったと、そう思って落ち込んだのだが。

 春一さんの訃報を知らせる電話口で、敦さんは穏やかな声で言っていた。

 

「父は長い旅に出ました。ウタワカへと再び会うための、長い永い旅に。……その旅支度を憂いなく、悲惨さなく手伝えたのは、遠山さん、あなたが父と出会ってくれたおかげなんですから。これくらいの事はさせて下さい。天国の父も今頃、ウタワカと揃って頷いてくれてるはずですから」

 

 敦さんは父君である春一さんの未練を果たせたのがよほど嬉しかったようで、今も親切にしてくださる。

 馬産業においてコネも何もなかった私にとって、彼以上に頼りになる存在はいないと言っていい。

 電話だったり、今時珍しく手紙のやり取りを通して交流していた。

 そんな敦さんと、東京で直接会って話す機会に恵まれて私は浮かれていた。

 

「それにしても東京もまだまだ寒いですな」

「といっても青森ほどでないのでは?」

「それはそうですな! やはり地元には及びません。厚着しすぎましたね」

 

 その日は休日ということもあってか、敦さんは厚めのコートに少しゆとりのあるセーターを着込んでいた。

 聞けば肌着は保温効果の高いものだそうで、暖房のよく効いた室内ではいっそ暑いほどだろう。

 サービスで置かれたお冷やをグイッと一杯飲み干すと、彼はおもむろにコートを脱いで汗を拭った。

 偶然側を通りがかったウエイターが素早く二杯目を注ぎ終える頃には、敦さんは落ち着いた様子で私の顔をじっと見ていた。

 一体どうしたのだろう。

 実は今日、ここには敦さんに呼ばれてきていた。

 どうしても頼みたいことがある、東京へ行くから直接会わないか、と。

 内容は知らないが、日頃から世話になっている彼に何か恩返しが出来れば良いと思って、二つ返事で請け負ってきた訳なのだ。

 さて、どんな話をされるのやら。

 居住まいを正して待つと、意外な事に、敦さんは少し微笑むと鞄から何かを取り出した。

 

「あ! それ、私が書いた……」

「ええ、遠山さんが、いや遠山先生とお呼びした方がいいですかね」

「いやいやいや、もう、普通に呼んでくださいよ。そんな大それた存在ではないですよ、私は」

 

 キミニホレタのオーナーでもあった殿原ご夫妻にも『先生』と呼ばれたが、どうにも、これがくすぐったくてたまらない。

 呼ばれ慣れていないのもあるが、どこか気後れしてしまうのもあるのだろう。

 惑う私を見て、敦さんは堪えきれなかったように笑い始めた。

 

「アハハハ! いずれ方々から先生! と呼ばれて返事をする立場になるのでしょうから、今のうちに慣れた方が吉ですよ」

「そんな、あんまり揶揄わないでくださいよ……」

「ッフフ、いや、謙虚な方ですね。本当に素晴らしい作品だと思っているんですよ、私も。ウタワカもそうですが、特にホラ、最近の。この回がよかったですね」

 

 そう言って敦さんが指したのは、その当時に発行されたばかりのユメシンパイスルナの記事が載った本誌だ。

 

「えっほんとですか! この回、担当編集からも評判が良くて。いやあ嬉しいですね、直接言われるとなおのこと嬉しい。……実は私、あんまりファンレターとか貰ったりSNSで調べたりしないもんで、読者が本当にいるかどうかは半信半疑だったんですよ」

 

 苦笑いでそう告げた私に、敦さんはますます笑みを深めた。

 

 ファンレターの類いは本当に時々しか貰ったことが無いのだ。

 本業のライトノベルでは勿論、この連載でもそうだ。

 昨今、ファンレターを贈ってくれるファンが少ない、という話は耳にしたことはあるが、体験してみるとこれがまた寂しい。

 ファンの声だけが、評価だけか作品のすべてではないけれど、モチベーションアップには間違いなく繋がる。

 今日に至るまで届いたファンレターは片手で収まる程度なのは事実だが、その存在には数以上に支えられた。

 これを読んだ諸兄はぜひ編集部宛にファンレターを送って欲しい。ああぜひとも、諸兄たちの熱い思いを見せて欲しい。

 もちろん、これまで送ってくれた諸兄のファンレターもありがたく咀嚼しているので、変わらず送っていただきたいところだ。

 文字書きの中には他者の反応を必要としない、壁打ちでも構わない猛者もいるわけだが、あいにく、私はファンレターの存在に生かされているありきたりな作家である。

 貰えれば貰えるだけ嬉しい。

 

