大丈夫だ、問題しかないから。-Blue trajectory- <1st Season> 作:白鷺 葵
瓦礫の山がいくつも積み上げられた戦場には、沢山の死体が転がっていた。
夕焼けの向うには、先程少女を救い上げたMS。
少女の手から機関銃が落ちる。彼女の身の丈ほどもある銃は、乾いた音を立てて地面に転がった。
美しいフォルムの『神』はゆっくりと大地に降り立った。胸のハッチが開き、中から人間が飛び出してくる。数メートルの高さから躊躇いなくジャンプした人間であったが、上手く着地することができなかったらしい。若干バランスを崩しながら、転がるような形で地面にぶつかった。
嫌な沈黙がこの場を支配する。まさか、今の衝撃で死んでしまったのではなかろうか。少女は恐る恐る人間へと近づく。刹那、人間はむくりと体を起こした。「失敗した。恥ずかしい。しかし、これもまた、人間の感情なのか……」などと呟き鼻血をぬぐいながらも、何事もなかったかのように立ち上がる。
緑色の髪は短く切りそろえられていた。紫苑の瞳は静かに少女を見つめる。男とも女とも思えるような中世的な顔立ちをした人間は、少女に見られていることに気づくと居心地悪そうに視線を彷徨わせた。人間の様子に台詞を入れるとしたら『流石にまずいな、どうしよう』あたりだろうか。
その人物は取り繕いながらも周囲を警戒していた。といっても、この場にいるのは少女と彼(彼女?)だけなのだが。
安全であることを確かめた彼(わからないから、今後はこの表記でいく。間違いがあったら修正しよう)は、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。
「キミは……ソラン・イブラヒムだね?」
初対面の相手に名前を言い当てられ、少女――ソラン・イブラヒムは動揺した。
彼は一体何者なのだろう。何故、兵士である自分の名前を知っているのだろうか。まさか、敵?
ソランは慌てて機関銃へと手を伸ばす。しかし、彼が機関銃を蹴り飛ばす方が早かった。
「僕は、キミの敵じゃない」
わかってくれ、と彼は乞う。跪き、腕を掴まれた。どこまでも真剣な眼差しに気圧され、ソランはおずおずと構えを解く。
「ありがとう。いい子だ」
彼は安堵したように笑い、ソランの頭を撫でた。そうされたのは久しぶりで、思わず情けない表情になる。いつも頭を撫でてくれた温かい手を殺したのは、他ならぬソラン自身だったからだ。
洗脳されていたとはいえども、両親を殺したことは赦されていいはずがない。生きるためだったとしても、友人たちを見殺しにしたり手をかけたことは赦されていいはずがない。だから、涙を流す資格はないのだ。
それなのに。もう出るはずのないものが、瞳の奥からぼろぼろと零れはじめる。それを見た彼は静かに頷き、「大丈夫だよ」と言いながらソランを抱きしめてくれた。こんなに泣いたのはいつぶりだろうか。両親を殺したときは、涙なんて出なかったのに。
「おーい、こっちは終わったよー!」
「ったく。どこの誰よ、アプサラスのデータなんて流した奴は! 技術的に100%再現はできなかったみたいだけど、後が怖いわ……」
「この前はクシャトリアのデータが流れていましたね。誰が、何のために……」
「アニューはもう休んでなよ。あとはアプロディアやフェニックスたちに任せよう。データの消去と工場潰しも頼まなきゃ」
「さっき、ノブレスから連絡があった。あちらの方も片付いたそうだ」
「エルガン代表も大変だな。国連は今日も大荒れだ」
後ろの方から、どやどやと人々がやって来た。誰も彼も、皆同じ制服を着ている。
水色基調のシンプルでゆったりとした服の胸元には、綺麗なブローチが留められている。金の翼の真ん中に、赤い宝石が煌めいた。
彼らは一体何者だろうか。それを問おうとしたら、青年に手を引かれた。そのままコックピットに乗せられる。
「俺をどうするつもりだ!?」
「さっきも言ったよ。僕は、キミの敵じゃない」
「話になってない!」
