それでも風は吹く   作:SunGenuin(佐藤)

6 / 19
『月刊「優駿たち」12月号 ── 連載:名馬の影に思いを馳せて』
執筆:遠山寛次郎
競馬史に残る偉大なる名馬たちの、その輝かしいレースの影に佇む馬に焦点を合わせ、その足跡を辿るドキュメンタリー風小説を7ヶ月に渡ってお送りします。
12月号でお送りする名馬の影は『ライブアゲイン』

あなたは、この馬のことを覚えていますか?



ライブアゲイン ── 1970年〜1974年
○炎の中に揺れる 前編


人生には『出会い』と『別れ』がある。

もちろん、馬にも。

 

「我慢強く、そして静かな馬でしたよ」

 

誕生して直ぐ母馬に蹴られた時も。

離乳して母馬から離れる時も。

他の仔馬にいじめられた時も。

調教中にソエを発症した時も。

 

その馬は静かに耐えていた。

暴れることもなく、ただじっと、じっと。

 

「あの時もね、相当痛かっただろうに」

 

私の眼前に座った神林さんからは、後悔の匂いがした。

 

 

 

 

 

 

2022年。

ウタワカについて調べていた、ある夏の日のことだ。

その厩務員であった森重春一さんとのアポイントメントが取れた私は、それとほぼ同時に他の馬について調べていた。

有り難いことに編集部が多くの資料を用意してくれていたおかげで、どの年代のどの馬を取り上げるかは、比較的容易に決まった。

この連載のコンセプトからお察しの通り、2頭目に選んだ馬も所謂『日陰の馬』である。

 

プリントアウトされた資料はA4サイズにして3枚ほど。

たった数行だったウタワカと比較すると多く感じるが、画像込みでこの枚数なのだから、情報量は現在に比較すればずいぶんと少ないものだ。

指でなぞった紙面は、その馬の半生を写すようにザラリとしていた。

 

 

 

時は1970年に遡る。

日本万博展覧会── 通称・大阪万博の開催年である1970年、日本で何が起こっていただろうか。

この雑誌を愛読する古き良き紳士淑女の皆様にとっては、過去を懐かしむ数行になるかもしれない。

前述の大阪万博はもちろん、ケンタッキーフライドチキンやマクドナルドの日本1号店が誕生するなど、欧米から吹き込んだ風が国中を包んでいたあの頃。

ボーリングブームが巻き起こり、銀座、新宿、池袋、浅草で歩行者天国が開かれ、男はカラーシャツ、女はノーブラ旋風。

上島珈琲店の缶コーヒーを片手にリーマンが街を歩いていれば、ため込んだ古紙を『ちり紙交換』に出す主婦の姿が全国各地で見られるようになった。

変革の時を迎えていた、そんな年の初め。

これから巻き起こるブームがその影を僅かばかり見せていた1月のある朝に、1頭の馬が産声を上げた。

競走馬としてはありふれた鹿毛の馬体で、生まれた時にはこれと言った特徴はなかったその馬は、後に『ライブアゲイン』と名付けられた。

新しい時代に相応しい、強き馬になることを願われて──。

 

ただ、このライブアゲインという馬は、あまりにも『運』が無かった。

生まれて間もなく母馬に蹴られたエピソードもさることながら、最も大きいのは──。

 

「生後3ヶ月で牧場閉鎖って……相当ですよ。同じフォルティノ系でも、あのタマモクロスだって当歳の頃はまだ故郷があった」

 

調べ物を手伝っていた担当編集者がそう零す。

 

『生後3ヶ月で牧場閉鎖』

 

その字面を撫でながら、私は手にしていた資料を一端手放し、しばらく思案に耽った。

何を考えていたのかといえば、ライブアゲインの血統についてだ。

ここで読者の皆様に、ライブアゲインの産まれについて軽く紹介しよう。

 

ライブアゲインの父は、1969年に日本に持ち込まれた種牡馬・フォルティノだ。

フランスの競走馬で、現役時代はアベイユ・ド・ロンシャン賞、サン・ジョルジュ賞などを勝利した。

同馬は制したレースから分る通り、スタンダードな短距離馬と言えたが、その産駒からは様々な脚質の馬が産まれている。

1963年に同国で種牡馬入りすると、67年に生まれた4年目産駒・カロがフランス2000ギニー、イスパーン賞、ガネー賞を制する等G1級の走りを見せ、その後は種牡馬としても繁栄を遂げることになるのだ。