 さて、私のお願いはここまでとして。

 本題は敦さんが私と直接会ってまで話したいこと ── 正確には、敦さんを通じて誰かが私に話したいこと、について触れていこう。

 

 話の主題を、敦さんは静かな声で始めた。

 

「牧場長の経験がある人でね。20年前に腰を悪くして以降は辞めて田舎に引っ込んでいたそうだけど、雑誌で先生の書いた話を読んで『自分が育てていた馬も調べて貰えないか』と」

 

 本作のテーマは冒頭に記している通り、重賞やG1を勝っているわけではない、言うなれば日陰のような馬を主役にしている。

 そのためか、これまでのファンレターでも度々「この馬も」「あの馬も」と懐かしの馬名を伝えられることも少なくはない。

 それは主に競馬関係者だったり、本作を掲載している競馬雑誌の関係者からだったりするのだが、近頃は読者から寄せられることもある。

 きっかけになったのはユメシンパイスルナの話だ。

 競馬界でも著名の中の著名であるシンボリルドルフやミスターシービーといった名馬に関連したエピソードだったからか、発売後の売れ行きも反応も実に好調だった。

 ユメシンパイスルナの生産者・沖上聡氏の長女・夢氏が経営する『ゆめの牧場』にも各種問い合わせが来たそうだ。

 

  ── あの時代、シンのことを知るはずも無かった人々が、こうして時を経てシンがいた事を覚えていてくれる。嬉しくって思わず涙が出ました。本当にありがとうございました。

 

 電話口の声は震えていたが、確かに歓喜を滲ませた声色に私の胸も熱くなった。

 

 断じて申し上げるが、私は、何も誰かを感動させたり泣かせるためにこの話を書いているのでは無い。

 ただそういう馬がいたこと。

 そういう馬が生きていたこと。

 誰もが知る名馬でなくても、誰かを支えて生き抜いた馬がいた、という事実を書き記したかっただけだった。

 それでも誰かが、とりわけ関係者が喜んでくれたのなら、書いて来た事の意味を信じることが出来る。

 そう思ったし、なるべく多くの方に喜んで貰いたい、知ってもらいたい一心ではあるが、何もかも追い求めることは出来ないのだ。

 だからたいていの『この馬を取り上げて!』には積極的に答えない姿勢を採っていた。

 実際に寄せられる連絡の多くは、G1や重賞を制していなくても大勢のファンを抱える、いわばアイドルホースのような馬なので、本作の趣旨に合わないということでご遠慮させて頂いている。

 ただ今回は敦さん経由ということで、ひょっとしたらウタワカのように半世紀近く前の馬、という可能性もあったので、私は知的好奇心をぞんぶんに抱いてこの場に座っているわけだ。

 その即決ぶりにむしろ敦さんの方が戸惑っていたくらいだが、良いのだ。

 作家というのは少し好奇心が旺盛な方がモノが書ける気がする。

 もちろん、私の持論だが。

 

「……それで、探して欲しいということですが、どういう馬なんですか? 生産牧場なら、オーナーと直接やり取り出来る立場と思っていたのですが」

 

 そう聞くと、敦さんはまた困ったような顔で頷いて、少しすると話始めた。

 話をまとめるとこうだ。

 

 知人だという生産牧場側とオーナーだという男性は親しい仲だったそうだ。

 だが男性は馬主(オーナー)という立場を家族から煙たく思われており、彼と共に競馬場や生産牧場に訪れる親族は皆無だった。

 そんな男性は、自身が二度大病に見舞われた事もあって、馬 ── 今回探し出す馬を『最期の馬』として購入したらしい。

 曰く、三度も同じ病に罹って今度も治るとは限らないから、と。

 せめて馬が引退するまでは生きて、引退先を決めたらぽっくり逝きたい、という言葉を口にしていたのを生産牧場側は覚えていた。

 しかし当人の願いも虚しく、馬が現役まっただ中に亡くなってしまったそうだ。

 親族一同は馬の相続権を放棄し、馬は新しいオーナーも見つからない中で現役を引退。

 関東のとある乗馬クラブへと無償で渡された。

 

 それ以降の消息が掴めないのだと言う。

 

「当時在厩していたのは栗東の居住厩舎。主戦騎手は白岩遙。初勝利は3歳夏の未勝利戦。これが最初で最後の勝利だったとか。うるさくもない、かといって従順すぎない、どこか地味でパッとしないやつなんだと、知人は言っていましたよ。良く言えば『どこにでもいる馬』で、悪く言えば『並以上になれない馬』なんだ、とも」

 