逃れようともがいている間にハッチが閉まった。『神』はゆっくりと飛翔する。コックピットから見える景色の美しさに、ソランは思わず息をのんだ。
赤い大地と茜色の空がどこまでも広がっている。ここが、自分が必死になって走り回っていた場所? 生きるために人を殺し続けた戦場だというのか。
「キミの世界が変わるのは、こんなにも簡単だ」
青年は、独り言のように呟いた。
「それと同じように、誰かの世界を変えるのも簡単なことなんだよ。ソラン」
「僕は、今のところ、変わってしまったものを見極めるので精一杯だけどね」と、青年は笑う。彼は前を向き、『神』の操縦に専念した。
コックピット越しの景色が目まぐるしく変わる。赤く乾いた大地は、いつの間にか鬱蒼とした緑色へ、銀色の大都会へ、果てしなく広い海原へと変化を繰り返す。
クルジスの景色しか知らないソランには、何もかもが新鮮な光景だった。青年はそんなソランの様子を見つめながら、操縦桿を動かす。また、景色が変わった。
しばらくして、また赤い大地が見えてきた。どうやらクルジス――あの
青年はソランの手を引いた。乾いた大地に降り立った2人に続いて、別のMSたちもやって来る。彼は優しい目でMSたちを――否、MSに乗っているであろうパイロットを見ていた。彼らも青年を見返していたが、すぐに前を向いた。視線の先には、街が見える。
行け、ということだろうか。生きろ、ということなのだろうか。だとしたら、どうしてソランなのだろう。あの戦場には他にも人間がいただろうに。何故、ソランが選ばれたのだろうか。それがわからなくて、首を傾げる。青年は困ったように苦笑いした。
「なぜ、俺なんだ」
「……すまない。僕自身にも、いい例えが見つからないんだ。あえて言うなら、“気まぐれ”かな」
「っ!」
「でも、どうしてだろう。キミを一目見たとき、『キミを死なせてはいけない』と思ったんだ。……キミと似たようなものさ。まだ、“答え”が見つからないでいる」
紫の瞳が言っている。「その行動の先にある、“答え”を見届けなければならない」と。
「未だに僕は何もわからないけれど、この選択に後悔はない。そして……キミなら、その“答え”を、確かな形で指し示してくれると信じている」
そこまで言って満足げに頷いた後、青年は自分の言葉に違和感を持ったようだ。あれ、と首を傾げて、真剣な顔で悩み始める。
しばし唸った後、彼は何か思い至ることがあったらしい。「ああそうか」と噛みしめるように言った。
「これが、マザーの言っていた“可能性に賭ける”ということか。これでまたひとつ、“答え”に近づけたよ。ありがとう、ソラン」
「俺は何もしていない」
「そんなことはない。キミは僕に可能性を指し示した。僕が知りたいと思っていた“答え”の1つをくれた。感謝してもし足りないよ」
青年はそう言い、ソランの頭を撫でてくれた。その手つきが両親のものとよく似ていて、また泣き出してしまいそうになる。ソランは押しとどめるようにして俯いた。
青年はしばらく何かを考えていたが、いいことを思いついたらしい。
彼は静かに目を閉じる。しばらくした後、彼はソランを向き直った。
「可能性の種を蒔いた。この種をどう花咲かせるかは、キミ次第だ。……だから、そのためにも。今は生きてほしい」
「可能性の、種……」
さあ、行くんだ。青年の目が静かに告げる。荒野に一陣の風が吹いた。ソランは頷き、彼に背を向けて歩き出す。
ちらりとソランは振り返る。青年は穏やかに微笑んでいた。彼と同じように、MSやMSに乗るパイロットたちも、自分を送り出してくれているかのようだった。
壊すことしかできない自分の手に与えられた、可能性の種。どうやって育てればいいのかは何もわからない。けれど、それは枯らしてはいけないものだ。
これから自分は、地図のない道を歩んでいかねばならない。手渡されたものを抱えて、長い道のりを行かねばならない。
ソランは顔を上げた。茜色の空と、赤く乾いた大地が続いている。一歩、一歩、踏みしめるようにして歩き始めた。
