それでも風は吹く   作:SunGenuin(佐藤)

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〇炎の中に揺れる 後編

季節は秋だった。

あのウタワカの一件から約3ヶ月。

森重春一さんと、そのご子息である敦さんの協力を経て、私はあるひとりの男性とカフェテラスで顔を合わせることができた。

 

「神林太一と申します」

 

グレーの頭髪にクラシカルなスーツに身を包んだ初老の男性は、谷畑牧場のスタリオンスタッフだったという。そしてその前は麻井牧場にいたそうだ。

つまり神林さんは、幼少期のライブアゲインと共に過ごしていた、あの青年ということになる。

 

「麻井牧場に勤めだしたのは15歳の時ですかね。家族と折り合いが悪くて、家出同然で麻井牧場に住み込みで働いてたんです。梅太郎……あ、ライブアゲインに出会ったのは、そうですね、18歳くらいの時ですか。牧場の経営がギリギリなのは知ってました。私も寝床と三度の飯以外はほぼ給料なんてなくて。このまま大丈夫なのかな、と思ってたんですけど、案の定ですよね」

 

苦笑いを浮かべながらも、神林さんの語り口は軽妙だ。

人好きのする穏やかな目元には、不思議と安心感を覚えた。

 

ちなみに『梅太郎』というのはライブアゲインの幼名で、神林さんが名付け親だそうだ。

小梅の仔で牡馬だったから「梅太郎」にした、と。『結構気に入ってるんですよ』と付け足した神林さんの表情は、懐かしさを帯びていた。

 

「ライブアゲインは谷畑牧場に行くまでの間、近隣の牧場でお世話になっていたとか」

「ええ、はい。あの牧場さんももうないので、牧場名を出すのは差し控えますが。他の馬たちも散り散りに売られていって、ライブアゲインと小梅、あ、ライブアゲインの母馬ですね、この2頭は幸運な方ですね。ただその牧場さん、働き手が足りないってんでライブアゲインたちの世話にまでは手が回って無くて、そこを、ええ、そこを私が入り込んだわけですよ」

 

寝床と三食の飯さえあればかまわないので雇って欲しい。

そう言って神林さんはその牧場で住み込みで働くようになったという。

与えられた寝床は、ライブアゲインとその母・小梅が住む馬房の横だというから、大変な苦労が伺え知れた。

だがそんな私に対して、神林さんは首を横に振った。

 

「苦労なんてとんでもない。ライブアゲインの様子がすぐにわかるんですから、これほど楽なことはないですよ。それに、住めば都って言うでしょ。ライブアゲインも小梅も静かだったから、結構快適でしたし。それに慣れてしまったせいで、谷畑牧場に移った後の方が大変でしたね。なんと屋根付き壁付き布団付き!厩舎から離れてるせいでライブアゲインのいびきも聞こえなくて、あれには困りました」

 

冗談交じりにそう言って、神林さんはアイスコーヒーに口を付けた。

季節は秋だが、取材当日は冷え込んだ11月。ホットコーヒーじゃなくて良いのかと尋ねると、神林さんは「熱いのは嫌いでして」とやんわりと断った。

それからケーキセットをひとつ頼むと、私に向き合って尋ねた。

 

「それで、ライブアゲインについて何が知りたいのでしょうか」

 

私はまず、ライブアゲインの幼少期の様子が知りたかった。

編集部がまとめてくれた資料には、谷畑牧場に入る前のライブアゲインの性格に関する情報はほとんど残っていない。

だから、当歳はどんな馬だったのか、生まれた時から入厩するその瞬間までそばで見てきた神林さんの、その目から見たライブアゲインが知りたかったのだ。

私の質問に対して、神林さんはしばし考え込むような表情を浮かべたが、にっこりと笑うと再び口を開いた。

基本的には谷畑牧場にいた時と変わっていないらしい。

ただひとつだけ、強調するように、そして思い出に浸るように声色を強めた。

 

「静かな馬でしたね。それも、恐ろしいほど」

 

歩き方も、食べ方も、何から何まで静かだったという。

滅多に嘶くことはなく、動き回ることもほとんどなかった。

ただその場でじっと立ち、乳が飲みたければ母馬の背後に回って静かに吸う。

吸い終わればまたじっと立ち、寝転ぶ時さえあまり音がしなかったと神林さんは続けた。

 

