それでも風は吹く   作:SunGenuin(佐藤)

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○夢まで残り20メートル 後編

「敦、水を汲んでこい」

「ええっ」

 

出会ったときのぼんやりとした様子が嘘かのように、春一さんはハキハキとした喋り口で敦さんに指示を出す。

敦さんが驚いたのは、春一さんがすんなり話すようになったから、それとも水汲みを頼まれたからなのか。

おそらくどちらもだろう。

始めは抵抗していた敦さんは、二度三度と春一さんに同じ事を言われると、私を気にする素振りを見せつつ退室した。

それを見計らったかのように、春一さんは姿勢を正し、私の真正面に座り直した。

 

「ウタワカは、穏やかな目をした馬だった」

 

そう静かに語り始めた春一さんの瞳は、されど轟々と燃える焚き火のようだった。

大きな声でもないのに、部屋の中いっぱいに響く声にこもる想いは深い。

私は、黙してその続きを聞いた。

 

「出会ったのは1963年の秋。この頃のウタワカは三歳── 今でいうところの二歳だな。同期はとっくにデビューも済ませている中、入厩そのものが遅かった。なぜだか分るか?」

「母馬である丘高の件が解決していなかったから、ですよね」

「そうだ」

 

相づちを打って答えた春一さんは、懐かしむように目を細めると「だから」と言葉を続ける。

 

「11月の終わりなんて妙な時期に入ってきた。驚いたよ。牧場でのんびり過ごしてきたとは思えないくらい、ご立派な身体付きだった。くわえて気性も穏やかで、すこぶる従順。俺がゆるく手綱を持つだけで、ウタワカは吸い込むようになんでも覚えた」

 

春一さん曰く、ウタワカはこの頃からすでに見映えの良い馬だったようで、調教師である竹田氏はもちろんのこと、多くの厩務員が春一さんを羨んだという。

黒鹿毛の馬体は艶めいていて、騎乗馴致もゲート練習もさらりと熟した。

人見知りも馬見知りもすることなく、あっさりと厩舎生活に順応したらしい。

その出来の良さは、当時は栗東も美浦もなく、竹田厩舎があったのは京都競馬場だったのだが、わざわざ他の競馬場にいる調教師たちが見に来るほどだったそうで、春一さんは得意気に言った。

 

「テキはウタワカをたいそう気に入って、良い馬房拵えてやってたよ。高い砂糖も、ご褒美代わりにって自腹で買って。それは贔屓がすぎるってんで少量ずつ他の馬にも分けられたけど。それら全部が期待の表われだった。ひょっとしたら、ウタワカが走ることを誰よりも待ち望んでいたのはテキかもしれないな。調教も熱心で、『春一、コイツは翌春に咲くぞ。ちょうどめでてえな』っていうのが、当時のテキの口癖だった」

 

春一さんの「春」の字に季節を重ね合わせて「めでたい」と言ったのだろうか。

真偽は竹田氏ご本人しか知り得ない事が惜しいが、そう思うと言葉にできないロマンを感じた。

 

「春の新馬戦に出したら、皐月賞は間に合わなくても東京優駿には間に合う。それまでに何戦か叩いて向かわせよう。そういう計画だった。……俺もテキも、馬主も」

 

── だがウタワカは、東京優駿には出ていない。

私が言葉も無くそう思ったことを感じ取ったのか、春一さんがコクリと頷いた。

 

「ウタワカは大きな馬体をしていた。今でこそ珍しくないが、あの当時からするとかなりの大型馬でな。体高は170センチ近くあって、体重は500キロをゆうに超えていた。……サラブレッドの脚は細い。ガラスに例えられるほど繊細でもろく、あの時代、今ほど満足いくケアもできなかったから」

「それじゃあ、ウタワカは身体が弱かった、という噂は本当だったんですね」

 

ふと零した一言に、春一さんは頷きながらもひとつ訂正した。

 

「正確には『脚が弱かった』んだ。大きな身体を支えるには、ウタワカの脚は弱かった。だから本格化するのは早くて五歳からだろう、というのが当時の厩務員の間ではよく話題になったものだ。だがテキはそれに納得いって無くて、東京優駿を諦めてなんぞいなかった。絶対にウタワカを東上させるぞ、と強めの調教をしては馬を疲れさせて。けどウタワカって馬は大したやつでな。稽古上手だった」