 散々な言い様だが、生産牧場側から見れば冷静に現実を見た証言なのだろう。

 しかし馬というのは走り出すまで解らない生き物。

 成長すればいつか、を信じて送り出したのかもしれない。

 けれど馬は彼等の手元には戻ってこなかった。

 オーナーの死をきっかけに、3歳未勝利1勝の戦績だけを持って何処へと去ってしまった。

 

()()()()()()()()()()そうです」

「え?」

「どうなったのか、どうしてそこに辿り着いたのか。馬の歩いた軌跡、そして現状さえ知れればそれでいい。多くは望まないからそれだけでもしりたいと、そうお願いされました」

「それは……」

 

 まるで、もうほとんど再会を望んでいないかのような。

 困惑のあまり口を開けずにいると、敦さんは痛ましいものを見るような顔で続けた。

 

「言ったでしょう。馬は乗馬クラブに無償で譲渡された。……()()()()()()()()()()()()()、と」

 

 明らかに歯切れの悪い敦さんの発言に、短い逡巡の後、私は「ああ」と、思わず気の抜けた声を漏らしてしまった。

 

 読者諸兄も知っての通り、これまで私が書いてきた馬たちは、皆、その戦績がどうであれ【悲劇がなければ】繁殖に上がる予定だった馬たちだ。

 アメリカに骨を埋めたユメシンパイスルナだってそうだ。

 ゆくゆくはシンボリ冠の和久オーナーのスタリオンで種牡馬入りだ。

 それもあくまでプライベート種牡馬という扱いではあるが、種牡馬であることに違いない。

 牡馬に産まれたからには目指すべき一番の目標が叶えられる手筈になっていた。

 そしてゆくゆくはリードホースとなり、自分の仔やシンボリルドルフ、シリウスシンボリの仔らを率いて草原を駆けた未来もあったかも知れない。

 キミニホレタだってナリタタイシンの仔を受胎していた。

 小柄なスピードスターの初年度産駒の母として、重賞制覇の夢を託すなんてことも、もしかしたらあったかも知れない。

 少しして種牡馬入りしたナリタブライアンが次の配合相手になりえた可能性だって十分にあった。

 菊花賞が終われば種牡馬入りが決まっていたウタワカも、スタリオンでシンザンとタケホープの間に馬房が用意されていたライブアゲインも、血を繋げる未来があったのだ。

 だから繁殖に上がらなかった、上がる予定もなく乗馬になった馬を取り上げるのは、これが初になる。

 

  ── ああ、その馬はどのような半生を送ったのだろうか。

 

 どのように現役を駆け抜け、どのように過ごし、どのような理由で乗馬に至ったのか。

 

 彼が現役だった2004年から2006年。

 それは英雄の時代。

 奇跡に最も近いと謳われた、近代競馬の結晶・ディープインパクトが燦然と君臨した世代に、馬はぽつりと立っている。

 あの頃は競馬が衰退していた。

 そういうと、いいやそんなことはない! と主張する者と、まったくその通りだと主張する者とで別れるだろう。

 今や過去のデータを眺めるだけである私の目からは、どうしても隆盛を極めていたとは思えない。

 かと言って致命的に落ち込んだわけでもない。

 何故ならあの時は競馬場に英雄がいたから。

 様々なメディアに取り上げられたことで国民の多くが知るところとなった名馬。

 彼は競馬熱が冷めつつあり苦難に藻掻く競馬関係者にとって、この上なく心強い存在だったと思う。

 けれど、そんな彼ですらかつての勢いほどに競馬熱を盛り返すことはできなかった。

 就職氷河期とも呼ばれ国全体が泥の中を藻掻いていた頃だったから。

 けれど素晴らしいことに、それでもディープインパクトという馬は決して曇ることなく駆け抜けて行った。

 我ここに有りと叫ぶほどの走りで既存ファンを捉えて放さず、後の競馬ブームへと繋がる確かな種を蒔いたのだ。

 

 あの頃の苦しさから見上げる希望。

 競馬だけじゃない。

 経済的にも苦しかった当時、多くの人々が人生の様々な選択を迫られていたあの時代が、今はもう懐かしい。

 私は子供だった。

 競馬の『け』の字も知らずにすごし、病室に佇む兄を見つめ、ただ無垢に過ごすだけの。

 

 不思議なことに、そんな私と同じ時間軸にこの馬はいたのだ。

 まばゆい光の影に佇んでいる。

 3勝未勝利、それもラストチャンスに近い夏の3歳未勝利戦をなんとか差し切った、馬。

 所属先の居住厩舎と言えば、同年代にオークス馬シーザリオとダート覇者カネヒキリらがいる。

 年上にはデルタブルースにハットトリックと、G1馬たちがずらりと並んだその中で、馬はどのように走ったのだろう?