「離乳の時もアッサリしてて。小梅の方が可哀想なくらい鳴いていた。親の心、仔知らずっていうんですかね。仔馬の群れに放しても交ざってくれないし。でも追い運動をさせればキッチリ走ってくれるんですよ。これは谷畑牧場のスタッフからも言われたんですけど、良く言って世話しやすい、悪く言うとつまらん馬ってね。……ただ私が思うに、ライブアゲインは他馬よりちょっとばかし精神が大人だっただけ、なんですよ。達観してるというか、自立心が強いというか」

 

その自立心の強さは、怪我をした時に強く現われた、と神林さんは繋げた。

 

「馬っていう生き物は、怪我したってことをストレートに伝えてくるやつってほぼいないんですよ。野生の本能なんでしょうかね。なるべく隠そうとする。でもライブアゲインは割と素直に言うタイプで、治療が始まった後もじーっと耐えるんです。普通の馬だったらストレスで疝痛になってしまいそうな治療法でも、長い間我慢できる馬だったんですよ。……だからかなあ。怪我しやすい割には、治りもそこそこ早かった。そもそもがストレスに強い馬だったのかもしれません。我慢強い、って言ったらいいんでしょうか。ゲートで苦労したことも、集団に揉まれて掛かったこともない、って稲羽厩舎の厩務員さんからは聞いてましたけどね」

 

懐かしむような、過去を振り返る声色でそう言った神林さんは、一転して明るい口調で話始めた。

谷畑牧場に移動したあとの話だ、と言う。

 

「タケホープを初めて見たときは、そりゃあ私も驚きましたよ。ライブアゲインがもう1頭いる!って思ってしまって、何度も何度も、自分が握っている手綱の先を確認しました。間違いなくライブアゲインの手綱を握っていたのですが、谷畑牧場のスタッフさんが連れてきたタケホープとほんと、似てるんですよね」

 

1971年の暮れ。

谷畑牧場に降り立ったライブアゲインは、そこで僚馬となるタケホープと対面を果たした。

2頭共に鹿毛の馬体で、その色合いからシルエットからなにまでよく似ていた、と神林さんは肯定する。

 

「並べると鏡写しのようで、私は『まずい、ここで手綱を放したらどっちがライブアゲインか分らなくなる』と思って手綱が手放せませんでした」

 

産まれてからずっと側にいた神林さんでさえそう思ったのだから、谷畑牧場のスタッフの焦りも想像できた。ここで私は、資料に記載されていたあの写真を思い出した。鬣を赤い紐で結ったライブアゲインの写真だ。資料の通り、あの赤い紐は、2頭を見間違えないためにつけられた大切な印だったのだ。

私はここで、ふと疑問に思ったことを尋ねてみることにした。

 

「赤い紐等で区別できるとはいえ、実際にライブアイゲンとタケホープを間違えたことはないのですか?写真を拝見させていただきましたが、とてもよく似ていたので……取り違えのようなことは?」

「それは……そうですね、1度だけ。ただ谷畑牧場さんで取り違えだったりの事故はなかったですね。稲羽厩舎に入厩した後も、赤い手綱がライブアゲインで黒い手綱がタケホープだと区別されてたみたいなので」

 

逆に言えば、そういった区別をつけるためのアイテムがなければ見分けるのも困難、というわけだ。ライブアゲインとタケホープの白黒写真を並べると、色が2種類しかない分、見分けるのはとても困難だった。少なくとも私には不可能だ。

そう考えれば、当時の関係者が手を尽くしていたことがよく分った。

 

 

 

私は神林さんから当時のライブアゲインの写真を数枚見せて貰った。

編集部に用意してもらった資料ともまた違う、どれも貴重な写真だ。

すべて谷畑牧場で撮られたものだと言うが、その中に紛れ込んでいた1枚の絵はがきには、1頭の仔馬が柵にもたれかかって寝ている姿が描かれていた。

これは何か、と聞くと、当歳時のライブアゲインを描いたものらしい。

麻井牧場に勤めていた牧夫の多くは近隣農家の三男や四男以下で、これはその内の画家志望だった男が描いたものだそうだ。

勤め先がなくなった後、散り散りになっていく牧夫達の中で神林さんだけが浦河町に残ると知って、餞別に渡されたという。

音のない絵の中で、ライブアゲインは穏やかそうな寝顔で描かれていた。

 