「というと」

「調教での走りがいいってことだよ。指示通り、期待に通りに走って見せる。テキはそれも含めて気に入ってたんだろうよ。なにせ、同期のシンザンが稽古嫌いだったから」

 

ここでシンザンの名を耳にして、私は疑問に思ったことを春一さんに投げかけた。

 

「私がウタワカのことを知ったのはシンザンがきっかけだったのですが、この二頭はよく並べられていたのですか?」

「ああ。テキがその筆頭。いっつも『シンザンは見るからに走らなそうや。ウタワカは走るで、なんぼでも走る』ってな」

 

ウタワカが入厩して一ヶ月が経った頃、シンザンは新馬戦に出走しここを圧勝している。

その圧勝劇を前にしても、竹田氏はウタワカの方が上だと思っていたのだそうだ。

 

「シンザンはこれと言って見目の良い馬じゃなかった。もちろん、馬は見目に寄らないが、パッと見では走りそうにない馬で、加えて稽古嫌い。『まともに調教もでけへんのに、どうやって勝つんや』と厩務員に怒鳴っていたこともある。失礼ながら、あの時の俺も、シンザンよか俺のウタワカの方が何倍もええがな、なんて思ってたさ。厩務員てのは、自分の担当馬が可愛いもんだし、人生握られてるからな」

 

馬が走って得た賞金のうち、数パーセントが厩務員に支給されることになっている。

なので、春一さんが言う『人生握られてるからな』は間違いではないだろう。

茶目っ気を含んだ微笑みに気を取られていると、すっと春一さんが表情を曇らせた。

 

「……でも歴史に残ったのは、シンザンの方だった」

 

小さく呟かれた言葉には、万感が籠もっているようだった。

言語化できない複雑な感情が滲み出たそれは、春一さんも無意識だったのかもしれない。

私は言う言葉も見つけられず、ただその続きに耳を傾けることしかできなかった。

 

「そういや、面白い話があったな」

 

ぱっと声色を明るくした春一さんに、私は戸惑いながらも「どんなのですか」と聞き返した。

春一さんは思い出すように一度ひとみを閉じると、軽妙な口調で語り始めた。

 

「ウタワカが入厩した歳の暮れだよ。調教のためにウタワカとシンザン揃って馬場に出されたことがあって、案の定、シンザンは走らなかった。テキはもうカンカンに怒って、担当厩務員の中本も他の厩務員から冷やかされる始末。そんな場面に、ウタワカの方からシンザンに近づいていったんだよ。あれには二重に驚いた」

「二重、ですか」

「ああ。……ウタワカという馬は、実は他馬にはほとんど興味を示さない馬なんだけどよ、シンザンだけは別だった。何が起きるんだ、喧嘩かと焦ったのは一瞬で、ウタワカは短い嘶きを繰り返すと、シンザンの目の前で走り始めた」

 

すると何が起こったのか。

それまで調教だと走らなかったシンザンが、ウタワカの背を追うように走り始めたのだ、と春一さんは言った。

そんなことがあり得るのか、と私が目を丸くしていると、春一さんは苦笑を浮かべながらも話を続けた。

 

「珍しい例だ。当時の俺たちからしても不思議な出来事だったが、なんにせよシンザンは調教でも走るようになった。ただし、ウタワカと一緒に居るときだけだった。それ以外ではぐーたらなもんで、テキはウタワカとシンザンを同時に調教することにした、ってわけだ」

「シンザンはどうして、ウタワカと居るときだけ走ったのでしょうか?」

「さあな。……単純にウマが合う、というやつなんじゃないか」

「ウマが合う、ですか」

「そう。ウマが合う。難しいことじゃないんだ。ただ連れ添っていると気分が良い、そういう相手は人間にだっているだろう?」

 

見た目も性格も正反対だという二頭。

お互いのどこを気に入ったのか、私たち人間に押し量ることはできない。

ただ確かなのは、稽古嫌いのシンザンが走り出すほどの何かが、ウタワカにはあるということだ。

 

二頭の様子について、春一さんは付け加えるように口を開いた。

 