◆
幸せになる資格なんて、刹那・F・セイエイにはないと思っていた。
幸せというものに、刹那は縁がないと思っていた。
『私はグラハム・エーカー。キミの存在に、心奪われた男だ!』
そこへいきなり現れたのが、この男――グラハム・エーカーである。
金髪碧眼の米国人で、ユニオン軍の精鋭MSWADに所属する軍人。階級は中尉であり、ユニオンの軍人にして
ヴェーダからのミッションを受けた刹那は、イデアの護衛役として彼女に同行した。その際、『白基調の女性らしい服装をしろ』という指示が入ったという。ミッションを受領したティエリアや、これを聞いた他の面々も頭に疑問符を浮かべた程だ。
それがミッションならばと従った結果が『グラハム・エーカーからの熱烈なアタック』である。どうしてこうなってしまったのか。この話をしたら全員が愕然としていた。特にティエリアは「こんなのヴェーダの情報にない」と頭を抱えていた。
頭を抱えたいのは刹那のほうである。オフ会と称してコンタクトを取る度に「キミが好きだ」だの「愛している」だのと真正面から向かってくるのだ。どこまでもまっすぐな翠緑の瞳は、ぶれることなく刹那だけを見つめている。
そんな風に言われたって、正直、どう反応していいのかわからない。普通、真正面から好意を向けられたら“嬉しい”と思うのだろう。しかし、刹那は自分が幸せになってはいけないと思っている。幸せになる資格なんて、あっていいはずがない。
それを願うには、奪ったものが多すぎた。壊したものが多すぎた。この手は、血で汚れすぎたのだ。
刹那は深くため息をつき、端末を見る。グラハム・エーカーからのメッセージだ。今日でもう8通目である。メッセージの内容は、本当にとりとめのない出来事の報告か、あるいはどこまでも真摯な愛の言葉であった。
何度見直しても、刹那からイデアおよびソレスタルビーイングについての情報を引き出そうとする意図は一切ない。それが逆に、刹那を追いつめているのだ。愛だの恋だの幸せだのという方面で。
(どうしろというんだ……)
周囲に相談しても、大半の面々は(困惑した後に)生温かく笑うだけだ。
特に、ガンダムマイスターたちは参考にしづらかった。
『マリー……』
ハレルヤは思いを馳せはじめて話にならない。
『恋愛だなんて、僕にはそんなもの………………あ』
ティエリアは愕然とした表情で虚空を見上げたっきりのため、こちらも無理だ。
『すべてが終わった後に、女としての幸せを手にすればいいさ。お前さんは若いんだから』
ロックオンはそう言って微笑むのみ。
「刹那?」
名前を呼ばれたことに気づいて顔を上げれば、イデアが目の前にいた。彼女は気遣うようにこちらを覗き込んでいる。
メールが来ていることに気づいた彼女は、嬉しそうにニコニコ笑っていた。
「グラハムさんからのメールね。最近、返信頻度が上がっているようだけど」
「そういうお前は、クーゴ・ハガネのメッセージに対して頻繁に返信しているようだが」
「やだー見られてたー」
照れ照れした様子で、イデアは頬を薔薇色に染める。あまりにも場違いな彼女の様子に、刹那は遠くを見たくなった。
彼女は一体何を考えているのだろう。自分たちはソレスタルビーイング、世界に弓を引く者たちだ。
こんな自分たちが、世界に使える軍人に現を上げたらロクなことにならない。ヴェーダに頼らなくても明白だ。
しかし、イデアは止まろうとしない。
その先にあるのが破滅であろうとも、イデアにとって、些細ごとにもならないようだった。
『素敵な名言だよね。“死ぬのが怖くて、恋ができるものか!”って』
クーゴ・ハガネとの接触後、イデアは新しい
イデア・クピディターズという『女性』にとって、クーゴ・ハガネへの恋慕も、ソレスタルビーイングの使命と同等だと考えているようだ。滅私奉公を地でいく私設部隊に所属しながらも、彼女は己を捨て去りはしない。その強さが、刹那には眩しく思えていた。
「刹那は、どうして手を伸ばそうとしないの?」