「誰も彼もが、生後3ヶ月で生まれ故郷を無くした馬を哀れんでいたんです。ついでに、そんな馬にひっついて浦河町から離れない私のこともね。……絵はがきもそうですが、育成の指南書や何やら、いろんなものを置いていって。サッポロでもトーキョーでも、走らせるなら連絡寄越せよ、なんて。私が走らせるわけじゃないっていうのに」

 

呆れ半分の表情を見せながらも、思い出に浸る神林さんは嬉しそうだった。

ライブアゲインに運の良いところがあるとすれば、それは人情に厚い牧夫たちと巡り会えたことだろう。

私は漠然とそう思った。

 

 

 

そこからしばらく、神林さんが頼んだケーキをつまみながら私たちは雑談をした。

神林さんの口からはポンポンとライブアゲインとの思い出が飛び出す。

初めて仔馬の群れに送り出した時。歴戦の古馬のように堂々と放牧地に立っていたこと。

牧場を転々としていた時。どこに移動してもまったく動じなかったこと。

神林さんが体調不良で他のスタッフが担当に変わった時。いつもと変わらず過ごしていたこと。

 

「人慣れしていたんですね」

「いや……むしろ逆、ですかね」

 

神林さん曰く、ライブアゲインは人に興味がなく、飼い葉を要求するとき以外は近寄りもしなかった、と苦笑いを浮かべた。

それでも『いつも世話をしているのは神林さん』だと認識していたらしく、側に人間が2人いれば、必ず神林さんを選んで近づいてきたという。

 

「普段は素っ気ないけど、いざという時は必ず私を選ぶ。そういうところが愛らしかったんです。甘えられたことはないけど、信頼されてはいるのかな、と」

 

ライブアゲインにはこんなエピソードがある。

谷畑牧場では、ライブアゲインとタケホープは分けられて育成されていた。

赤い紐等で区別されていたとはいえ、育成スタッフが混乱しないようにするための仕様だったとされている。

だが日によっては時間ごとに分けることも難しく、何度か同じタイミングで育成されたそうだ。

 

「とはいえ、スタッフもきっちり指導されてますんでね。例えば2頭を取り前違えて、タケホープに2倍稽古させるとか、ライブアゲインに2回飼い葉を食わせてしまうとか、そういった直接的な事故はなかったです。……でもあれは、私も驚きました。今でも懐かしい思い出のひとつとして、谷畑牧場時代の同僚に会うと酒のつまみになりますよ」

 

それはある日の話だ。

共に育成を終えたライブアゲインとタケホープは、青ざめたスタッフに連れられて厩舎まで戻ってきた。

当時はともに赤い手綱をつけていた2頭。ライブアゲインだけが、赤い手綱に加えて赤い紐で前髪を結っていた。

だがその時、乗り役が降りてしばらく経ってから紐がないことが判明したため、スタッフたちは青ざめていたのだ。もちろん、神林さんも例外ではない。

どっちがライブアゲインだ、どっちがタケホープだ。

当時の育成の成長具合から2頭に与える飼い葉の量は異なっていたという。

訓練を終えた2頭は疲れ切っていたが、見分けるまでは馬房に戻すこともできない。

だが立ち姿の2頭を見分けることは非常に難しい。

慌てふためくスタッフたちを横目に、1頭の鹿毛馬が歩き出した。

 

「私の前まで来ると、じっと立ち止まったんです。それで、あ、こいつだな、って」

 

目の前まで歩いてきた鹿毛馬と見つめ合った後、何かを思いついた神林さんは厩舎に駆け込んだ。

そしていつもライブアゲインに与えている飼い葉を手に戻ると、鹿毛馬の口元に近づける。

すると馬は黙って草を食んだ。

一方、もう1頭の馬の前に草を出すと、小さく鳴きながら食べはじめる。すべて食べ終えると機嫌良さそうに嘶いたそうだ。

それを見て他のスタッフも納得したという。

 

「何せライブアゲインは、谷畑牧場に移動してから1度も鳴いたことがないんです。それくらい静かな馬だってことをみんな知っていたから、どうにかなったんすよね」

 

それからは2頭の手綱にネームプレートが付けられたそうだ。

以降は『どっちがタケホープだ、ライブアゲインだ』と悩むこともなく、時は1972年。

2頭は揃って東京競馬場にある稲羽厩舎に入厩した。

 

「ライブアゲインは人もそうなんですけど、馬にも興味なくてね。タケホープは昼夜放牧とか育成が一緒になると絡んでくるんですけど、いつもそれを流すんですよ。無視はしないけど、そんなに興味もない、みたいな」