 

 心の中で燃える好奇心の裏側で、拭いきれぬ焦燥感があった。

 敦さんの言葉がしこりのように張り付いているのだ。

 

 “ ── ()()()()()()()()()()()()()

 

 きっともうほとんど答えだ。

 わかっている。

 理解しなくては、受け入れなくては、受け止めなくては。

 頭でそんなことを考えながらも、私はどこか、すべて考えすぎなのではないか、とすら思うのだ。

 そうとも、何もすべてを悲観する必要は無い。

 もしかしたら普通に元気かも知れないのだから、なんて。

 

 これが、私が彼 ── ディアムーンライトを調べ始めた、原初の出来事だった。

 

 

 

 

 だが、その調査の過程は難航を極めた。

 

 これまでだって楽な調べ物は決してなかったが、当事者がピンピンしていたユメシンパイスルナやライブアゲインの時とはまるで違う。

 まず、とにかく情報が集まらなかった。

 集まっても、「らしい」「かもしれない」「だといいけど」と曖昧なものばかりで、ひとつも確信に近い情報が出てこないのだ。

 半世紀近く昔の馬であるウタワカだって、春一さんという生き証人がいた。

 キミニホレタには写真や絵画やあらゆる肖像を持つオーナー夫妻がいて、とにかく人にさえたどりつければ情報は得られたのに。

 

 今回はそれとはまるで違う!

 

 まず、人に辿り着けないのだ。

 かつて馬を世話していた調教師や厩務員には会えた。

 年に何十頭、年を重ねれば何百頭となるこれまでの管理馬全頭を覚えていろ、なんて意地悪なことはもちろん言わない。

 だが、朧げながらも彼らは馬がいたという事実までは保証してくれた。

 けど肝心の、その馬の育ちがどうあったかは、曖昧なまま宙ぶらりんになってしまったのだ。

 馬に最も近い立場である厩務員とて、ベテランともなれば両手足では足りない数の馬を世話する。

 よほど印象的でない限り、20年近く経った今も覚えていろと望むのは、とても酷なことだとわかっていた。

 

「おとなしかったのは覚えてますよ。元々、あの厩舎は取り立てて気性の荒い馬はいなかったので……同期のカネヒキリやシーザリオが特出してる分、おとなしければおとなしいほど、影が薄い気がしますね」

 

 目元の小皺をより集めたように微笑んだ厩務員は、そう言って最後は申し訳なさそうに頬を掻いた。

 

 馬 ── ディアムーンライトが管理されていた居住厩舎には、前述の通り数多くのスターホースがいた。

 

『その日、彼女はふたつの国の女王となった』

  ── シーザリオ。

 

『稲妻の衝撃、再び』

  ── カネヒキリ。

 

『その強さに、心酔』

  ── ウオッカ。

 

 国内のみならず、国外G1も制する名馬の影に、その馬はいただろう。

 でも、どのように?

 どのように立ち、どのように呼吸し、どのように他馬と接したのだろうか。

 仲の良い馬はいたのか。

 シーザリオたち名馬とはどういう立ち位置で接していたのか。

 大人しかったと言うけれど、具体的にはどんな感じ?

 

 質問しようと思えば、それは溢れんばかりにあった。

 

 馬は重賞未勝利。だからG1も当然未勝利。

 2歳の春に入厩し、3歳の夏に未勝利を抜け、4歳の春に厩舎を去った。

 12戦1勝。タイムアップまで残り1レースの中で迎えた3歳未勝利。

 そこで勝ち得た1勝だけが、馬の唯一無二の勝ち鞍となった。

 

 その馬の名はdear(ディア) moonlight(ムーンライト) ── 親愛なる月光へ。

 

 四つ脚すべてに長い靴下を穿いた黒鹿毛の馬。

 鼻梁に白が差し、左目だけが無愛想に見えるような三白眼。

 だから左右で顔の印象が変わる。

 そんなどこにでもいるような馬を、並以上になれないと評された馬を、その終わりまでを、ただ知りたいと思った。

 

 

 

 

 今から約20年前。

 北海道は日高のある牧場にてその馬は産まれたと言う。

 なんでもない朝のなんでもない瞬間。

 パドックの隅っこで産まれたての馬が1頭、プルプルと身体を震わせて立っていた、と。

 

「重賞も勝ってなけりゃ、特別なエピソードもない馬がどうなったのか調べてくれ、なんて、ずいぶん酔狂なことだと思ったかもしれない。わかりますよ、自分がその立場だったら苦笑いのひとつやふたつ、当り前のように漏れます。でもね。私にはとても重要なことだった。どんな結末がこようと、その結末が知れたことに安堵するでしょう」