「後は、ウタワカは面倒見がよかったからな」

「面倒見……でも、他の馬にはほとんど興味を示さなかったって」

「そうだ。あんまり他馬を気にするようなやつじゃなかったのだが、例えば相手が手に負えないくらい暴れている馬を見ると、まるで宥めるように嘶いたこともあった。相手の馬はそれを聞くとすぐに落ち着くから、暴れ馬の世話上手、なんて呼ばれたものさ。人間だったら競馬関係の仕事は天職だったかも知れない」

 

冗談交じりにそう言った春一さんは、私が驚いたまま言葉を発せ無くなっているにも拘わらず、「そうそうもうひとつエピソードがあるんだ」と言うと、にこやかに話始めた。

 

「年が明けて四歳になったとき、シンザンはウタワカの隣の馬房に移動になってな。しばらくして、ウタワカの体重は変わらないのにシンザンは膨らみだすから、誰ぞが余分に食わせているのか、と話題になって、犯人をとっちめてやる!って中本のやつと張り込んだことがあるんだよ。そうしたら、くくっ、犯人はウタワカでなあ」

 

優しい思い出を再生するように春一さんが語り続ける。

 

「どうもあの当時のシンザンは通常の飼い葉じゃ足りず腹を空かせていたらしい。見かねたウタワカが、自分の分の飼い葉を食んでは、首を伸ばしてシンザンに分けていた。俺が自宅からくすねて渡してた、ウタワカの好物のサツマイモまで食わせてやがった」

 

続く春一さんの言葉は『それでもお前が太らないんじゃ意味がないのに』だった。

それはとても穏やかな声色で、当時も似たような言葉をウタワカに告げたのではないだろうか。

お前のために用意した飼い葉なのだから、と。

春一さんの言葉のひとつひとつに、ウタワカへの愛が詰まっていた。

 

「それからは中本が上手い具合に飼い葉を調節するようになったから無くなったが。ウタワカがシンザンのことを気に掛けていたのはこちらにもわかるほどだった。もしかしたら、ウタワカには分っていたのかも知れないな」

「何をです?」

「シンザンが神話になることを」

 

そんなまさか、と言いかけた口を閉じた。

春一さんは真剣だ。

本気でそう思っていると分った。

 

「戦後初の三冠馬。全戦連帯100パーセント。競馬界全体に『シンザンを超えろ』と言わしめるほどの強さを、当時生きていた人馬の誰よりも感じ取っていたのかも知れない。そうであってもおかしくはない。あの馬は他馬に絡まれても動じないくらい穏やかで、優しくて、稽古苦労なんかひとつもないくらい賢くて、物わかりが良くて。……最期まで、本当に」

 

言葉尻がしぼんでいた。

春一さんは一度深く息を吸うと、私の目をはっきりと見た。

 

「ウタワカの馬名の由来は?」

「え?」

「ウタワカの馬名の由来は知っているか」

「い、いいえ」

 

古い時代となると、馬名の由来が添えられていないことも多く、インターネットやシンザン関連の書籍からはウタワカの名の由来を知ることはできなかった。

そう正直に伝えると、春一さんはこくりと頷いた。

 

「謳われるもの」

 

後世に広く、その名が謳われるほど素晴らしい馬になることを願って。

馬主が想いを込めた、最初の贈り物だった。

 

「だがアイツの名前は今やシンザンの副産物でしかない。あの名馬シンザンの同厩だった馬。それだけが、今のウタワカのすべてだ……すべてになってしまった。仕方ないことだとは分っていても」

「仕方ない?仕方ないって、なんです?」

 

ウタワカの情報がほとんど残されていない根本の理由を、春一さんは知っているようだった。

彼は覗き込むように見る私と視線を合わせると、『菊花賞の話をしよう』と言った。

 

「ウタワカはデビューから4戦4勝で菊花賞へと駒を進めた。鞍上には三年目の若手騎手を使った。テキ気に入りの新條って騎手で、才能のあるやつだったから選んだんだろう。ウタワカとの相性も良かった。だが……厩務員たちが噂していたとおり、もろいウタワカの脚では東京優駿に間に合わず、狙いを菊花賞に定めることになっていた。それまでの4戦すべてを後方からの差し込み強襲で勝ちきってきたウタワカは、遅いデビューと、同期の馬たちに比べてレース数も少なかったからか13頭中12番人気。だが人気なんぞどうでもよかった。最初にゴールに飛び込んだ馬だけが勝者だから」