イデアは唐突に、刹那へと問いかけてきた。刹那は首を振り、淡々と答える。
「
「怖いの?」
「!?」
唐突だった。
まだ何も言っていないのに、何も言うつもりなどないのに、イデアは刹那の奥底に触れてきた。
刹那は思わず身構える。イデアはニコニコ笑いながら、ゆっくりと刹那の手を包む。
「自分が幸せになるのが、怖いのね?」
ぞくりと背中が震えた。自分の心が見透かされているようで、なんともいえない恐怖を感じる。離れなければと思ったが、体はぴくりとも動かなかった。困惑する刹那を横に、イデアは静かに言葉を紡ぐ。
「幸せになることが許されないことだって思うなら、自分が誰かを幸せにしてあげればいいんじゃないかな」
「……は?」
発想の転換。あまりにも単純なことだった。
イデアは楽しそうに笑って、端末を指差した。
画面に表示されているのはグラハムからのメッセージだ。添付された写真は、真っ青に晴れたユニオンの空。『これから空を飛んでくる。キミも、この空の下にいるのかな? 是非とも会いたいよ』というものだった。
そういえば、ユニオン領の基地でスクランブル発進が起こったというニュースが入った。ソレスタルビーイングが本格活動した暁には、刹那とグラハムは合間見えることになるだろう。丁度、このメールの直後あたりに。
流石に、正体不明の相手にほいほいと機密情報を提示できないらしい。不自然にトリミングされた形跡がある。おそらく、切り取られた部分には国家機密――フラッグあたりが写っているのだろう。そこは抜かりなかった。流石は軍人である。
「少なくとも、刹那は1人、幸せにしてあげられる人がいるでしょう?」
イデアはそう言って、自分の端末を指し示す。そこに示されていたのは、クーゴ・ハガネ――『夜鷹』からのメッセージ。なんでも、もうすぐ9月10日――グラハム・エーカーの誕生日なのだという。
『彼の誕生日を祝いたいので、今回のオフ会は2泊3日の京都小旅行にしたい。件の少女にも協力してもらえないだろうか』というものだ。端末からイデアへと顔を向ければ、彼女は満面の笑みを浮かべる。
刹那はグラハムの顔を思い浮かべた。年齢の割には、子どもみたいに屈託のない笑みを浮かべる男。刹那に熱烈かつ真剣な眼差しで愛を伝える彼の様子に、いつの間にか絆されていた。
『あの子に祝ってもらえたら、グラハムはきっと喜ぶと思う』という『夜鷹』のメッセージを読んだ刹那の頭の中に、イデアの言葉が反響する。壊すことしかできない自分にも、何か、違うことができるのだろうか。何かを成すことができるのだろうか。
脳裏にフラッシュバックしたのは、あの日あのとき、クルジスに光臨したガンダム。ガンダムを操縦していたパイロットの青年が言った『自分/誰かの世界を変えることは、とても簡単である』という言葉だ。なぜ、今になってその言葉を思い出したのかはわからない。
もしかして、イデアはすべてを覚悟した上で、「“死ぬのが怖くて、恋ができるものか!”」という言ったのだろうか。思わずイデアのほうへ向き直れば、彼女はうんうん頷いていた。悪戯っぽく微笑むイデアに、刹那はなんともいえない心地になる。
どんな状況であっても己を貫けること。自分の想いを大切にできること。それが、イデアの強さであり武器なのだ。
ヴェーダが彼女を選んだ理由が、今ならなんとなくわかる気がする。ティエリアに言ったら、間違いなく卒倒しそうであるが。
「…………」
刹那はイデアの瞳を見返した。光のない無機質な紫苑は、曇りなく刹那の姿を映し出している。丁寧に磨かれた鏡のようだ。
そこには、真摯な表情を浮かべた刹那がいた。
グラハムの真剣な眼差しと、何も変わらない。
『少女!』
満面の笑みを浮かべたグラハムが見えた。刹那の答えなんて、とうに決まっている。――とても簡単なものだった。
*
「この香り……クリスが近くにいるっス! やっば、俺の格好大丈夫かな? ねえイデア、俺おかしくないっスか?」