そのほかにもヨークシャーC勝ち馬のノックロー、アイルランド1000ギニー勝ち馬のピジェット、イタリアの共和国大統領賞を制したシャムサン等の産駒を輩出。種牡馬として申し分ない実績を作った状態で来日している。

日本でもライブアゲインが生まれた5年後の1975年、シービークロスが誕生。

言わずと知れた白い稲妻・タマモクロスの父だ。

タマモクロスは天皇賞・春秋、宝塚記念等を制し、オグリキャップと共に競馬ブームを牽引。

『葦毛は走らない』と言われた時代に、それらを覆した名馬だ。

このタマモクロスが産まれる以前。フォルティノが来日した初年度の産駒であり、牧場の期待を一身に背負って生まれた馬が、鹿毛の馬体を持つライブアゲインだった。

 

ライブアゲインを生産したのは、かつては北海道・浦河町にあった麻井牧場。

所有する牝馬の大半がサラ系── 所謂、血統書紛失等で血統が定かではない馬が多く、そのため生まれる仔もまたサラ系がほとんど。

その中でもライブアゲインの母馬である『小梅』は、遡れば新冠御料牧場で供用されていた繁殖牝馬・クレイグダーロツチに行き着く牝系で、血統的に間違いなくサラブレッドと言えた。

 

クレイグダーロツチ牝系と言えば、特に有名なのは名牝・スターロツチだろう。

5代母にクレイグダーロツチを持つスターロツチは、孫に皐月賞馬・ハードバージ、ひ孫に名種牡馬となるサクラユタカオーを輩出した。

また、サクラユタカオーの半姉・サクラスマイルが生んだサクラスターオーは、皐月賞と菊花賞の二冠馬だ。

今日では『クレイグダーロツチ牝系』ではなく『スターロツチ牝系』と呼ぶ方がスタンダードなのだろうか。

ライブアゲインの母馬である小梅は、このスターロツチとは異なるクレイグダーロツチ牝系だった。

小梅の祖母がクレイグダーロツチの1940年産 ── 父・月友であるため、血統表でみればライブアゲインから4代母にクレイグダーロツチがいることになる。

 

小梅自体は競走馬として目立った活躍はなく、既に5頭の馬を産んでいるがいずれも不幸に見舞われ早逝していた。

血統は良血と言える部類であるだけに、小梅を所有する麻井牧場としては、なんとしてでも小梅に名のある種牡馬を付け、その仔を大成させたかったのだろう。

そうして白羽の矢を立てられたのがフォルティノというわけだ。

 

私は再び資料を手に取った。

『生後3ヶ月で牧場閉鎖』の文字の続きを指でなぞる。

 

麻井牧場は、戦前から続く古式ゆかしい小牧場だったとされる。

これといった活躍馬はなく、ゆえに常に資金繰りに苦しんでいる状態だったが、戦前から続くだけあってその人脈は確かだったようだ。

なんとかフォルティノを小梅に付けることに成功し、ついに待望の牡馬が生まれることとなる。だがライブアゲインが生まれた時点で麻井牧場は多額の負債を抱えており、それ以上馬産業を続けることは困難だった。

ついには1970年3月。

奇しくも大阪万博が開かれた同日に、麻井牧場は所有していたすべての馬、土地を手放し、その歴史に幕を閉じることとなった。

 

担当編集者がタマモクロスの名前を出したのは、2頭がどちらもフォルティノ系だったこともあるが、何より牧場の行く末に所以するのだろう。

タマモクロスを生産した牧場もまた、タマモクロスの成功を待たずして閉場したのだから。

 

わずか生後3ヶ月で産まれ牧場をなくしたライブアゲインは、それからは近隣の牧場で世話をされた。

麻井牧場で彼の世話を担当していた青年が、そのまま住み込みでライブアゲインを世話していたという。

そしてしばらくすると、その青年と母馬と共に、同じ浦河町にある谷畑牧場に所属を移すことになった。

 