「クールな性格だった、と?」

「上手く言えばそうですね!悪く言うと……結構自己中心的だったかも」

 

基本的に自分がしたいことをしたいようにする、そんな馬なのだと神林さんは苦笑いで続けた。

 

「でも無茶だけは決してしない馬でした。自分がどこまでやれるのか、どこまでやっていないのかを理解している。頭の良い馬でもあったんです」

 

そこから話はライブアゲインの現役時代に移った。

入厩した後のライブアゲインのことを、神林さんはすべて知っているわけではない。そう前置きして、当時の担当厩務員や調教師らから聞いたこととして、いくつか教えてくれた。

 

「ライブアゲインは、当歳の時からそうだったんですけど、体質的に強い馬では無くて。育成時もよく怪我をしては療養に入って、なかなかスムーズにはいかなかったんですよね。入厩してもそれはかわらなかった。怪我をして、休んで、また育成して、怪我。休んで、育成して……を繰り返してきた」

 

馬の中には、調教中に怪我をするとそれを学習し、次から調教を嫌がるタイプもいるらしい。

痛みと出来事を結び合わせることができている、ということだ。

実はライブアゲインもこのタイプで、育成時は自分が転んでしまった溝の手前で停止したこともあるという。

普通、それを繰り返していれば自然と人間が乗ること自体を嫌がりそうだが、ライブアゲインはそれでも何度でも人を背に乗せ、調教を受け続けた。

 

「立ち止まることは多いけど、その分だけ何度でも歩き出せるやつだったんです。馬名のように」

 

誇らしげな表情の神林さんが、ライブアゲインの初勝利となった未勝利戦の話を始めた。

 

「1973年の8月。場長に無理をいって休みを貰ってね。札幌競馬場でした。ダートの1800メートル。雨の降る不良馬場です。こんな、滑ったらひとたまりもなさそうなレースで走るなんて、って思ったんですよ。でも、それがほぼラストチャンスみたいなものでした。未勝利戦はどんどん少なくなってましたから」

 

悪天候の中、ライブアゲインの背にはタケホープの主戦騎手である嶋原騎手が騎乗した。

冷たい雨に打たれながら走る砂の1800メートル。

その時のライブアゲインは療養開けて中1週。まだろくな調教もできていない中、一縷の望みを掛けた出走だった。

ぬかるんだ馬場でレースは当然のスローペース。

溜まる先行集団の中に埋まりながら、ライブアゲインは前を伺っていた。

 

「ラスト200メートル。先頭は福富洋壱騎手が操るシュウエイローザ。そこから四番手にいたライブアゲインは、末脚を爆発させて一気に上がったんです。わずかハナ差。劇的な勝利ではありませんでしたが、未来に続く希望の1勝でした」

 

神林さんが目を閉じる。その瞼の裏に浮かぶ情景は、きっと今も色褪せない美しいものだろう。

ライブアゲインは生涯で1度も重賞レースに出走した経験がない。そのため、走ってきたレースが映像として残されていない。

だから私も、今日こうして神林さんから話を聞くまでは、ライブアゲインの走りを想像すらできなかった。

だが今。たった今。神林さんの口から溢れ出る言葉のすべてに、ライブアゲインの疾走を感じた。誰かが叫び挙げた歓声の隙間に、雨を纏う1頭の鹿毛馬が、確かに見えたのだ。

それまで丹念に世話をしてくれた神林さんの眼前で、それに報いるように踊る四肢。

幾たびの怪我を乗り越え、立ち上がり続けた先で掴んだ1勝は、単なる未勝利戦以上の輝きを放ったに違いない。

少なくとも神林さんにとっては、ライブアゲインが勝ち上がったそのレースは、ダービー以上の価値だった。

 

「戦績だけ見れば、そりゃあ、ライブアゲインは名馬とは呼べないかも知れません。でも、私の中では名馬です。私だけの名馬」

 

そのワンフレーズにどれほど胸を打たれただろう。

 

『私だけの名馬』

 

それは、歴史に名を遺すことなく、それでも確かに走り抜けたすべての馬に捧げる、金言に思えた。

 

 

 

アイスコーヒーを飲み干した神林さんは、さて、と真剣な表情を作った。

ライブアゲインの未勝利戦から話は進み、タケホープの菊花賞制覇の裏側で2勝目を挙げたこと、そして苦難の5歳時。

怪我をしてもそのたび何度でも這い上がってきたライブアゲインは、5歳にして限界を迎えた。

 