 

 読者諸兄に告白しよう。

 縁側に座ったまま口を開いた牧場長のその横顔が、私に、この話を書く勇気をくれた、と。

 

 おおえ牧場 ── 現在は閉場しており、跡地は別の牧場が所有している ── は、当時、3頭の繁殖牝馬を抱える小牧場だった。

 当初は家族運営だったそうだが、2代前のオーナー夫妻の一人息子が跡を継がなかったため、手伝いで入っていたベテランの牧夫が跡を継いだ。

 以降は牧場内の年長者が順繰りに【牧場長】を名乗っていたという。

 春一さんの知り合いであるその元牧場長・染井さんも、前任の牧場長が引退したために、1990年から牧場長の座を引き継いだそうだ。

 そこから約12年。小さな牧場をスタッフたちと切り盛りしてきた。

 その牧場長としての最後の生産馬が、今回取り上げる、ディアムーンライトである。

 

「嫌になるくらい静かな馬でした。泣いたりも、暴れたりもせずでおとなしく、好きなことといえば放牧地の隅で横になっていることです」

 

 染井さんの中ではよほど印象深い馬だったのだろう。

 灰色の髪を掻き上げながら、思い出を振り返っては目を細めていた。

 

「大物になる気配は全くしませんでした。特別体格が優れていたわけでもないし、ソックス入っててもちょっと顔が不細工だったもんで、うん、ぱっと見の印象もそんなに面白くない。うちとしてはそこそこ高い金を払って付けて作った幼駒でしたが、やっぱり肌馬の質かな、と。1勝できれば上等だと思っていたんですよ」

 

 だから未勝利の1勝で現役引退は、ある意味期待通りだな。

 

 そう言って笑った染井さんは、それでも少しだけ寂しそうに見えた。

 

 牧場からさほど期待されていなかったディアムーンライト。

 その血統がどのように構成されているのか、少し見てみよう。

 5代血統表に刻まれた父名は、令和の今でさえ『幻の三冠馬』と謳われる名馬フジキセキ。

 その父は米二冠を達成し、逆風の中から夢を掴んだ、まさにアメリカンドリームの体現者とまで呼ばれたサンデーサイレンス。

 当時、十数億円の大金で輸入されたサンデーサイレンスは、種牡馬としてはまだ名も知れないただ1頭の馬に過ぎなかった。

 母国であるアメリカの馬産業からは成功しないだろうとせせら笑う声が聞こえたし、国内でだって不安視する声はあった。

 しかし()の馬を輸入した吉里氏が醸す絶対の自信が、やがて国内を席巻するサンデーサイレンスブームを引き起こすこととなる。

 その第一陣として、父の評価を確かなものにしたのは他でもない、初年度産駒として素晴らしいデビューを果たし、弥生賞を圧倒的な走りで勝ちきって見せたフジキセキであった。

 

 皐月賞トライアルである弥生賞の完勝ぶりは凄まじく、誰もが彼に未来の三冠馬を夢見ただろう。

 けれどもその年の中山競馬場に、フジキセキの姿は無かった。

 弥生賞を終えて間もなく負った怪我により、彼は本戦に出走することも叶わず引退。

 溢れんばかりの能力を次世代に継がせるため、産駒の誰よりも早く父の背を追って種牡馬となった。

 シーズン途中の参戦にも拘らず、フジキセキの活躍によってすっかり高騰し切っていた父よりも安価な値段で種付できる利点を活かして、方々から数多の牝馬を集めた。

 初年度産駒は1996年に誕生し、2年目産駒ダイタクリーヴァがスプリングSなど重賞を5勝するなど、種牡馬生活は幸先の良いスタートを見せた。

 

 しかし、父の配合相手を参考に成された組み合わせが、フジキセキが生来持ち合わせた要素とうまく噛み合わなかった。

 屈腱炎によってクラシックを断念したことからも分かる通り、フジキセキの最も危険な要素は脚の脆さ。

 加えて、牝系が欧州型のわかりやすいスタミナ・パワー型だったことも、アメリカ型のスピードに重厚な欧州牝馬をあてがうサンデーサイレンスモデルの配合ではマイナスになった。

 ただでさえ大柄に生まれやすい産駒に、父由来の脚の弱さは致命的で、レースに間に合わず故障したり、レースに出ても故障でその先へ進めない産駒は決して少なくなかった。

 活躍してもトライアルレースまで。

 牡馬よりは牝馬の方が長く走り、G1レースでは惜しいところまで行っても勝ちきれない。

 そんなイメージが生産者の中で固定化されていった。

 