谷畑牧場と言えば、1973年の日本ダービーを制したタケホープや、1981年の菊花賞馬・ミナガワマンナ、近年だと2009年フェブラリーステークス覇者のサクセスブロッケン、2021年の小倉2歳ステークス勝ち馬であるナムラクレアらの生産牧場として知られる。

それと同時に、あの五冠馬・シンザンや、その仔・ミホシンザンらが種牡馬として繋養されており、ライブアゲインが生産された1970年時点で、シンザンは現役の種牡馬としてこの谷畑牧場で繋養されていた。

麻井牧場の牧場長と、この谷畑牧場の若きオーナーが先代からの付き合いだったことが、ライブアゲイン受け入れに大きく作用したのかもしれない。

 

 

 

ここまでで既に資料の1枚目の半分を読み終えていたが、私は2枚目に手を伸ばした。

1枚目の下半分がライブアゲインの血統表と、麻井牧場の跡地写真だったからだ。

更地となってしまった牧場跡地をしばらく眺めた後、私は2枚目を読み始めた。

 

2枚目は、谷畑牧場に移動した当日の出来事から始まる。

それは1971年の暮れのこと。

その時ライブアゲインは、もうすでに2歳(現・1歳)となっていた。

ここからは、特に注釈がない限り、当時の馬齢で記載する。

 

新たに加わる仲間を迎えた谷畑牧場のスタッフは、馬運車から降りてきた馬を見て、こう叫んだという。

 

「タケホープ!?」

 

これに驚いたのは、ライブアゲインの手綱を握っていた世話役の青年だった。

青年が手綱を握っていたのは間違いなくライブアゲインである。

当時のライブアゲインはオーナーも決まっておらず、それゆえに競走馬名もついていなかった。

この時の呼び名は、母・小梅から一時取って『梅太郎』だったとされている。

戸惑いを隠せない青年は、谷畑牧場のスタッフに「これは梅太郎と申します」と何度も説明したそうだが、谷畑牧場のスタッフにも、タケホープと叫んだ理由があった。

双方の混乱が落ち着かぬ中、最初にタケホープと叫んだ谷畑牧場のスタッフが、ある1頭の馬をつれて戻ってきた。

その馬を見て、今度は青年が叫ぶ。

 

「梅太郎!?」

 

それから2頭の馬を並べるとあら不思議。

鹿毛の色合いから馬体のシルエットからなにまで、2頭は瓜二つだったのだ。

 

気軽に写真を送り合う習慣などなかったその時代、谷畑牧場のオーナーもスタッフも、やってくる馬の顔など知らなかった。

だから自家生産のタケホープとあまりにも良く似たライブアゲインに、腰を抜かすほど驚いたのだろう。

騒ぎに呼ばれたオーナーも驚いて何度も何度も2頭を確かめに来た、と当時の厩務員の日誌に残されていた。

 

2022年現代でも、雰囲気の似ている馬同士と言うのは、稀だが確かにいる。

たとえば『浦河優駿ヴィレッジALL』で余生を過ごしている2頭が、その一例として有名だろうか。

2007年の高松宮記念を制したスズカフェニックスと、ジャパンカップダートや川崎記念を制した砂上の名馬・タイムパラドックスのことだ。

スズカフェニックスはサンデーサイレンス系で、タイムパラドックスはロベルト系。

血統は異なるが、2頭はまるで双子のようによく似ていた。

とはいえ、馬体のシルエットや流星の大きさなど、見分けることはそう難しくはないだろう。

しかし、ライブアゲインとタケホープに関しては、それが困難と言えるほど似ていた。

それはライブアゲインが誕生してから入厩するまでの間、毎日世話をしていた青年が戸惑うほどに。

だが瓜二つだからといって育成に大きな支障が出ることはない。

ただ困ることがあるとすれば、今どちらを育成したのかと担当者が首を傾げるくらいだった。

それも工夫を凝らせば、大きな問題にはならなかったという。

 

前髪を赤い紐でちょんまげのように結われたのがライブアゲインで、何もされていないのがタケホープ。

そのようにして2頭を分けていたことが、添付されていた写真から伝わった。

 

このように、当時は『不思議な偶然』『面白い巡り合わせ』と楽観視されていたこの出来事も、後の事を考えれば、偶然とは言い切れないのかも知れない。

結末を知っている私は、続きを読むこともできないまま、しばらく黙って写真を見つめた。

ぼやけたカラー写真には確かに、赤い紐で鬣を結った馬が1頭、静かにこちらを見ていた。

 