「今までとは明らかに傷の治りが遅くなっていました。これはもう、大怪我をする前に引退させるべきだって話になってたんです。その当時は日本ではまだそれほど数のいないフォルティノの直仔ですから、重賞勝ちはないけれど繁殖入りさせる話も持ち上がってたんですよ」

 

1970年代。

それは、多様な種牡馬が共存していた時代。

ウタワカの項でも紹介したように、その父であるライジングフレームは競走馬としては成功者とは言えない。だがその良血ぶりで種牡馬入りし、セイユウやオーテモン、ヒシマサルらを輩出したのだ。

それだけではない。現役時代は10戦1勝のネヴァービートや、11戦5勝のテスコボーイなど、完璧な戦績ではないが、その良血を買われて日本で種牡馬入りした海外馬は多くいた。

特にテスコボーイは、日本の近代競馬を語る上で欠かせない重要な種牡馬だ。

長距離に重きを置いていた当時の日本に、圧倒的なスピードを持ち込んだのがこの馬だった。

 

直仔に二冠馬・キタノカチドキ。

天馬にして大種牡馬・トウショウボーイ。

『スピードの美学』と謳われた名牝・テスゴガビー。

天皇賞・秋を制した栗毛の快速馬・サクラユタカオー。

速さに優れた名馬を多く送り出した。

 

「ライブアゲインは海外馬ではありません。でも、その父フォルティノに、母系クレイグダーロツチ牝系。フォルティノ産駒のカロはビワハヤヒデの父・シャルードを出し、ウイニングカラーズは牝馬にしてケンタッキーダービーを勝ちました。コジーンもブリーダーズカップシリーズの勝ち馬を2頭輩出し、アドマイヤコジーンは名マイラーと呼べるでしょう。母系であるクレイグダーロツチ牝系からは名牝スターロツチが出現し、彼女から前述のサクラユタカオー、サクラスターオー、ハードバージやウイニングチケット、ロイヤルタッチ……挙げればキリがないほどの名馬が出てる。すべてがタラレバになりますが、ライブアゲインも十分、種牡馬として才能を開花させる可能性はあったんです」

 

あの時代だからこそ。

多くの血が行き交っていたあの時代だからこそ選べた、ライブアゲインの第2の馬生。

競走馬として怪我と闘いながら、何度も這い上がってきた日々とも、もうおさらばする日も近かった。

1974年11月。

 

「タケホープが天皇賞・春を制し、しかし陰りが見え始めていたのも、ライブアゲインが力尽きるのと同時期でした。彼もまた、年末の有馬記念を最後に谷畑牧場に戻ることになっていたんです。それに合わせて、ライブアゲインのラストランもその年の暮れに行われる4歳以上レースに決まりました」

 

ライブアゲインが千葉にある牧場に短期放牧に出されたのは、10月末のことだった。

外厩という言葉を聞いたことがあるだろうか。指定された厩舎以外の厩舎施設のことであり、あの名牝・アーモンドアイも外厩を使用して調教されたことで有名だ。

それらの言葉が一般化したのはここ20年ほどのことで、ライブアゲインが現役だった1970年代にはそのような言葉も、制度もなかった。

あくまでリフレッシュするためのだけの短期放牧であったが、その牧場でライブアゲインは療養しながら細かい調整を受け、それから東京競馬場に戻る予定となっていた。

約2週間滞在し、帰厩のための出発日は11月11日。

 

「時刻は13時27分。……時間までくっきり覚えてるんですよ。おかしいでしょ」

 

半分崩れたような笑顔を浮かべながら、神林さんは語る。

当時の彼は、短期放牧先でライブアゲインと落ち合ったあと、共に東京競馬場に向かう予定となっていた。

しばらくは東京に滞在し、12月のレースを終えたら共に浦河町に帰ることになっていたのだ。

到着の予定はライブアゲインが出発する1時間前。

だが渋滞に巻き込まれてしまった神林さんが千葉の牧場に着いたのは、13時ちょうどのことだった。

ライブアゲインが出発する予定時刻から1時間も経っていた。

大阪万博でワイヤレスホンが出された1970年代。だが携帯電話は一般的ではなかった。

気軽に連絡を取る手段もなく、ひとりで東京に向かうことになるだろう神林さんは、とりあえず電話を借りようと、牧場の中へと入ろうとした。

その時、入り口のところに馬運車と鹿毛の馬が1頭見えた。

手綱の色は赤。それをみて神林さんは、喜色を浮かべて声を張り上げた。

 