 けれども染井さんは、それでもフジキセキを選んだ。

 

「あいつの母馬はスプリンターでした。両親が共にアメリカ馬で、身体は頑丈でスピードは出る。が、スタミナとパワーが持たない。頑丈な分だけ硬い身体を、フジキセキの血で柔らかくしたい、そう思っての配合です。足が弱いところを継いだとしても、母馬譲りの小柄さを継いでくれれば大したダメージにならないと踏んでいたんですがね。ただまあ、フジキセキをつけるには、ちょっとばかし母馬側の血統も実績も、足りていなかったのかもしれません」

 

 生まれた仔馬は周囲の期待に反して大きく出た。

 だのに骨格が薄く、左前脚はやや外に向いて不格好で、立つのに47分かかった。

 運動神経も鈍そうだな、と思った染井さんは、母馬の側で細足を震わせるその馬を眺めては、力なくため息をついたという。

 サンデーサイレンスより安価とはいえ、フジキセキだってやはりそれなりの値段ではあるのだ。

 父と比べたら成績が劣るだけで、そもそも重賞馬を毎世代出せる種牡馬は大成功の部類である。

 堅実性を好む生産者からはその安定した成績を喜ばれて人気だってあった。

 これまで重賞馬も出したことのない小牧場が種付するのはずいぶん勇気が要ったと、競馬初心者の私も唾を飲み込むほど。

 

「けどね、やっちゃったな、と後悔することだけなら誰にだってできるんです。生まれたもんは仕方ない。配合っていったって完璧な結果はないのだから。それに、生まれが不格好でも成功する馬はいるじゃないですか。祖父であるサンデーサイレンスがまさにそうでしょう?」

 

 馬に欠点を打ち砕くほどの何かを期待して、染井さんは痛む腰を押してその幼駒の世話をした。

 だが染井さんは最後まで世話をできなかった。

 腰痛をは日を追うごとに増し、とうとう起き上がれなくなったので、泣く泣く引退を決意。

 幼駒は頼りなく震える四つ脚で、染井さんに見送られ育成牧場へと旅立った。

 この見送りが、染井さんの最後の仕事となった。

 

 それから約1年後。馬はオーナーを見つけて栗東へと旅立ったと、人伝に聞いたそうだ。

 冬のことで、育成先の牧場長が先方に頼み込んでの庭先取引だったという。

 見目がね、やっぱりダメだったんでしょうね、と染井さんは半笑いで繋げた。

 

「牧場自体は10年くらい前に閉場したんですよ。繁殖牝馬が1頭になって、スタッフもどんどん減って。そのたった1頭も老齢で死んだので、それに伴ってそのまま。結局最後まで重賞馬は出せなかったけど、輩出してきた数が少ないので、生産馬の多くがその後どうなったのかほとんど知れるんです。……例外は、この馬だけ」

 

 所有する繁殖牝馬が5頭を超えたことはない。

 だから生産馬の数も片手で数えるほどで、小牧場だからこそ、オーナーとの付き合いも深かった。

 けどこの馬の最後だけが知れない。

 この馬の、ディアムーンライトの辿った軌跡だけが曖昧なまま浮いていた。

 その名にある月光よりもなお淡く、ゆらゆらと。

 

「歳が歳だし、腰痛も全然治らないしで、多分、生い先は短い、ってやつなんですよ。だからかな。気になって気になって仕方ない。あいつはどうなったかな。あの四つ脚ソックスの不恰好者は、ってね。……雑誌に載ってた、あんたの書いた話を読んで、この人ならいいかなって思ったんだ」

 

 ウタワカなんて馬知らなかった。

 ライブアゲインも、ユメシンパイスルナも、キミニホレタのことだって、まったく知らなかった。

 だからきっと、誰も知らないディアムーンライトのことも見つけてくれる、そんな気がした。

 

 染井さんの声は小さく、けど明瞭で、私の頭をごつんと叩いて揺らしたかのようだった。

 有名でないこの馬がどうなったのか知りたい、そんな気楽な好奇心に意味を見出してくれた誰かがいる。

 それが、これまで書いてきたことの意味と、これから書き続けていくことの意味を、表しているように思えて、私はたまらない気持ちになった。

 

 