── ライブアゲインとタケホープの出会い。

私は、これこそが、彼の2つ目の不運だったのではないかと、思わずにはいられなかった。

 

 

 

ライブアゲインが谷畑牧場で育成された期間は、実はそう長くはない。

すでに2歳となっていたこともそうだが、ライブアゲインは聞き分けがよく、育成では手がかからなかったためだ、と記されている。

だが唯一、育成担当者が頭を悩ませたエピソードがあるという。

 

ライブアゲインが谷畑牧場にやってきてから初めて放牧された時のことだ。

タケホープたち同世代の仔馬の群れに連れ出されたライブアゲインは、馬房に引き上げる頃にはトモにいくつかの擦り傷を負っていたとされる。

どうやら放牧中に他の馬に蹴られたようだった。

それがどういうことかと言うと、つまり、ライブアゲインは他の仔馬からいじめられていた、と言うことだ。

他所の牧場から来た、ということがわかるのか、それとも他に理由があるのか。

追い運動にも疲れを見せず、強靱な肉体を持つタケホープが群れの中心を行く一方で、ライブアゲインは群れに混ざらずいつも最後尾をのんびりと歩いていたという。

ライブアゲインが群れに近づくと他の仔馬が攻撃しようとするので、それから逃れるためでもあったのだろう。

ただ唯一、タケホープだけがライブアゲインを気にするような素振りを見せていた。

やんちゃ盛りの2歳馬は度々喧嘩も起きるが、ライブアゲインが他馬から攻撃されると、タケホープがすかさず割って入ることもあったそうだ。

その記述を見る限り、見た目は「はてどちらがタケホープだったか」とスタッフが頭を悩ませる2頭だったが、性格はまるで違うようだと私は思った。

 

結局ライブアゲインは、谷畑牧場を出るその日まで群れに馴染むことはできず、最後まで1頭のままだったという。

救いがあるとすれば、ライブアゲインは他馬に無関心なタイプだったことだろう。

これから経験する数多の挫折に対し、ライブアゲインは走り続けたその根本には、この出来事によって培われたメンタリティがあったのかもしれない。

 

 

 

2枚目の紙を横に置いた時点で、私ははたと気づいた。

次が最後の1枚。

まだ入厩すらしていないというのに、あと1枚だという事実に、私は胸騒ぎを抑えながらも文字を読み進めた。

 

3枚目はライブアゲインの入厩の話から始まった。

谷畑牧場で過ごしてからさらに時が過ぎて1972年。

3歳となったライブアゲインは、タケホープと共に東京競馬場にある稲羽厩舎に入厩。

この時、谷畑牧場から輸送された2頭はどちらも名前入りの赤い手綱をつけていたそうだ。

だが入厩してからしばらく経った頃、稲羽調教師によって黒い手綱はタケホープ、赤い手綱はライブアゲインと分けられた。

ライブアゲインの鬣を赤い紐で結ぶだけでは、2頭を適切に見分けるのは困難だと判断したのだろうか。

わざわざ牧場関係者を東京競馬場まで呼び寄せ、馬の見分けをさせてから手ずから手綱を付け直したというエピソードが、資料の中頃に佇んでいた。

 

それからさらに数ヶ月が経ち、あれほど見分けがつかなかった2頭も、ある一点で大きく見分けがつくようになった。

その一面が何かと言えば、戦績だ。

 

「3歳時点で3回、療養の名目で長めの放牧に出されてますね」

 

1回目はソエで、2回目は擦り傷で、3回目は蹄の調子が悪く。

調教も新馬戦も上々の出来だったタケホープと異なり、ライブアゲインの競走馬生活は、もっぱら怪我との戦いとなった。

前述した3回の療養に始まり、特に蹄のヒビ割れや熱発などに悩まされ、とにかく手の掛かる馬だったことが紙面の情報からも伝わる。

谷畑牧場時代は『手がかからない』とされていたのは、あくまで育成段階では、と言う話だったようだ。

出走、レースに出すための調教には、その身体はやや脆いと言えた。

それでも入厩した同年、3歳の冬── ようやく調子を整えることができ迎えた新馬戦。

出走にこそ漕ぎ着けたものの、ここでも運の無さが出たのか競走中に落鉄し4着。

そこから未勝利戦を4戦重ねて、初勝利となった5戦目を迎えたのは、4歳の8月のことだった。

 