「そうねえ。これでも嗅いで落ち着いたらいいんじゃないかしら? ついでに体に塗ってみるとか」
「ぎゃああああああああ! クリスの香りとお揃いにィィィィィ!?」
遠くの方から、イデアとリヒテンダールの声が聞こえてくる。会話を聞く限り、クリスティナが使っている練り香水(イデアが京都旅行で購入したお土産だ)をリヒテンダールにも使用したらしい。心なしか、ラベンダーの香りが漂ってきた。
リヒテンダールがクリスティナに好意を抱いていることに気づいたのは、刹那がグラハムからの熱烈な告白を受けてからだ。あんなにもわかりやすいというのに、どうしてクリスティナは気づかないのか。不思議な現象である。
隠し通せていると思っているのはリヒテンダールだけだし、気づいていないのはクリスティナとティエリアぐらいだと刹那は睨んでいる。昔の刹那だったら、クリスティナやティエリアのようにスルーしていたに違いない。刹那はひょっこり廊下を覗き見る。
「いけない! クリスが使ってるやつを持ってきちゃったわ!」と、イデアはわざとらしく声を上げた。
結果、リヒテンダールは余計に追い込まれてしまったらしい。顔を手で覆い、顔を真っ赤にしてプルプル震えている。
そこへ、何も知らないクリスティナがやって来た。イデアは即座に練り香水の入れ物を彼女のポケットへと戻す。そして、素知らぬふりを貫きながら、同じ練り香水の入れ物を指示しつつ首を傾げてみせた。
「……おかしいわね。リヒティが発狂しちゃった」
「ラベンダーの香りなのに?」
「ラベンダーの香りなのに」
いっぱいいっぱいになったリヒテンダールを見たクリスティナは、しばらく彼の様子を見守っていた。が、最終的にはスルーすることにしたらしい。「変なのー」と言いながら、さっさと廊下を進んで言ってしまった。
彼女が去っていったのと入れ替わりに、リヒテンダールが崩れ落ちる。気のせいでなければすすり泣くような声も聞こえた。間接キスならぬ間接練り香水で上がっていた色々なものは、クリスティナの「変なの」発言で瓦解してしまったようだ。
「まあ、しばらく匂いは残るから、お揃いよね」
「え!? ええ!? えええ!!?」
その言葉に、またリヒテンダールが飛びあがった。おろおろする彼を放置して、イデアはさっさと廊下を進んでいく。
お揃い、という言葉を延々と言い続けるリヒテンダール。彼の眼差しは、あらぬところをさ迷い続けている。こうなっては本当にどうしようもないので、刹那もイデアを見習うことにした。彼女と唯一違うところがあるとするなら、彼の肩をぽんぽん叩いたことくらいか。落ち着けという意図が伝わってくれればいいのだが。
廊下を進みながら、制服のポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは薄い青紫色の布小袋。この中には、淡い藤色の陶器に入った練り香水が入っている。グラハムが自分にくれたものの1つであり、誕生日を祝ってくれたお礼という形で貰ったものだ。袋から陶器を取り出し、ふたを開ける。心が穏やかになるような白檀の香りが漂ってきた。
『俺個人としても、神様はどこにでもいる説を推す。ただし、神社仏閣その他諸々より、『人の心』や『良心』と答えるがな』
『『人の心』?』
『ああ。夢とか、希望とか、信条とか、正義とか、道徳とか、優しさとか、好奇心とか、わかり合おうとする気持ちとか、誰かを大切に思う気持ちとか、誰かを守ろうとする気持ちとか。人の心の底から湧き上がる、そういうものを信じたいよ』
不意に脳裏を翔けたのは、クーゴ・ハガネの話であった。彼の信じる『神』のこと。
誰もが信じたいと願いながら、誰もが裏切られ、あるいは救われたもの。その言葉が、刹那の背中を押したのだ。
『私はキミが好きだァァァ! キミが、欲しいィィィィィィ!!』
『今日のキミも可愛らしい。まるで天使のようだな!』
『キミと私は、運命の赤い糸で繋がっている。素敵なことではないか!』