「『ライブアゲイン!これから出るんですか!』ってね」

 

だがその時、鹿毛馬の手綱を握っていたスタッフがおかしそうに笑った。

そして神林さんに告げる。

 

『この馬はタケホープですよ』

 

ネームプレートを見ると確かに、そこにはタケホープと彫られていた。

どうやらここに着くまでの間に、黒い手綱が切れて使えなくなってしまったらしい。

予備の手綱が赤色しかなかったのでつけていたようだ。

神林さんを見て鼻を鳴らし、顔をすり寄せる仕草はライブアゲインにはない愛嬌。

それを見て神林さんも納得した。

11月6日のオープン戦を2番人気5着で終えたタケホープもまた、ライブアゲインと入れ違いになるように短期放牧に出されることになっていた。

 

『ところでライブアゲインはどうしたんです』と続けて尋ねると、スタッフは首を傾げた。

タケホープも渋滞に引っかかり、到着が1時間遅れてしまったらしい。

だがライブアゲインの迎えの馬運車が遅れるという情報は聞いていなかったので、おそらくもう出発しているはずだ、という。

やはり間に合わなかったか、と項垂れた神林さんだったが、このスタッフと共に東京に向かうことにして、ひとまず話は済んだ。

後は牧場のスタッフにタケホープを引き渡すだけ。

そのタイミングで、牧場の奥からひとりの男が青ざめた顔で走ってきた。

何事だ、と眉を顰めた神林さんに、男は衝撃的な言葉を放つ。

 

「『厩舎が燃えてるんです!中にタケホープが!』そう言われて、思わずスタッフと顔を見合わせました。だって、タケホープはその場にいたのですから」

 

神林さんはしかし、瞬時に答えにたどり着いた。

その燃える厩舎の中にいるのは、ライブアゲインだ、と。

タケホープの到着が遅れて、ライブアゲインだけ予定通り出発しているはずがなかったのだ。

スタッフの制止を振り切り、神林さんは走り出した。

悲鳴のする方へ近づいていくと、煙が上がっていくのが見える。

たどり着いた先では、文字通り厩舎が火に包まれていた。

 

「大の男たちが数人、バケツリレーで水をぶっかけて。それでも火の勢いは一向に落ちなかった。むしろ風が吹く度に大きくなって、周りの木々に燃え移りそうな勢いでした」

 

轟々と燃える火に、しかし神林さんは見つけてしまった。

いつも通りの堂々とした姿で佇む、ライブアゲインの姿を。

 

「夢中になって叫びました。ライブアゲイン!ライブアゲイン!って。近くまで走ったのを覚えてますよ。近づくだけで熱くて、熱風で喉が焼けそうでした。それでもかまわなかった。ライブアゲインを助けてやりたかったから。……でも、それは叶いませんでした」

 

厩舎に入ろうとした神林さんは、複数のスタッフに取り押さえられた。

その場に這いつくばりながら、それでも神林さんは声の出る限りライブアゲインの名前を叫ぶ。

顔を上げ、視線を前に向け、揺らぐ炎の中にいるライブアゲインを見た。

熱いだろうに、苦しいだろうに、ライブアゲインは暴れることもなくじっとしていた。じっと耐えていた。

その丸い目とかち合い、神林さんは視線が逸らせなくなったという。

 

「炎の揺らめきと連動するようにギラギラと光る目は、それでも純粋に見えました。私の声が聞こえているのでしょうか。あきらかに私の方を見ていたんです。まっすぐに、私を、見ていたんです。……タケホープかライブアゲインかわからなくなった時に、迷わず私の前に立ったときのような、そんな目で」

 

その日は曇り空だった。

乾ききった風は火をさらに大きくし、消し止めることを防ぐ。

厩舎が、厩舎だったものが怒号のような音を立てたとき、神林さんは終わりを悟った。

燃え始めと思われる部分が崩れていく。

水を投げ込んでいたスタッフたちも、もうそれ以上近づくことはできない。

一度広がった炎はすべてを飲むまで止む気はないのか、勢いは増していくばかりだった。

それにもかまわず、神林さんはライブアゲインの名前を呼び、手を伸ばす。

その時だった。

 