度重なる怪我と戦いながらも未勝利戦を脱したのだから、ライブアゲインもよく走ったものだ、と私は思う。

夏の未勝利戦を勝ち上がれずに散っていく、数多の同世代と比べれば、その力強さは評価されるべきだ。

 

だが、ライブアゲインがようやく1勝を得たこの頃、共に育ったはずのタケホープは、すでに日本ダービーを制して世代の頂点に君臨していた。

瓜二つと言える容貌で、共に育ちながらこの戦績差。

怪我さえ、体質さえ丈夫ならば。

2頭の間に広がった大きな差を縮めることはできたのだろうか。

タラレバでしかないそんなことを考えながらも、同時に、僚馬であったタケホープについて思いを馳せた。

 

資料を見る限りでは苦労の多かったライブアゲイン。

それに比べればタケホープの競走馬生活は、まずまず順調と言えただろう。

しかし、この馬にもまったく苦難が無かったのかと言えば、そうではないと私は思った。

 

資料を読み進める前に、1973年のクラシックについて少し触れようと思う。

ライブアゲインが挑むことさえ叶わなかったクラシック三冠戦。

特にこの世代のダービー馬であり、ライブアゲインと共に過ごしてきたタケホープについてだ。

 

ここまでの資料を読む限り、ライブアゲインという馬は、生後3ヶ月で産まれ牧場を無くし、移動先の牧場では顔そっくりの馬がいて、他の仔馬にいじめられ、競走馬としてデビューすれば怪我と虚弱に悩まされ、他馬に間違われて罵詈雑言を浴びせられる、とんでもない不幸まみれの馬だ。

お世辞にも幸福に満ち足りていた、とは言えないだろう。

そんなライブアゲインと対比になるように、タケホープは恵まれているほうだと言っても良い。

 

しかしタケホープにとっての不運があるとすれば、それは同世代に『怪物』ハイセイコーがいたことだ、と言わざるを得ない。

 

JRAポスターヒーロー列伝コレクション。

その記念すべき1枚目に躍り出て、誰もが夢を託したと言われる、日本競馬史上最初のアイドルホース。

地方からやってきた良血馬。そのエピソードに枚挙の暇無しと言われた怪物『ハイセイコー』が、タケホープの行く道にいた。

タケホープの母・ハヤフブキはビューチフルドリーマー系に属し、現役時代は4勝を挙げる活躍馬。

父・インディアナはセントレジャーステークスの勝ち馬で、長距離血統ならではの豊かなスタミナはこの父譲りだろう。

半姉・タケフブキがオークスを優勝した1972年の夏、デビュー戦を完勝。

期待の良血として、その後も申し分ないレースぶりを見せてくれるかと思えば、タケホープはまさかの連敗で3歳シーズンを終えることになる。

年が明けて4歳になってから2勝目を挙げたタケホープは、そこから東京4歳ステークスと弥生賞に出走し、皐月賞の優先出走権を目指した。

だがどちらも勝利するには至らず、弥生賞ではハイセイコーに敗北。

皐月賞への出走を断念し、休養に入った。

休養明け、4歳中距離特別に出走すると、ここを勝ち上がり東京優駿への切符を掴む。

この時点でタケホープは9番人気。約66パーセントの支持率を集めて1番人気だったハイセイコーには遠く及ばなかった。

しかし、タケホープは東京競馬場で力強く舞い、勝利を掴む。

それまで積み上げてきた調教と、丈夫な馬体を誇示するような力強い勝ち方だった。

 

だが当時の競馬ファンからすれば、タケホープのこの勝利は、まったくの想定外といっていいだろう。

まばらで冷ややかな拍手に出迎えられたタケホープに、稲羽厩舎を始め関係者からも「なんだか申し訳ない」という声さえ漏れたという。

レース前、稲羽調教師はそれなりの勝算があると語っていた。

だが誰も、調教師ですら、人気のハイセイコーを3着に下すほどの勝ち方をするとは、想像すらできていなかったということだろう。

ただひとつ、稲羽調教師が頑として認めなかったことがあるとすれば、タケホープの勝利がフロックだと言われていたことだ。

 