 

それから一息置いて、春一さんは話を続けた。

 

「ウタワカはいつも通り後方から進める予定だった。3000メートルという長距離もあって、時計は遅めに回る。だから後方でじっと耐えて、最後に飛び出せば勝機はある。シンザンにだって勝てる見込みがある。あった。あったけど」

 

当時の菊花賞のレース映像は中央競馬会の公式サイトにも載せられている。

牝馬二冠のカネケヤキが逃げを打つところ、その二番手についたのがウタワカだった。

ウタワカは後方に控えなかった。

前へ前へと首を伸ばす姿は、あの場でみていた観客や競馬関係者のみならず、数十年経ってから動画で見た私にさえ、掛かっているのだと思わせる。

しかし春一さんはそれを否定した。

 

「確かに、俺も最初は掛かったのかと思った。けどな、あいつが二つ目のコーナーを回ったときに理解したんだ。……ああ、こいつは勝ちに行ってるんだって」

 

後方に控えたままではカネケヤキの背に届かないかも知れない。

中段で耐えても他馬のスタミナに揉まれてしまうかもしれない。

ならいっそのこと。

そういっそのこと。

前へ、前へ押し出て、先頭を走ってやろうじゃないか。

 

すべては勝つために。

 

そう語る春一さんは、少し泣きそうだった。

 

「あのレースではウタワカはいちばん体重が重かった。脚に掛かる負担は相当のものだ。逃げの稽古なんかしてないから、ずっと最大の力と速さで駆けていただろう。そんな走りをしたら脚がどうなってしまうのか。わからない馬ではなかったのに」

 

映像の中のウタワカは、ゴール手前で崩れた。

実況者の声が蘇る。

 

『おっとウタワカ落馬だ、先頭ウタワカ落馬、落馬、故障かウタワカ残り20メートルだ』

 

わずか20メートル。

されど20メートル。

 

勝ちを目指して走っていたウタワカ。

脚はどれだけ痛かっただろう。

崩れて、もつれて、でも目の前のゴールには飛び込まず、騎手を守ったウタワカ。

 

「悲鳴を上げたのは俺だけだった。他のやつらは『ああやっぱりな』って。一瞬の盛り上がりを演出して自滅したのだと指さして……っ」

 

自滅ではない。

勝つためだけの走りだった。

貪欲に勝利を目指したゆえの悲劇だった。

痛む脚を引きずって、騎手を守り通した優しさだった。

 

「一瞬息を飲んで、吐き出す頃にはシンザンが三冠馬になっていた。拍手喝采の場内で、あれほど惨めに思ったことはない。顔を覆って泣きたかった。勝つのはウタワカのはずだったと、叫んでやりたかった」

 

しかし春一さんはそうはしなかった。

ただ耐えた。

 

「中本は、せっかく担当馬が勝ったって言うのに辛気くせえ顔をする。背中をぶっ叩いてようやく笑ったんで、俺はそれを見てすぐに馬場に駆け込んだ。医者やらスタッフやらがわらわらと1頭と1人を囲んでたのを割って、ほとんど気力だけで立ってるだろうウタワカを見た。……澄んだ目をしていた」

 

暴れることなく、ただ白い汗をぶくりと泡立たせた姿で立っていたという。

倒れ伏す新條騎手を見やって、それから再び春一さんを見たウタワカは、それから間もなく予後不良と診断された。

 

「新條は頭を打って脳震盪を起こしていたが、幸い命に別状はなかった。だが予後不良と診断されたウタワカに明日はない。ウタワカは競馬場内で安楽死の処置が執られた」

 

場内は戦後初の三冠馬誕生に沸き立っていた。

シンザンの馬主はその偉業を存分に称え、中本氏も竹田氏もその喜びは隠しきれない。

ただその一室だけは、安楽死の処置を行うその一室だけは、異空間だった。

滑り込んできたウタワカの馬主は、額の汗も拭わぬまま愛馬に縋り付いていたという。

 

よくやった、お前は俺の最高の馬だ。

そう繰り返しウタワカを褒め、ウタワカもまた馬主の頬に顔を寄せる。

完全に砕け散った脚は、とうぜん酷い痛みを訴えていたはずだ。

だというのに、ウタワカは最期まで暴れることはなかったと、春一さんは静かに語った。

 