「私を見つめていたライブアゲインが、ゆっくりと、本当にゆっくりと頭を下げたんです。まるで、『世話になったな』と、別れを告げるように」

 

それが神林さんが見たライブアゲインの最期の姿だった。

次の瞬間、ひときわ大きな音を立てて厩舎の屋根が落ちる。

ライブアゲインは炎に飲まれ、神林さんと共に故郷の大地を踏むことなく、天に還った。

 

「炎が消し止められたのは翌朝でした。乾燥した冬季で、厩舎は木造。消火が終わって、たちこめる肉の匂いが、鼻腔にこびりついて離れなかった。今もです。今も、肉は食べられない」

 

目元を隠す神林さんの肩は、小さく震えていた。

 

私はここで初めて合点がいった。

寒い11月。室内にいるとはいえ、ホットコーヒーではなくアイスコーヒーを頼み、熱いのは嫌いだと言った神林さん。

それらすべてが、この悲惨な出来事に由来していたのだ。

 

「……焼けて、灰でいっぱいになった厩舎跡からライブアゲインの骨を拾い集めました。それを持って、谷畑牧場まで帰ったんです。骨は、牧場の施設内に納骨して、小さいけどプレートも用意して貰いました」

 

谷畑牧場の種牡馬施設には、既にライブアゲインの馬房が用意されていた。

その血統の確からしいことを証明するネームプレートが、整えられた馬房の扉に掛けてあったという。

隣の馬房にはあの名種牡馬・シンザンの馬房があり、シンザンを挟んだ隣にはタケホープの馬房が用意されていた。

第2の馬生に向けて、すべての準備が整っていた矢先の、取り返しの付かない不幸だった。

 

「なんであんなことになったか。実はね、正確な事は分ってないんです。確実にわかっているのは『予定していた時刻に馬運車が来なかったこと』だけ。……あとは、ほとんど不確定なんです。ライブアゲインと共に待機していた牧場スタッフが、別のスタッフに馬房に戻すように言われたこと。そして、それと前後して牧場側に連絡があったこと」

「どのような連絡ですか」

「『これから到着するタケホープは赤い手綱を付けている』」

 

ライブアゲインとタケホープは瓜二つだ。

世話をしてきた谷畑牧場のスタッフや神林さん、稲羽厩舎の厩務員たちですら、手綱の色分けなどをしてようやく見分けているほど。

その牧場にも瓜二つの情報は届いていた。いたが、同日の道路が渋滞していたことも、ライブアゲインが予定時刻を過ぎても出発できていないことも、なにひとつ伝わっていなかった。

電話を受けたスタッフは、牧場の出入り口にいたライブアゲインをタケホープだと思い、共に待機していたスタッフに『馬を馬房に待機させる』ことだけを伝えた。

間違われているとは思わないスタッフは、ライブアゲインの出発がかなり遅れていることから、休ませる目的で言われたのだと解釈した。

そのすれ違いが、悲劇を招いた。

 

ここで私は疑問に思った。

神林さんは『正確なことは分っていない』と言った。それは『不確定』な情報として挙げたそれらのことだと思うが、何故それらの情報が不確定なままなのか。

私の疑問に、神林さんは苦々しい表情で尋ねた。

 

「電話を受けたというスタッフが、火事の翌日から行方知れずなんですよ。ライブアゲインを馬房に戻したスタッフも、翌年には牧場を辞してしまって。『電話を受けたスタッフ』側の証言がないんです。もう片方の情報しかない。だから『正確』ではないし、それらを知る術はもうないんですよ」

 

そもそもの火事の原因すら不明だという。

当時取り調べを行った警察曰く、厩舎裏にたばこの吸い殻がいくつかあったというので、その火の不始末が原因だとされたようだが、牧場側は働いている牧夫に喫煙者はいないの一点張りだったそうだ。

たばこの吸い殻は誰のものか。何故厩舎裏で吸っていたのか。

それらを確かめることもできず、その方法もなく、神林さんは恨む先さえ見つけられないまま北海道に戻った。

 

「虚しいばかりでした。1975年にタケホープが牧場に戻ってきた時も、当然のように種牡馬用の馬房に入っていく姿をみて、やるせない気持ちになって。馬は悪くない。なんにも責任はない。けどね。『もしこの2頭が出会わなければ』……ライブアゲインはタケホープに間違われて馬房に戻されることも、それで燃えることもなかったかもしれない。タラレバなんて分ってるんです。間違われたこと以上に、火事さえ起きなければ問題なかったって。でも、でも……『ライブアゲイン』って刻まれたネームプレートを扉から外した日。この世のすべてから私の愛馬が、私だけの名馬がきれいさっぱり忘れられてしまったような、そんな気持ちになったんです」

