薄暮の唄・Ⅰ
「あ、あの鷹」
青空の鳥影を見て、坂を登っていたユゥジーンは立ち止まった。
蒼の里では、夜目の利く特別な鷹や隼(はやぶさ)を育成して、通信に使っている。
他所の部族でも鳥を使っている所が多いので、空に鳥の行き来は珍しくないのだが、最近、一羽の目を引く鷹が気になるようになった。
「またあいつだ。片羽根に白い帯。何処から来るんだろ。あいつメッチャ速いんだよなぁ」
まだ夕方前の早い時間なので、執務室に居たのはホルズ一人だった。
今の鷹から外したらしい紙片を広げて、片眉を上げている。
「只今戻りました。ホルズさん、あの鷹、何処から来るんですか? 珍しい柄ですよね」
「んん、あれは、情報提供屋みたいなヒトの鷹……ああ、ユゥジーン、ちょっと頼まれてくれるか?」
紙片を広げたままホルズは、大机に着いて手紙用の萱紙を広げた。
情報提供屋って初めて聞いたけれど、そんなシステムあったんですか? と聞きたかったけれど、ホルズが筆を動かし始めたので、ユゥジーンも長椅子に座って自分の報告書に取り掛かった。
「出来た。至急ひとっ飛びしてくれ」
書き終えた手紙を親書用の筒に入れながら、ホルズが大机の向こうから出て来た。
「はい、どちらへですか」
「風露(ふうろ)のラゥ老師宛てだ」
「ええっ、やった!」
いつもは風露の用事というと、必ずナーガ長かノスリが行く。
お陰で今の執務室のメンバーは、ほぼ風露を知らない。
蒼の長の妻子が居る場所をオープンにしたくないのは分かるのだが、ユゥジーンは、話だけに聞く風露に、かなりな興味を抱いていた。
ミルクのような霧に包まれた尖塔の谷、生涯楽器作りに身を捧げる誇り高い職人の集落。どんな所なんだろう、一度この目で見てみたい。
「場所はここ、お前の地図にも書き込むなよ。頭に入れて行け」
ホルズは壁の大地図の一ヶ所を指した。
「でも、楽器を注文する一般のヒト逹は、普通に場所を知っているんですよね?」
「昔から好事家(マニア)の間では、知るヒトぞ知る集落だった。まぁそういう人種は自分の好きな物以外に興味を持たない。我々が用心するに越した事はないだろ」
その他にも多々の注意事項を教え込まれ、頭の中をゴッチャにさせながら、一路風露へ馬を飛ばすユゥジーン。
「直接塔に降りちゃ駄目、音合わせの邪魔をしちゃ駄目、きちんと関で手続きをして余計な事は喋っちゃ駄目。ガッチガチだな。ナーガ様、どうやってそんな部族の女のコと仲良くなったんだ?」
やがて山間に、目的の谷が見えた。
霧の海から幾十の塔がニョキニョキと突き出し、塔と塔の間にロープのような物が渡されている。
「まさかあのロープで行き来をしているのか? 怖いだろ。何で橋を掛けないんだ」
手前の山腹で、馬の高度を下げる。
重い霧が本当にねっとりしたミルクのようで、そこにヒトが住んでいるとは思えない、浮世離れした風景だ。
「いやしかし綺麗だなあ。こんな所に住まうナーガ様の奥方ってどんなヒトなんだろ」
美しい風景に見入って、ユゥジーンは、目の前の異常に気付くのが遅れた。
「うあっ!!」
馬が先に気付いて横っ飛びした。
空が・・! 川面みたいに揺らいで、波打っている。
「な、何だ、何だこれ!?」
大きな波頭が迫る。まやかしじゃない、本当に圧が迫って来る。
「こ、降下!!」
ユゥジーンの馬は秀でた能力は無いが、主に対する忠実はピカイチだ。
降下と言われて、身体の浮力を一気に抜いて落っこちた。
結果、波は見事に避けたが、慣性の法則で乗り手が置いて行かれた。
「早い、早いって、止まれ――!」
馬の首にしがみ付いて、ユゥジーンは何とか耐えた。
が、次の瞬間、自分の首に掛けていた御守り袋がすっぽ抜けてしまった。
「あっ、あっ……!」
掴もうとした指をすり抜けて、山吹色のそれは無情に霧の中へ落ちて行く。
「…………」
正式メンバーになった時にエノシラさんに貰った、大切な御守り袋。
すぐに探せば見付けられるかもしれない。
しかし、ユゥジーンはその場所をしっかり記憶して、風露の関へと馬を向けた。
落としたのは自分のミスだ。
ホルズさんは至急と言っていたし、今優先させるのは仕事。
目を上げると、さっきの空の揺らぎは消えていた。
何だったんだ?