「馬主も揃い、それじゃあ処置しますよ、という段階でもうひとり、部屋に駆け込んできた。テキだった。シンザンの勝利会見を早めに切り上げ、取材陣も巻いて。『ウタワカがいるのはここか!』と叫びながら飛び込んできたよ」

 

スーツは乱れていた。

ウタワカの馬主同様、額の汗を拭うこともせず、荒く息を吐く竹田氏の姿には、その場の全員が驚き目を見開いたそうだ。

てっきりシンザンの勝利会見にどっぷり時間を使うだろう、と思い込んでいた春一さんもウタワカの馬主も、竹田氏の登場には心底喜んだという。

 

「テキもまた、横たわるウタワカに縋り付いてな。『よく夢を追った。お前はやっぱり凄い馬や、俺にも春一にも夢を見せた』って。ウタワカはそれに短く嘶きを返して、今度こそ安楽死の処置が執られた。……あの頃はな、今ほど安楽死のための薬も精度が良かったわけじゃないから、打ってすぐに馬が死ぬ、わけじゃなかった。場合によっては長く苦しむ馬もいた。ウタワカもすぐに薬が効いたわけではなく、身体全体がひどく痙攣したあとに目を閉じた」

 

最期まで苦痛を味わわせた、と春一さんは後悔の念にまみれた表情で呟いた。

それでも忘れられないのだと言う。

ウタワカが本当に事切れる寸前。

パッと目を開いて、春一さんをまっすぐ見つめてきた時の、力強い目。

 

「あれは、『俺は戦い切ったで、なんも心配はいらん』と言っている目だった。後悔のない、どこまでも澄み切った目で俺を見ていた」

 

はたして馬に感情はあるのか。

勝ち負けを理解するのか。

悔しさを、喜びを。

 

それは競馬関係者のみならず、馬に携わるものの永遠の議題だろう。

そして春一さんは『ある』と答えた。

彼が最期に見たというウタワカの、澄んだ瞳のようにまっすぐに。

 

「戦い切ったこいつに、俺はなにができるだろう。考えて、答えは一瞬だった。ウタワカの名誉回復だ」

 

ウタワカの安楽死処置が執られた後、傷心の馬主と竹田氏と共に場内を歩いていた春一さんの耳に、その言葉は飛び込んできたという。

 

『死に急ぎの駄馬』

 

それは、本来差し馬にも拘わらず逃げを選び、ゴール手前で夢を絶たれたウタワカを貶すものだった。

 

「聞いた時はわけがわからなかった。だが、理解すると同時に果ての無い怒りがわいて、一発でいいから殴ってやりたくなってな。このヤロ、と言いかけた俺を止めたのは、誰でもなくウタワカの馬主だった」

 

彼の怒りも相当なものだった。

馬主は唇を噛みしめ、うっすらと血が滲んでいたという。

それでも春一さんを止めた。

ウタワカを育ててきた春一さんに汚名を着せたくない、その一心だったのかもしれない。

次いで馬主は、竹田氏にある願い事をした。

 

「『ウタワカの名前を出さないでくれ』と。あの人はそういった。正気か疑ったよ。だけどあの人もまた、深い傷を引きずっている。ウタワカの名を誰かが貶すよりはいっそ、誰も話題にしてほしくなかったのかもしれない」

 

そうしてウタワカの名前は、京都競馬場にある竹田厩舎から始まり、他の厩舎でもタブーとなった。

いつしかそれが他の競馬場にも広まり、美浦と栗東に別れた後も続いているのだという。

 

「語るものがいなくなれば、継がれるものはなにもない。今の美浦や栗東だって、ウタワカの名前自体知らないやつのほうが圧倒的に多いし、タブーになっていることを知っていても理由にはもうたどり着けないだろう」

 

ウタワカの馬主は晩年、見舞いに訪れた春一さんにこう告げた。

 

「『ウタワカを忘れんでくれ。せめてあんただけは』」

 

もう春一さんしかいない。

日本中どこを探しても、この人だけが唯一、ウタワカの真実を知る人。

 