 

犯人がいればそいつを素直に恨めた、と神林さんは言う。

ライブアゲインを弔いながら、犯人がまっとうに更生することを祈りながら、少なくとも胸にわだかまりを残すことは無かっただろう、と。

 

時は流れて1994年。

ライブアゲインが天に還ったその20年後に、タケホープもその生涯に幕を閉じた。

今は共に谷畑牧場に眠る。

 

神林さんは、タケホープの死後に牧場を辞めた。

38歳。働き盛りだった彼は、それ以降は引退馬の余生をサポートする会社で働いている。

 

「こうして当時の写真を見たりすると、あの2頭は瓜二つだなあ、と思うけど。仕草や、食いっぷりや、走りなんかを思い出すとね、ああ、違うな、まったく違う馬だったなあ、と再確認できるんです」

 

仔馬時代。

いつも群れの中心にいて、息も切らさず走り続けるタケホープと、いつも群れから離れて静かにしていたライブアゲイン。

食欲旺盛で飼い葉をほとんど残さなかったタケホープと、小食で飼い葉食いの悪かったライブアゲイン。

牝馬が近寄るとすぐに馬っ気を出したタケホープと、誰が近寄っても関せずだったライブアゲイン。

 

競走馬時代。

頑丈な馬体と大きな心臓を持ち、大一番の勝負にこそ強さを見せたタケホープと、虚弱体質でありながら、大敗だけは決してせず、常に堅実に走り続けたライブアゲイン。

芝の長距離戦で無類の強さを誇ったステイヤーのタケホープと、芝・砂問わず短・中距離を走破したマイラーのライブアゲイン。

 

「思えばお互い、自分にないものを補い合うような2頭だったのかもしれません」

 

もしライブアゲインにタケホープのような頑丈な身体があったら。

もしタケホープにライブアゲインのような距離適性があったなら。

 

どんな結果になっていただろう。

どんな走りをみせてくれただろう。

すべてがタラレバだからこそ、神林さんは思いを馳せる。

そして確信する。

 

「どんなに冷たくあしらわれてもタケホープがライブアゲインの側にいたのは、自分にない何かを相手が持っていると、分っていたからでしょう。そしてライブアゲインもまた……」

 

タケホープは種牡馬入りした後、初年度は44頭の牝馬に恵まれるも、現役時代とは異なり宿敵・ハイセイコーの種牡馬成績に追いつけないまま繁殖を引退。

若馬たちの追い運動のパートナーを務めた後は、谷畑牧場で余生を過ごした。

神林さんはその20年を静かに振り返る。

 

「タケホープは時々、遠くを見るんです。牧場の向こう側を。どこかにライブアゲインが静かに立っているんじゃ無いかと、探すように」

 

晩年のタケホープは病魔に襲われた。

1990年の1月。喉嚢炎と診断されたタケホープは、しかし翌日には奇跡的に回復する。

それでも高齢による体力の衰えからは、いかに頑丈なタケホープでさえ逃れることはできない。

4年後の7月に再び喉嚢炎に冒され、タケホープは25歳で永眠。

その瞬間に起きたことを、神林さんは今でも『夢だったかも知れない』と語る。

 

「馬の嘶きが聞こえたんですよ。牧場内ならいざ知らず、この時のタケホープは家畜診療センターにいてね。他にいる馬たちも怪我や病気で体力使い切ってて、盛大に嘶くなんて無理でしょ。でもね、聞こえたんです。すごく大きな嘶きが、確かに」

 

それを神林さんは、終ぞ聞くことのなかったライブアゲインの嘶きだと思ったという。

タケホープを迎えに来てくれたのだ、と。

 

「今では虹の向こう側で2頭、のんびりしてるんじゃないかな」

 

そうであってほしいと祈る声が、私の胸に残った。

 

 

 

 

 

 

年が明けたら谷畑牧場に行こうと思う。

歴代の名馬たちの墓が並ぶそこに、きっと光がある。

 

Live Again ── 何度立ち止まっても、折れそうになっても、生き返る。

不屈の闘志と共に。




主な参照元:「サラブレッド101頭の死に方」(タケホープのページ)
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