「フロックなんかではない。正真正銘の実力が、あの場面、最高のタイミングで発揮されたのだ」

 

そう稲羽調教師は力強く語っていたと、タケホープに関する書籍の多くに記されている。

フロック評価を覆す為に挑んだ菊花賞での、あのハナ差の突き出しは、その悔しさから湧き上がったのかもしれない。

 

しかし陣営がどう思っていようと、ハイセイコーの一部のファンからタケホープは親の敵もかくやと言わんばかりに憎まれていた。

どうしてこんな馬が、とタケホープが東京競馬場で調教されていればヤジが飛んだと言われている。

栗東や美浦といったトレーニングセンターがなかった時代だ。

各競馬場に所属する馬たちは、その調教も競馬場内で行われている。

見ようと思えば入ることができ、そして過激なファンは時と場所を選らばない陰湿さを兼ね備えているものだ。

飛び交う罵詈雑言は、とても文字に書き起こせるようなものではなかっただろう。

そしてこのヤジを受け止めていたのがタケホープではなく、タケホープに見た目がそっくりだったライブアゲインだったことは、この資料を読むまでは知らなかった。

 

日本ダービーが終わった頃、タケホープは菊花賞に向けて東京競馬場で休養を取っていた。

主に厩舎での生活であり、馬場には出ていなかったという。

その時に競馬場内で調教をしていたのは、8月の未勝利戦に向けて調整中のライブアゲインだった。

身近にいる厩務員でさえ見分けが付かない2頭のことを、一般人が見分けられるはずも無い。

当初は「自分たちのことではないから反応しない」と努めていた陣営だったが、やはり我慢の限界というものはある。

連日続く謂れの無い罵倒にうんざりしたライブアゲインの担当厩務員によって、ライブアゲインの調教も一時的に休止、と資料には追記されていた。

その際、ライブアゲインの担当厩務員は「ハイセイコー人気はなんて恐ろしいんだ」と同僚に零していたそうで、それを横で聞いていた稲羽調教師もしきりに頷いていたと言う。

 

 

 

タケホープの代わりにヤジを飛ばされながらも未勝利戦を勝ち、僚馬が菊花賞に挑むその裏で2勝目を挙げたライブアゲインは、さらにもう1戦挟んだあと、そこから長期の休養放牧に入った。

蹄の調子が悪化したためだという。

 

放牧に出される際には、有馬記念を回避したタケホープも共に休養のため北海道へ。

どうして2頭共に休養に入ったのかと言えば、実はタケホープは、ライブアゲインが居なければ長距離輸送にめっぽう弱かった、というのだ。

その証拠に、菊花賞のために共に京都競馬場に入った際は元気だったタケホープが、1頭で東京に帰厩する際は酷くさみしがって泣き、馬体重は大幅に減ったという話が、当時の厩務員の日誌に残されている。

どうして帰厩する際にライブアゲインが居なかったのは、その中1週で京都競馬場のレースに出走するためだったそうだ。

これ以降2頭は遠征する際、行きも帰りも一緒に移動することが決まり、それはライブアゲインが亡くなるまで続いた。

 

 

 

そこまで読んで、私は手を止めた。

残るのは数行のみだ。

その数行を読むことを躊躇っていた。

だが、ここで止まっていてはどうしようもない。

わたしは人差し指で紙面をなぞりながら、声も出さずにその一文を読んだ。

 

『1974年11月11日 焼死』

 

タケホープの引退レースとなる有馬記念は1974年12月25日開催。

その同日の4歳以上レースでライブアゲインも引退することになっていたようだ。

5歳になったライブアゲインは、若い頃に比べて体調が悪化するスピードが上がったそうで、これ以上の活躍は望めないと判断されたのだろうか。

だがラストランまであと2ヶ月という段階で、ライブアゲインの調子はかつてないほど良かったと記されている。

 

ラストランまで順調に進む調教。

そして残り1ヶ月。

短期放牧に出たその先で、ライブアゲインに何が起きたのか。

 

それを知ることが、ライブアゲインという馬への最大の手向け花になると思った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。