 季節はあっという間に巡った。

 蒸し暑い夏に苛立ちながら、私は新調した旅行鞄に荷物を詰める。

 染井さんと会ってから3ヶ月が過ぎていた。

 依然として馬の行方は知れないままだったが、このほど、運良く元調教師の居住さんとコンタクトを取ることに成功した。

 居住さんは今、出身地である石川県で引退馬を繁養するホースパークを開き、そこで5頭の競走馬と共に暮らしている。

 牧場を建てる前から(おこな)っていた、地元児童と引退馬との共同海岸清掃は今も継続しているそうだ。

 担当編集に融通して貰って手に入れた、居住さんがホースパークについて語っている雑誌を片手に、あれこれと『馬と地域貢献』について話し込んでしまった。

 目的はそれではなかったのに、馬の福祉について真剣に考える居住さんの姿を目の当たりにして、いろいろと聞きたくなってしまった。

 

「すみません、根掘り葉掘り……」

「そんな気にしないでください。誰かに話したくてうずうずしていた内容だったので、聞いて貰えてむしろ嬉しかったですよ!」

 

 蒸し暑い夏日にもかかわらず、ハーフパンツに麦わら帽を被り、馬を挽きながら闊歩する姿はなるほど、よく馴染んでいた。

 私は改めて背筋を伸ばし、彼に向き合った。

 数えきれないほどの名馬を管理し、最多勝利調教師にもなった居住さんに聞くには、ディアムーンライトはあまりにも頼りない馬だろう。

 だが、その軌跡を辿るために、競走馬としてのディアムーンライトの原点である居住さんを頼るのは、最も大切な一歩だと思った。

 そうして実際に収穫もあった。

 居住さんはディアムーンライトの引退先 ── 引き取り手になった乗馬クラブの、当時の乗馬スタッフの行方を知っていたのだ。

 

「デルタブルースやハットトリック、シーザリオにウオッカ、ヴィクトワールピサ……これまで多くの馬を管理してきましたが、その他実績を残せなかった馬の方が遥かに多い。彼らのその後を知りたいと思うファンもいたし、何度も行方を尋ねるお手紙を頂いたこともあります。私も、調教師として気にならないとは当然いえません。今こんな活動をしてることもあってなおさらです」

 

 麦茶の入ったグラスを傾けながら、居住さんは言葉を続けた。

 

「確かにディアムーンライトは印象の薄い馬でした。彼のような1勝馬はうちの厩舎には両手足じゃ足りないほどいた。……でもひとつだけ。印象に残っていることがあるんです。それは、あの馬はとても静かだったけれど、でもきっと、誰よりも必死だった、と言うことです」

 

 静かでおとなしい馬にはいくつかのタイプがある、と、テーブルを指先でなぞりながら、居住さんは言った。

 平時とレース時でスイッチをON・OFFするタイプか、競走に興味のないタイプ。

 他にも細かく分類できるが、この2つが代表的で、これで例えるとディアムーンライトは前者だった、と。

 

「ディアムーンライトの馬体にはいくつかの特徴が有りますが、特に目立っていたのは、左前脚がやや外側を向いている点です。しかもフジキセキ産駒らしく、前脚で勢いよく大地を掻き込んで回すように走る、所謂パワータイプでした。このタイプは脚へのダメージも大きく、調整は困難で、芝を走るには向いていません。けどそれを馬自体もわかっているかのように、自分で対処するんです。その対処っていうのが、手前の切替でした」

 

 左に爆弾があるとわかっているから、左周りのレース以外ではほとんど切替ず右手前だけで貫き通す。

 普通、走っているうちに片手前が疲れるから切替るのが通常だ。

 だが切替るよりも右固定で走った方がデメリットを軽減して走り抜けると、ディアムーンライト自身がわかっていたのだ、と居住さんは言う。

 

「初勝利を挙げたのはダートの短距離。札幌の1000mで右回りでした。そこで 1度も手前を変えずにまっすぐ走り抜いた成功体験が、彼にとっての希望になったのかもしれません」

 

 ディアムーンライトは以降もダートの短距離で走った。

 2勝目は挙げられず終いだったが、掲示板には着実に入り込む安定性を見せたのだ。

 けど、どうあっても勝てなきゃ意味がない。

 とうとう3歳未勝利1勝のまま、2006年の3月、オーナーの急死に伴い居住厩舎を去ることとなった。

 

「オーナーさんがかなりの高齢で、重い病気にもなってしまって。元々、これ以上は馬主業ができないから誰か別のオーナーに譲渡を、という相談はされていたんです。ですが次のオーナーを決める前に亡くなってしまって……親族の方々は形見として引き継がないと主張され、引退させることにしたんですよ。どこかで乗馬に、と思ってた頃にある乗馬クラブへと無償譲渡する話が来て、話を聞けばオーナーと懇意にしていたクラブだそうで、親族の方もそれで良いとおっしゃるので譲渡しました」

 