『友人が、数百年に一度だけしか歌われない“愛の歌”があると言っていた。しかし、結局歌詞を教えてもらうことはできなかったよ。是非ともキミに贈りたかったのだが……』
『先程の言葉の意味を詳しく教えてほしいのだが。というより、もう一度言ってくれないか!?』
『少女よ! 私と一緒に、石破ラブラブ天驚拳を』
目を閉じれば、グラハムの言葉が脳裏を駆ける。グラハムの表情が鮮明に浮かぶ。これはもう重傷だ。
そんなグラハムだから、信じてみたいと思ったのかもしれない。彼が刹那を想うその心を。刹那が彼に惹かれているこの心を。たとえその末路が破滅しかなかったとしても、後悔なんかしない。そう思ったことは、間違いではないのだから。
刹那は練り香水を肌に軽く塗り、ポケットの中に戻した。ちゃり、と、金属音が響く。胸元のシェルカメオが音の出どころである。先週のオフ会は刹那の誕生日であり、このシェルカメオはグラハムからの誕生日プレゼントであった。
空へ飛翔しようとする大天使が描かれたそれは、繊細かつ美しい技巧が施されている。正直、刹那には勿体ない。しかしグラハムは、『これはキミにこそ相応しいものだ』と言って聞かなかった。刹那を見て天使を連想するあたり、あちらも重傷だ。
見目麗しい天使のシェルカメオを手にする刹那は、世界に刃を向ける者。世界に疎まれる存在だ。天使の降臨のように、人々から感謝されることはないだろう。
けれど、世界には、ソレスタルビーイングのような存在が必要だ。無益な争いを続ける世界を、自分たちが変えなければならない。
もしかしたら、日本神話で『不浄を司る者に名乗りを上げた女神』も同じ気持ちだったのかもしれない。『必要な役割でありながら、誰もやろうとしなかった役割』を自ら引き受けたのだから。
「お、フェルトの匂いだ」
「何とも言えない臭いがするわ。ロックオンから」
「え? 俺、何もつけてないぞ?」
「そりゃあもうプンプン。練り香水どころかどぎつい香水でも消せない程の、犯罪の臭いが」
「ちょっと待て!」
向かい側の廊下から話し声が聞こえてきた。途端に、どたどたと足音が響く。20代女性と25歳男性の追いかけっこだ。何て珍妙な光景だろう。
その数泊後に、きょとんと首を傾げるフェルトとすれ違った。
「……なんだか、楽しそう」
フェルトは不満げにロックオンの背中を見つめた。刹那はぶんぶん首を横に振り、否定する。
「フェルトと話しているときの方が、ロックオンは活き活きしているぞ」
「本当に?」
「ああ」
「…………ふふっ」
フェルトは反対側の廊下へと消えていった。心なしか、彼女の足取りが軽やかだった気がする。
そのとき、端末の音が鳴り響いた。ソレスタルビーイングで使っているものではなく、ダミーのものだ。
案の定、メールの主はグラハム・エーカー。むしろこの端末は、彼との連絡用として使うためのものだと言っても過言ではない。最近は多忙で返信が遅れていたし、グラハムも忙しいようで、メールの頻度は以前より少なくなっていた。
メールの内容は、『友人が料理を作った。美味しかった(要約)』というものだった。2種類のチーズとバジルを挟んで揚げた鶏肉の写真が添付されている。クーゴ・ハガネが彼に贈った誕生日プレゼント――青黒檀の箸が映りこんでいた。
写真越しからでもわかる。これは本当に美味しそうだ。そういえば数日前、クーゴ・ハガネからメールを貰ったイデアが突然、『トレミーのクルーで料理番付やろうよ』と言いだしてちょっとした参事になったか。ちなみに、優勝者はロックオンだった。
刹那は端末を操作し、グラハムのメールに返信する。『友人たちと料理番付をしたことを思い出した。自分も料理を作ったが、優勝者には遠く及ばない』と文面を打ち、自分が作った料理の写真を添付した。故郷、クルジスの料理である。
ひよこ豆のコロッケ・ファラフェル、中東のサンドイッチと呼ばれるシシタフ、中東の菓子・クナーファ。まだ刹那がソランだった頃、母と一緒に作った料理だ。
刹那はメールを送信した。端末にぶら下げられた銀のハートが揺れる。端末をポケットに入れて廊下を歩き、自分の部屋への扉を開けた。