***
「蒼の里から、ラゥ老師様宛ての親書です」
山肌に一番近い塔に関があり、訪問者はすべての用事をそこで済ませる形になっている。
馬で来た者は、空からだろうと一旦山の斜面に馬を置いて、徒歩で関への梯子を渡る。細かい。
番人に書状を渡し、名簿に名前を書きながら、ユゥジーンは聞いてみた。
「さっき、この上の空が川面みたいに揺らいでいたんですが、ここではよくある事なんですか?」
「空が?」
番人の若者は訝(いぶか)しげに、窓から首を伸ばして空を見上げた。
「さあ、そういう話は聞いた事がありません。私どもは空を飛べませんし」
どうも、自分達の集落の外の事には興味が薄い感じだ。
多分伝令要員であろう小さい子供が、手紙を預かって、高い櫓(やぐら)から渡されたロープに滑車付きの棒を引っ掛けてぶら下がり、勢いよく滑って行った。
(ひえっ!)
マジであのロープで移動しているんだ。見ているだけでヒヤッとする。
「あの、橋を掛けようとか思わ……」
言い掛けてユゥジーンは、口を塞いだ。余計な事は喋るなと言われている。
「橋ですか、顧客の方にもたまに言われますが」
番人の若者は、こちらの言葉を拾って来た。
「これは一種の自衛です。注文に来る客の中には、購入する側が神のように偉いと勘違いした乱チキ者も、たまに居たりしますので。私どもはひ弱い身ですし」
「ああ、なる程、納得しました」
「納得頂けて幸いです」
確かに相手が空を飛べない限り、守りとして成り立っているのかも。
それにしても、思ったより会話のキャッチボールをしてくれるな。
お使いの子供が戻って来た。
「ラゥ老師から返事のお手紙です」
子供は肩掛け鞄から親書の筒を出してユゥジーンに渡し、その他に石板を番人に差し出した。
「こちらは回覧板です」
番人は蝋石で書かれた文字を読んで、ユゥジーンに向いた。
「さっきの『空の揺らぎ』、ここに書かれています。老師への手紙はその事だったみたいですね」
「??」
「この辺りの空間に、水中のような揺らぎが現れる恐れがある。見掛けたら、頭を無にして速やかにその場を離れるように……って、書かれています」
……酷いなホルズさん、教えて置いてくれててもいいのに……あれ? 沢山言われた注意事項の中にあったか? う~~ん?
子供は石板を持って、次の回覧場所に滑って行った。
「どうもご苦労様でした」
番人に言われてユゥジーンは躊躇した。もう帰ってもいいって事なんだろうけれど……
「あの」
「はい?」
「風露の集落には、我が里のナーガ長の奥方様がいらっしゃるんですよね。物凄く美しい方だと聞いて、どんな方なのかなあと……あっ、深い意味はないです。ちょっと聞いてみたかっただけで」
相手が無表情なので、ユゥジーンは焦った。
ま、不味かったかな。
「老師の指示なので名前は言えませんが、彼女は素晴らしい職人です」
「え、あ、はぁ」
「子供の頃から才能に秀で、二胡造りのオルグ長も舌を巻いていた。風露の誇りです」
「…………」
しまった価値観が違う。
貴重な職人をたぶらかしやがってとか、恨みを言われる流れじゃないか、これ?
「そんな彼女だからこそ、尊いお方に見初められもするのだろうと、私どもは納得しているのです。彼女が美しいかどうかは知りません」
・・・そっちか・・・
「楽器を入り用な際は宜しく」
という見送りの声を背に、ユゥジーンは風露を後にした。
何というか、思っていたのとかなり違ったけれど……色んな意味で突き抜けた部族なんだな、と思った。今度ナーガ様に話を振ってみよう。
「あっそうだ、御守り捜さなきゃ」
先程の地点に行くまで周囲を注意したが、さっきの水の波紋には遭遇しなかった。
そもそも何だったんだろ、あれ。帰ったらホルズさんに問い詰めてやる。
目印の木を見付け、注意深く降下する。
「見付かるかなあ?」
枝の一本一本に目を凝らしながら地面を目指す。
あの御守り袋を貰った時、エノシラさんが中を開いてそっと見せてくれた。
「今まであたしが御守りにしていたけれど、これから危ない所へ行ったりする貴方の方が必要だわ。必ず守ってくれるから」
……出来れば絶対に見付けたい。
ウロウロ飛び回ったが、山吹色の御守り袋は見付からなかった。
夕闇が迫り、霧のせいもあって視界が悪い。
今日は諦めて、明るい時に時間を作って探しに来るか?
そう思いかけた時、幽(かす)かな唄声を聞いた。