「……実はこれまでにも、ウタワカについて尋ねてきたやつらはいたんだよ。でもそいつらはな、何故か競馬関係者の間でタブーとなっている『ウタワカ』という馬が一体なにをやらかしたのか、を聞いてきた。中途半端に『死に急ぎの駄馬』なんて言葉だけ持ってきやがって。全部ボケて追い返してやったがな」

 

呆れたように語る春一さんに、私は思わず前のめりに質問をした。

 

「私の取材を受けるのも苦痛だったでしょう。すみません」

「あんたは純粋に知りたいって目をしていた。死に急ぎの駄馬ではなく、ウタワカという馬を知りたいのだ、と。その目が気に入ったから、こうしてぺちゃくちゃ喋ってんだ」

 

そう言って春一さんは私の肩を叩いた。

それから、真剣な表情を作ると、私に向かって頭を下げるので慌てて肩を掴んで止めた。

 

「頼みがあるんだ」

 

春一さんの声は縋り付くようだった。

 

「どうかウタワカの名前を、後世に残して頂きたい」

 

馬主との約束は破ることになる。

だが、どうしても残したいのだと春一さんは言う。

もう自分だけだった。

自分が死んだ後、ウタワカの名はどうなるのか。

この世の誰も、勝ちを目指して走り、夢を絶たれてもなお騎手を守った馬のことなど覚えていない。

あの日聞いてしまった悪意の塊が胸をついて、ウタワカの名前を守るために隠された。

しかし、残したいという気持ちを消すことは終ぞできなかった。

 

そう語る春一さんの願いに、私は頷いた。

これは記憶のリレーである。

ウタワカという1頭の馬の。

 

「これを」

 

敦さんが持ってきていた紙袋の中から、一冊のアルバムを取り出された。

古びたそのアルバムの表紙には、マジックペンで書かれたのか、かすれた文字で『ウタワカ』と書いてある。

私が不思議そうな顔で受け取ったからか、春一さんは苦笑しながら口を開いた。

 

「ウタワカの写真が入ってる」

「写真……そんな貴重なものを……」

「どうか使って欲しい。お願いします」

 

頭を下げる春一さんをなんとか宥めて、私はアルバムをゆっくりと開いた。

そこには大柄な馬と、若かりし頃の春一さんが映った写真が数枚。

あとは、当時のウタワカの観察日記なのか、今日はどのような調教をしたのか、何を食べたのか事細かに書かれたメモが挟まっていた。

それを見るだけでも、ウタワカが飼い葉をゆっくり食べる性格だったことや、砂糖がいちばんすきなこと、二番目にサツマイモが好きなことがわかるくらい、びっしりと。

 

「春一さん、最後にお聞きしていいですか」

「なんでも聞いてくれ」

 

出会って間もない時の春一さんとはまるで別人のような表情で、春一さんは頷く。

私はその言葉に甘えて、その在処を聞くことにした。

 

「ウタワカの墓はどこに?」

 

花を手向けに行きたかった。

春一さんの話を聞いたら、その気持ちでいっぱいになってしまったのだ。

 

「馬主と同じところに。……ただあの震災で何もかもなくなっちまってな。今は当時使ってた蹄鉄が京都競馬場に寄贈されてるはずだから、そこに行ってみてくれ」

「はい、ありがとうございます!」

 

会う前、春一さんの息子の敦さんは、春一さんが認知症だと言っていた。

けれど、この瞬間まで話していた春一さんにその症状はないように見える。

古く、絶対に忘れてはならぬ記憶がそうさせたのだろうか。

別れ際、安心したような表情で微笑む春一さんの姿が頭から離れない。

嬉しそうな敦さんと共に立つ春一さんに見送られ、私は青森の地を後にした。

 

春一さんが亡くなったと知らされたのは、それから丁度一週間後のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

京都競馬場にある厩舎には、古い蹄鉄が額縁に入って飾られている。

その厩舎は遠征してくる馬たちに貸し出され、その蹄鉄は馬たちの闘志を鼓舞し、無事を祈っているという。

 

その蹄鉄につけられた名は── 謳われるもの。

 

夢のゴールまで残り20メートル。

果敢に勝負を仕掛け、諦めず、戦いきった、名馬・ウタワカの蹄鉄である。

 




毎週土曜日更新。

次回、主人公(転生馬)視点。
文体も雰囲気も180度変わるのでご注意ください。
※雑誌パートだけ話としては問題ないです
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