そのタイミングで端末が鳴る。開けば、やはりグラハムからのメッセージ。
『これはキミの手料理なのか? 美味しそうだな。是非ともご馳走になりたいよ』
刹那はふっと笑みを浮かべ、返信する。
その機会があればいい、と願いながら。
◇
恐れていた日が来た。
グラハムのメールを見た刹那は、強くそう感じた。
端末を握り締める手が震えたのは、きっと気のせいではない。
『あの機体を見たとき、無性にキミに会いたくなった。どうしてだろうな』
AEUの軍事演習場に、グラハム・エーカーやクーゴ・ハガネは居合わせていた。そして、刹那とエクシアの初陣を間近に見ていたのだ。イデアの奇行も、おそらくそれが原因だろう。ティエリアから「ヴェーダの予測から離れて勝手なことをした」とぶちぶち文句を言われていたのと関係がありそうだ。
刹那は大きくため息をついた。イデアは相変わらず、ガンダムマイスター内で浮世離れした雰囲気を漂わせている。『『夜鷹』からメールが来た』と、現在進行形ではしゃいでいる真っ最中だ。ロックオンは額に手を当てて重々しく息を吐いている。そのとき、刹那の端末が着信を告げた。
開く。見る。凍り付く。そして、刹那は悲鳴を上げて端末を放り投げた。宙を舞ったそれは、ロックオンの足元へ落ちた。何事だと問いながら、ロックオンが端末を拾う。次の瞬間、彼も刹那と同じ行動を取っていた。また空を舞う刹那の端末。それは、王留美の足元に落ちた。
王留美と紅龍も悲鳴を上げ、端末を投げる。空を舞う端末は、しばらくロックオンや留美、および紅龍の頭上を何度も飛び交っていた。押し付け合いとも言えよう。
その端末は、最後にイデアの手の中に落ちた。イデアはじっと端末を見ていたが、周囲に花が舞っているかのような明るい笑みを浮かべて刹那を見た。
「ねえ、この写真もらっていい? 待ち受けにする!」
「それはやめろ!」「やめなさい!」「おやめください!」
「というか、そんな恐怖画像、まじまじと見せるんじゃない!」
端末に表示された画像を一言で表すとするなら、ゾンビという表記が相応しい。虚ろな目をした黒髪黒目の東洋人が、じっとこちらを見返している。これはどこのホラーだ。
その恐怖画像を欲しがるとは、恋は盲目である。このゾンビの名前はクーゴ・ハガネ。徹夜明けとアルコール摂取後は危険だというヴェーダのデータが、こんな形で出てくるだなんて誰が予想できるか。イデアはきゃあきゃあ言いながら端末の画像を眺めている。
グラハムのメッセージも『友人に無理をさせた代償として、恐怖体験をした。ユニオン夏の風物詩だが、正直怖い』とあった。話題の共有に躍起になっていた節があったけれど、流石にこれはないだろう。刹那はイデアから端末を回収し、画像を彼女の端末に送った後、即座に恐怖画像を消去した。
「で、だ。アンタたちが来たってことは、次のミッションだな?」
なんとか落ち着いたロックオンは、留美に問いかける。彼女は頷いた。
詳しい話は、プトレマイオスからの通信で話すらしい。
「本格的な介入が始まるのね」
イデアはのんびりとした表情で言った。本当に、彼女は戦場に立てるのだろうか。
そう考えて、刹那は首を振る。戦場で、イナクトたちを吹き飛ばしたイデアは容赦しなかった。
朗らかに笑いながら、そのくせ、どこまでも冷たい眼差しで敵を屠っていく。
刹那もよくアンバランスだと言われるが、イデアも刹那以上にアンバランスである。
「そうだな」
先陣を切るロックオンとイデアに続き、刹那も歩き出す。
次の戦場は、どこになるだろうか。その詳細は、プトレマイオスの通信で明らかになるだろう。
世界を変える者としての戦いは、まだ始まったばかり。
【参考および参照】
『COOKPAD』より『ファラフェル(中東のひよこ豆コロッケ)/(IbnOsamさま)』、『中東のサンドイッチ-「シシタフ」/(リックさま)』、『中東スイーツ♪ クナーファ(クナフェ)/MsPostmanさま』