 競走馬と乗馬では性質が異なる。

 全力で走り先頭を目指す競走馬とは違い、乗馬は人の指示に従ってゆったりと走ることをメインとするから、好まれる気質も違った。

 そのためのリトレーニングが存在するわけだが、昨今はリトレーニングも請け負っているクラブが大半である。

 ディアムーンライトも譲渡先のクラブでリトレーニングを受けて乗馬になる予定だったという。

 

「その年は同期のカネヒキリやハットトリックらがドバイに行くと言うことで、検疫厩舎内での帯同役を最後の仕事にしました。ここは特別仲が良かった、とかではないんですけど、お互い静かな馬なので妙な気負いがなく、その分、カネヒキリたちも検疫厩舎内で落ち着けるかと思って。仕事は十二分に果たしてくれて、大きな混乱もなく輸送準備ができました」

 

 海外の大舞台を目指して馬運車に乗り込む同期を、ディアムーンライトはどんな気持ちで見送ったのだろうか。

 自分がたどり着けない遥高みで、誰よりも最速を目指す場所に向かうその背中を、どんな思いで、どんな表情で。

 彼らが帰国した4月には、ディアムーンライトは居住厩舎のどこにもいなかった。

 朝日が上がって、晴れ渡る日向に、月光の跡はどこにも。

 

「乗馬クラブは静岡県にあると聞いていました。念の為に当時のスタッフと電話番号を交換していたので、多分今も通じるとは思います。……実を言うと私はあなたが来るまでディアムーンライトのことを思い出すこともありませんでした。けどどうしてか、名前を聞いたら、ああ、あの馬かと、すぐ思い浮かぶんですよ。記憶っていうのは、不思議ですね」

 

 いつもは引退馬を引いて歩くという海岸は静かだった。

 その分だけ、居住さんの懐かしむような、先を悲しむような、柔らかい声だけが鮮明に聞こえた。

 

 

 

 ディアムーンライトのことが知れたらまた連絡します。

 そう約束して私は地元に戻り、こうして静岡県にいく準備をしているわけだ。

 本当はもっと早くに出発する予定だったが、支度が遅れたのは、葬式に出るためでもあった。

 

 つい1週間前のことだ。

 最初の譲渡先となった乗馬クラブ ── 既に無くなっていたので元の字がつくが ── の乗馬スタッフと連絡がついて、静岡県内のカフェで会う約束がついた。

 そのことを染井さんにも伝えようと電話をした。

 見つかったわけではないが、手がかりのひとつを掴めた、と。

 誰よりも早く知りたがっていた人に、ほんの親切心での知らせだった。

 染井さんは電話口でしきりに頷いて、そうか、そうか、何か知れたらすぐに連絡してくださいね、弾んだ声で言った。

 しかし、その2日後には旅立ってしまった。

 

「気が緩んだのかしらねえ」

 

 紺色のエプロンを片付けながら、女性がそう言って笑った。

 染井さんの奥さんで、玉恵(たまえ)さんと言う。

 染井さんと似た灰色の髪をひとつ纏めにして、小柄な身体を丸めた。

 その表情は心配そうで、でもどこか、仕方なさそうな顔にも見えた。

 

「……死ぬ前の、あなたとの会話、主人は嬉しそうでした。見つかった、見つかったぞ、って」

 

 不格好だの、走らなくても仕方ないだの、そう口にはしていたが、本当は内心ただただ心配だっただろう染井さんの心情が、そのセリフだけで伝わるようだった。

 じっと瞳を閉じた奥さんが言葉を区切る。

 まるで、腰さえ丈夫なら延々と馬仕事をこなしただろう半身の人生を、その瞼の裏で追想しているようにも思えた。

 

「ぶっきらぼうだけど、馬が好きな人でした。けど、経済動物で、畜産動物で、だからいつか死ぬのも仕方ないと割り切れる人でした。でもね、だからこそ、終わりだけは知りたいと思う人でした」

 

 きっとディアムーンライトが心残りだった。

 ディアムーンライトだけが心残りだった。

 最後に取り上げた幼駒。

 頼りない四肢のよたよた歩きで育成牧場へと旅立ったその日のことを、最期まで忘れられずにいたのだろう。

 こうして、知り合いでもない、見ず知らずのただの物書きに「探してくれ」と頼むほど。

 その行方を、その道程を、その終わりを知りたがった。

 だがいまだにディアムーンライトは見つからない。

 見つけられなかった、間に合わなかった。

 不甲斐なく握りしめた私の拳を、奥さんはそっと包んで持ち上げた。

 

「できるところまで、続き、お願いしてもいいですか」

 

 その瞳の輝きは、染井さんにひどく似ていた。

 私に探し続ける意味を、書き続ける意味を教えた、あの遠く、儚い輝きだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。